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七夕
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◆
華子の家の神社は市内でも有名な山岳地帯の一角にあって、新緑ざわめく深山の中腹にあった。バスが出ているけれど、歩いても本殿までなら二十分くらいで着く。岩ばかりの山道を登っていくと、やがて視界が開け、森に囲まれた不可思議な鳥居が見えた。その鳥居は真っ黒だった。まるで焼け焦げたみたいな。
「……火事にでもあったの?」
私が訊いてみると、赤いワンピース姿の華子がまさかと否定する。
その訳は歩きながら話してくれた。
「この鳥居は八百年前から伝わる色に染めてあるの。何でも、昔の源氏物語絵巻で出てくる、六条の御息所がおわした場所に建つ神社と同じ色なんだって」
「六条の、みやすどころ?」
「うん。その御方は美しくて聡明だったんだけど」
華子が私を先導しながら、どんどん本殿の方角に連れていく。
「そうだったんだけど、光源氏という名うてのプレイボーイに引っかかって、嫉妬にくるって魍魎になってしまうの」
「魍魎?」
「化け物ってことね」
華子は博識だ。私なんかよりずっと。それに綺麗だし。なんだかそう思うと嬉しくなった。こういう子が友達でも楽しいかも。
「ほら、あれ見える?」
「どれ?」
華子が指さす方向に、厳めしい本殿があり、その裏手に背の高い杉の木が一本聳えているのが分かった。ここからでは本殿があって全部は見通せないけれど、随分背の高い杉の木もあるんだと私は感心する。
「きっと、人の怨念で育ったんだね」
「きっと、そうね」
それから二人で柏手をうち、本殿にて祈った。華子は何を祈るんだろう。そればかり気になって、私はさしたる願いごとをしなかった。せめて彩香の言うように苦労知らずで人生過ごせるようにしてくださいと祈るべきであったか、それは今となっては分からない。
ご神体は鏡だった。黒ずんだ鏡。鏡は己を映すもの。己の中に神もいる、それを常に高めていかなければならぬ、そう華子は教えられたと語った。お父さんから。私はふと先日の話を思い出した。広い境内に誰もいないのを確認して、口を切る。
「ねえ、華子」
「うん?」
「あの話って、結局どうなったの。あの、お母さんの話」
「あ、うん。話すけれどちょっと待って」
華子が唇に指を押し当て、静かに、といった風にする。私は一瞬あっけにとられて、静まり返る境内にて耳を澄ます。
カン、カン、カン。
何かが杉の木を穿っている。
カン、カン、カン。
何かがひたすらに杉の木を穿っている。もしかして、それは、丑の刻参りなの?
私がぞっとして華子を見やると、華子は笑っていた。口の端をつり上げて、頬をえぐるように。楽しそうであった。これでこの子が本当はいい子だということを、メダカに餌を忘れずにやるような子だということを思い出せなければ、私は絶叫して逃げていったかもわからない。
「あ、大丈夫。きつつきだった」
「きつつき?」
「うん、ここ山深いからよく出るんだ」
私は華子の言葉に安堵して微笑んだ。華子も笑顔で顎をひく。
「それでね、あの後お母さんは追いかけてこなかった。次の日の朝には家に戻っていて、怒るどころか何事もなかったかのように焼きたてのパンを朝食に出してくれた。いつもの優しい、穏やかなお母さんだった。だけれどね」
華子が瞑目し、告げる。
「惨事はそれからだったの」
◆
「念はね、丑の刻参りが、呪いの儀式が失敗すると、飛び散るの。本当は、呪いの儀式を見られたら見た人を殺さなくてはいけないから、お母さんの儀式は失敗しているの。失敗したから、お母さんの負の念は飛び散っていった」
「するとどうなるの?」
本殿の縁に腰かけながら、私が訊いた。
「そうするとね、念が飛び散って、呪いをかけた相手の周りが無差別に殺されていくの。宿主を失った念によってね」
「え……じゃあ、華子にも、飛び散ったってこと?」
「うん……私は軽い怪我で済んだけれど、父と姉はダメだった。父は交通事故で腕を失い、姉は、電車に轢かれて死体がめちゃくちゃになっちゃった」
私は絶句してしまった。華子の家のお姉さんは自殺したと聞いていたけれど、その裏にはそんな事情があったなんて……。呪いとは恐ろしいものだ。生まれてきた以上、何かを食い殺さねば生きていかれないのだ。それが呪い。
「ねえ、美佳ちゃん。私が怖いでしょう。本当は今すぐ、離れたいって思ってない?」
「ううん」
私は自分でも、スムーズにこの言葉が出たことに驚いていた。確かに、華子は怖い。怖いけれど、どうしてなのだろう、この子だけは私を裏切らない自信がある。それは独りよがりの勝手な自信であった訳だが、この時の私には華子は最高の味方のように思われた。
「私、華子のこと嫌いじゃないよ」
そう言ってはにかむと、華子は
「なにその上から」
と言いながら、目元をぬぐっていた。私の知る限り、華子はずっといじめられていた。それゆえか、こんな近くで誰か友達と座って話したことすらなかった、と彼女は言った。それが嬉しかったのだろう。彼女は本当ににこににこしていた。私も満足感を得た。カン、カンカン。きつつきはまだ杉を穿っている。
◆
