君と交わした約束

第5話

　白華学園の文化祭が目前に迫り、校内はいつにも増して活気づいていた。放課後の教室や体育館は、出し物や展示物の準備に精を出す生徒たちの姿で溢れている。そんな中で、勇人もまた、忙しい日々を送っていた。
　彼の中で、ここ最近の変化は大きなものだった。文化祭の準備を通じて、クラスメイトや他の実行委員たちとの会話が増え、かつての孤独な日常は薄れていった。学校生活が少しずつ楽しくなり、周囲との関わりが自然なものになりつつある。そしてその変化の中心には、常に篠原紗奈の存在があった。
　
　文化祭の準備において、勇人は生徒会の一員（と言ってもただの手伝いではあるが）として、紗奈と共に働く時間が増えていった。生徒会室での作業や会議の後、二人で残って追加の作業をこなすことも多かった。彼女はいつも明るく、皆に元気を与える存在で、勇人自身もその影響を受けるようになっていた。

「相川君！進捗はどんな感じ？」

　ある日の放課後、生徒会室で紗奈が勇人に声をかけた。彼女は書類をまとめながら、軽く息をついている。勇人はその姿を見て、彼女も相当忙しいことを感じ取った。

「看板のデザインはほぼ完成してる。あとは、展示スペースの配置を確認しておけば大丈夫かな」

「そっか！順調そうで何よりだよ。本当に君がいてくれてよかった」

　紗奈の笑顔には、どこか安堵の色が見えた。彼女は常に多忙でありながらも、決してその疲れを周囲に見せない。しかし、勇人は最近になって、その笑顔の裏に隠されたものに気づき始めていた。

「篠原、お前、無理してないか？」

ふと、口をついて出た言葉に勇人自身も驚いた。彼はこれまで他人の心配をすることがほとんどなかったし、ましてや紗奈のように周囲をリードする存在に対して心配するなど、烏滸がましいと思っていた。

「……え？」

紗奈は驚いた顔をし、数秒間、勇人を見つめた。彼女の大きな瞳が一瞬だけ揺れたが、すぐに元の柔らかい笑顔に戻った。

「ううん、大丈夫。相川君こそ、疲れてない？」

　彼女は笑顔でそう返したが、その笑みがどこかぎこちなく感じられた。勇人は追及するべきか迷ったが、結局それ以上の言葉は出せなかった。彼の心の中で、小さな違和感が積み重なっていく。

　違和感は、ある出来事をきっかけに一気に大きくなっていく。
　文化祭の準備が佳境に入ったある日、勇人は学校の裏庭で紗奈の姿を見かけた。普段は明るく元気な彼女だが、その時の彼女はどこか別人のようだった。校舎の陰で、一人静かに座り込んでいる。いつもの笑顔もなく、ただ遠くを見つめているだけだった。
　勇人は彼女の様子に驚き、声をかけようかどうか迷った。
　今までの勇人であれば、行動には移さなかったかもしれない。だが、ここ数週間で多くの人と関わり、多少ながらも自分に自信を得た勇人は、真っ直ぐに彼女のそばへと向かった。

「篠原……」

　静かに名前を呼ぶと、紗奈は少し驚いた様子で振り返った。だが、その表情はすぐに元の笑顔へと戻る。

「あ、相川君……どうしたの？」

「それは、こっちのセリフだよ。どうしたんだ？ こんなところで」

　勇人が心配そうに問いかけると、紗奈は少しだけ視線を逸らした。彼女の瞳には、何か言いにくそうな感情が浮かんでいるように見えた。

「ちょっと休憩してただけ」

「大分しんどそうだけど大丈夫か？」

「全然大丈夫！……ただ、ちょっと疲れていただけだよ。何でもないから、心配しないで」

　その言葉には、どこか嘘くささが感じられた。いつも明るく振る舞う彼女が、こんな風に一人でいる姿を見たことがない。勇人は彼女に何か隠された事情があるのではないかと思い始めたが、強く問い詰めることはできなかった。

「……そうか。でも、無理はしないでくれよ」

　それだけを伝え、勇人はその場を立ち去った。だが、その日以来、彼の心の中には紗奈に対する疑問が芽生え続けていた。
　絶対に大丈夫ではないと、勇人もわかっているが何をすれば良いのかわからなかった。

　＊

　その日の夜、勇人は自分の部屋で文化祭の資料を整理していた。机の上には、紗奈と一緒に進めている企画の詳細が広がっている。ふと、彼は紗奈の言葉を思い出した。

「昔会ったことがあるよね？」

　その言葉が、何度も頭の中をよぎる。自分には紗奈と会った記憶がない。しかし、彼女は確かにそう言っていた。そして、その言葉には確信めいたものが感じられた。

「本当に、俺たちが昔会ったことがあるのか……？」

　勇人は小学校の時のことを思い出そうとしたが、過去の記憶はぼんやりとしていて、はっきりとは思い出せなかった。転校を繰り返していたせいで、その頃のことは曖昧なままになっていたのだ。
　だが、紗奈の態度を見る限り、彼女は本当に何かを覚えているのだろう。その「何か」が勇人は気になって仕方がなかった。

「……俺と篠原がした約束って、一体何なんだ？」

　自分に眠っているはずの記憶。それを思い出すことで、何かが変わるのかもしれない。篠原に対して真の意味で心を開けるのかもしれない。そう思った勇人は、過去に向き合う決意を固めた。