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13.本当の名前(後編)
しおりを挟む夜が明ける頃、セリーヌは重たいまぶたをゆっくりと開いた。
柔らかな寝具と、消毒の匂い。身体に巻かれた包帯の感触。
夢ではない——ここは、大公邸の寝室だ。
「ああ……クロエ様!」
ミシェルが弾かれたように立ち上がり、彼女の手をとる。
涙で潤んだ瞳が、すべてを物語っていた。
セリーヌは静かに息をつき、掠れた声で呟く。
「……ずっと騙していて、ごめんなさい」
ミシェルは今にもこぼれ落ちそうな涙を堪えながら、必死に首を振る。
「じゃあ……やっぱりあの焼印は……」
しばしの沈黙ののち、セリーヌはかすかに笑った。
それはあまりにも儚く、痛々しい笑みだった。
「そう。私は、公爵令嬢なんかじゃないわ。生まれてすぐ貧しい孤児院に捨てられ、虐待死した“クロエ・フォークナー”の身代わりとして公爵に買われた——ただの奴隷よ」
ミシェルの目が大きく見開かれる。
「そんな……どうして、そんなことが……」
ミシェルの瞳から、とめどなく涙が流れる。
呼吸がひどく乱れ、思うように言葉を発することも叶わなかった。
「仕方ないわ。彼らにとって私は人間ではなく、ただの“物”なのだから」
セリーヌはそう自嘲すると、静かに目を伏せた。
そのすべてを諦めたような横顔に、ミシェルの胸が締め付けられる。
声の震えを止めることはできなかったが、ミシェルは問わずにはいられなかった。
「……貴女の、本当のお名前を……教えていただけますか?」
その言葉に、セリーヌは小さく息をのむ。
誰にも問われたことのない問い。
誰にも名乗ることが許されなかった、自分の名前。
「……セリーヌ。それが、私の名前」
ミシェルの唇が震えた。
その名を、まるで祈るように口にする。
「セリーヌ様……」
とうの昔に捨てられたはずの名が、ミシェルの温かな声によって呼び戻される。
セリーヌの胸の奥で長年抑えられていた感情があふれ出し、とめどなく流れる涙が頬を濡らしていく。
八歳の時に殺された“セリーヌ”が、ようやく息を吹き返したのだ。
「セリーヌ様。貴女がどんな過去を背負っていても、私がお仕えするのは貴女お一人です。私は、どんなことがあってもセリーヌ様の味方でいますから……!」
セリーヌは唇を震わせ、小さく頷いた。
胸の奥がじんわりと温かくなり、長く張り詰めていた糸がようやく緩んでいく。
「……ありがとう、ミシェル」
窓の外では、夜が静かに明けていく。
淡い光がカーテンの隙間から差し込み、二人の身体を柔らかく包み込んだ。
長い夜が、ようやく終わりを告げようとしていた。
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