4 / 5
4.怪異性疾患蟲吐き病(橘視点)
しおりを挟む
『怪異性疾患』
それは、文字通り怪異により引き起こされる病の総称。
一般的な傷病と大きく異なる点は、その症状が医学的・科学的に説明が困難である点である。
身体の末端から徐々に透明化していく病。
肉体が若返り続け、胎児まで退行する病。少しずつ身体が浮遊し、最終的には空へ溶ける病。
……等々、現実離れしたそれらの症状は、怪異の呪いと呼ぶに相応しいものだった。
『怪異性疾患蟲吐き病』
俺が患っているこの病は、文字通り体内で生成された虫が口から吐き出されるという奇病。
主な症状は体力の低下、慢性的な倦怠感と吐き気、頭痛。
それ以上に厄介なのは“自分の肉体から虫が出てくる”という生理的な嫌悪感……そして視覚的なストレスだ。
吐き出される虫は患者によって様々だが、基本的にはゴキブリやムカデといった不快害虫に分類されるものばかり。
俺の場合はなぜか世界でも症例の少ない、蚕という蛾の一種だったけれど。
蟲吐き病の治療方法は未だに確立されておらず、対症療法で症状を抑えるしかない。
子供の頃発病し、このままいけば成人を迎える前に命を落とすと医者から告げられたが……俺の身体はいまだにその運命に抗い続け、先日29歳の誕生日を迎えた。
しかし、この肉体を蝕む呪いは確実に進行している。
発病当時と比べて明らかに虫が成長しているのがその証拠だ。
蟲吐き病は余命が可視化される疾患とも言われている。
俺の吐く蚕の幼虫が蛹になり、羽化した時。
それが俺の迎える最期の日だ。
「おはようございます!」
春の陽気が差し込む、うららかな朝。
毎年この時期は、緊張した面持ちの新入職員達が初々しくもどこか浮かれた様子で柴の敷地内を歩いているのを見かける。
高い志を持って入庁し、これから新しい環境で自分の力を発揮しようと意気込む者。
安定した公務員という職を求めて入庁する者。
理由は様々だろうが、彼らは皆一様に目を輝かせていた。
世間一般では憧れの職業の1つに挙げられる柴。
だが、実際に働き始めると仕事がハードなのはもちろんのこと、厳しい規則や人間関係……なにより怪異という超常的な存在と日常的に対峙するという精神的ストレスから数カ月も経たないうちに退職する者も多い。
そんな中で、日本人口の30%程度しか存在しないと言われている犬憑きの人材確保は非常に重要な課題であり、柴はここ数年で犬憑きのメンタルケアや待遇に特に力を注ぐようになってきている。
「ふわぁ~」
大きなあくびを抑えながらエントランスに足を踏み入れると、予想通り新入職員らしき若者達が各部署の案内板や館内マップを見ながら右往左往していた。
部署ごとに異なる色分けがされたジャケットを羽織った彼らは、同じ色のジャケットを着用している先輩職員の姿を見つけるなりまるで吸い寄せられるようにその背中へと歩み寄っていく。
柴本部の敷地は広大だ。
各部署のオフィスや研究室等の専用施設だけでなく、食堂にジム、カフェテリアや託児所、さらには職員であれば宿泊が可能な部屋まで完備されている。
そして部署ごとに3つの棟に分かれており、中央に位置する本館とは連絡通路で繋がっている。
俺は新人たちを横目に自分の所属している黒柴棟を目指して歩みを進めた。
入口に設置されたセキュリティゲートは、社員証も兼ねたICカードをかざす事で通ることができる。
出退勤や外出の記録も同時管理されるので、このゲートを通る事で各人の行動履歴が記録される仕組みになっている。
カードが読み取られるピッという電子音がするのを確認し、俺はゲートを通過した。
いつものようにエレベーターホールへ足を向けようとした瞬間、新入職員の波が歓声を上げてこちらに押し寄せて来るのが目に入った。
海松色のジャケットを羽織っていることから、その集団が犬憑きの集まりである事を瞬時に察する。
「王子!おはようございます~!」
「私、王子に憧れて柴に入ったんです!応援してます!」
「一緒に写真撮ってもらってもいいですか?」
「俺、王子と同じ黒柴志望で……」
蟲吐き王子などという不名誉な通り名を授かってしまって早数年……最近では、こうして大量の後輩犬憑きたちに取り囲まれることが増えていた。
だが、この通り名のお陰で蟲吐き病の知名度が上がった事は正直有難い事だと思う。
毎度毎度病気の説明をするのは骨が折れるし、なにより突然発作が起きた際に居合わせた人達を驚かせてしまうのが心苦しいのだ。