それからは自然、学校でも華子と話す機会が増えていった。学年一の淫乱と学年一の根暗が話す光景は異様だったらしく、すぐに学校の裏サイトに書かれたりしたけれど、私はさして気に留めなかった。華子はまっすぐで、優しかった。今まで私が仲良くした誰より。けれどそのかわり、嫉妬心も強かった。私があの性悪と忌まれた彩香と離れたことで、話しかけてくる子は多かった。その誰にも華子は嫉妬した。
「今の子と仲良くするの?」
とあの黒い目で問われると、私はいつしか首を振るしかなくなっていた。私は内心、華子の方がヒエラルキーが上になっているような気さえした。いつしか、私は華子のことが好きになり、そして怖くなったんだと思う。怒らせたら、何をされるか分からない。だけれど仲良くしていれば、気は優しいし、親切。
私と華子が話しているのに、太一が混ざる時もあった。驚いたのは、そのうちに太一が私抜きで華子と話すことも増えてきたことだった。太一と、おそらく人生で初めて男子としゃべる華子の様子は微笑ましかった。
「太一君はいい人ね」
華子がある放課後の折、私に言った。これは、と思った。二人きりの教室で、華子が箒をかける手をとめて言ったのだ。
その日はちょうどある事件が起きた日だった。
授業も小休止の昼休み、私は華子と太一と三人で楽しく話に興じていた。といっても、私たちみんなが興じられる話はオカルトしかなかった。太一は信じられないくらい楽しそうに話していた。太一は華子みたいな暗い子のことを見下しているのかと思っていたから、意外だった。
「なあ、丑の刻参りってまだやってんの。華子んち」
「……うん。たまにカンカン、聞こえるもんね」
「マジか。ちょっと興味ある」
「今度聞きにきたら?」
「でも夜中の二時だろ~?」
そう太一が言うと、華子は少し顔を赤らめた。自分で言って自分で意味に気が付いたらしい。夜中に泊まりに来いと言ってしまったようなものだ。私は報われぬ恋だと知っていたけれど、なんとはなしに優しい瞳で紅顔の華子を見つめていた。
その時。
「いい加減うるせーんだよ、このオカルト変人ども」
と、声が聞こえた。あれだけ騒がしかった教室が一斉に静まり返る。声を発したのは一人ぼっちの女の子だった。彩香だった。彩香は一人で窓側の席に座して、二列向こうの私たちを睨みながら次々言い放った。うるせーしくせーんだよ、オカルトばっかりしゃべってて、馬鹿じゃねえの。こっちまで陰気なのうつるわ。私たちはこれに怒るどころか、哀れに思って苦笑してしまった。
「嫌いなわりには、全部話聞いてんじゃん」
と、別なグループのギャルが思わず口走って、みんなの笑いを買ってしまった。クラスがどっと沸きたつ。彩香はいきり立って、叫んだ。
「お前、今何つったよ!!」
「いや、ごめん。ちょっと笑っちゃって」
あのギャルも喧嘩を買う気だ。諍いが始まる。笑っていた私たちも内心少しの恐怖を感じた。彩香の情緒不安定は並みじゃない。何が起こるか分からない。それでもギャルは挑発を続けた。しまいには。
「お前みたいなぼっちに言われたって、何も怖くねーんだよ。この、ぼっち女」
とまではっきり断じてしまって、彩香がキレてしまった。
「うわああああ殺してやるううう」
そう叫びながら、彩香は鞄に入れていたハサミを振り回し始めた。これには私たちも驚いた。ギャルの小麦色の肌に、幾筋もハサミの痕が残る。
「きゃああああ」
「誰か、先生呼んでっ」
大騒ぎになった頃には、彩香は先生たちに囲まれ、ハサミを手から離されていた。よほど強くハサミを握っていたらしく、掌にハサミの柄のあとがありありと残っていた。彩香は泣きわめきながらいずこへか先生たちに連れていかれた。
◆
「殺しちゃおうか、あの子のこと」
華子は、机に映る夕映えを受けて、放課後の教室でこんなことを言った。私たちは蝉の声を聞きながら、それきり黙していた。
「太一君はいい人ね」
その台詞から二分と経っていなかったと思う。華子は淡々と述べた。
「あの子、殺してもいいと思うの。だって、人に害悪しか与えないでしょう。生きていたってかわいそうだよ。あいつに迷惑を与えられる人間のことも考えなきゃ」
華子は優しくまっすぐで誠実な心根ながら、悪行にも誠実に取り組もうとするので、そういう発想になったらしかった。私は黙っていた。確かに、彩香は目障りではある。このまま放置していたら、私たちを殺しそうな気配さえある。あの、完全におかしくなった目つきを見ていたら、誰しも恐怖を感じるはずだ。だけれど、
【ねえー美佳】
あの甘ったるい声で私に寄り添ってきた声を、ブログで私に同情してくれた優しさを、忘れていいものであろうか。
いや、違う。
あの子のことは気味悪くさえ思う。
だけれど殺すまで至ってはいけない。
「ダメだよ、華子」
「どうして?」
華子は不思議そうに問うてくる。
「あの人は生かしても私たちにいいことないよ。きっと何かしら恨みをぶつけてくるに決まっているよ。殺した方がいい」
「だけど、あの子は友達だったんだよ。殺しちゃダメだよ。そんなことしたら、私は華子のことを嫌いになる」
そうかあ、ダメかあ。
華子が嘆息して、再び机に眼を転ずる。机の夕映えはニスの光の中に、赤く燃え盛る雲を映していた。
「どうしても?」
「どうしても」
私が言うと、華子の顔はまた暗い表情に変じた。そのまま私たちは散会となった。
◆
彩香とああいうことがあってから、私はブログをほとんど見なくなっていた。万が一、ブログに彩香からのコメントが来ていたら厭だったのである。そのコメントもどうせ文句を書き連ねたものであろう。だからブログを見ていなかった。
