14 / 66
07.地獄からの呼び出し(後編)
しおりを挟むセリーヌが公爵邸に到着したのは、冷たい雨の降る昼下がりだった。
玄関ホールの重厚なカーペットが靴音を吸い、息苦しいほどの静寂が支配している。
(また、この地獄に帰ってきてしまった……)
セリーヌの足取りは重く、口を開くのすら億劫になる。いっそこのまま気を失ってしまえたらとすら思う。
「……ただいま戻りました」
声を発した瞬間、階上から荒々しい足音が響いた。
「よくも戻れたな、この恥晒しがっ!」
怒鳴り声とともに、トムが現れた。
頬は紅潮し、手には杖を握っている。その手の甲に浮かぶ血管を見た瞬間、セリーヌの意識が遠のいていく。
次の瞬間には、乱暴に髪を掴まれていた。
頭皮が引きつる感覚。けれど、痛みはどこか別の場所にあるようだった。
自分が床を引きずられていく光景を、まるで他人のもののように眺めている。
(ああ……また、ここへ)
“躾部屋”。
地下にあるそこは暗く、いつも湿った空気が漂っている。
壁には相変わらず鞭と鎖、そして場違いなほど美しいドレスが並んでいた。
蠟燭の炎が揺れるたび、幼い自分が膝を抱えて震えている幻が見えた。
「公爵家の名を汚し、挙句に王族と不義を働くとは! 我が家の恥だ!」
「誤解です。殿下とは——」
「口答えをするなっ」
高く振り上げられた杖が、鋭く空気を裂く。
セリーヌは抵抗せず、ただ頭を守るように小さく体を丸めた。
背中に走った激しい衝撃とともに視界が歪み、音が遠のいていく。
怒号も、荒い息遣いも、やがて霧の向こうに消えていった。
トムの怒号が途絶えたのは、何度目の殴打のあとだったか。
息を荒くしながら、トムは手にしていた杖を無造作に床に放り投げた。
乾いた音が室内に響く。
「……これで分かっただろう。二度と愚かな真似はするな。色仕掛けでもなんでもして、大公の心を掴め。お前の存在意義はそれだけだ」
セリーヌは項垂れたまま、小さく頷いた。
痛みも、恐怖も、すべてが他人事のようだった。
まるで遠くの舞台を眺めているような感覚。
トムはもうセリーヌに視線を向けなかった。
まるで興味を失ったかのように、あっさりと彼女に背を向ける。
「早くそのみすぼらしい姿を整えろ。命が惜しければ、余計な真似はするなよ」
扉が閉まり、高圧的な足音が遠ざかっていく。
室内に残されたのは、カビ臭い空気と、微かに感じる血の匂いだけだった。
セリーヌはしばらく動けなかった。
やがて、ゆっくりと息を吐き、結い上げていた髪を解いた。
(また、昔みたいに戻ってしまった……でも、大丈夫。私には閣下との契約があるんだから)
セリーヌは下ろした髪はそのままに、汚れてしまったドレスを脱ぐと、壁にかけられていた新しいドレスに手を伸ばす。
そのとき——。
きぃ、と軋む音と共に、扉が開いた。
「よお、クロエ。懐かしい光景だな」
弾んだような軽い声。
振り向くまでもなく、誰かは分かった。
兄のレオンだ。
「まさか、結婚後もここで“躾”されるとはな」
小馬鹿にしたように笑いながら、レオンはドレスを胸に抱いて背を向けたままのセリーヌに近づく。
その足取りは軽く、まるで見世物でも眺めにきたようだった。
「お兄様……」
「でも成長したなぁ。昔はお前、もっと声をあげて泣いてたろ? ごめんなさいって、何度も繰り返してさ。……今じゃ随分静かになっちまったな」
優しげな笑み。けれど、眼差しの奥に潜む愉悦は隠しようもなかった。
レオンはセリーヌの背中を隠す髪を払うと、シュミーズに指をかけ、布に隠された彼女の背中を覗き込む。
「変わらないのは、この“焼印”くらいか?」
「っ……いい加減にして!」
肩甲骨のあたりに痛々しく残る焼印——その跡を無遠慮に撫でられ、セリーヌは反射的にレオンの手を振り払った。
怒りに燃える瞳で睨みつけながら、声を張りあげる
「今の私は大公夫人よ。私への侮辱は、大公家への侮辱になるわ」
レオンは一瞬だけ目を細め、次の瞬間には笑いだした。