そして好意を向けられる事自体は非常に喜ばしい事なのだが、体調が常時不安定な俺には時にその好意が大きな負担となる事もある。
そして、今日がまさにその厄介な日だった。
今朝から吐き気が止まらない上に全身が鉛のように重い。
それでも俺はニコニコと笑顔を絶やさず、自分を取り囲んだ後輩たちからの問いかけ一つ一つに丁寧に答えていく。
絶対に不調に気付かれないよう、慎重に。
実のところ、嗅覚型犬憑きである俺は人混みが苦手だ。
生き物が密集すれば、それだけ匂いも濃くなる。
汗、皮脂、唾液、化粧品、制汗剤、洗濯洗剤、化学繊維……。
常人には気にならない程度の匂いでも、等級の高い犬憑きにとってはその一つ一つが酷い悪臭に感じられてしまう。
持病と犬憑き体質のダブルパンチ。
一刻も早くお気に入りの香りに包まれたい。
例えばそう。
いつも暇さえあれば開発室に籠り、機械を弄っているあの無愛想な彼の香りとか。
そんな思考に侵食された瞬間、背後から突然優しい力で肩を抱かれた。
「……あ」
新米犬憑きたちの視線が一斉に俺の背後に集まる。
振り返らなくても、そこに立っているのが誰かなんてすぐに分かった。
「橘さん、おはようございます」
落ち着いた声と俺の大好きな匂い。
振り返り、彼の顔を見た瞬間思わず笑みが零れてしまう。
「佐竹君、おはよ」
見慣れた仏頂面。
スーツの上には黒柴職員である事を現す黒いジャケットを羽織っている。
一見すると、本当にどこにでもいそうなごく普通の成人男性だ。
人混みにいたら見失う自信があるくらい、特徴らしい特徴もない。
焦げ茶色の髪は短く整えてあっていつもきちんとしてるくせに、前髪はほんの少し長くてよく目元に落ちかかっている。
その影に隠れるようにして覗く涼しげな目は感情の温度が読み取りにくくて。
目つきが悪いわけではないけれど、愛想というものを最初から持ち合わせていないような顔立ちをしていた。
そんな佐竹君は俺の笑顔を見て眩しそうに目を細めると、新人犬憑きたちに一言断りを入れてから再び俺に向き直った。
「お取り込み中のところすみません。昨日提出した報告書の件で確認しておきたい事があったんですが……今お時間よろしいですか?」
「え?ああ、うん。大丈夫だけど……」
ついそう返してしまったが、昨日報告書なんて提出した覚えはない。
なにか別の案件と勘違いしてるんだろうか。
それでも俺になにか用事がある事は確かなようだし、ここから解放される口実にもなるなら断る理由もない。
「ごめんね、そういう事だからみんなまた今度ね~」
俺はひらりと手を振りながらいつもの貼り付けた笑みを浮かべて後輩たちに別れを告げる。
名残惜しそうに会釈する新人犬憑きたちの視線を感じつつ、俺は佐竹君に先導されるまま廊下を進んで行った。
そしてエレベーターに乗り込み佐竹君と2人きりになった途端、緊張の糸が切れたせいかどっと倦怠感が押し寄せてくる。
俺はエレベーターの壁にもたれ掛かりながら、小さく息を吐いた。
……まずい、ギリギリかも。
「橘さん、やっぱり無理してたんですね」
目的の階のボタンを押し、エレベーターの扉が閉まったのを確認してから佐竹君が俺の身体を支えてくれた。
どうやら最初から彼にはばれていたらしい。
という事は先ほどの報告書の件は、俺をあの場から連れ出すための口実だったのか。
「俺ってそんな分かりやすい?」
「付き合いが長いから気づけただけです」
そう言って、彼は慣れた手つきで俺の頭を抱き抱えるように自身のジャケットの中に収めてくれた。
佐竹君の香りに包まれた瞬間、自然と吐き気も目眩も引いていくから不思議だ。
俺は彼の背中に腕を回し、甘えるように額を胸板へ押し付けた。
そんな不恰好な体勢がなんだかシュールで、ジャケットの中でつい笑みが溢れる。
「佐竹君、さっきは助けてくれてありがとね」
「ああいうの、迷惑ならハッキリ言ってしまっても構わないと思いますよ。もし言いづらいようなら俺が対応しましょうか」
「あはは、ありがと。でも、みんなから慕ってもらえる事はほんとに……すごく嬉しいんだ。ただ、身体が追いつかないのがもどかしいっていうか」
「そうですか」と佐竹君の大きな手が俺の背中を優しく撫でる。
無愛想なせいで冷たい印象を持たれがちな彼だが、俺はむしろこの事務的とも言えるほど淡々とした態度が佐竹君の魅力だと思っている。
佐竹君は俺が虫を吐き散らかしたって顔色一つ変えない。
そんな彼に今までどれほど救われた事か。
「橘さん、そろそろ着くので離れますよ」
