夫と6年間レスだった私が悪役令嬢に転生したら、絶倫美形騎士が溺愛してくる

ウリ坊

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1巻

1-1

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 ――それは王宮で開かれた仮面舞踏会から始まった。

「えぇ。わたくし、その方に好かれておりませんの。何度振られたか、わかりませんわ」
「へぇ……? ずいぶん馬鹿な男もいるんだな。なんて名前の奴だ?」
(あ、貴方あなたのことよ……!!)

 月夜の庭園。
 ベンチで見つめ合う二人の男女。
 周りは薄明かりで、仮面を着けた彼が誰かは特定できなかった。
 ただ、ミレールにはわかっていた。
 その男性がミレールと険悪な仲である、ノア・オルノスだということを……


    ◇◆◇


 ミレールは三人兄妹の末っ子で、エボルガー侯爵家の長女だ。
 つややかな栗色の髪は緩くウェーブし、二重瞼ふたえまぶたり上がった目の中では紫色の瞳が印象的に輝いている。悪役だがスタイル抜群で背も高く、人目を引く美しい容姿だった。
 ミレール・エボルガー。歳は二十。それが現在の自分だ。
 そう、ミレールには他の貴族子女と少し違うところがある。
 それは今いるこの世界とは違う世界の記憶がある、ということ。
 この世界は、大人向けweb小説『愛と欲望におぼれて』という物語の中。
 ミレールは作品の中に複数登場する悪役令嬢の一人だった。
 主人公を襲わせようと男を雇ったが失敗し、逆上した男に凌辱りょうじょくされ精神崩壊する……という悲惨な末路を迎えるキャラクターだった。
 前の人生での名前は佐々木杏ささきあんず。ごく普通の主婦だった。
 年齢は三十代半ばくらいだったと記憶していたが、ミレールの体に入ってからはその辺りの記憶は曖昧あいまいになっている。
 パート先から帰る途中、疲労と寝不足で意識が散漫になり、信号を無視した車に気づくのが遅れてそのままはねられてしまった。
 そして気づくと、ミレールに転生していたのだ。
 この時ミレールは大病をわずらっていたらしく生死の境を彷徨さまよっていたが、なぜかミレールとして目覚めたのは杏だった。
 杏だった頃は夫も子供もいた。夫とは年々会話が少なくなり、子供を産む前からセックスレスになっていたし、夫婦仲も冷え切っていた。さらには長年のワンオペ育児に加え、家計を少しでも支えるために仕事を始めたせいで、杏の体力は限界を迎えてしまった。
 だからこそ目の前に迫った車のヘッドライトを見るまで、自分の危機に気づくことができなかった。
 ミレールとして目覚めたあと、この事実を知った杏はひどく取り乱した。
 元いた世界に戻れない苦しみと、自分の家族を名乗る見ず知らずの人たちへの恐怖。
 現実を受け止められないミレールの悲しみと混乱は数週間続いたが、ある日悟った。

(私はここで、ミレールとして生きなければならない……。いつまでも過去を引きずって泣いてるだけではダメなのね……)

 それからの杏はできる限りミレールとして振る舞うべく、そして、ミレールを真っ当な人間として認識してもらえるように努力を重ねた。
 杏としての過去は捨て切れないが、ここでミレールとして生きていくことを徐々に受け入れたのだ。
 それから数ヶ月かけ、杏はミレールになっていったのだった。


