身代わり奴隷、公爵令嬢の仮面を脱いだら大公に執着溺愛されました

Megumi

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07.地獄からの呼び出し(後編)

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 セリーヌが公爵邸に到着したのは、冷たい雨の降る昼下がりだった。
 玄関ホールの重厚なカーペットが靴音を吸い、息苦しいほどの静寂が支配している。

(また、この地獄に帰ってきてしまった……)

 セリーヌの足取りは重く、口を開くのすら億劫になる。いっそこのまま気を失ってしまえたらとすら思う。

「……ただいま戻りました」

 声を発した瞬間、階上から荒々しい足音が響いた。

「よくも戻れたな、この恥晒しがっ!」

 怒鳴り声とともに、トムが現れた。
 頬は紅潮し、手には杖を握っている。その手の甲に浮かぶ血管を見た瞬間、セリーヌの意識が遠のいていく。

 次の瞬間には、乱暴に髪を掴まれていた。
 頭皮が引きつる感覚。けれど、痛みはどこか別の場所にあるようだった。
 自分が床を引きずられていく光景を、まるで他人のもののように眺めている。

(ああ……また、ここへ)

 “躾部屋”。
 地下にあるそこは暗く、いつも湿った空気が漂っている。
 壁には相変わらず鞭と鎖、そして場違いなほど美しいドレスが並んでいた。
 蠟燭の炎が揺れるたび、幼い自分が膝を抱えて震えている幻が見えた。

「公爵家の名を汚し、挙句に王族と不義を働くとは! 我が家の恥だ!」
「誤解です。殿下とは——」
「口答えをするなっ」

 高く振り上げられた杖が、鋭く空気を裂く。
 セリーヌは抵抗せず、ただ頭を守るように小さく体を丸めた。
 背中に走った激しい衝撃とともに視界が歪み、音が遠のいていく。
 怒号も、荒い息遣いも、やがて霧の向こうに消えていった。

 トムの怒号が途絶えたのは、何度目の殴打のあとだったか。
 息を荒くしながら、トムは手にしていた杖を無造作に床に放り投げた。
 乾いた音が室内に響く。

「……これで分かっただろう。二度と愚かな真似はするな。色仕掛けでもなんでもして、大公の心を掴め。お前の存在意義はそれだけだ」

 セリーヌは項垂れたまま、小さく頷いた。
 痛みも、恐怖も、すべてが他人事のようだった。
 まるで遠くの舞台を眺めているような感覚。

 トムはもうセリーヌに視線を向けなかった。
 まるで興味を失ったかのように、あっさりと彼女に背を向ける。

「早くそのみすぼらしい姿を整えろ。命が惜しければ、余計な真似はするなよ」

 扉が閉まり、高圧的な足音が遠ざかっていく。
 室内に残されたのは、カビ臭い空気と、微かに感じる血の匂いだけだった。

 セリーヌはしばらく動けなかった。
 やがて、ゆっくりと息を吐き、結い上げていた髪を解いた。

(また、昔みたいに戻ってしまった……でも、大丈夫。私には閣下との契約があるんだから)

 セリーヌは下ろした髪はそのままに、汚れてしまったドレスを脱ぐと、壁にかけられていた新しいドレスに手を伸ばす。

 そのとき——。
 きぃ、と軋む音と共に、扉が開いた。

「よお、クロエ。懐かしい光景だな」

 弾んだような軽い声。
 振り向くまでもなく、誰かは分かった。
 兄のレオンだ。

「まさか、結婚後もここで“躾”されるとはな」

 小馬鹿にしたように笑いながら、レオンはドレスを胸に抱いて背を向けたままのセリーヌに近づく。
 その足取りは軽く、まるで見世物でも眺めにきたようだった。

「お兄様……」
「でも成長したなぁ。昔はお前、もっと声をあげて泣いてたろ? ごめんなさいって、何度も繰り返してさ。……今じゃ随分静かになっちまったな」

 優しげな笑み。けれど、眼差しの奥に潜む愉悦は隠しようもなかった。
 レオンはセリーヌの背中を隠す髪を払うと、シュミーズに指をかけ、布に隠された彼女の背中を覗き込む。

「変わらないのは、この“焼印”くらいか?」
「っ……いい加減にして!」

 肩甲骨のあたりに痛々しく残る焼印——その跡を無遠慮に撫でられ、セリーヌは反射的にレオンの手を振り払った。
 怒りに燃える瞳で睨みつけながら、声を張りあげる

「今の私は大公夫人よ。私への侮辱は、大公家への侮辱になるわ」

 レオンは一瞬だけ目を細め、次の瞬間には笑いだした。
 乱暴にセリーヌの髪を掴み、鼻先が触れ合うほどに顔を近づけて吐き捨てる。

「違うだろ? お前はクロエ・フォークナーを演じてるだけのただの奴隷で、公爵家の所有物でしかないんだよ」


 その言葉が、セリーヌの心を深く突き刺した。
 セリーヌは思わず顔を歪める。その表情を見て、レオンは恍惚とした笑みを浮かべた。

「安心しろよ。父上の跡を継いだら、俺がちゃんとお前を手元に置いて、可愛がってやるから」
「……っ!」

 このままではまたあの地獄に連れ戻される。それどころか、この嗜虐趣味の男によって、さらなる絶望に突き落とされるかもしれない。
 恐怖がセリーヌの血の気を奪い、呼吸が浅くなる。
 レオンは満足げにセリーヌの表情を眺めてから、ゆっくりと手を離した。

「じゃあな。せいぜい、束の間の自由を楽しめよ」

 扉が閉まり、再び静寂が訪れる。
 その瞬間、セリーヌの身体から力が抜けた。
 気づけば、両手が震えている。
 けれど、涙は出なかった。

 痛みも、怒りも、遠くに置き去りにされたまま。
 ただ、胸の奥のどこかで——
 何かが小さく軋んで、ひび割れた音だけが残った。
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