乱暴にセリーヌの髪を掴み、鼻先が触れ合うほどに顔を近づけて吐き捨てる。
「違うだろ? お前はクロエ・フォークナーを演じてるだけのただの奴隷で、公爵家の所有物でしかないんだよ」
その言葉が、セリーヌの心を深く突き刺した。
セリーヌは思わず顔を歪める。その表情を見て、レオンは恍惚とした笑みを浮かべた。
「安心しろよ。父上の跡を継いだら、俺がちゃんとお前を手元に置いて、可愛がってやるから」
「……っ!」
このままではまたあの地獄に連れ戻される。それどころか、この嗜虐趣味の男によって、さらなる絶望に突き落とされるかもしれない。
恐怖がセリーヌの血の気を奪い、呼吸が浅くなる。
レオンは満足げにセリーヌの表情を眺めてから、ゆっくりと手を離した。
「じゃあな。せいぜい、束の間の自由を楽しめよ」
扉が閉まり、再び静寂が訪れる。
その瞬間、セリーヌの身体から力が抜けた。
気づけば、両手が震えている。
けれど、涙は出なかった。
痛みも、怒りも、遠くに置き去りにされたまま。
ただ、胸の奥のどこかで——
何かが小さく軋んで、ひび割れた音だけが残った。
1
あなたにおすすめの小説
王太子殿下が好きすぎてつきまとっていたら嫌われてしまったようなので、聖女もいることだし悪役令嬢の私は退散することにしました。
みゅー
恋愛
王太子殿下が好きすぎるキャロライン。好きだけど嫌われたくはない。そんな彼女の日課は、王太子殿下を見つめること。
いつも王太子殿下の行く先々に出没して王太子殿下を見つめていたが、ついにそんな生活が終わるときが来る。
聖女が現れたのだ。そして、さらにショックなことに、自分が乙女ゲームの世界に転生していてそこで悪役令嬢だったことを思い出す。
王太子殿下に嫌われたくはないキャロラインは、王太子殿下の前から姿を消すことにした。そんなお話です。
ちょっと切ないお話です。
愛されないはずの契約花嫁は、なぜか今宵も溺愛されています!
香取鞠里
恋愛
マリアは子爵家の長女。
ある日、父親から
「すまないが、二人のどちらかにウインド公爵家に嫁いでもらう必要がある」
と告げられる。
伯爵家でありながら家は貧しく、父親が事業に失敗してしまった。
その借金返済をウインド公爵家に伯爵家の借金返済を肩代わりしてもらったことから、
伯爵家の姉妹のうちどちらかを公爵家の一人息子、ライアンの嫁にほしいと要求されたのだそうだ。
親に溺愛されるワガママな妹、デイジーが心底嫌がったことから、姉のマリアは必然的に自分が嫁ぐことに決まってしまう。
ライアンは、冷酷と噂されている。
さらには、借金返済の肩代わりをしてもらったことから決まった契約結婚だ。
決して愛されることはないと思っていたのに、なぜか溺愛されて──!?
そして、ライアンのマリアへの待遇が羨ましくなった妹のデイジーがライアンに突如アプローチをはじめて──!?
田舎娘をバカにした令嬢の末路
冬吹せいら
恋愛
オーロラ・レンジ―は、小国の産まれでありながらも、名門バッテンデン学園に、首席で合格した。
それを不快に思った、令嬢のディアナ・カルホーンは、オーロラが試験官を買収したと嘘をつく。
――あんな田舎娘に、私が負けるわけないじゃない。
田舎娘をバカにした令嬢の末路は……。
十三回目の人生でようやく自分が悪役令嬢ポジと気づいたので、もう殿下の邪魔はしませんから構わないで下さい!
翠玉 結
恋愛
公爵令嬢である私、エリーザは挙式前夜の式典で命を落とした。
「貴様とは、婚約破棄する」と残酷な事を突きつける婚約者、王太子殿下クラウド様の手によって。
そしてそれが一度ではなく、何度も繰り返していることに気が付いたのは〖十三回目〗の人生。
死んだ理由…それは、毎回悪役令嬢というポジションで立ち振る舞い、殿下の恋路を邪魔していたいたからだった。
どう頑張ろうと、殿下からの愛を受け取ることなく死ぬ。
その結末をが分かっているならもう二度と同じ過ちは繰り返さない!