 この物語の主人公レイリン・サバランは、三人の男性と恋愛を繰り広げる。
 レイリンはさっぱりした性格だったが、目立たない伯爵家の生まれで大人になるまで体が弱かったこともあり、深窓の令嬢として登場した。
 腰までのまっすぐな銀髪に、小動物を思わせるくりっとした大きな桃色の目。
 胸は大きいが身体は華奢きゃしゃで、背はミレールより低かった。
 誰からも愛される美しく可憐な容姿。それはWeb小説と変わらなかった。
 そして物語は仮面舞踏会から始まる。
 大人向けの小説だったからか、レイリンが特定の男性を選ぶまで三人との駆け引きや際どいシーンが盛り沢山で、それが杏には堪らなく興奮するポイントだった。
 ミレールとして目覚めたあと、すぐにレイリンにこれまでのことを謝罪し、どうにか友人関係を修復させたが、ただ一つ修復できないことがあった。
 それが、幼馴染おさななじみであるノアとの関係だ。
 小説のミレールはヒーローである王太子のマクレインに好意を寄せていたが、杏が好きで特に推していたのはマクレインの護衛騎士として登場していた脇役のノアだった。
 しかしミレールとノアは昔から犬猿けんえんの仲。
 元々の原因は父親同士の仲が非常に悪いことから始まるが、ミレールは明確な理由を知らない。
 しかしそれと反比例して母親同士の仲は非常に良かったので、ノアはエボルガー侯爵家にたびたび遊びに来ていた。
 そして、ここからノアとミレールの腐れ縁が始まる。
 幼馴染おさななじみといっても、ノアはミレールを非常に嫌っていた。
 なぜなら幼い頃からミレールがノアに嫌がらせをしかけ、やってもいないことをでっち上げたり、マクレインを執拗に追いかけ回したりしたからだ。
 そんなミレールとノアの仲は相当険悪だった。
 ノアは、傲慢ごうまんで高飛車なミレールではなく、心優しい人柄のレイリンに惹かれていく。どこをどう変えても、今さら仲直りなどできるはずのない相手だったのだ。
 転生当初はどうにかしてノアとの関係をやり直そうとしたが、この時点ですでに修正できないくらい嫌われていた。
 以前たまたま王宮を訪れた際、謝罪しようとマクレインに近づこうとしたら、ノアは厳しい口調と冷ややかな視線で「殿下に近づくな!」や「帰れっ!」などと言って辛辣に追い払った。
 ノアは騎士家系でオルノス侯爵家の嫡男。歳はミレールと同じく二十だ。
 彫り深い端整な顔立ちには、深みのある青が印象的な瑠璃色の瞳。さらに銀河を映すようなつややかな黒髪。鍛えられた体はしなやかでとても引き締まっていた。
 そして代々続く侯爵家という家柄もあり、ノアもマクレイン同様、女性たちからとても人気がある。
 現実になったノアは想像以上に素敵で、ミレールに転生したばかりの杏は一目で心を奪われてしまった。
 しかしそんなノアとの関係は修復不可能なほど最悪なもので、心の折れるようなやり取りを数回したところで、ついに諦めてしまった。

(ここまで激しく嫌われているのなら、ノアには近づかないほうが身のためね。わたくしは傍観者になるつもりですから、主要人物たちとは極力距離をとるようにしなくては……)

 そうしてミレールはノアとの関係修復を諦め、せめて小説通りのミレールにならないように、静かに身を引いたあとでレイリンを応援しようと思ったのだ。
 小説の中のミレールは、この仮面舞踏会でもレイリンとマクレインの邪魔をしていた。
 それを回避するため、初めは仮病を使い欠席しようと思っていたが、どうしても物語の始まりを見たかったミレールは名案を思いついた。
 ――変装して仮面舞踏会に行こう、と。


「ねぇ、アルマ。たしかこの前、顔を変えられる不思議な薬があると言ってなかったかしら?」

 ここはエボルガー侯爵家のミレールの私室。走り回れそうなほど広々とした間取りに、赤やピンクの華やかな高級家具が所々に配置されている。
 アルマはミレール専属の侍女だ。腰までの赤毛を後ろで一つにまとめ、笑うとエクボができるのが彼女の特徴だった。身長はミレールより少し低いが、歳は二十五とミレールよりも年上で、細かいことを気にしないおっとりした感じの女性だ。

「はい、ミレールお嬢様。噂によるとあるそうですよ」
「それはどこにあるの?」
「確実な情報ではありませんが……平民街の裏路地にあるお店だとか――」

 説明を受けたミレールはアルマに頼み、ついに薬を手に入れたのだった。


    ◇◆◇


 そうして迎えた王宮での仮面舞踏会当日。
 仮面舞踏会は、仮面姿で訪れた貴族は誰でも参加することができる。幼い頃から頻繁に舞踏会やお茶会が開かれているため、顔見知りの貴族は仮面を着けていても大抵判別できる。
 だがミレールは、薬のおかげでまったく違う顔になっていた。
 この仮面舞踏会では、フィナーレでは全員が仮面を取ると決まっている。だから顔や髪色を変えていかないと正体がバレてしまうのだ。
 栗色の髪は金髪に変わり、キツい印象を与えるり上がった紫色の瞳もタレ目がちな緑色の瞳に変わっている。そのおかげかミレールだと気づかれることなく会場に入ることができた。

『いいですか、ミレールお嬢様! この薬は数時間しか効かないそうです。今飲めばおそらく日付が変わるくらいには変身が解けてしまいます!』

 アルマが口調を荒くして話していたことを思い出し、ミレールは拳をぎゅっと握る。

(まるでシンデレラみたいね。……問題なんて何もありませんわ。わたくしの目的はただ一つ。最悪な終わり方を回避して登場人物たちを見守ること!)

