船を待つ港

須田理沙子

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第一章

おれは不幸じゃない

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 もう七月だ。吹き抜けになっている校舎の天井から、容赦ない光が差し込んでくる。教室の中は冷房がしっかりきいているけれど、廊下は少し暑い。
 ここへ登校してくるまでも暑かった。蝉の鳴き声はうるさいし、ラッシュ時の路面電車も混んでいる。エスカレーターに乗っているだけでも、額から汗がしたたり落ちてくる。それを拭おうとして、おれは少しだけふらついた。
 そういえば、昨日の夕飯はコンビニ弁当だけだったと思う。ここで倒れてしまえば大ケガだし、何より母さんに連絡がいく。面倒だな、と思った瞬間、おれの貧相な体は何かに力強く支えられていた。
 働かない頭をようやく動かすと、そこにはこんがりと肌の焼けた、人好きのする顔をした男が立っていた。少し脱色された髪はきれいに刈り上げていて、いかにもおれとは正反対のスポーツ少年といった雰囲気だ。
「おっはよ、湊真!」
「おはよう、晴翔」
 おれは晴翔にさりげなく支えられながら、何とかエスカレーターを上りきる。教室へ向かう道のりでも、晴翔は俺を気づかうように隣を歩いてくれている。
 ――佐伯晴翔さえきはると。この学校において、おれの唯一の友達といっていい人間だ。水泳部のエースで、塩素のせいで脱色した短髪がトレードマークだ。女子にも人気で、よく後輩の一年が教室にご尊顔を拝しに来るほどの人気者。ガリ勉のおれとの接点なんてないも同然だったのに、晴翔は一方的に友達を宣言しておれのそばにいる。
「いやー、今日も顔色がゾンビみてーだよな。メシ食ってねーだろー!」
「ちゃんと食べたよ」
「ほう。何を食ったのかお兄ちゃんに言ってみなさい」
 誰がお兄ちゃんだよ、と思わず突っ込んでしまう。実を言うと、こいつは四人兄弟の長男なのだった。黙っているとしつこいので、しぶしぶおれは口を開く。
「コンビニの幕の内弁当。レンジであっためたら結構うまかった」
「そんなの食ってるうちに入らねーから!」
 仕方ないだろう。昨日は問題集の設問を一問間違えてしまったせいで、夕飯はそれしか出されなかったのだ。自分でも悔しいケアレスミスだった。あれでは夕飯を減らされて当然だろう。
「男子たるもの、メシを腹いっぱい食うもんだって、うちの母さんが言ってたぜ」
 まるで心を読んだかのように、晴翔がつぶやいた。晴翔だけは、うちの内情を少しだけ知っている。悲しそうに眉を下げる晴翔を見て、どことなく罪悪感がうずく。それをごまかすように、おれはふふっ、と笑って言った。
「大丈夫だよ。晴翔に心配かけたくないから、無理はしない」
「そんな人間を襲う前のゾンビみてーな顔で言われてもなあ。ほれ、これ持ってけ」
 だからそのゾンビってのは何だ。そんなおれの抗議も、途中で止まってしまった。
 晴翔が教室のドアを開ける前に、おれの目の前へと何かを差し出した。条件反射で受け取ってしまい、手のひらにかかった重みを実感する。かわいらしい車のイラストが描かれた包みは、どこからどう見ても手作りの弁当そのものだった。
 それに気づいた途端、おれは申し訳なさに血の気が引いた。
「ああ……っ、おまえ、またお母さんに言ったな……! 毎日毎日、こんなの申し訳ないよ」
「バーカ。から揚げは俺が食うから全部おまえのじゃねーし。それに、今さら一人増えたところで大して変わんねえって母さんが言ってた」
 そう何でもないことのように言って、晴翔は教室の中へと入っていってしまう。おれは、手のひらの上にある優しさの塊を、触れたら壊れるガラス細工を扱うみたいに、そっと背負っていたリュックの中へ入れた。機会があったら、ちゃんと晴翔のお母さんにお礼を言わないと。冷めていても、この弁当はいつもおれの心を温めてくれる。
 そのとき、ポケットの中でスマートフォンが震えた。カバーも何もつけていない電話を取り出して、ロックを解除する。画面に映るのは、いつも見慣れたSNSの通知だ。おれの心が、一気に虚無となっていくのを感じる。ダイレクトメールの名前欄には、「よっしぃ♪」というハンドルネームが躍っている。

『ヤッホー♪ミナトくん、いまは学校カナ? 授業頑張ってね。よっしぃ♪』

 おれは無表情で画面をタップし、返信した。

『よっしぃさんも、お仕事頑張ってくださいね』

 本心を隠したメッセージなんて、ネットの海にはいくらでも転がっているのだろう。パパ活、神待ち、マック難民――世の中には、おれみたいに心から血を流している人たちがたくさんいるのだ。だから、おれは不幸じゃない。
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