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プロローグ
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「勉強なんて大嫌いだ」
おれはそう思っていた。おれが朝起きて、身支度をととのえてからすることは、まず勉強だった。菓子パンを食べながら、次のテスト対策の問題を解く。宿題なんかじゃない。そんなものはもう前日に終わらせている。
寝不足の目をこすりながら、おれは高校に行く。帰ってからは、軽くご飯を食べて塾に行く。塾から帰ってからも、おれは宿題を片付け、母さんから言いつけられたノルマをこなした。
つらい、と思った。けれどそんなことは絶対に言えなかった。ギリギリだったおれに、母さんは笑顔で言った。
「湊真。あなたに、新しい家庭教師をつけるわ。他の方から教えてもらったのよ。評判の先生らしいの。きっとあなたの成績も上がるわ」
そう言って母さんはまた笑う。おれはただうなずくだけだった。下手に逆らって、母さんを怒らせることだけはしたくなかった。
「あなたがいい成績をとれるのは、母さんのおかげなのよ。それなのに、勉強したくないなんて言うのね。湊真、あなたはその程度の子だったのね……」
はあ、とため息をつく母さんを見て、おれは「勉強が大嫌い」だという本音を、心の奥にしまいこむことに決めた。
初めて先生の授業を受けた日、おれはなぜか自分の本音を打ち明けていた。勉強なんて大嫌いだ。それだけの言葉に、おれはたくさんの意味を込めていた。
勉強なんて大嫌いで、こうして授業を受けるのも嫌でたまらない。けれど本当に大嫌いだったのは、母さんに逆らえない自分自身だった。
先生は最初、「星野航平です。よろしく」と、当たり障りのない挨拶をして、机の前に座るおれの横に座った。星野先生の見た目は、正直に言って親しみやすいとは言い難かった。
ところどころ跳ねた髪に、着古したスーツ。顎には剃り残したらしいヒゲが見えていた。そんないかにも不真面目そうな先生に、おれはどうして本音を打ち明けたのか、今でもわからない。そのときのおれは、もしかしたら、先生の見た目とはうらはらな優しさを感じ取っていたのかもしれない。
勉強が大嫌いだ、勉強なんてしたくない。そう生徒らしからぬことを言ったおれを、先生は肯定も否定もしなかった。ただ先生はおれの目を見て、そうだ、と言った。
「君の名前は、湊真くんだったよな」
「はい」
なぜそんな当たり前のことを聞いているのか、そのときのおれにはわからなかった。すると先生は、自分で持ってきていたノートの上にペンを走らせた。
「湊、に……真実の真だったっけ?」
「はい。……ええと、それが?」
先生の意図がわからなかった。先生がノートに大きな字で「湊真」と書いた。すると先生は、すらすらとおれに向かい語りはじめた。
「なあ、知ってるか?」
先生いわく、湊は古語で、船を受け入れる港湾施設のことを指していた。今でいう港だ。湊という言葉は古事記にも登場し、水門のことをみなと、と呼んだらしい。
「水に関連する言葉だったんだな。それで、先生の名前は航平。俺はわかりやすいな。航平の航は船。船は港っていう場所がないと航海ができない。帰る場所がなければ、航海には出られないってわけだ」
だから、と先生はそこで一度言葉を切った。
「君のご両親は、港のようにすべての船を受け入れる、懐の深い人になってほしい――そう思って名づけたのかもしれない。だから、先生はすごくいい名前だと思う」
だから何って言われたらそうなんだけどな。先生はそこでガハハと豪快に笑った。おれはぽかんとしながらも、机の上に放置していた漢字辞典をめくった。「み」の欄にある、「湊」の部分。そこに書かれていることを、おれは指でなぞった。
――人や物の集まるところ。船着き場。
無言で辞書を見つめているおれに、先生は言った。
「そう肩肘を張らなくていい。勉強ってのはな、最初はこういう、何の変哲もないところから始めてみるのがいいんだ。成績や通知表も、確かに大事な部分はある。けど……そればっかりに囚われてしまうのは本末転倒だと思う。だから、最初は楽しくやっていこうぜ。……あ、こういうこと言ったら君のお母さんに怒られるよな。ごめん、オフレコで頼む!」
やばい、という言葉が顔に書いてあるみたいだ。そんな先生の表情がおかしくて、おれは大きな声をあげて笑ってしまった。笑いすぎて涙を流してしまった。あまりの笑い声に、びっくりした母さんが部屋に飛んできたぐらいだ。先生はドアを開けた母さんに、申し訳なさそうに首を縮こまらせた。
「すみません、私がくだらないことを言って笑わせてしまいました。今からきちんと指導させていただきますので……」
先生の真面目くさった言い訳は、母さんに何とか通じたらしい。母さんが部屋を出ていってから、おれと先生は密かに笑いながら教科書を開いた。
先生の授業は、本当に楽しかった。
勉強は楽しい。学ぶことは楽しい。おれは価値のない子どもなんかじゃない。