そんな俺の思考を遮るように、佐竹君の穏やかな声が頭上から降ってきた。
いつの間にかエレベーターの階数表示は目的の階まであと2つというところまで迫っている。
俺は名残惜しさを感じながらも、彼の腕の中からそっと抜け出した。
ほんの数十秒佐竹君の香りに包まれただけで、あれだけ酷かった吐き気が完全に収まっている。
彼の体臭は俺の犬憑き体質と非常に相性が良いらしい。
現代医療でも治す事のできないこの身体を、彼はいとも簡単に癒してしまうのだ。
「はー、生き返った!」
「良かったですね。歩けそうですか?」
「うん、もう平気。ありがとう」
「どういたしまして」
相変わらず表情筋が仕事を放棄しているけれど、その声色はどこか嬉しそうだった。
程無くしてエレベーターの扉が開く。
「さてと、今日もお仕事頑張りますか~」
エレベーターの中から出るなり、俺は大きく伸びをした。
持病による体力の低下で前線から退くことになった時は、もう俺の居場所なんてどこにも無いものだと思っていたけれど。
技術開発部での新しい生活は存外悪いものではなかった。
体育会系が集まる赤柴とは正反対の雰囲気を持つ黒柴は、いわゆるオタク気質な人間が多く在籍している。
研究に没頭するあまり日常生活が疎かになる者。
仕事と趣味の境界があやふやな者。
推しの為に身を粉にして働く者。
……だからこそ俺みたいな病人にも寛容なところがあるんだろう、きっと。
「今日も一日よろしくね、佐竹君」
「ええ、こちらこそ」
どんな世界でも、生きやすい場所があるのならそれでいい。
それは、文字通り怪異により引き起こされる病の総称。
一般的な傷病と大きく異なる点は、その症状が医学的・科学的に説明が困難である点である。
身体の末端から徐々に透明化していく病。
肉体が若返り続け、胎児まで退行する病。少しずつ身体が浮遊し、最終的には空へ溶ける病。
……等々、現実離れしたそれらの症状は、怪異の呪いと呼ぶに相応しいものだった。
『怪異性疾患蟲吐き病』
俺が患っているこの病は、文字通り体内で生成された虫が口から吐き出されるという奇病。
主な症状は体力の低下、慢性的な倦怠感と吐き気、頭痛。
それ以上に厄介なのは“自分の肉体から虫が出てくる”という生理的な嫌悪感……そして視覚的なストレスだ。
吐き出される虫は患者によって様々だが、基本的にはゴキブリやムカデといった不快害虫に分類されるものばかり。
俺の場合はなぜか世界でも症例の少ない、蚕という蛾の一種だったけれど。
蟲吐き病の治療方法は未だに確立されておらず、対症療法で症状を抑えるしかない。
子供の頃発病し、このままいけば成人を迎える前に命を落とすと医者から告げられたが……俺の身体はいまだにその運命に抗い続け、先日29歳の誕生日を迎えた。
しかし、この肉体を蝕む呪いは確実に進行している。
発病当時と比べて明らかに虫が成長しているのがその証拠だ。
蟲吐き病は余命が可視化される疾患とも言われている。
俺の吐く蚕の幼虫が蛹になり、羽化した時。
それが俺の迎える最期の日だ。
「おはようございます!」
春の陽気が差し込む、うららかな朝。
毎年この時期は、緊張した面持ちの新入職員達が初々しくもどこか浮かれた様子で柴の敷地内を歩いているのを見かける。
高い志を持って入庁し、これから新しい環境で自分の力を発揮しようと意気込む者。
安定した公務員という職を求めて入庁する者。
理由は様々だろうが、彼らは皆一様に目を輝かせていた。
世間一般では憧れの職業の1つに挙げられる柴。
だが、実際に働き始めると仕事がハードなのはもちろんのこと、厳しい規則や人間関係……なにより怪異という超常的な存在と日常的に対峙するという精神的ストレスから数カ月も経たないうちに退職する者も多い。
そんな中で、日本人口の30%程度しか存在しないと言われている犬憑きの人材確保は非常に重要な課題であり、柴はここ数年で犬憑きのメンタルケアや待遇に特に力を注ぐようになってきている。
「ふわぁ~」
大きなあくびを抑えながらエントランスに足を踏み入れると、予想通り新入職員らしき若者達が各部署の案内板や館内マップを見ながら右往左往していた。
部署ごとに異なる色分けがされたジャケットを羽織った彼らは、同じ色のジャケットを着用している先輩職員の姿を見つけるなりまるで吸い寄せられるようにその背中へと歩み寄っていく。
柴本部の敷地は広大だ。
各部署のオフィスや研究室等の専用施設だけでなく、食堂にジム、カフェテリアや託児所、さらには職員であれば宿泊が可能な部屋まで完備されている。
