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30.彼女の規範(後編)
しおりを挟む扉が閉まり、静寂が戻る。
セリーヌはしばらく呆然としていたが、やがてゆっくりとロランを振り返った。
「ロラン様……ありがとうございます、本当に……なんとお礼を言ったらいいのか」
ステラを見つけ出しただけでなく、屋敷での仕事を与えることで、セリーヌの安全を守りながら、同時に喜ばせようとしてくれた。
「でも、どうしてここまで——」
セリーヌは言いかけて、すぐにそれが愚問だと気付く。
(私を愛しているから……)
その事実が胸に染み渡り、セリーヌの頬が一気に熱を帯びた。
そっとロランを見上げると、彼もまたセリーヌを見つめていた。
「君は、自分がどれほど尊い人間なのか、分かっていない」
「え……?」
「過酷な生い立ちにも関わらず、穏やかで、誰にでも優しく……だが、いざとなれば、自分の身の危険も顧みず行動できる強さもある」
ロランの視線は、真っ直ぐにセリーヌだけをとらえている。
セリーヌの顔が赤く染まっていく様子を見て、ロランは柔らかく微笑んだ。
「……まるで、女神のようだと思った」
セリーヌの瞳が、驚きに見開かれる。
「先ほど、ステラを見ていた君の目を見て、ようやく分かった」
「……私の、目?」
「君は、あの人を“女神様のようだ”と言ったそうだな」
たしかに、以前ミシェルにそう話したことがある。
しかし、まさかそれがロランにまで伝わっているとは、思ってもみなかった。
「ええ。ステラは幼い私にとって、まさに女神様でした」
「そうだな。あの時の君の目は、まるで子どものように輝いていた。——きっと君は無意識のうちに、彼女を自分の人生の規範にして生きてきたんだ」
セリーヌは、自分自身ですら気付かなかった胸の内を、見透かされたような気がした。
「俺は今日、君という人間がどうやって形作られたのかを知ることができて、たまらなく嬉しい」
今はただ、セリーヌが愛おしくてたまらない。
触れたい。抱きしめたい。
ロランはそんな感情に突き動かされて伸ばした手を、セリーヌに触れる寸前で止めた。
「……君に触れても、いいだろうか」
ロランが静かに問うと、セリーヌは顔を真っ赤にしたまま、俯いた。
「あの……その」
消え入りそうな声。
「あなたは、私の夫なので——許可を取らなくても……大丈夫、です」
言葉の途中で声が小さくなり、最後は聞き取れないほどになった。
だが、ロランには十分に伝わった。
(……そうか)
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
彼女は、羞恥で震えながらも、自分を受け入れようとしてくれている。
その事実にどうしようもないほどの喜びを感じ、ロランはセリーヌをそっと抱きしめた。
「愛してる、セリーヌ」
「っ! そ、それはダメです……! 私の心臓が持ちません!」
白いうなじを真っ赤に染めるセリーヌの姿に、どうしようもないほどの愛おしさを感じる。
先ほど、ステラが現れた時。
ロランは喜びに顔を輝かせるセリーヌを見て、黒い嫉妬が湧くかと思っていた。
だが——
(……大丈夫だった)
確かに羨ましさはある。
だが、それは彼女を縛りたいという歪んだ執着ではなく、自分も彼女にとってそういう存在になりたいという、健全な願いだった。
奪うだけの独占欲ではなく、何かを与えたいという愛。
ロランは、自分の中で何かが確かに変わったことを実感した。
◇◇◇
執務室。
ロランが書類に目を通していると、控えめなノックの音が響いた。
「入れ」
「失礼いたします」
執事が、一冊の資料を手に入室してきた。
「頼まれていた資料をお持ちいたしました」
差し出された資料に、ロランは視線を落とす。
ページをめくるたび、その表情が変わっていった。
「……やはり」
低く呟くロランに、執事が静かに告げた。
「ええ。間違いありません」
執事は一拍置いてから、断言した。
「セリーヌ様はルヴァニア王国の前公爵、ヴィクトール・ド・モンフォール様のご息女でございます」
資料には、時系列に沿った記録が整理されていた。
モンフォール公爵家の嫡男が、帝国の寄宿学校に留学していた時期。
その近くの娼館で、アッシュブロンドの娼婦が出産し、死亡した記録。
そして——孤児院に預けられた、髪色の特徴が一致する女児の存在。
すべてが、一本の線で繋がっていた。
「公爵家は、娘の存在を知っているのか」
ロランの問いに、ジョージは首を振った。
「恐らく、ご存じないかと。ヴィクトール様は、セリーヌ様の母上との関係を秘密にしていたようです」
「……そうか」
ロランは資料を閉じると、深く息を吐いた。
セリーヌには、帝国人の血も流れている。
だが同時に、隣国の名門公爵家の血も流れているのだ。
「この情報は、厳重に管理しろ」
「承知いたしました」
執事が一礼して退室すると、ロランは窓の外に視線を向けた。
(……彼女に、伝えるべきか)
自分に本当の家族がいるのだと知れば、セリーヌは喜ぶだろうか。
それとも——
ロランの脳裏に、ルヴァニア語の書籍を読むセリーヌの姿が浮かんだ。
(もし、彼女が本当の家族を求めて、俺の元を離れたいと願ったら……)
その可能性を考えた瞬間、胸が激しく締め付けられた。
息が詰まり、無意識のうちに拳を握りしめる。
隣国の公爵家令嬢として、ルヴァニアへ渡る彼女。
自分の知らない場所で、自分の知らない人々に囲まれて笑う彼女。
二度と、この手には戻らない。
「……っ」
ロランは机に肘をつくと、両手で顔を覆った。
——その指先は、わずかに震えていた。
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