星野先生は、おれにはじめてそのことを教えてくれた人だった。
おれはそう思っていた。おれが朝起きて、身支度をととのえてからすることは、まず勉強だった。菓子パンを食べながら、次のテスト対策の問題を解く。宿題なんかじゃない。そんなものはもう前日に終わらせている。
寝不足の目をこすりながら、おれは高校に行く。帰ってからは、軽くご飯を食べて塾に行く。塾から帰ってからも、おれは宿題を片付け、母さんから言いつけられたノルマをこなした。
つらい、と思った。けれどそんなことは絶対に言えなかった。ギリギリだったおれに、母さんは笑顔で言った。
「湊真。あなたに、新しい家庭教師をつけるわ。他の方から教えてもらったのよ。評判の先生らしいの。きっとあなたの成績も上がるわ」
そう言って母さんはまた笑う。おれはただうなずくだけだった。下手に逆らって、母さんを怒らせることだけはしたくなかった。
「あなたがいい成績をとれるのは、母さんのおかげなのよ。それなのに、勉強したくないなんて言うのね。湊真、あなたはその程度の子だったのね……」
はあ、とため息をつく母さんを見て、おれは「勉強が大嫌い」だという本音を、心の奥にしまいこむことに決めた。
初めて先生の授業を受けた日、おれはなぜか自分の本音を打ち明けていた。勉強なんて大嫌いだ。それだけの言葉に、おれはたくさんの意味を込めていた。
勉強なんて大嫌いで、こうして授業を受けるのも嫌でたまらない。けれど本当に大嫌いだったのは、母さんに逆らえない自分自身だった。
先生は最初、「星野航平です。よろしく」と、当たり障りのない挨拶をして、机の前に座るおれの横に座った。星野先生の見た目は、正直に言って親しみやすいとは言い難かった。
ところどころ跳ねた髪に、着古したスーツ。顎には剃り残したらしいヒゲが見えていた。そんないかにも不真面目そうな先生に、おれはどうして本音を打ち明けたのか、今でもわからない。そのときのおれは、もしかしたら、先生の見た目とはうらはらな優しさを感じ取っていたのかもしれない。
勉強が大嫌いだ、勉強なんてしたくない。そう生徒らしからぬことを言ったおれを、先生は肯定も否定もしなかった。ただ先生はおれの目を見て、そうだ、と言った。
「君の名前は、湊真くんだったよな」
「はい」
なぜそんな当たり前のことを聞いているのか、そのときのおれにはわからなかった。すると先生は、自分で持ってきていたノートの上にペンを走らせた。
「湊、に……真実の真だったっけ?」
「はい。……ええと、それが?」
先生の意図がわからなかった。先生がノートに大きな字で「湊真」と書いた。すると先生は、すらすらとおれに向かい語りはじめた。
「なあ、知ってるか?」
先生いわく、湊は古語で、船を受け入れる港湾施設のことを指していた。今でいう港だ。湊という言葉は古事記にも登場し、水門のことをみなと、と呼んだらしい。
「水に関連する言葉だったんだな。それで、先生の名前は航平。俺はわかりやすいな。航平の航は船。船は港っていう場所がないと航海ができない。帰る場所がなければ、航海には出られないってわけだ」
だから、と先生はそこで一度言葉を切った。
「君のご両親は、港のようにすべての船を受け入れる、懐の深い人になってほしい――そう思って名づけたのかもしれない。だから、先生はすごくいい名前だと思う」
だから何って言われたらそうなんだけどな。先生はそこでガハハと豪快に笑った。おれはぽかんとしながらも、机の上に放置していた漢字辞典をめくった。「み」の欄にある、「湊」の部分。そこに書かれていることを、おれは指でなぞった。
――人や物の集まるところ。船着き場。
無言で辞書を見つめているおれに、先生は言った。
「そう肩肘を張らなくていい。勉強ってのはな、最初はこういう、何の変哲もないところから始めてみるのがいいんだ。成績や通知表も、確かに大事な部分はある。けど……そればっかりに囚われてしまうのは本末転倒だと思う。だから、最初は楽しくやっていこうぜ。……あ、こういうこと言ったら君のお母さんに怒られるよな。ごめん、オフレコで頼む!」
やばい、という言葉が顔に書いてあるみたいだ。そんな先生の表情がおかしくて、おれは大きな声をあげて笑ってしまった。笑いすぎて涙を流してしまった。あまりの笑い声に、びっくりした母さんが部屋に飛んできたぐらいだ。先生はドアを開けた母さんに、申し訳なさそうに首を縮こまらせた。
「すみません、私がくだらないことを言って笑わせてしまいました。今からきちんと指導させていただきますので……」
先生の真面目くさった言い訳は、母さんに何とか通じたらしい。母さんが部屋を出ていってから、おれと先生は密かに笑いながら教科書を開いた。
先生の授業は、本当に楽しかった。
勉強は楽しい。学ぶことは楽しい。おれは価値のない子どもなんかじゃない。
星野先生は、おれにはじめてそのことを教えてくれた人だった。
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