帰宅して、久しぶりに開いたブログには、しばらく更新がない時のバナーが貼られているほかは、目だった変化はなかった。ただ異常にアクセス数が伸びているのが気になった。アクセス数が一日で四百は数えられる。異様なおかしな数だった。
【殺しちゃおうか】
ふと華子の低い声音が蘇って、私は怖気を覚えた。怖い、あの子はやっぱり怖いと、強く思った。
「殺しちゃおうか」
ああ言ったのも嫉妬心からであろう。かつて私と仲がよかった彩香を妬んで。あるいは太一と仲良かったからかもしれない。なんにせよ、その憶測は寒気を覚えるものだった。
「美佳、いる?」
そこで突然、お母さんがドアから顔をのぞかせた。私はいるけど、と目をぱちくりさせる。
「お母さん。帰ってきたんだね」
「うん、彩香。今日夜は外食にしようか」
「ほんと? 嬉しい」
私が嬉しがると、お母さんも笑顔で頷いた。お母さんと外食なんて久しぶりだ。きっとまた近所の安いイタリアンだろうけど、それでも嬉しかった。外食も、お母さんとごはんを食べられるのも。
◆
「今日は贅沢していいからね」
近所のイタリア風の店に入って、ドリアを注文したあと、お母さんが奮発してくれて、私はデザートも食べられることになった。お母さんは笑顔で私のドリアをさます唇を見つめてくる。
「なに?」
「いや、美佳の口元は私に似ちゃったな、と思って。死んだお父さんと目元なんかはそっくりなんだけどね」
お母さんが、死んだお父さんの話をするなんて。
私は驚いてしまって、しばらくお母さんの顔も見られずにただ頷いた。何か話題を変えたくて、私は思わず口走ってしまう。
「お母さんは、新しいお父さんのこと、好きなの?」
尋ねた先から私は顔を赤らめた。何でこんなこと言っちゃったんだろう。恥ずかしい、くすぐったい。お母さん気を悪くしてないかしら。
「好きよ」
お母さんの一言に、私はすぐさま顔をもたげた。お母さんも照れくさそうに笑っている。
「死んだお父さんの次に好きよ。とってもいい人なの。美佳も気に入ってくれたらいいけど」
お母さんがそうまで言うなんて。
「どんな人? イケメン?」
「イケメンではないかな。熊に似ているかも」
「あはは、なにそれ」
「いやいや本当なの。でもあたたかくて、とっても優しい人よ」
そう語るお母さんの声もとっても柔らかで温かくて、私はほんのりと寂しさ、そして喜びを感じた。お母さんは今まで一人きりで世の中と闘ってきた。私と苦悩という荷物を背負って。それを今、安心して預けられる人が出来た。それは喜ばしいことだと感じた。
「じゃあ、私も好きになれるかな」
「なれると思うわ」
お母さんはその後で話題をかえた。
「美佳は学校、どうなの?」
「そこそこ楽しいよ」
変な友達も出来たし。ドリアを口に運びながら、咀嚼して私は言葉を継いだ。
「すごく綺麗だけど、変な子。結構、長く付き合っていけそう」
「そんなに変な子なの?」
「呪いのビデオに出てきそうなの。櫛で黒髪を削ってそう」
「でも、いい子なんでしょう?」
お母さんがパスタを咀嚼してから私に訊いた。私は思い切り頷く。
「そうだね。メダカに忘れずに餌をやったり、道端のカタツムリを草木に逃してやったりするの」
あはは、とお母さんの顔がほころぶ。
「じゃあ、大丈夫。呪いなんてかけないよ」
私も破顔して、そうだね、と告げる。
「今度その子に会わせて頂戴ね」
「うん。新しいお父さんに会った後にでも」
「うん」
その日の夕食は楽しく和やかな雰囲気で終わった。
その日はお母さんと一緒に布団で眠った。お母さんの背に頭をのせる。柔らかなぬくもりが伝わる。息をしている。ああ、生きていてよかったと思った。布団から出た寝顔だけ見ていたら、まるで生首のようで、死んでしまったかとよぎったから。
思えばあの夜から、私は母に死に別れることを予期していたのかもしれない。
◆
「はい、じゃあそういうことで予約だけ、お願いします。はい、はいありがとうございます」
女カウンセラーの声は残酷なほとよどみない。美しい声音で私を精神科に連れていく予約を済ませて、その日付のメモを取っている。この白い無機質な部屋に生き物はたいしていない。私と女カウンセラーと、私を不気味がる男のカウンセラーだけ。金魚鉢でもあれば目のやり場に困らなくて済むのに、錯乱した誰かが壊したのであろうか、花瓶以外にこの部屋には何もない。
赤い花瓶にさされた百合の花は、死んでいるのだろうか。それとも死にゆくのだろうか。
それさえも今の私には分からない。
華子の黒い髪がたゆたっている。毛先が少し細くて、それが壁から床からあふれ出て、毛先がまるまっている。幻覚ならどうして
こうもリアルに、華子の髪の毛の質感が分かるのであろう。華子の髪の毛は生きている。生きて私の近くにはいずり出ている。大学の授業中に、華子の髪の毛が教壇から出てきて、
思わず叫んだり、せっかく出来そうだった友達と街を連れ歩いていたら死んだはずの華子が立っていたりして、のたうちまわっていたら、大学のカウンセリング室を勧められてしまった。そして今そこにいる。
けれど私はおかしくない。
確かに華子はここにいるんだ。そして私の手を掴んでどこかにさらおうとしている。おそらくは黄泉の国まで。確かにいるんだ。あの女はここにいる。私は病気なんかじゃない。
