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3.出会い-後編-
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今朝からうちのオフィスは橘さんの話題で持ち切りだ。
彼のファーストバディの座に輝くのは誰なのか、とか歓迎会の企画をどうするか、とか。
言いたい放題盛り上がっている。
オタク気質の彼らは1度火がつくと止まらなくなるようで、俺はそんな様子を横目に見ながら淡々と作業を進めていた。
「……あー、疲れた」
結局、橘さんと一度も会話を交わさないまま定時を告げるチャイムが鳴る。
そんな俺は今、上司から押し付けられた荷物を抱えて資料室を目指していた。
今日こそは定時で帰れると思っていたのに。
オフィスから出る際、たまたま上司と鉢合わせてしまったのが運の尽き。
俺は小さく溜息をつきつつダンボールを抱え直した。
ようやく目的地に辿り着き扉を開けて室内へと足を踏み入れる。
資料室とは名ばかりの物置部屋には紙特有の匂いと埃っぽさが充満していた。
俺はダンボールを片手で抱えながら、もう片方の手で照明のスイッチを探した。
カチ、という音と共に室内が一気に明るくなる。
「よいしょっと……」
俺は適当なテーブルに一旦ダンボールを下ろすと、改めて室内を見渡した。
ずらりと並んだ資料棚は、ファイルや古い文献が所狭しと詰め込まれている。
そして、床には隙間を埋めるように大小様々なダンボールが雑然と積み上げられていた。
今からこの荷物を然るべき場所に片付けなくてはならないと考えると気が滅入る。
そう思った瞬間、視界の隅でなにかが動いた気がした。
「……ん?」
積み上げられたダンボールの陰から白い何かがゆらゆらと上下している。
俺は不審に思いながらその物体に近付き、ダンボールの山の向こう側を覗き込んだ。
「……え、」
そこにはダンボールに寄りかかりながら口元を手で押さえて座り込んでいる男の姿があった。
ふわふわの白髪に、眠たげなたれ目。
海松色のジャケットを羽織ったその男は、今朝から黒柴で話題の的となっている人物……橘さんだった。
どうしてこんなところに? そう疑問に思ったのも束の間。
口元を押さえている指の隙間から赤い液体が伝い落ちるのが見えた。
そして血液と一緒にポタポタとなにやら白いものが橘さんの胸元や床へ落下する。
よくよく彼の周囲を観察してみれば、指のような形をした白い物体があたりに散らばっていることに気づいた。
白く蠢くその物体には象牙色の頭部、眼状紋と呼ばれる黒い模様が目のようについている。
それが蟲吐き病の発作によって吐き出された虫であることを理解するまでそう時間はかからなかった。
「蚕の、幼虫……」
ぽつり、と無意識に言葉が零れる。
橘さんはそんな俺の声に反応してゆっくり顔をあげると、弱々しく微笑んで見せた。
「あはは、見つかっちゃった。えーっと君は……」
「技術開発部の佐竹です」
「佐竹君か!お疲れ様~」
まるでこの光景が日常の一部であると錯覚してしまいそうなほどのんびりとした口調に面食らったが、床に散らばった蚕の幼虫を踏まないように注意しながら橘さんの元まで駆け寄りそっと片膝をついた。
「これ……蟲吐き病の症状、ですよね?」
「ごめんね~見苦しいもの見せて。感染るもんじゃないから安心してよ」
「それは知ってますけど……どうしてこんな所に居るんですか」
「あー……さっきそこの廊下歩いてたら急に発作が起きちゃってさ」
つまり人目を避ける為に資料室に身を潜めていたというわけか。
橘さんが笑った拍子にまた1匹、幼虫が口から零れ落ちた。
幼虫と共に流れ出た血液が顎を伝い、白いシャツにポタポタと染みを作っていく。
知識としては知っていたが、こうして実際に発作の現場に立ち会うのは初めてだった。
怪異性疾患蟲吐き病。
それは、文字通り体内で生成された虫が口から排出される不治の病。
発作が起きる度に肉体だけでなく精神的苦痛を伴う病だ。
橘さんは今その発作が起きている真っ最中なのであろうが……顔色こそ悪いものの、随分と落ち着いている様子だ。
「医療棟に連絡します。少し待っていてください」
ポケットからスマホを取り出しながらそう告げると、橘さんの手が伸びてきて俺の手首を緩く掴んだ。
ひんやりとした指先が皮膚に触れる。
「大丈夫だよ」
「でも……」
「いつもより少し発作が重たいだけだから。もうちょっと休めば落ち着くと思う」
大丈夫、と言われても。
橘さんの言葉をそのまま信じていいものなのか。
病気の知識が乏しい俺には判断がつかなかった。
「病院に行ったって……薬で一時的に症状を和らげてもらうくらいの事しか出来ないし」
ゆっくりとひとつひとつ言葉を紡ぎ出す橘さんの表情はこの惨状とは正反対に酷く穏やかで、その口調にはどこか諦観のようなものが滲んでいる。
そんな気がした。
脂汗の滲んだ青白い肌、血色のない唇。
その全てが彼の病の深刻さを物語っているようで、俺はなんて声をかければいいのか分からなくなる。
今朝調子が良さそうに見えたのは、強がりだったのだろうか。
「……それに、こんなみっともない姿」
その時、橘さんが不自然に言葉を切った。
そして、まるでなにかを堪えるようにぎゅっと自身の胸元のシャツを掴む。
「橘さん?」
「っ、は……はぁ、げほっ」
俺が声をかけたのとほぼ同時、橘さんは苦しそうに咳込み始めてしまった。
口元を手で押さえているものの、先ほどとは比べ物にならない量の幼虫がボタボタと口からこぼれ落ちていく。
鮮血が絡んだ白い虫たちが橘さんのシャツを瞬く間に赤く染め上げていった。
俺は慌てて彼の隣に移動し、背中をさすりながら声をかける。
「橘さん、やっぱり医療棟に行きましょう」
俺が再びスマホを取り出そうとすると、それを制止するかのように橘さんの手が俺の手を掴んだ。
そして、「だーいじょうぶ」と笑ってゆるりと首を横に振る。
「……その代わり、少しだけ肩……借してくれる?」
息も絶え絶えといった様子の橘さんが縋るような瞳で俺を見上げてくる。
きっと、彼は俺が何を言っても医療棟に行くつもりはないのだろう。
そう悟った俺は、小さく溜息をつきつつ首を縦に振った。
「そんな事でいいなら」
俺がそう答えると橘さんは安堵したように小さく息を吐き俺の肩にこてんと頭を預けてきた。
身体から力を抜いて完全に俺に体重を預けている状態だ。
橘さんがもたれかかってきた拍子に俺のシャツに彼の血液が付着する。
「……佐竹君っていい匂いするね」
「……はあ。そうですか」
急に何を言い出すのかと困惑する俺を余所に、橘さんは「うん」と肯定しながら小さく笑った。
「今朝……オフィスに入った時……すごくいい香りの子が居るなぁって、思って。……君だったんだね」
「別に香水とかつけてないんですけどね」
「そういう人工的な香りじゃなくて……もっとこう……」
橘さんはそう呟きながら、俺の肩口に顔を埋めて深く息を吸い込む。
そういえば、橘さんは嗅覚型の犬憑きだと自己紹介の時話していたっけ。
正直、こんな至近距離で体臭を嗅がれるなんて居心地が悪い事この上ないのだが、病人相手に強く拒絶する事もできず俺は黙って橘さんのしたいようにさせることにした。
それから10分ほどそうして肩を寄せ合って居ただろうか。
しだいに橘さんの呼吸が落ち着いてくるのを感じ、俺はほっと胸を撫で下ろした。
「橘さん」
「んー」
「……落ち着きました?」
「うーん。もうちょっと」
すんすんと俺の首筋の匂いを嗅ぎながら、橘さんは間延びした声音でそう答える。
明らかに元気を取り戻している様子の彼を見て、俺は思わず苦笑した。
「もうだいぶ顔色が良さそうに見えますけど」
「あはは、バレた?佐竹君の匂いが落ち着くから、つい」
ようやく体を離す気になったのか、橘さんはゆっくりと俺の肩から頭を起こすと、血のついた口元を袖で拭いながらバツの悪そうな表情で笑った。
「シャツ、汚しちゃってごめんね。ちゃんと弁償するから」
「いえ。これくらい気にしないでください。体調が良くなったのならなによりです」
「ふふ。佐竹君って変わってるね。蟲吐き病の発作なんて見たらほとんどの人は悲鳴あげて逃げるのに」
「……そう、ですか?」
確かに、虫という生き物が生理的に受け付けられない人間は一定数存在する。
そんな人達からしたら蟲吐き病の発作なんて恐怖の対象でしかないのだろうけれど。
幸い、俺はそういった嫌悪感を抱く事はなかった。
「多分、黒柴の研究員はみんな俺と似たような感じだと思いますよ。人間よりも動物や怪異を好む変わり者が多いと言いますか……だから、橘さんの発作––虫を見たところで怯えたりする人はほとんどいないんじゃないかと」
橘さんは俺の言葉を受けてびっくりしている様子だった。
そして、どこか嬉しそうに目を細めると「そっか」と小さく呟く。
世渡り上手に見える橘さんも内心では新しい環境に不安を感じていたのかもしれない。
床や橘さんの膝に散乱する蠢く幼虫たちを眺めながら、俺はぼんやりとそんなことを考えていた。
それから俺たちは床に散らばった蚕の幼虫や血液を綺麗に片付け、橘さんと共に資料室を後にした。
「お疲れ様~。色々ごめんね、仕事の途中だったのに」
「別に当然の事をしたまでですよ」
「そうだ、今度なにかお礼させてよ。ご飯とか、どう?」
「見返りを求めてした事ではないので結構です。それでは、失礼します」
我ながら素っ気ない態度だなとは思ったが、これが俺の性分なのだから仕方がない。
そんな俺の背中を橘さんは何か言いたげにじっと見つめていたけれど、俺はそれに気づかないフリをして足早にその場を立ち去った。
けれどこれが橘さんとの長い長い付き合いの始まりになるなんて、この時の俺はまだ知る由もなかったんだ。
彼のファーストバディの座に輝くのは誰なのか、とか歓迎会の企画をどうするか、とか。
言いたい放題盛り上がっている。
オタク気質の彼らは1度火がつくと止まらなくなるようで、俺はそんな様子を横目に見ながら淡々と作業を進めていた。
「……あー、疲れた」
結局、橘さんと一度も会話を交わさないまま定時を告げるチャイムが鳴る。
そんな俺は今、上司から押し付けられた荷物を抱えて資料室を目指していた。
今日こそは定時で帰れると思っていたのに。
オフィスから出る際、たまたま上司と鉢合わせてしまったのが運の尽き。
俺は小さく溜息をつきつつダンボールを抱え直した。
ようやく目的地に辿り着き扉を開けて室内へと足を踏み入れる。
資料室とは名ばかりの物置部屋には紙特有の匂いと埃っぽさが充満していた。
俺はダンボールを片手で抱えながら、もう片方の手で照明のスイッチを探した。
カチ、という音と共に室内が一気に明るくなる。
「よいしょっと……」
俺は適当なテーブルに一旦ダンボールを下ろすと、改めて室内を見渡した。
ずらりと並んだ資料棚は、ファイルや古い文献が所狭しと詰め込まれている。
そして、床には隙間を埋めるように大小様々なダンボールが雑然と積み上げられていた。
今からこの荷物を然るべき場所に片付けなくてはならないと考えると気が滅入る。
そう思った瞬間、視界の隅でなにかが動いた気がした。
「……ん?」
積み上げられたダンボールの陰から白い何かがゆらゆらと上下している。
俺は不審に思いながらその物体に近付き、ダンボールの山の向こう側を覗き込んだ。
「……え、」
そこにはダンボールに寄りかかりながら口元を手で押さえて座り込んでいる男の姿があった。
ふわふわの白髪に、眠たげなたれ目。
海松色のジャケットを羽織ったその男は、今朝から黒柴で話題の的となっている人物……橘さんだった。
どうしてこんなところに? そう疑問に思ったのも束の間。
口元を押さえている指の隙間から赤い液体が伝い落ちるのが見えた。
そして血液と一緒にポタポタとなにやら白いものが橘さんの胸元や床へ落下する。
よくよく彼の周囲を観察してみれば、指のような形をした白い物体があたりに散らばっていることに気づいた。
白く蠢くその物体には象牙色の頭部、眼状紋と呼ばれる黒い模様が目のようについている。
それが蟲吐き病の発作によって吐き出された虫であることを理解するまでそう時間はかからなかった。
「蚕の、幼虫……」
ぽつり、と無意識に言葉が零れる。
橘さんはそんな俺の声に反応してゆっくり顔をあげると、弱々しく微笑んで見せた。
「あはは、見つかっちゃった。えーっと君は……」
「技術開発部の佐竹です」
「佐竹君か!お疲れ様~」
まるでこの光景が日常の一部であると錯覚してしまいそうなほどのんびりとした口調に面食らったが、床に散らばった蚕の幼虫を踏まないように注意しながら橘さんの元まで駆け寄りそっと片膝をついた。
「これ……蟲吐き病の症状、ですよね?」
「ごめんね~見苦しいもの見せて。感染るもんじゃないから安心してよ」
「それは知ってますけど……どうしてこんな所に居るんですか」
「あー……さっきそこの廊下歩いてたら急に発作が起きちゃってさ」
つまり人目を避ける為に資料室に身を潜めていたというわけか。
橘さんが笑った拍子にまた1匹、幼虫が口から零れ落ちた。
幼虫と共に流れ出た血液が顎を伝い、白いシャツにポタポタと染みを作っていく。
知識としては知っていたが、こうして実際に発作の現場に立ち会うのは初めてだった。
怪異性疾患蟲吐き病。
それは、文字通り体内で生成された虫が口から排出される不治の病。
発作が起きる度に肉体だけでなく精神的苦痛を伴う病だ。
橘さんは今その発作が起きている真っ最中なのであろうが……顔色こそ悪いものの、随分と落ち着いている様子だ。
「医療棟に連絡します。少し待っていてください」
ポケットからスマホを取り出しながらそう告げると、橘さんの手が伸びてきて俺の手首を緩く掴んだ。
ひんやりとした指先が皮膚に触れる。
「大丈夫だよ」
「でも……」
「いつもより少し発作が重たいだけだから。もうちょっと休めば落ち着くと思う」
大丈夫、と言われても。
橘さんの言葉をそのまま信じていいものなのか。
病気の知識が乏しい俺には判断がつかなかった。
「病院に行ったって……薬で一時的に症状を和らげてもらうくらいの事しか出来ないし」
ゆっくりとひとつひとつ言葉を紡ぎ出す橘さんの表情はこの惨状とは正反対に酷く穏やかで、その口調にはどこか諦観のようなものが滲んでいる。
そんな気がした。
脂汗の滲んだ青白い肌、血色のない唇。
その全てが彼の病の深刻さを物語っているようで、俺はなんて声をかければいいのか分からなくなる。
今朝調子が良さそうに見えたのは、強がりだったのだろうか。
「……それに、こんなみっともない姿」
その時、橘さんが不自然に言葉を切った。
そして、まるでなにかを堪えるようにぎゅっと自身の胸元のシャツを掴む。
「橘さん?」
「っ、は……はぁ、げほっ」
俺が声をかけたのとほぼ同時、橘さんは苦しそうに咳込み始めてしまった。
口元を手で押さえているものの、先ほどとは比べ物にならない量の幼虫がボタボタと口からこぼれ落ちていく。
鮮血が絡んだ白い虫たちが橘さんのシャツを瞬く間に赤く染め上げていった。
俺は慌てて彼の隣に移動し、背中をさすりながら声をかける。
「橘さん、やっぱり医療棟に行きましょう」
俺が再びスマホを取り出そうとすると、それを制止するかのように橘さんの手が俺の手を掴んだ。
そして、「だーいじょうぶ」と笑ってゆるりと首を横に振る。
「……その代わり、少しだけ肩……借してくれる?」
息も絶え絶えといった様子の橘さんが縋るような瞳で俺を見上げてくる。
きっと、彼は俺が何を言っても医療棟に行くつもりはないのだろう。
そう悟った俺は、小さく溜息をつきつつ首を縦に振った。
「そんな事でいいなら」
俺がそう答えると橘さんは安堵したように小さく息を吐き俺の肩にこてんと頭を預けてきた。
身体から力を抜いて完全に俺に体重を預けている状態だ。
橘さんがもたれかかってきた拍子に俺のシャツに彼の血液が付着する。
「……佐竹君っていい匂いするね」
「……はあ。そうですか」
急に何を言い出すのかと困惑する俺を余所に、橘さんは「うん」と肯定しながら小さく笑った。
「今朝……オフィスに入った時……すごくいい香りの子が居るなぁって、思って。……君だったんだね」
「別に香水とかつけてないんですけどね」
「そういう人工的な香りじゃなくて……もっとこう……」
橘さんはそう呟きながら、俺の肩口に顔を埋めて深く息を吸い込む。
そういえば、橘さんは嗅覚型の犬憑きだと自己紹介の時話していたっけ。
正直、こんな至近距離で体臭を嗅がれるなんて居心地が悪い事この上ないのだが、病人相手に強く拒絶する事もできず俺は黙って橘さんのしたいようにさせることにした。
それから10分ほどそうして肩を寄せ合って居ただろうか。
しだいに橘さんの呼吸が落ち着いてくるのを感じ、俺はほっと胸を撫で下ろした。
「橘さん」
「んー」
「……落ち着きました?」
「うーん。もうちょっと」
すんすんと俺の首筋の匂いを嗅ぎながら、橘さんは間延びした声音でそう答える。
明らかに元気を取り戻している様子の彼を見て、俺は思わず苦笑した。
「もうだいぶ顔色が良さそうに見えますけど」
「あはは、バレた?佐竹君の匂いが落ち着くから、つい」
ようやく体を離す気になったのか、橘さんはゆっくりと俺の肩から頭を起こすと、血のついた口元を袖で拭いながらバツの悪そうな表情で笑った。
「シャツ、汚しちゃってごめんね。ちゃんと弁償するから」
「いえ。これくらい気にしないでください。体調が良くなったのならなによりです」
「ふふ。佐竹君って変わってるね。蟲吐き病の発作なんて見たらほとんどの人は悲鳴あげて逃げるのに」
「……そう、ですか?」
確かに、虫という生き物が生理的に受け付けられない人間は一定数存在する。
そんな人達からしたら蟲吐き病の発作なんて恐怖の対象でしかないのだろうけれど。
幸い、俺はそういった嫌悪感を抱く事はなかった。
「多分、黒柴の研究員はみんな俺と似たような感じだと思いますよ。人間よりも動物や怪異を好む変わり者が多いと言いますか……だから、橘さんの発作––虫を見たところで怯えたりする人はほとんどいないんじゃないかと」
橘さんは俺の言葉を受けてびっくりしている様子だった。
そして、どこか嬉しそうに目を細めると「そっか」と小さく呟く。
世渡り上手に見える橘さんも内心では新しい環境に不安を感じていたのかもしれない。
床や橘さんの膝に散乱する蠢く幼虫たちを眺めながら、俺はぼんやりとそんなことを考えていた。
それから俺たちは床に散らばった蚕の幼虫や血液を綺麗に片付け、橘さんと共に資料室を後にした。
「お疲れ様~。色々ごめんね、仕事の途中だったのに」
「別に当然の事をしたまでですよ」
「そうだ、今度なにかお礼させてよ。ご飯とか、どう?」
「見返りを求めてした事ではないので結構です。それでは、失礼します」
我ながら素っ気ない態度だなとは思ったが、これが俺の性分なのだから仕方がない。
そんな俺の背中を橘さんは何か言いたげにじっと見つめていたけれど、俺はそれに気づかないフリをして足早にその場を立ち去った。
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