 こうしてミレールは仮面舞踏会の会場へ入っていった。


 会場は熱気であふれていた。
 王国中のほとんどの貴族子女が参加しているのか、すでに多くの貴族たちで賑わっていた。
 変装したミレールは壁の花となり、ワインを手にレイリンの様子を眺めている。
 いつものミレールなら攻撃的な真っ赤なドレスで、我先にとマクレインを探しているのだろうが、今のミレールにその情熱は微塵みじんも残っていない。
 転生した時点でマクレインへの想いは綺麗サッパリなくなってしまった。

(やはり仮面を着けていても、レイリンは目立ちますわね。まずあの美しい銀髪ですぐにわかりますもの)

 目を引く容姿は会場でも一際目立ち、早速レイリンとマクレインが接近していた。
 マクレインは太陽のような金色の髪に、ルビーのような真っ赤な瞳。甘いマスクで柔らかく微笑むと、すべての女性をとりこにする。
 さらには長身で、主人公の相手役として相応しい容姿を兼ね備えていた。
 小説のミレールが恋い焦がれ、誰よりも憧れていた人だった。
 そして左斜め奥にも、目立つ人物がいた。

(あっ、あそこにいるのはたしか、ジョセフ・ディーラー……)

 マクレイン、ノアと並ぶもう一人の男性がジョセフだ。
 燃えるような赤毛に、橙色だいだいいろの垂れ目の傍に、小さなホクロがあるのがジョセフの特徴。
 ノアやマクレインと同様に美男子だ。
 その中でもジョセフは色気があふれており人当たりがよく、三人の男性の中で一番女性にモテていた。
 公爵家の嫡男で性に奔放ほんぽうな遊び人としても知られているが、彼はレイリンには選ばれなかった。
 だがジョセフは悔しがることなく笑顔で身を引いた、とミレールは思い出した。これだけモテる男なら他の女性でも問題ないのだろう。
 会場ではレイリンがノアとダンスを踊っていた。
 普段のノアは王太子であるマクレインの護衛騎士だが、この仮面舞踏会ではオルノス侯爵家の嫡男として参加している。

(やはり、全然違いますわ……)

 レイリンと踊るノアは普段自分に見せる冷ややかな態度とは違い、仮面越しでもわかる笑顔で楽しそうだった。
 その様子を見てミレールは胸がズキズキと痛むのを感じた。

(嫌われているのはわかっているけれど、あからさまに態度に出されるのは辛いですわ)

 壁にもたれてワイングラスに口を付けながら、ミレールの気持ちはどんどん沈んでいく。
 ノアと結ばれる未来を夢見ているわけではない。ただ最悪の結末を回避できればそれでいい。
 ……そう思うのだが、それでもノアへの気持ちは止められなかった。
 目の前ではレイリンがノアと踊り終え、さらにジョセフとのダンスが始まっている。
 小説では一通り三人と踊ったあと庭園に出たレイリンは、たまたま外にいたマクレインと鉢合わせ、庭園の奥で口づけを交わしていた。

(この時、レイリンの後を追ってきたノアがその現場を目撃して、ショックを受けて退散するという流れだったはずですが……)

 何度も読んだ小説なのでよく覚えている。ジョセフはダンスを踊ったあと、帰り際にレイリンに声をかけていた。

(まぁ、出だしなんてこんなものですね。レイリンと王太子殿下の様子を出歯亀でばがめするのは気が引けますわ)

 だがもやもやした気持ちが収まらず、ミレールは近くのテーブルにあった様々な料理を皿いっぱいに盛り付け、ワインの瓶二本を抱えると、一人外の庭園へ出た。


 会場の熱気に当てられていたせいか、外の澄んだ涼しい風がとても心地よく感じる。
 王宮だけあって広大な庭園は美しく整備され、中央には塔のような立派な噴水があり、見る者の目を楽しませてくれる。
 そんな素晴らしい庭園の片隅で、ミレールは持ってきた料理とワインをベンチに置き、一人でやけ酒をしていた。
 仮面を着けていてもわかるノアの楽しそうな様子。
 それとは反対に、ミレールに冷たく当たるいつものさげすむような態度。
 あまりに対照的すぎて、思い出すと胸がズキズキ痛んで悲しくなってくる。

(わたくしがどう足掻あがいても、ノアにはとても嫌われていますもの。優しくしてほしいなんて贅沢は言いませんが、せめてあの冷たい瞳で見るのはやめてもらいたいですわ……)