「じゃあ本条さん、予約とっておいたから一週間後に銀座のクリニック、一緒に行きましょう。ね? その日、暇って言っていたよね? 」
私は言っていない。けれど否定することもうまくできず、私は頷くばかりだった。
私はふと気が付いた。華子がドア脇に立っている。あの黒い髪の毛を垂らしながら、白いワンピース姿で。あそこに立っている。あれ? 一人じゃない。何人かいる。あっちにも、ほらあっちにもいる。白い服を着た死人たちが、私のことを睨んでいる。
「ダメです……います」
私がおもむろに言うと、男のカウンセラーはお茶淹れてきます、と外に逃げてしまった。知っているんだな、と思った。この人はあのうわさを。いや真実を。あの日、あの七夕の夜、私のせいで、あの駅に偶然居合わせた四十二人が死んだことを。しかし声の綺麗な女のカウンセラーは気丈に、机に座す私の隣にて、私の眼を見て言った。
「本条さん、お願いがあるの」
「何でしょう」
「その七夕の夜の話、出来る?」
私の不眠で血走っているであろう眼をそらさずに、女カウンセラーはさらに懇願した。
「私はね、あなたのその症状がどうも、その七夕の夜の事件に起因しているように思われて仕方ないの。あなたが髪の毛が出てくるとか、幽霊が見えるとか、死ねって声が聞こえるとか言うのは、全部あの七夕の夜に原因があると思う。それはね、私もニュースで見てある程度は覚えているけれど」
あなたの口から聞きたい。あの日何があったかを。
このカウンセラーのとび色の瞳に見つめられ、私はうつむいてこくんと顎をひいた。
「きっと信じてもらえないしょうけれど」
それからの話は、ブログに書いた通りだった。
◆
あの夜、何があったか。それは一言で済むのなら簡単に述べられる。
あの夜、華子の呪いで私の近くにいた四十二人が死んだ。
ただそれだけ。
あの日、七月七日の七夕の日。学校も終わって放課後にさしかかった時、私は冷房が壊れて蒸し暑い教室で華子と話していた。話題はもちろん、今日会う新しいお父さん候補の話。
「どんな人なのかな。熊みたいってお母さんは言っていたけれど」
私が苦笑しながら肩をすくめると、華子も微笑んで答えた。
「とかいって絶対イケメンなんだよね。美佳ちゃんのお母さんだもん。絶対綺麗だし、そんな人が選ぶのもイケメンに違いないよ」
断定するような口ぶりに、私は吹き出した。
それから小声で、
「美佳でいいよ」
と付け加えた。
華子は一瞬固まっていたけれど、すぐに笑顔を見せた。
「本当? 美佳でいいの?」
私はわざとすっとぼけた。
「さあ、私同じことは言わない主義ですので」
「あー、こいつとぼけているなあ」
私たちは声を合わせて笑った。その折、私たち以外いない教室に女の子が入ってきた。彩香だった。彩香は私たちを見ると、一度教室のドアを思い切り蹴飛ばして、足を痛そうにさすった。私たちは失笑してしまった。笑みを浮かべるその私に、彩香はすさまじい速度で近づいてきて。
「ねえ、あんたに話あるんだけど」
と言い放った。話? 私に? 私がきょとんとして首をひねる。
「いいよ。何? ここで言ってよ」
「ここでは言えない」
彩香の顔は気のせいか青ざめていた。何か思い詰めているようだった。何か辛い一大事を決心したような悲愴な顔。
私はその顔に負けて、頷いた。
「後で校舎裏に来て」
彩香は口早に願うと、さっさと教室を出ていった。
「何だろう、話って。ねえ」
華子が不審そうに声を漏らす。
「ねえ、美佳。やっぱり、あの人のこと……」
「ダメだってばそれは」
華子はまだ私と彩香が仲よいとでも思っているのだろうか。それで嫉妬しているのだろうか。それで、殺そうと思っている?
私は何度も華子を諭した。いくら今は仲が悪くても、優しいところもある子だから。許してあげて。
華子はずっと厭そうな顔になっていたけれど、私が不機嫌そうに黙ると一転して笑顔を見せた。
「それより今日、不安半分、楽しみ半分だね。お父さん、いい人だといいね」
華子の明るい声に、私もつられて微笑んでしまう。
「そうね。じゃあ、いいことの前に、悪いことから済ませてきますか。ちょっと、校舎裏行ってきます」
私が机から立ち上がると、華子がん、と拳を突き出した。私に向けて。
「え? なにこれ」
「悪いことの前にもらって。美佳へのお守り」
華子が突き出した拳の中には、小さな糸で編んだ人形が入っていた。青い糸で編まれた、可愛い小さな人形。
「美佳に悪いことが続かないように祈って編んだんだ。つまらないものだけど、もらってってよ」
「あのさ、華子重いんですけど」
私が思わず口走ってしまう。華子の顔がひきつる。それからしょぼんとして。
「重くて悪かったですね」
と言い放つ華子の髪を、私は撫でた。
「ったく。冗談くらい受け流してよ! ほんと、華子って重い! そんなところも嫌いじゃないけどねっ」
あはは、と声を漏らす私へ、華子が美佳の馬鹿っと顔を赤らめる。
「行ってらっしゃい。気を付けてね。連絡、待ってるから。いい時も悪い時も連絡して。待ってる」
華子の厚情と友情に、私は深く感謝した。
本当にこの子を友達にしてよかった。そう、本気で思った。廊下を蹴って校舎裏へ急ぐ。
校舎裏には手持無沙汰にしている彩香が立っていた。彼女は私を見るなり、手を握ってこう述べた。
「あのさ、あんたにお願いがあるんだけど」
