僕の初恋を返せ

鹿音二号

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男は確信していた。
どうせそのうちに自分は助け出される。
そもそも男が行ったすべてのことは証拠がない。徹底的に消してきた、ひとつでも命取りになるのはよく知っている。
疑われるだろうというのは予想済みだ。むしろこの段階で疑われ、自分が確保されたことはいい傾向だと思われる。
自分以外にも、目的のために動く人間はいる。敵は男に注視するあまり、他の味方の動きを見つけることは出来ないだろう。
あと数ヶ月で、恨みを晴らす時が来る。

時折尋問に来る兵士にはのらりくらりとかわし、男が捕まって一週間が経った。
ふと、いつもの尋問官と違った足音が牢に響いた。
囁くような軽い足音がひとつと、一步ずつ踏みしめる重い足音がふたつ。
鉄格子の向こうに、現れたのは見知った顔だった。
遅かれ早かれ再会するだろうと思ていたから、その若い男には驚かなかった。
驚きは、その後ろの黒髪の美丈夫だった。
目標の、ドリザンドの王太子。
まさか、そんな重要人物が薄汚い牢に降りてくるとは思わなかった。
もうひとりはたしか、王太子の従者だったか。
彼らの表情は、懐かしむわけでも怒っているようでもなく、朝仕事場に来た侍従と同じような顔をしていた。
格子が開けられ、若い男と、王太子が入ってくる。従者は外で警戒しているようだ。

「久しぶり」

冷たい石床に座る男の前に、若い男――組織で顔を合わせていた元仲間が立つ。どこにでもいそうな容貌で、実際冴えない男だった。
元はといえば、このデイルという青年がこの苦境の原因だった。
彼を筆頭に、敵国に送られた間諜が全員ヘマをした。カディラルの情報を敵国に流し、逆に偽の情報をもたらした。
いや、ヘマではない、明確な裏切りだと。
分かったのはカディラルの王都が陥落し、ドリザンドの支配を受けた時だった。
王太子の近くに、このデイルの存在があった。
彼は王太子に取り入っていた。今では側近のひとりだという。
まったく、人畜無害の顔に騙されていた。

「時間が惜しいから、挨拶はしないよ」

以前と変わらない、とろとろとしたしゃべり。
こちらも挨拶はしたくないし、なんならしゃべりたくもない。このまま口を閉じていれば、諦めて帰るだろう。
今までの尋問も、一度官吏の態度を見直すべきだと思うくらいに緩かった。
デイルは少し首をかしげた。

「どこまでがあんたの仕業かな。全部?不可能じゃないけど……」

どうやら、誰に言われたか一連の犯行が男だと聞いているらしい。
それよりも、王太子だ。悠々と立ち、じっとデイルを見ているだけだ。何をしに来たのかわからず、それが男を焦らせた。自ら尋問に来たのかと思いきや、うだつの上がらない、どうせ他の者のおまけで取り入ったのだろう青年に任せるつもりなのか。

「騎士団の小火はそうだよね、あと池があふれてまわりの花壇と庭木が全滅したのも。貴重な資料がごっそり先回りしてなくなったのは……どうだろ、ちょっと違う気もするし」

たしかに、資料は協力者に言われて、それを他のものにやらせた。
ああ、とのんびりと、彼は付け足した。

「紅茶をごちそうさま。結構効いたよ」

ぎくり、と、男が体を強張らせた。
その言い方は、まるで、本当に飲んだかのような。
あれは、予定外のひとつだった。男はたしかに、見破られるはずのない新種の毒を定量使った。なのに、飲んだはずの王太子は何事もなかったかのように過ごしている。
破れかぶれでその後も2度ほど毒を盛ったが、これは汎用されているもののせいかやはり成功しなかった。
だが、証拠はない。念入りに消した。
ただ、ずっと気になっていた。
どうして、王太子に毒が効かなかったのか。

(いや、まさか)

王太子のカップに細工をしたから、王太子の口にしか、入らないはずだったのに。
デイルはとぼけた顔で、男の前にしゃがみ込む。

「さすがに警戒して、マーリーを呼び戻したんだ。あとの2回は彼女が見破ってくれたから事前に分かったけど……あ、知らなかったんだ」

男の顔色が悪くなったのに気づいたようだ。

「あれだけは、あんたが最初から最後までしたことだと思うんだけど……目的は、王太子側への揺さぶり、ってことかな」

世間話をするような、のんびりとしたデイルの口調は変わらない。

「たぶん、僕にドリザンドの人たちから疑いがかかるようにしたかったんだよね。もちろん、僕は間諜だったし、普通なら少しくらい動揺してもらえるはずだけど……」

デイルは苦笑した。

「ごめん、あの毒入り僕が飲んじゃって」
「……!?」

どうして、と言おうとした口も、乾いてうごかなかった。
こんな馬鹿なことがあるか。
無味無臭の毒を、どうやって気づいたのだ。

「それでね……」

彼が懐から取り出したものに、目が釘付けになる。
見覚えのある、小瓶だった。
深い緑色のガラスに、金色の着色料で細かい東洋風の文様が描かれている。蓋は内蓋と外を覆う蓋の二重になっていて、さらに布で口を覆っている。
ざっと血の気が引いた。

「あんたが協力的じゃないって聞いて。これ持ってきてみたんだけど。苦労して手に入れたんだけど……知ってるでしょ」
「ば、かな」
「あ、やっと口きいてくれた」

デイルは人の良さそうな顔で笑う。

「でね、これ、使っていいってレイリー様が言ってね」
「……!」
「どうしようかなって、これでひどい目に遭った僕としてはちょっと思うところがあるんだけど……でも」

温和だった赤茶の目が、一瞬で冷たい氷の色になる。

「シャンデリアはやりすぎだ。どれだけ無関係の人が怪我をしたと思ってる」

男はぞっとした。
目の前の青年から、ふらりと後ろへと目が泳ぐ。
王太子はまるで退屈なパーティーに来たかのような顔でこちらを見ていた。

「まずは、少しだけ、針を刺すくらいね」

瓶を開け、デイルが長い針をそれに差し込む。
――蛇の猛毒だと聞いた。
解毒剤はあるが、ともかく回りが早くて、少しでも摂取すれば即座に苦しむことになる。

「僕は服毒だったから、痺れて胃と喉が少し爛れたよ。普通の人が飲んだら、半年か、1年はドロドロに溶けた内臓と痺れて動かない身体で寝たきり。まあ、僕はしばらくして動けるようになったけど、喉が特に痛くてさ……何度か血を吐いたな」
「は、はっ……」
「針で少し刺すだけだと、皮膚がちょっと溶けてぼろぼろになるくらいかな」
「や、やめ、」
「おとなしくしてて。手元狂いそう」

手早く、本当に簡単に、デイルは男の腕に針を刺した。
数秒で、刺されたところからじわりと痛みが広がっていく。少しずつ赤い斑点が肌に浮かび上がってくる。
ひりひりとした痛みが、だんだんと全身を伝って……

「どうかな、少しくらいしゃべりたくなった?」

デイルは小瓶を丁寧に蓋をして、震える男にやはり世間話のように続けた。

「もし気が変わらなかったら、また針で刺そうかな。飲む方がいい?解毒剤は、ちゃんとしゃべるって約束したらあげるよ」

デイルは立ち上がって、どうでもよさそうな顔だった。

「この毒の嫌なところって、苦しいわりに死ねないんだよね」
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