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傷口に触れて愛を知る

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 大切な温室を汚されて、言葉にできないほどの悲しみがテルミィの胸いっぱいに広がる。なのにレオシュの口元には、酷薄な笑みが浮かんでいる。

 貴族令息が唾を吐く。それは最低の行いで、恥じるべき行為である。だがレオシュは、わかっててやったのだ。テルミィを傷つけるために。

 ──お……お兄様は、全然……何も変わってないんだ……。

 兄の姿を見た瞬間、凍りつくような恐怖を覚えた。でも心の片隅で、もしかしたら心配して迎えに来てくれたのかもと、淡い期待を抱く自分がいた。

 もし兄が嘘でも演技でも「心配した。無事で良かった」と言ってくれたなら、二度とロスティーニ家には戻らないにしても、互いに納得できる方法を模索しただろう。

 しかし、そんなことを一瞬でも考えた自分が馬鹿だった。あの屋敷で十年以上共に過ごしてきた間、彼は一度も優しい言葉も気遣う素振りも見せてくれなかったのだ。

 兄レオシュが遠路はるばるサムリア領に来たのは、一声かけるだけで富と名声を運んでくれる都合の良い存在が消えてしまったことに腹を立てているから。

 行方不明になった家族を心配したわけでも、まして自分の過ちに気付いて悔いているわけでも無かったのだ。

「……そうだよね」

 呟いたと同時に、恐怖に支配された身体がふっと緩んだ。狭まっていた視界が広くなる。

 テルミィは汗ばんだ頬に張り付いた横髪を耳にかけて、大きく息を吸って吐く。

 大丈夫、怖い気持ちは消えないけれど、怯える必要なんてないのだ。なぜなら──

「お兄様、私はもう結婚したんです。ここが私の家です。今すぐお帰りください」

 信じられないことに一度もつっかえることなく、兄に自分の意志を伝えることができた。

 やればできる子という言葉は、今の自分を表す言葉だ。すごい……すごいぞ、自分!

 そんな風に自画自賛するテルミィに対し、レオシュは唖然としている。まるでバッタに人語で挨拶をされたような、そんな顔。

 しかしレオシュは、すぐにふんっと鼻を鳴らすと大股でテルミィに近づき、アプリコット色の髪を乱暴に鷲掴みにした。

「っ……やっ……い、痛いっ」

 頭皮が引っ張られ、テルミィの顔が苦痛に歪む。その瞬間、主の悲痛な声に耐えきれなくなったハクは、レオシュの足にかみついた。

 その動きはとても俊敏で、ついさっきまでポクポクと日陰で微睡んでいた犬とは思えない。しかし、これがハクの本来の姿である。

「痛っ、や、やめろっ。足が千切れるだろ!お前、誰の足に噛みついているのかわかってるのか!?馬鹿野郎!!」

 貴族の嫡男とは到底思えない暴言を吐いたレオシュは、何とかハクを振り払おうと片足を滅茶苦茶に動かすが、相手は大型犬。その程度じゃ、離れることは無い。

 悲痛な声を上げるレオシュと、憎き男の足を食いちぎらんとするハク。軍配は間違いなくハクに上がると思ったけれど、レオシュの近くには運悪く作業箱があった。

「いい加減にしろよ!……このクソ犬!」

 レオシュは作業箱にシャベルがあるのを見つけるや否や、それを掴むと力任せにハクを殴りつけたのだ。

 キャンッ、キャイン!

 心臓を締め付けられるような悲鳴をハクがあげた途端、レオシュは片足を引きずりながら壁際に移動する。

「やってくれたな、クソ犬が。ぶっ殺してやる」

 血走ったレオシュの目は本気だった。テルミィは慌てて膝を床に付きハクを抱きしめた。

「ハク、動いちゃ駄目。ここで待ってて。ね?」

 小声で制したテルミィは、しゃがんだままの状態でハクを背に庇う。そうしている間に、レオシュはテルミィのすぐ傍まで来ていた。 

 毎日使っているシャベルが今は凶器でしかない。変わり果てた現状に、テルミィの身体がビクリと強張る。

「お前、一丁前に何をほざいてやがる。ハッタリも大概にしろよ。なぁーにが、結婚しただぁ?はっ、相手は誰だよ。言えるもんなら、言ってみろよ。そこの気持ち悪い植物か?それとも躾のなっていないこの馬鹿犬か?」
「……っ……ち……ちが……」
「お前と結婚したがる男なんて、国中探したってどこにもいねぇんだよっ。家はここだぁ?はっ、それはお前の妄想なんだよ、馬鹿!人の迷惑無視して居座りやがって。お前なんかを迎え入れてくれる場所なんてどこにも無いんだよ」

 レオシュの言葉が、槍や剣となってテルミィの心を傷つける。

「……っ……」
「なんだよ、本当のことを言ってやっただけなのに泣いてんのか?お前」

 テルミィが辛そうにすればするほど、レオシュは満足そうな笑みになる。

 ──泣いちゃ駄目、謝っちゃ駄目。この人の思い通りになっちゃ、絶対に……駄目!

 唇を強く噛んで、テルミィはじわり目尻に浮かんだ涙が溢れないようにグッと力を入れる。

 その姿が面白くなかったのか、レオシュは再びテルミィの髪を乱暴に掴んだ。

「まぁ、お前が勘違いしてようがどうでもいいさ。とにかく帰るぞ。お父様が怒り心頭なんだから。言っておくけど、俺はもう叱られたくないから、お前がしっかり謝れよ」

 言い捨てたと同時にレオシュは、テルミィの髪を掴んだまま外に出るべく足を動かし始めた。

 テルミィを物のように扱うレオシュは、どんなに目を凝らしても罪悪感は無い。

「いっ……や……やめ…やめて」
「黙れよ。お前が全部悪いんだからな」

 無様に引きずられるテルミィを見て、ハクは再びレオシュに飛びかかろうとする。だが寸前のところで、テルミィは「駄目!」とハクを止める。

 もうあんな痛々しい姿を見たくはない。大丈夫、きっと外に出ればお屋敷の誰かが気付いてくれるはず。それまでの辛抱だ。

 そう自分に言い聞かせ、テルミィが痛みと屈辱に耐えようと覚悟を決めたその時──
 
「よくもまぁ堂々と俺の妻をさらいに来るとは、良い度胸だな」

 怒りを凝縮したような低い男の声が温室に響いた。

 その声は、悪魔の番人ですら裸足で逃げ出したくなるようなもの。しかしテルミィにとっては、何のためらいもなく縋れる唯一無二の声だった。
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