話を聞く。彩香のお願いを縷々と述べられる。
そのお願いを、私は断った。
◆
華子の家の神社は市内でも有名な山岳地帯の一角にあって、新緑ざわめく深山の中腹にあった。バスが出ているけれど、歩いても本殿までなら二十分くらいで着く。岩ばかりの山道を登っていくと、やがて視界が開け、森に囲まれた不可思議な鳥居が見えた。その鳥居は真っ黒だった。まるで焼け焦げたみたいな。
「……火事にでもあったの?」
私が訊いてみると、赤いワンピース姿の華子がまさかと否定する。
その訳は歩きながら話してくれた。
「この鳥居は八百年前から伝わる色に染めてあるの。何でも、昔の源氏物語絵巻で出てくる、六条の御息所がおわした場所に建つ神社と同じ色なんだって」
「六条の、みやすどころ?」
「うん。その御方は美しくて聡明だったんだけど」
華子が私を先導しながら、どんどん本殿の方角に連れていく。
「そうだったんだけど、光源氏という名うてのプレイボーイに引っかかって、嫉妬にくるって魍魎になってしまうの」
「魍魎?」
「化け物ってことね」
華子は博識だ。私なんかよりずっと。それに綺麗だし。なんだかそう思うと嬉しくなった。こういう子が友達でも楽しいかも。
「ほら、あれ見える?」
「どれ?」
華子が指さす方向に、厳めしい本殿があり、その裏手に背の高い杉の木が一本聳えているのが分かった。ここからでは本殿があって全部は見通せないけれど、随分背の高い杉の木もあるんだと私は感心する。
「きっと、人の怨念で育ったんだね」
「きっと、そうね」
それから二人で柏手をうち、本殿にて祈った。華子は何を祈るんだろう。そればかり気になって、私はさしたる願いごとをしなかった。せめて彩香の言うように苦労知らずで人生過ごせるようにしてくださいと祈るべきであったか、それは今となっては分からない。
ご神体は鏡だった。黒ずんだ鏡。鏡は己を映すもの。己の中に神もいる、それを常に高めていかなければならぬ、そう華子は教えられたと語った。お父さんから。私はふと先日の話を思い出した。広い境内に誰もいないのを確認して、口を切る。
「ねえ、華子」
「うん?」
「あの話って、結局どうなったの。あの、お母さんの話」
「あ、うん。話すけれどちょっと待って」
華子が唇に指を押し当て、静かに、といった風にする。私は一瞬あっけにとられて、静まり返る境内にて耳を澄ます。
カン、カン、カン。
何かが杉の木を穿っている。
カン、カン、カン。
何かがひたすらに杉の木を穿っている。もしかして、それは、丑の刻参りなの?
私がぞっとして華子を見やると、華子は笑っていた。口の端をつり上げて、頬をえぐるように。楽しそうであった。これでこの子が本当はいい子だということを、メダカに餌を忘れずにやるような子だということを思い出せなければ、私は絶叫して逃げていったかもわからない。
「あ、大丈夫。きつつきだった」
「きつつき?」
「うん、ここ山深いからよく出るんだ」
私は華子の言葉に安堵して微笑んだ。華子も笑顔で顎をひく。
「それでね、あの後お母さんは追いかけてこなかった。次の日の朝には家に戻っていて、怒るどころか何事もなかったかのように焼きたてのパンを朝食に出してくれた。いつもの優しい、穏やかなお母さんだった。だけれどね」
華子が瞑目し、告げる。
「惨事はそれからだったの」
◆
「念はね、丑の刻参りが、呪いの儀式が失敗すると、飛び散るの。本当は、呪いの儀式を見られたら見た人を殺さなくてはいけないから、お母さんの儀式は失敗しているの。失敗したから、お母さんの負の念は飛び散っていった」
「するとどうなるの?」
本殿の縁に腰かけながら、私が訊いた。
「そうするとね、念が飛び散って、呪いをかけた相手の周りが無差別に殺されていくの。宿主を失った念によってね」
「え……じゃあ、華子にも、飛び散ったってこと?」
「うん……私は軽い怪我で済んだけれど、父と姉はダメだった。父は交通事故で腕を失い、姉は、電車に轢かれて死体がめちゃくちゃになっちゃった」
私は絶句してしまった。華子の家のお姉さんは自殺したと聞いていたけれど、その裏にはそんな事情があったなんて……。呪いとは恐ろしいものだ。生まれてきた以上、何かを食い殺さねば生きていかれないのだ。それが呪い。
「ねえ、美佳ちゃん。私が怖いでしょう。本当は今すぐ、離れたいって思ってない?」
「ううん」
私は自分でも、スムーズにこの言葉が出たことに驚いていた。確かに、華子は怖い。怖いけれど、どうしてなのだろう、この子だけは私を裏切らない自信がある。それは独りよがりの勝手な自信であった訳だが、この時の私には華子は最高の味方のように思われた。
「私、華子のこと嫌いじゃないよ」
そう言ってはにかむと、華子は
「なにその上から」
と言いながら、目元をぬぐっていた。私の知る限り、華子はずっといじめられていた。それゆえか、こんな近くで誰か友達と座って話したことすらなかった、と彼女は言った。それが嬉しかったのだろう。彼女は本当ににこににこしていた。私も満足感を得た。カン、カンカン。きつつきはまだ杉を穿っている。
◆
それからは自然、学校でも華子と話す機会が増えていった。学年一の淫乱と学年一の根暗が話す光景は異様だったらしく、すぐに学校の裏サイトに書かれたりしたけれど、私はさして気に留めなかった。華子はまっすぐで、優しかった。今まで私が仲良くした誰より。けれどそのかわり、嫉妬心も強かった。私があの性悪と忌まれた彩香と離れたことで、話しかけてくる子は多かった。その誰にも華子は嫉妬した。