そして死なない!!
そう思って殿下と関わらないようにしていたのに、
何故か前の記憶とは違って、まさかのご執心で溺愛ルートまっしぐらで?!
「殿下!私、死にたくありません!」
✼••┈┈┈┈••✼••┈┈┈┈••✼
※他サイトより転載した作品です。
悪役令嬢を断罪したくせに、今さら溺愛とか都合が良すぎますわ!
nacat
恋愛
侯爵令嬢リディアは、無実の罪で婚約者の王太子に断罪された。
冷笑を浮かべ、すべてを捨てて国外へ去った彼女が、数年後、驚くべき姿で帰ってくる。
誰もが羨む天才魔導師として──。
今さら後悔する王太子、ざまぁを噛みしめる貴族令嬢たち。
そして、リディアをひそかに守ってきた公爵の青年が、ようやく想いを告げる時が来た。
これは、不当な断罪を受けた少女が、自分の誇りと愛を取り戻す溺愛系ロマンス。
すべての「裏切られた少女」たちに捧ぐ、痛快で甘く切ない逆転劇。
冷遇妃ライフを満喫するはずが、皇帝陛下の溺愛ルートに捕まりました!?
由香
恋愛
冷遇妃として後宮の片隅で静かに暮らすはずだった翠鈴。
皇帝に呼ばれない日々は、むしろ自由で快適——そう思っていたのに。
ある夜、突然現れた皇帝に顎を掴まれ、深く口づけられる。
「誰が、お前を愛していないと言った」
守るための“冷遇”だったと明かされ、逃げ道を塞がれ、甘く囲われ、何度も唇を奪われて——。
これは冷遇妃のはずだった少女が、気づけば皇帝の唯一へと捕獲されてしまう甘く濃密な溺愛物語。
3回目の人生は、悪役令嬢を辞めて引きこもります~一歩も出ずに国を救ったら、なぜか「聖女」として崇められ最強の男たちが部屋を包囲してくる件~
放浪人
恋愛
公爵令嬢エリザベートは、1度目は悪役令嬢として断罪され処刑、2度目は改心して聖女となり国に尽くしたが過労死……という悲惨な最期を遂げた。 記憶を持ったまま3度目の人生が始まった瞬間、彼女は固く決意する。 「もう絶対に働きません! 今世は部屋から一歩も出ず、睡眠と趣味に命をかけます!」
最強の拒絶結界『絶対領域』で部屋に籠城し、婚約破棄イベントも夜会も全て無視して惰眠を貪ろうとするエリザベート。 しかし、彼女の「働きたくない」一心からの行動――適当な農業アドバイスや、安眠妨害への容赦ない迎撃――が、周囲には「国を憂う深慮遠謀」「慈愛に満ちた奇跡」として超好意的に解釈されてしまう!?
ヤンデレ化した元婚約者の王太子、物理で愛を語る脳筋騎士団長、効率厨の隣国王子、さらには古代の引きこもり少年までをも巻き込み、事態は国家規模の大騒動へ。 部屋ごと空を飛んで戦場を浄化し、パジャマ姿で古代兵器を操り、地下牢をスイートルームに変えながら、エリザベートは究極の安眠を手に入れることができるのか? 塩対応すればするほど愛され、逃げれば逃げるほど伝説になる、最強引きこもり令嬢の勘違いドタバタ溺愛ファンタジー、ここに完結!
【完結】無口な旦那様は妻が可愛くて仕方ない
ベル
恋愛
旦那様とは政略結婚。
公爵家の次期当主であった旦那様と、領地の経営が悪化し、没落寸前の伯爵令嬢だった私。
旦那様と結婚したおかげで私の家は安定し、今では昔よりも裕福な暮らしができるようになりました。
そんな私は旦那様に感謝しています。
無口で何を考えているか分かりにくい方ですが、とてもお優しい方なのです。
そんな二人の日常を書いてみました。
お読みいただき本当にありがとうございますm(_ _)m
無事完結しました!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる