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第3話 物恥
特別授業
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希望者のみの、特別授業があった。授業名は『日常の言葉づかいについて』。説明には『友達の会話に少しでも不安のある人は、是非来てください』とあった。新しい学校に馴染めない生徒を、一人でも減らすべく企画されたらしい。
ツキは、先日の事件に負い目を感じ、恐る恐る授業に申し込んだ。
引戸を開けた田中先生は、黄色いシャツにグレーのスラックスを着ていた。睨まれただけで裂傷が出来そうなほど鋭い目と、頑強な巨体、愛嬌あるツルッパゲ。そんな彼が、下を向いて周囲を気にしながら教室に入ってきた。
教室にいきなり笑い声が響く。
「……と、言うわけで。まず、この授業が終わったら、背筋を伸ばして前を向いて歩くように。では、授業をはじめるぞ」
田中先生が背筋を正したとたん、声の迫力が段違いに高まった。あまりのギャップに、教室が一瞬で静まった。
「まずは、『すみません』について。実は使い方が、三種類あることを知っているか? 知ってるやつは手を上げて」
誰も手をあげなかった。あまりにも初歩的すぎて、使い分けを意識したことすらなかった。
「一つは声かけ。『すみません、ちょっといいですか』。二つ目は謝罪。『ぶつかってすいません』。三つ目は感謝。『すみません、こんなにしてもらっちゃって』。この三種類だな。で、実は使い分けにちょっとしたコツがある。じゃあ、えーっ。原田、前に来い」
「えっ、俺? もう名前覚えられてるんですか!?」
驚きのあまりずれてしまったメガネをかけなおつつ、原田が席を立った。
田中先生は、胸ポケットからボールペンを取り出すと――
「俺がペンを落として――」
手を離した。
「――お前が拾ったとする。あ、もし俺がキモかったら演技だけしてくれたらいいからな」
渡辺は、吹き出しながら、田中先生のペンを拾い、差し出した。
「じゃあ原田、このとき、『すみません、拾ってもらっちゃって』と、申し訳なさそうに言われるのと『拾ってくれてありがとう』と笑顔で言われるの、どっちがいい?」
田中先生は話の流れに合わせ、身を縮めて卑屈になったかと思えば、背筋を伸ばし満面の笑みを浮かべた。
「ぷ……。すみませんだと、なんて言うか、親切心が、逆に相手の負担になってないか心配になっちゃいますね。気を使わせちゃってこっちが申し訳ない気分になります。正直、もやもやです」
「率直な意見をありがとう! 戻っていいぞ」
黒板に『感謝のすみませんは、ありがとうに置き換えよう』と書いてから、田中先生は言った。
現実世界では小説とは違い、とっさの対応を求められる。脳内に語彙はあっても、選び取る時間はない。その結果、使い古された言葉である「すみません」を連呼してしまう。
現実世界でも、小説を書くときのように、じっくり文章を考える余裕があればいいのに。こう、自分の体感時間だけ遅くなるような、マジックアイテムでもないのだろうか。
「感謝のすみませんは、『手間をとらせて申し訳ない』というニュアンスも含まれている。しかし人は、謝ってほしくないときに謝られると、いい気分はしない」
田中先生は、生徒が座る机と机の間を歩く。そして、目が合った生徒に片っ端から『すいません』と『ありがとうございます』を言って回った。先生が生徒に敬語を使うのは、ひどく滑稽で、クラスのあちこちから笑い声が響いた。
「道を譲られたときも、『すみません』と、よそよそしく通るか。それとも『ありがとうございます』と、笑顔で通るのか。どっちが気持ちがいいか、一目瞭然だろう? だから、ありがとうで代用できるときは代用したほうがいい」
再び黒板の前に戻ると、田中先生は、真面目な声で言った。
「『すみません』を連呼してるおまえらよりは、『ありがとう』を連呼してるおまえらのほうが、傍から明るく見えるだろう。少なくとも、俺はそっちの方が明るく見える」
田中先生は、寝ている生徒に、黒板の字を復唱させてから、次の話へ移った。
「次に『ありがとう』について。『ありがとう』は、人間関係における、潤滑油みたいなものだ。俺の友達の看護師がな、『看護師としての最低限の義務を果たした後、さらに何かしてあげたくなるか否かは、患者さんのありがとう次第』と、言っていた。白衣の天使ですらそう感じるんだ。同級生に対して、言わない手はないだろう」
うんうん、とツキはうなずいた。
「と、俺が言うと今度は、何でもかんでも『ありがとう』って言い始めるよな。でも、果たしてそれでいいのか? 例えば――ツキ!」
「はい!?」
どぎまぎしながらツキは、黒板の前へ。一分程度、これからやるワークの説明がなされた。
「よし、じゃあツキ、始めてくれ」
ツキは、田中先生の打ち合わせ通り、台詞を言った。
「その教科書、持ちましょうか?」
「ありがとうございます!」
田中先生の声は、あまりにもカタッ苦しく、笑みを押さえられなかった。
「ツキ、この返しはどう思った?」
「いや、別に、普通だと思いましたが」
「じゃあもし君に、この後急ぎの用事があったとしたら、どう思う」
ツキはしばらく考えた。普通に考えたら、『教科書を持ってくれてありがとう』の意味になる……いや、違う。
「これ、『教科書、持ちましょうか?』と声をかけてくれたことに対しての『ありがとう』ですよね。だから、これだと、教科書を持った方がいいのか、持たない方がいいのか、わからない。『で、結局持ってほしいの? ほしくないの? どっちなの』って聞き返したくなりますね」
田中先生は、両手で大きな○を作った。
「そうだ。提案の返事に『ありがとう』では、意味が通じづらい。『ありがとう、気持ちはうれしいけど自分で持つよ』、『ありがとう、持ってほしい』。どっちにもつながるからだ。では、なんて返せば、相手にとってわかりやすい?」
「えっと、『お願いします』?」
「そう。『お願いします』でいいんだ。実際に持てくれたら、そのとき改めて『教科書を持ってくれて、ありがとう。助かるよ』って言えばいい。
この後も、日常会話についての授業が続いた。
「――っていうわけで、突然別の話をされたら誰だってびっくりするだろう。だから、話題転換するときは、何らかのクッション言葉を入れた方がいい。理想は、直前の話題に合わせて『○○と言えば』と自然な流れで会話をつなげること。それ以外にも『そういえば』、『話は変わるけど』、『○○についてのことなんだけど』という風にいろいろ手はある。親しい友達に、無理のない範囲で、試してくれ」
あっという間の一時間だった。
喜田先生はシャツの袖で、汗を拭うと、言った。
「コミュニケーションにおいてもっとも必要なのは、相手への思いやり。『自分の言葉に対して、相手がどのような印象を持つか』と考えられる優しさだ。小手先の技術だけ覚えても、思いやりがなければ通じない。これだけは、覚えて帰ってくれ」
授業終わり、生徒たちのほとんどは笑っていたが、ツキは笑えなかった。
自覚があったからだった。普段使いしている言葉の意味や、使用のタイミングを真剣に考えたことはなかった。黒狐さまとギクシャクしてしまうのも、当然かもしれない。
「前途多難だなぁ」
ツキはぼやきながら、帰宅の準備を進めた。
ツキは、先日の事件に負い目を感じ、恐る恐る授業に申し込んだ。
引戸を開けた田中先生は、黄色いシャツにグレーのスラックスを着ていた。睨まれただけで裂傷が出来そうなほど鋭い目と、頑強な巨体、愛嬌あるツルッパゲ。そんな彼が、下を向いて周囲を気にしながら教室に入ってきた。
教室にいきなり笑い声が響く。
「……と、言うわけで。まず、この授業が終わったら、背筋を伸ばして前を向いて歩くように。では、授業をはじめるぞ」
田中先生が背筋を正したとたん、声の迫力が段違いに高まった。あまりのギャップに、教室が一瞬で静まった。
「まずは、『すみません』について。実は使い方が、三種類あることを知っているか? 知ってるやつは手を上げて」
誰も手をあげなかった。あまりにも初歩的すぎて、使い分けを意識したことすらなかった。
「一つは声かけ。『すみません、ちょっといいですか』。二つ目は謝罪。『ぶつかってすいません』。三つ目は感謝。『すみません、こんなにしてもらっちゃって』。この三種類だな。で、実は使い分けにちょっとしたコツがある。じゃあ、えーっ。原田、前に来い」
「えっ、俺? もう名前覚えられてるんですか!?」
驚きのあまりずれてしまったメガネをかけなおつつ、原田が席を立った。
田中先生は、胸ポケットからボールペンを取り出すと――
「俺がペンを落として――」
手を離した。
「――お前が拾ったとする。あ、もし俺がキモかったら演技だけしてくれたらいいからな」
渡辺は、吹き出しながら、田中先生のペンを拾い、差し出した。
「じゃあ原田、このとき、『すみません、拾ってもらっちゃって』と、申し訳なさそうに言われるのと『拾ってくれてありがとう』と笑顔で言われるの、どっちがいい?」
田中先生は話の流れに合わせ、身を縮めて卑屈になったかと思えば、背筋を伸ばし満面の笑みを浮かべた。
「ぷ……。すみませんだと、なんて言うか、親切心が、逆に相手の負担になってないか心配になっちゃいますね。気を使わせちゃってこっちが申し訳ない気分になります。正直、もやもやです」
「率直な意見をありがとう! 戻っていいぞ」
黒板に『感謝のすみませんは、ありがとうに置き換えよう』と書いてから、田中先生は言った。
現実世界では小説とは違い、とっさの対応を求められる。脳内に語彙はあっても、選び取る時間はない。その結果、使い古された言葉である「すみません」を連呼してしまう。
現実世界でも、小説を書くときのように、じっくり文章を考える余裕があればいいのに。こう、自分の体感時間だけ遅くなるような、マジックアイテムでもないのだろうか。
「感謝のすみませんは、『手間をとらせて申し訳ない』というニュアンスも含まれている。しかし人は、謝ってほしくないときに謝られると、いい気分はしない」
田中先生は、生徒が座る机と机の間を歩く。そして、目が合った生徒に片っ端から『すいません』と『ありがとうございます』を言って回った。先生が生徒に敬語を使うのは、ひどく滑稽で、クラスのあちこちから笑い声が響いた。
「道を譲られたときも、『すみません』と、よそよそしく通るか。それとも『ありがとうございます』と、笑顔で通るのか。どっちが気持ちがいいか、一目瞭然だろう? だから、ありがとうで代用できるときは代用したほうがいい」
再び黒板の前に戻ると、田中先生は、真面目な声で言った。
「『すみません』を連呼してるおまえらよりは、『ありがとう』を連呼してるおまえらのほうが、傍から明るく見えるだろう。少なくとも、俺はそっちの方が明るく見える」
田中先生は、寝ている生徒に、黒板の字を復唱させてから、次の話へ移った。
「次に『ありがとう』について。『ありがとう』は、人間関係における、潤滑油みたいなものだ。俺の友達の看護師がな、『看護師としての最低限の義務を果たした後、さらに何かしてあげたくなるか否かは、患者さんのありがとう次第』と、言っていた。白衣の天使ですらそう感じるんだ。同級生に対して、言わない手はないだろう」
うんうん、とツキはうなずいた。
「と、俺が言うと今度は、何でもかんでも『ありがとう』って言い始めるよな。でも、果たしてそれでいいのか? 例えば――ツキ!」
「はい!?」
どぎまぎしながらツキは、黒板の前へ。一分程度、これからやるワークの説明がなされた。
「よし、じゃあツキ、始めてくれ」
ツキは、田中先生の打ち合わせ通り、台詞を言った。
「その教科書、持ちましょうか?」
「ありがとうございます!」
田中先生の声は、あまりにもカタッ苦しく、笑みを押さえられなかった。
「ツキ、この返しはどう思った?」
「いや、別に、普通だと思いましたが」
「じゃあもし君に、この後急ぎの用事があったとしたら、どう思う」
ツキはしばらく考えた。普通に考えたら、『教科書を持ってくれてありがとう』の意味になる……いや、違う。
「これ、『教科書、持ちましょうか?』と声をかけてくれたことに対しての『ありがとう』ですよね。だから、これだと、教科書を持った方がいいのか、持たない方がいいのか、わからない。『で、結局持ってほしいの? ほしくないの? どっちなの』って聞き返したくなりますね」
田中先生は、両手で大きな○を作った。
「そうだ。提案の返事に『ありがとう』では、意味が通じづらい。『ありがとう、気持ちはうれしいけど自分で持つよ』、『ありがとう、持ってほしい』。どっちにもつながるからだ。では、なんて返せば、相手にとってわかりやすい?」
「えっと、『お願いします』?」
「そう。『お願いします』でいいんだ。実際に持てくれたら、そのとき改めて『教科書を持ってくれて、ありがとう。助かるよ』って言えばいい。
この後も、日常会話についての授業が続いた。
「――っていうわけで、突然別の話をされたら誰だってびっくりするだろう。だから、話題転換するときは、何らかのクッション言葉を入れた方がいい。理想は、直前の話題に合わせて『○○と言えば』と自然な流れで会話をつなげること。それ以外にも『そういえば』、『話は変わるけど』、『○○についてのことなんだけど』という風にいろいろ手はある。親しい友達に、無理のない範囲で、試してくれ」
あっという間の一時間だった。
喜田先生はシャツの袖で、汗を拭うと、言った。
「コミュニケーションにおいてもっとも必要なのは、相手への思いやり。『自分の言葉に対して、相手がどのような印象を持つか』と考えられる優しさだ。小手先の技術だけ覚えても、思いやりがなければ通じない。これだけは、覚えて帰ってくれ」
授業終わり、生徒たちのほとんどは笑っていたが、ツキは笑えなかった。
自覚があったからだった。普段使いしている言葉の意味や、使用のタイミングを真剣に考えたことはなかった。黒狐さまとギクシャクしてしまうのも、当然かもしれない。
「前途多難だなぁ」
ツキはぼやきながら、帰宅の準備を進めた。
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