「今の子と仲良くするの?」
とあの黒い目で問われると、私はいつしか首を振るしかなくなっていた。私は内心、華子の方がヒエラルキーが上になっているような気さえした。いつしか、私は華子のことが好きになり、そして怖くなったんだと思う。怒らせたら、何をされるか分からない。だけれど仲良くしていれば、気は優しいし、親切。
私と華子が話しているのに、太一が混ざる時もあった。驚いたのは、そのうちに太一が私抜きで華子と話すことも増えてきたことだった。太一と、おそらく人生で初めて男子としゃべる華子の様子は微笑ましかった。
「太一君はいい人ね」
華子がある放課後の折、私に言った。これは、と思った。二人きりの教室で、華子が箒をかける手をとめて言ったのだ。
その日はちょうどある事件が起きた日だった。
授業も小休止の昼休み、私は華子と太一と三人で楽しく話に興じていた。といっても、私たちみんなが興じられる話はオカルトしかなかった。太一は信じられないくらい楽しそうに話していた。太一は華子みたいな暗い子のことを見下しているのかと思っていたから、意外だった。
「なあ、丑の刻参りってまだやってんの。華子んち」
「……うん。たまにカンカン、聞こえるもんね」
「マジか。ちょっと興味ある」
「今度聞きにきたら?」
「でも夜中の二時だろ~?」
そう太一が言うと、華子は少し顔を赤らめた。自分で言って自分で意味に気が付いたらしい。夜中に泊まりに来いと言ってしまったようなものだ。私は報われぬ恋だと知っていたけれど、なんとはなしに優しい瞳で紅顔の華子を見つめていた。
その時。
「いい加減うるせーんだよ、このオカルト変人ども」
と、声が聞こえた。あれだけ騒がしかった教室が一斉に静まり返る。声を発したのは一人ぼっちの女の子だった。彩香だった。彩香は一人で窓側の席に座して、二列向こうの私たちを睨みながら次々言い放った。うるせーしくせーんだよ、オカルトばっかりしゃべってて、馬鹿じゃねえの。こっちまで陰気なのうつるわ。私たちはこれに怒るどころか、哀れに思って苦笑してしまった。
「嫌いなわりには、全部話聞いてんじゃん」
と、別なグループのギャルが思わず口走って、みんなの笑いを買ってしまった。クラスがどっと沸きたつ。彩香はいきり立って、叫んだ。
「お前、今何つったよ!!」
「いや、ごめん。ちょっと笑っちゃって」
あのギャルも喧嘩を買う気だ。諍いが始まる。笑っていた私たちも内心少しの恐怖を感じた。彩香の情緒不安定は並みじゃない。何が起こるか分からない。それでもギャルは挑発を続けた。しまいには。
「お前みたいなぼっちに言われたって、何も怖くねーんだよ。この、ぼっち女」
とまではっきり断じてしまって、彩香がキレてしまった。
「うわああああ殺してやるううう」
そう叫びながら、彩香は鞄に入れていたハサミを振り回し始めた。これには私たちも驚いた。ギャルの小麦色の肌に、幾筋もハサミの痕が残る。
「きゃああああ」
「誰か、先生呼んでっ」
大騒ぎになった頃には、彩香は先生たちに囲まれ、ハサミを手から離されていた。よほど強くハサミを握っていたらしく、掌にハサミの柄のあとがありありと残っていた。彩香は泣きわめきながらいずこへか先生たちに連れていかれた。
◆
「殺しちゃおうか、あの子のこと」
華子は、机に映る夕映えを受けて、放課後の教室でこんなことを言った。私たちは蝉の声を聞きながら、それきり黙していた。
「太一君はいい人ね」
その台詞から二分と経っていなかったと思う。華子は淡々と述べた。
「あの子、殺してもいいと思うの。だって、人に害悪しか与えないでしょう。生きていたってかわいそうだよ。あいつに迷惑を与えられる人間のことも考えなきゃ」
華子は優しくまっすぐで誠実な心根ながら、悪行にも誠実に取り組もうとするので、そういう発想になったらしかった。私は黙っていた。確かに、彩香は目障りではある。このまま放置していたら、私たちを殺しそうな気配さえある。あの、完全におかしくなった目つきを見ていたら、誰しも恐怖を感じるはずだ。だけれど、
【ねえー美佳】
あの甘ったるい声で私に寄り添ってきた声を、ブログで私に同情してくれた優しさを、忘れていいものであろうか。
いや、違う。
あの子のことは気味悪くさえ思う。
だけれど殺すまで至ってはいけない。
「ダメだよ、華子」
「どうして?」
華子は不思議そうに問うてくる。
「あの人は生かしても私たちにいいことないよ。きっと何かしら恨みをぶつけてくるに決まっているよ。殺した方がいい」
「だけど、あの子は友達だったんだよ。殺しちゃダメだよ。そんなことしたら、私は華子のことを嫌いになる」
そうかあ、ダメかあ。
華子が嘆息して、再び机に眼を転ずる。机の夕映えはニスの光の中に、赤く燃え盛る雲を映していた。
「どうしても?」
「どうしても」
私が言うと、華子の顔はまた暗い表情に変じた。そのまま私たちは散会となった。
◆
彩香とああいうことがあってから、私はブログをほとんど見なくなっていた。万が一、ブログに彩香からのコメントが来ていたら厭だったのである。そのコメントもどうせ文句を書き連ねたものであろう。だからブログを見ていなかった。
