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4. 雨の少年
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昔の職場の上司が急死したので、雨だというのに葬式会場に向かった。
見事な日本庭園が印象的な葬式会場は、色とりどりの傘で埋め尽くされていた。
会場に入る前に携帯電話を確認すると、部下からのメールが一件入っていた。
『早く来てね♡ とっておきのワインを冷やして、ビーフシチューを煮込んで待ってるから♡』
(ビーフシチューか……)
楽しみだ。妻は手間も時間もかかりすぎると言って、なかなか作ってくれない私の好物だ。
『終わったらすぐに行く』
と、妻よりも十歳も若く美しい、従順で可愛い『部下』に返信する。
世話になった元上司には悪いが、早く済ませてしまおう――傘の水気を落とし、芳名帳に記入して、線香の匂いと読経の声が満ちる室内に入ろうとした時だった。
(何だ、あの子……)
傘の群生が咲く庭の隅、松の木の陰に、ひとりの少年が佇んでいるのが目に入った。
この土砂降りでは松の木など雨除けにもならない。傘の無い少年はずぶ濡れだった。年の頃は小学校の中学年……十歳くらいだろうか。うちの息子より下に見える。
少年は無表情のように見えた。だが奇妙だったのは、誰も彼を顧みないことだ。
ふと、喪主であろう元上司の妻が縁側に出てきた。彼女は少年を見て明らかに驚き、凝視したが、すぐに顔を背けた。
(無視している?)
昔一度だけ会った時は、優しそうな夫人だと印象を持ったのに。
奇妙だと思ったが、私を待つ可愛い女の顔が浮かび、気にしないことにした。
焼香を済ませ、ありふれた挨拶を口にし、故人との思い出を少しなぞって事を済ませた。外に出ると、雨脚がより強くなっていた。
水たまりを踏みながら、「今から向かう」とメールを打とうとした時、横殴りの雨で左手がおおいに濡れた。ハンカチを取り出して、拭く。
(ついでに結婚指輪も外しておくか……)
彼女が嫌がるから――鈍色に光る指輪を引き抜こうとした時、また何気なく視線を漂わせると、あの少年が松の木の後ろにいることに気づいた。
しかも今度は目が合った。まっくろな瞳が私を見ている。
無視すればよかったのだが、気になる気持ちが勝手に膨れ上がる。自分の息子よりも幼い子どもがずぶ濡れなのを見て、放っておける父親がいるものか。
私は少年に歩み寄り、声をかけた。
「どうしたの? なんでこんな所にいるの?」
少しの沈黙の後、少年は唇をふるわせ、
「……お父さんを見送ってるの」
お父さん? と鸚鵡返しに聞くと、少年は細い指で葬式会場をさした。その先には、白い菊の祭壇に置かれた、元上司の遺影があった。
「部長の……あ、今は専務だったか。三澤(みさわ)さんの息子さん?」
こくんと少年が頷く。
だがおかしい。元上司――三澤さんの子どもは娘が二人のはずだ。先ほど「立派な社会人になられて……」と社交辞令の混じった挨拶を交わした。
何より息子なら、何故会場に入らず、こんな庭の隅で隠れるように立っているのか。
その疑問は、少年の胸元につけられた名札で即座に解消した。
少年の名字は『三澤』ではなかった。
「……中に入ったらどうだい。風邪引くよ」
「ぼくは入っちゃだめなんだって。病院でもそうだった」
少年は濡れた顔と瞳を葬儀場へ向ける。
「家でお父さんが倒れて、救急車でお母さんと一緒に病院までついていったけど。……あのひとたちが来て、病室から出てけって追い出された」
遠くを見るような目つきだった。
「お父さんはぼくのお父さんなのに。仕事で留守にしてばっかだけど、家にいる時はキャッチボールしたり一緒にゲームしたのに。分数の計算のやり方だって教えてくれた。テストで百点とったら『さすが俺の息子だ』って頭撫でてくれたのに」
雨の音でかき消されそうなのに、少年の言葉は私にしっかりと届いた。届いてしまった。
「ぼくは、お父さんの家族じゃないから、だめなんだって」
「……」
私に何が言えただろう。
そんな会話の後、少年の母親らしき女性が迎えにきた。三澤夫人と同年代の、特に美人でもない普通の女だった。
残された私は、小雨になった雨の中、莫迦みたいにぼうっと突っ立っていた。
外しかけの指輪。送りかけのメール。