 ノアがミレールを見るときのわずらわしそうな冷ややかな瞳。
 それを見ると、元の世界での夫を思い出すのだ。
 杏だった頃に、そんな瞳を幾度も目にしていた。それを思い出すと、胸の奥がキリキリと痛む。
 その思いを打ち消すように、ミレールはグイッとワインを瓶ごとあおった。
 とても貴族の令嬢とは思えない呑み方を続けた彼女は、ベンチに置いた料理を口にしつつすでに酔いが回り、夜空に浮かぶ月が二重に見え始めていた。

「はぁぁ……」

 アルコールを含んだ深いため息をついていると、突然物陰から何者かが現れた。

「――ひっ!」
「ん? ……あんたは?」
(えっ!?)

 バッと物陰から姿を現したのはノアだった。走ってきたのか少し息を切らしている。

「晩酌中すまない! 銀色の髪の女性がこの辺りを通らなかったか?」

 パッとミレールの様子を見て、ノアは急いだ様子で問いかけてきた。
 ミレールはまだ心臓がドキドキと脈打っている。まさかこのタイミングでノアが現れるとは思わなかったからだ。

(お、落ち着くのよ! そう、ノアはレイリンを追って庭園まで来るのでしたわ)

 酔っていたが、そのくらいは思い出せた。
 だが思い出した途端、気持ちもまた降下していく。
 パッとノアから視線を逸らしたミレールは、沈んだ表情を隠しながら、ボソボソと呟いた。

「……その女性でしたら、どなたかとあちらへ歩いて行きましたわ」

 ノアの態度がいつもより柔和で口調にとげがないと思って、そういえば自分は別人になっていたのだと思い出す。
 レイリンとマクレインが消えた方向を指さすと、ノアもその方向に視線をやった。

「恩に着るっ」

 そう残し、そのまま彼は脇目も振らず走って行ってしまった。

「はあぁぁっーーー……」

 その後ろ姿をベンチで眺めるミレールの口からは、さらに深いため息が漏れ、彼女はワインを手にベンチの背もたれに体を預けた。
 見上げた星空も月も、二重どころか視界の全てがゆがんでいた。
 そして、ミレールの目から涙があふれては次々と頬を伝って流れていく。
 今更だが、来なければよかったと後悔していた。
 まさかこんな場所でノアと遭遇するとは思わなかったし、普段の自分との対応の違いを見せつけられ、ミレールの気分はどん底まで落ち込んでしまった。
 ドレスの袖口で涙を拭い、隣に置いてあったワインの瓶を手に取り、また勢いよくグイッとあおる。
 ……もう男に振り回されるなんてりだ、と言わんばかりに。

「よしっ、今夜はとことん呑みますわっ!」

 この時、ミレールは完全に酒に呑まれていた。
 その後しばらく一人で晩酌していたミレールだったが、彼女のもとに足音が近づいたかと思うと、再び誰かが通りかかった。

「――あれ? あんた、まだいたのか?」
「んーー……?」

 そこには暗い表情のノアがいた。
 相変わらずの美男子ぶりだが、明らかに意気消沈しており、話している声のトーンも先ほどより低かった。
 すでに出来上がっていたミレールはワインの瓶を手に、据わった目でノアを見る。

「あら、あらたこそ……ヒック、その様子じゃあ、振られたようれふわねぇ……」

 ろくに呂律ろれつも回らず、しまいにはカラカラと笑い出す始末。
 離れた場所でその様子を見たノアは、途端に呆れた顔に変わった。

「おい……、呑みすぎだ」
「ほっといてくらさいっ! ヒクッ、あらたには、関係、ありまへんわっ」
「あのなぁ……」

 酔いの回った怪しい口調で反抗するミレールは、またグイッとワインの瓶に口を付ける。
 そんなミレールを、ノアは腰に手を当て呆れた様子で見ていた。

「男なんて……、男なんてぇ、クソくらえれすわぁっ! 自分勝手で我がままで、人の気も知らないれぇー!!」
「――なんだ。あんたも振られたクチか……」

 酩酊めいていして思ったことを叫んだミレールに、ノアが同情したように話しかけてくる。

「フンッ! うっさいれすわっ……!」
「はははっ!」

 ぷいっと横を向いたミレールを見て、突然ノアが笑い出す。
 そしてベンチで座っていたミレールの隣に近づいたかと思うと、すぐ側にドカッと座った。

「な、なんれすの……?」
「俺にもくれ」
「え……?」
「それ。あんたが持ってるやつ」

 ミレールは不思議そうに首を傾げて指さされた瓶を持ち上げる。
 すると、ノアはその瓶を奪うように掴み、ごくごくと水でも飲むように一気に呑み干してしまった。

「あ、あ……! わたくしの、ワイン……」

 その様子をミレールは信じられない思いで見ていた。
 ノアが自分の隣に座り、自分に話しかけている。
 それだけで胸がドキドキした。まるで学生時代に戻ったような気分だった。