帰宅して、久しぶりに開いたブログには、しばらく更新がない時のバナーが貼られているほかは、目だった変化はなかった。ただ異常にアクセス数が伸びているのが気になった。アクセス数が一日で四百は数えられる。異様なおかしな数だった。
【殺しちゃおうか】
ふと華子の低い声音が蘇って、私は怖気を覚えた。怖い、あの子はやっぱり怖いと、強く思った。
「殺しちゃおうか」
ああ言ったのも嫉妬心からであろう。かつて私と仲がよかった彩香を妬んで。あるいは太一と仲良かったからかもしれない。なんにせよ、その憶測は寒気を覚えるものだった。
「美佳、いる?」
そこで突然、お母さんがドアから顔をのぞかせた。私はいるけど、と目をぱちくりさせる。
「お母さん。帰ってきたんだね」
「うん、彩香。今日夜は外食にしようか」
「ほんと? 嬉しい」
私が嬉しがると、お母さんも笑顔で頷いた。お母さんと外食なんて久しぶりだ。きっとまた近所の安いイタリアンだろうけど、それでも嬉しかった。外食も、お母さんとごはんを食べられるのも。
◆
「今日は贅沢していいからね」
近所のイタリア風の店に入って、ドリアを注文したあと、お母さんが奮発してくれて、私はデザートも食べられることになった。お母さんは笑顔で私のドリアをさます唇を見つめてくる。
「なに?」
「いや、美佳の口元は私に似ちゃったな、と思って。死んだお父さんと目元なんかはそっくりなんだけどね」
お母さんが、死んだお父さんの話をするなんて。
私は驚いてしまって、しばらくお母さんの顔も見られずにただ頷いた。何か話題を変えたくて、私は思わず口走ってしまう。
「お母さんは、新しいお父さんのこと、好きなの?」
尋ねた先から私は顔を赤らめた。何でこんなこと言っちゃったんだろう。恥ずかしい、くすぐったい。お母さん気を悪くしてないかしら。
「好きよ」
お母さんの一言に、私はすぐさま顔をもたげた。お母さんも照れくさそうに笑っている。
「死んだお父さんの次に好きよ。とってもいい人なの。美佳も気に入ってくれたらいいけど」
お母さんがそうまで言うなんて。
「どんな人? イケメン?」
「イケメンではないかな。熊に似ているかも」
「あはは、なにそれ」
「いやいや本当なの。でもあたたかくて、とっても優しい人よ」
そう語るお母さんの声もとっても柔らかで温かくて、私はほんのりと寂しさ、そして喜びを感じた。お母さんは今まで一人きりで世の中と闘ってきた。私と苦悩という荷物を背負って。それを今、安心して預けられる人が出来た。それは喜ばしいことだと感じた。
「じゃあ、私も好きになれるかな」
「なれると思うわ」
お母さんはその後で話題をかえた。
「美佳は学校、どうなの?」
「そこそこ楽しいよ」
変な友達も出来たし。ドリアを口に運びながら、咀嚼して私は言葉を継いだ。
「すごく綺麗だけど、変な子。結構、長く付き合っていけそう」
「そんなに変な子なの?」
「呪いのビデオに出てきそうなの。櫛で黒髪を削ってそう」
「でも、いい子なんでしょう?」
お母さんがパスタを咀嚼してから私に訊いた。私は思い切り頷く。
「そうだね。メダカに忘れずに餌をやったり、道端のカタツムリを草木に逃してやったりするの」
あはは、とお母さんの顔がほころぶ。
「じゃあ、大丈夫。呪いなんてかけないよ」
私も破顔して、そうだね、と告げる。
「今度その子に会わせて頂戴ね」
「うん。新しいお父さんに会った後にでも」
「うん」
その日の夕食は楽しく和やかな雰囲気で終わった。
その日はお母さんと一緒に布団で眠った。お母さんの背に頭をのせる。柔らかなぬくもりが伝わる。息をしている。ああ、生きていてよかったと思った。布団から出た寝顔だけ見ていたら、まるで生首のようで、死んでしまったかとよぎったから。
思えばあの夜から、私は母に死に別れることを予期していたのかもしれない。
◆
「はい、じゃあそういうことで予約だけ、お願いします。はい、はいありがとうございます」
女カウンセラーの声は残酷なほとよどみない。美しい声音で私を精神科に連れていく予約を済ませて、その日付のメモを取っている。この白い無機質な部屋に生き物はたいしていない。私と女カウンセラーと、私を不気味がる男のカウンセラーだけ。金魚鉢でもあれば目のやり場に困らなくて済むのに、錯乱した誰かが壊したのであろうか、花瓶以外にこの部屋には何もない。
赤い花瓶にさされた百合の花は、死んでいるのだろうか。それとも死にゆくのだろうか。
それさえも今の私には分からない。
華子の黒い髪がたゆたっている。毛先が少し細くて、それが壁から床からあふれ出て、毛先がまるまっている。幻覚ならどうして
こうもリアルに、華子の髪の毛の質感が分かるのであろう。華子の髪の毛は生きている。生きて私の近くにはいずり出ている。大学の授業中に、華子の髪の毛が教壇から出てきて、
思わず叫んだり、せっかく出来そうだった友達と街を連れ歩いていたら死んだはずの華子が立っていたりして、のたうちまわっていたら、大学のカウンセリング室を勧められてしまった。そして今そこにいる。
けれど私はおかしくない。
確かに華子はここにいるんだ。そして私の手を掴んでどこかにさらおうとしている。おそらくは黄泉の国まで。確かにいるんだ。あの女はここにいる。私は病気なんかじゃない。
「じゃあ本条さん、予約とっておいたから一週間後に銀座のクリニック、一緒に行きましょう。ね? その日、暇って言っていたよね? 」