ビーフシチューを作ってくれない妻。ビーフシチューを作って私を待つ愛人。
脳裏に浮かぶ、ひとりきりで佇む少年の姿が、雨のように絶え間なく私の胸を刺していた。
見事な日本庭園が印象的な葬式会場は、色とりどりの傘で埋め尽くされていた。
会場に入る前に携帯電話を確認すると、部下からのメールが一件入っていた。
『早く来てね♡ とっておきのワインを冷やして、ビーフシチューを煮込んで待ってるから♡』
(ビーフシチューか……)
楽しみだ。妻は手間も時間もかかりすぎると言って、なかなか作ってくれない私の好物だ。
『終わったらすぐに行く』
と、妻よりも十歳も若く美しい、従順で可愛い『部下』に返信する。
世話になった元上司には悪いが、早く済ませてしまおう――傘の水気を落とし、芳名帳に記入して、線香の匂いと読経の声が満ちる室内に入ろうとした時だった。
(何だ、あの子……)
傘の群生が咲く庭の隅、松の木の陰に、ひとりの少年が佇んでいるのが目に入った。
この土砂降りでは松の木など雨除けにもならない。傘の無い少年はずぶ濡れだった。年の頃は小学校の中学年……十歳くらいだろうか。うちの息子より下に見える。
少年は無表情のように見えた。だが奇妙だったのは、誰も彼を顧みないことだ。
ふと、喪主であろう元上司の妻が縁側に出てきた。彼女は少年を見て明らかに驚き、凝視したが、すぐに顔を背けた。
(無視している?)
昔一度だけ会った時は、優しそうな夫人だと印象を持ったのに。
奇妙だと思ったが、私を待つ可愛い女の顔が浮かび、気にしないことにした。
焼香を済ませ、ありふれた挨拶を口にし、故人との思い出を少しなぞって事を済ませた。外に出ると、雨脚がより強くなっていた。
水たまりを踏みながら、「今から向かう」とメールを打とうとした時、横殴りの雨で左手がおおいに濡れた。ハンカチを取り出して、拭く。
(ついでに結婚指輪も外しておくか……)
彼女が嫌がるから――鈍色に光る指輪を引き抜こうとした時、また何気なく視線を漂わせると、あの少年が松の木の後ろにいることに気づいた。
しかも今度は目が合った。まっくろな瞳が私を見ている。
無視すればよかったのだが、気になる気持ちが勝手に膨れ上がる。自分の息子よりも幼い子どもがずぶ濡れなのを見て、放っておける父親がいるものか。
私は少年に歩み寄り、声をかけた。
「どうしたの? なんでこんな所にいるの?」
少しの沈黙の後、少年は唇をふるわせ、
「……お父さんを見送ってるの」
お父さん? と鸚鵡返しに聞くと、少年は細い指で葬式会場をさした。その先には、白い菊の祭壇に置かれた、元上司の遺影があった。
「部長の……あ、今は専務だったか。三澤(みさわ)さんの息子さん?」
こくんと少年が頷く。
だがおかしい。元上司――三澤さんの子どもは娘が二人のはずだ。先ほど「立派な社会人になられて……」と社交辞令の混じった挨拶を交わした。
何より息子なら、何故会場に入らず、こんな庭の隅で隠れるように立っているのか。
その疑問は、少年の胸元につけられた名札で即座に解消した。
少年の名字は『三澤』ではなかった。
「……中に入ったらどうだい。風邪引くよ」
「ぼくは入っちゃだめなんだって。病院でもそうだった」
少年は濡れた顔と瞳を葬儀場へ向ける。
「家でお父さんが倒れて、救急車でお母さんと一緒に病院までついていったけど。……あのひとたちが来て、病室から出てけって追い出された」
遠くを見るような目つきだった。
「お父さんはぼくのお父さんなのに。仕事で留守にしてばっかだけど、家にいる時はキャッチボールしたり一緒にゲームしたのに。分数の計算のやり方だって教えてくれた。テストで百点とったら『さすが俺の息子だ』って頭撫でてくれたのに」
雨の音でかき消されそうなのに、少年の言葉は私にしっかりと届いた。届いてしまった。
「ぼくは、お父さんの家族じゃないから、だめなんだって」
「……」
私に何が言えただろう。
そんな会話の後、少年の母親らしき女性が迎えにきた。三澤夫人と同年代の、特に美人でもない普通の女だった。
残された私は、小雨になった雨の中、莫迦みたいにぼうっと突っ立っていた。
外しかけの指輪。送りかけのメール。
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