「ん? なんだよ。ケチケチするなって。俺もむしゃくしゃしてたんだ」
「れも……」

 ミレールが呑んでいたワインに口を付けて呑んだ。いわゆる間接キスだ。
 ノアは、普段のミレールとは話すのも嫌そうだった。だから彼がこんなことをするなんて信じられなかった。

「あんたはもう呑まないほうがいい。……だいぶ、酔っ払ってるみたいだしな」

 持っていた空の瓶をベンチの脇に置いたノアは、隣に座っているミレールを見下ろす。
 ミレールはふん、と再びそっぽを向いた。

「ッ! ほっといて、くらさい……!」
「ほら、会場まで送ってやる。行くぞ」
「……いやれふ」
「はっ?」
「れすからっ、ほっといて、くらさい! まだ呑むんれす! あらただけ勝手に戻ればどうれすか!」

 いつも冷たくあしらわれるのに、自分がミレールだとわからないからかノアの態度がまったく違う。
 それがとても悲しくて、ミレールの目からポロポロと涙があふれてくる。

「お、おい……」
「ひっく、っ……ふっ、ぅ……」
「泣くなよ」

 ミレールは彼に、早くどこかへ行ってほしかった。
 ノアは騎士だから、知らない女性に紳士的に接しているだけ。
 そう思うのだが、長年放置され続けて夫に優しくされなかった杏は、少しの優しさだけでも泣きたくなるほど嬉しかった。それが好意のある男性なら尚更だ。

「……ほら」

 しばらく泣いていたミレールに、ノアがまた話しかけてきた。ちらりと顔を向けると、ノアがミレールにハンカチを差し出している。

「うっ、ふぅっ……うぅっ!」

 ノアの見せる優しさに、今度こそミレールの涙腺が本格的に決壊した。

「おいおい……大丈夫か?」
「うっ、く……ありがと、ございばず」

 狼狽うろたえるノアから受け取ったハンカチで涙と鼻水を拭く。
 ぐしゃぐしゃになったハンカチを見て、ミレールは落ち着きを取り戻した。

「申し訳、ありま、せんわ……」
「いや」
「もう二度と、お会いすることは、ありませんが……いつか、必ず、お返ししますわ」

 思い切り泣いたせいか、だいぶ気持ちが晴れてきた。
 まだ頭はふわふわしていて酔いはまったくめていないが、少しだけ冷静になっていた。

「もう会わないって、ずいぶんはっきり断言するんだな?」
「本当れす、もの。ハァ……れすが、あらたが、どなたかくらいはわかります」
「へぇ……? 俺のこと知ってるのか?」
「えぇ、まぁ。黒髪は珍しい、れすから……」
「ま、そうだな」

 意外にもあっさりノアは自らの正体を認めた。
 最終的に仮面を外すのだから、ここでバラさなくてもいずれわかること。おそらくそう思ったのだろう。

「あんたは? ここらじゃ、見かけない感じだが……」

 自分のことを尋ねられ、ギクリとする。

「仮面舞踏会で身元を尋ねるなど、マナー違反れすわ」
「そうか。それは無粋ぶすいなことをしたな。ただ、あんたの声……、俺が知ってる奴に良く似てるんだよなぁ」

 鋭いノアにミレールはさらに驚いたが、酔いもあり意外と冷静に振る舞えた。

「あら、イヤれすわ……。そのような口説くどき落としは、通用いたしません」
「あ? いや、そういう訳じゃないんだが……」
「仕方ありませんわね。……わたくしのことはビアンカとでもお呼びくらさい」
「ビアンカ?」
「えぇ。偽名れすわ」
「はははっ! やっぱあんたって面白いなっ。ハッキリ言いすぎだ!」
「それは、もちろん。仮面舞踏会れすから……」

 何を隠そうこの小説の仮面舞踏会は、意気投合した相手とむつみ合う場でもあるのだ。
 小説でも、庭園でそのようなことが行われている……ということが曖昧あいまいに書かれていた。既婚者や婚約者がいる者もおり、この時ばかりは現実から逃れて、羽目を外すやからが多い。


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