私は言っていない。けれど否定することもうまくできず、私は頷くばかりだった。
私はふと気が付いた。華子がドア脇に立っている。あの黒い髪の毛を垂らしながら、白いワンピース姿で。あそこに立っている。あれ? 一人じゃない。何人かいる。あっちにも、ほらあっちにもいる。白い服を着た死人たちが、私のことを睨んでいる。
「ダメです……います」
私がおもむろに言うと、男のカウンセラーはお茶淹れてきます、と外に逃げてしまった。知っているんだな、と思った。この人はあのうわさを。いや真実を。あの日、あの七夕の夜、私のせいで、あの駅に偶然居合わせた四十二人が死んだことを。しかし声の綺麗な女のカウンセラーは気丈に、机に座す私の隣にて、私の眼を見て言った。
「本条さん、お願いがあるの」
「何でしょう」
「その七夕の夜の話、出来る?」
私の不眠で血走っているであろう眼をそらさずに、女カウンセラーはさらに懇願した。
「私はね、あなたのその症状がどうも、その七夕の夜の事件に起因しているように思われて仕方ないの。あなたが髪の毛が出てくるとか、幽霊が見えるとか、死ねって声が聞こえるとか言うのは、全部あの七夕の夜に原因があると思う。それはね、私もニュースで見てある程度は覚えているけれど」
あなたの口から聞きたい。あの日何があったかを。
このカウンセラーのとび色の瞳に見つめられ、私はうつむいてこくんと顎をひいた。
「きっと信じてもらえないしょうけれど」
それからの話は、ブログに書いた通りだった。
◆
あの夜、何があったか。それは一言で済むのなら簡単に述べられる。
あの夜、華子の呪いで私の近くにいた四十二人が死んだ。
ただそれだけ。
あの日、七月七日の七夕の日。学校も終わって放課後にさしかかった時、私は冷房が壊れて蒸し暑い教室で華子と話していた。話題はもちろん、今日会う新しいお父さん候補の話。
「どんな人なのかな。熊みたいってお母さんは言っていたけれど」
私が苦笑しながら肩をすくめると、華子も微笑んで答えた。
「とかいって絶対イケメンなんだよね。美佳ちゃんのお母さんだもん。絶対綺麗だし、そんな人が選ぶのもイケメンに違いないよ」
断定するような口ぶりに、私は吹き出した。
それから小声で、
「美佳でいいよ」
と付け加えた。
華子は一瞬固まっていたけれど、すぐに笑顔を見せた。
「本当? 美佳でいいの?」
私はわざとすっとぼけた。
「さあ、私同じことは言わない主義ですので」
「あー、こいつとぼけているなあ」
私たちは声を合わせて笑った。その折、私たち以外いない教室に女の子が入ってきた。彩香だった。彩香は私たちを見ると、一度教室のドアを思い切り蹴飛ばして、足を痛そうにさすった。私たちは失笑してしまった。笑みを浮かべるその私に、彩香はすさまじい速度で近づいてきて。
「ねえ、あんたに話あるんだけど」
と言い放った。話? 私に? 私がきょとんとして首をひねる。
「いいよ。何? ここで言ってよ」
「ここでは言えない」
彩香の顔は気のせいか青ざめていた。何か思い詰めているようだった。何か辛い一大事を決心したような悲愴な顔。
私はその顔に負けて、頷いた。
「後で校舎裏に来て」
彩香は口早に願うと、さっさと教室を出ていった。
「何だろう、話って。ねえ」
華子が不審そうに声を漏らす。
「ねえ、美佳。やっぱり、あの人のこと……」
「ダメだってばそれは」
華子はまだ私と彩香が仲よいとでも思っているのだろうか。それで嫉妬しているのだろうか。それで、殺そうと思っている?
私は何度も華子を諭した。いくら今は仲が悪くても、優しいところもある子だから。許してあげて。
華子はずっと厭そうな顔になっていたけれど、私が不機嫌そうに黙ると一転して笑顔を見せた。
「それより今日、不安半分、楽しみ半分だね。お父さん、いい人だといいね」
華子の明るい声に、私もつられて微笑んでしまう。
「そうね。じゃあ、いいことの前に、悪いことから済ませてきますか。ちょっと、校舎裏行ってきます」
私が机から立ち上がると、華子がん、と拳を突き出した。私に向けて。
「え? なにこれ」
「悪いことの前にもらって。美佳へのお守り」
華子が突き出した拳の中には、小さな糸で編んだ人形が入っていた。青い糸で編まれた、可愛い小さな人形。
「美佳に悪いことが続かないように祈って編んだんだ。つまらないものだけど、もらってってよ」
「あのさ、華子重いんですけど」
私が思わず口走ってしまう。華子の顔がひきつる。それからしょぼんとして。
「重くて悪かったですね」
と言い放つ華子の髪を、私は撫でた。
「ったく。冗談くらい受け流してよ! ほんと、華子って重い! そんなところも嫌いじゃないけどねっ」
あはは、と声を漏らす私へ、華子が美佳の馬鹿っと顔を赤らめる。
「行ってらっしゃい。気を付けてね。連絡、待ってるから。いい時も悪い時も連絡して。待ってる」
華子の厚情と友情に、私は深く感謝した。
本当にこの子を友達にしてよかった。そう、本気で思った。廊下を蹴って校舎裏へ急ぐ。
校舎裏には手持無沙汰にしている彩香が立っていた。彼女は私を見るなり、手を握ってこう述べた。
「あのさ、あんたにお願いがあるんだけど」
話を聞く。彩香のお願いを縷々と述べられる。
そのお願いを、私は断った。
◆
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