そして部署ごとに3つの棟に分かれており、中央に位置する本館とは連絡通路で繋がっている。
俺は新人たちを横目に自分の所属している黒柴棟を目指して歩みを進めた。
入口に設置されたセキュリティゲートは、社員証も兼ねたICカードをかざす事で通ることができる。
出退勤や外出の記録も同時管理されるので、このゲートを通る事で各人の行動履歴が記録される仕組みになっている。
カードが読み取られるピッという電子音がするのを確認し、俺はゲートを通過した。
いつものようにエレベーターホールへ足を向けようとした瞬間、新入職員の波が歓声を上げてこちらに押し寄せて来るのが目に入った。
海松色のジャケットを羽織っていることから、その集団が犬憑きの集まりである事を瞬時に察する。
「王子!おはようございます~!」
「私、王子に憧れて柴に入ったんです!応援してます!」
「一緒に写真撮ってもらってもいいですか?」
「俺、王子と同じ黒柴志望で……」
蟲吐き王子などという不名誉な通り名を授かってしまって早数年……最近では、こうして大量の後輩犬憑きたちに取り囲まれることが増えていた。
だが、この通り名のお陰で蟲吐き病の知名度が上がった事は正直有難い事だと思う。
毎度毎度病気の説明をするのは骨が折れるし、なにより突然発作が起きた際に居合わせた人達を驚かせてしまうのが心苦しいのだ。
そして好意を向けられる事自体は非常に喜ばしい事なのだが、体調が常時不安定な俺には時にその好意が大きな負担となる事もある。
そして、今日がまさにその厄介な日だった。
今朝から吐き気が止まらない上に全身が鉛のように重い。
それでも俺はニコニコと笑顔を絶やさず、自分を取り囲んだ後輩たちからの問いかけ一つ一つに丁寧に答えていく。
絶対に不調に気付かれないよう、慎重に。
実のところ、嗅覚型犬憑きである俺は人混みが苦手だ。
生き物が密集すれば、それだけ匂いも濃くなる。
汗、皮脂、唾液、化粧品、制汗剤、洗濯洗剤、化学繊維……。
常人には気にならない程度の匂いでも、等級の高い犬憑きにとってはその一つ一つが酷い悪臭に感じられてしまう。
持病と犬憑き体質のダブルパンチ。
一刻も早くお気に入りの香りに包まれたい。
例えばそう。
いつも暇さえあれば開発室に籠り、機械を弄っているあの無愛想な彼の香りとか。
そんな思考に侵食された瞬間、背後から突然優しい力で肩を抱かれた。
「……あ」
新米犬憑きたちの視線が一斉に俺の背後に集まる。
振り返らなくても、そこに立っているのが誰かなんてすぐに分かった。
「橘さん、おはようございます」
落ち着いた声と俺の大好きな匂い。
振り返り、彼の顔を見た瞬間思わず笑みが零れてしまう。
「佐竹君、おはよ」
見慣れた仏頂面。
スーツの上には黒柴職員である事を現す黒いジャケットを羽織っている。
一見すると、本当にどこにでもいそうなごく普通の成人男性だ。
人混みにいたら見失う自信があるくらい、特徴らしい特徴もない。
焦げ茶色の髪は短く整えてあっていつもきちんとしてるくせに、前髪はほんの少し長くてよく目元に落ちかかっている。
その影に隠れるようにして覗く涼しげな目は感情の温度が読み取りにくくて。
目つきが悪いわけではないけれど、愛想というものを最初から持ち合わせていないような顔立ちをしていた。
そんな佐竹君は俺の笑顔を見て眩しそうに目を細めると、新人犬憑きたちに一言断りを入れてから再び俺に向き直った。
「お取り込み中のところすみません。昨日提出した報告書の件で確認しておきたい事があったんですが……今お時間よろしいですか?」
「え?ああ、うん。大丈夫だけど……」
ついそう返してしまったが、昨日報告書なんて提出した覚えはない。
なにか別の案件と勘違いしてるんだろうか。
それでも俺になにか用事がある事は確かなようだし、ここから解放される口実にもなるなら断る理由もない。
「ごめんね、そういう事だからみんなまた今度ね~」
俺はひらりと手を振りながらいつもの貼り付けた笑みを浮かべて後輩たちに別れを告げる。
名残惜しそうに会釈する新人犬憑きたちの視線を感じつつ、俺は佐竹君に先導されるまま廊下を進んで行った。
そしてエレベーターに乗り込み佐竹君と2人きりになった途端、緊張の糸が切れたせいかどっと倦怠感が押し寄せてくる。
俺はエレベーターの壁にもたれ掛かりながら、小さく息を吐いた。
……まずい、ギリギリかも。
「橘さん、やっぱり無理してたんですね」
目的の階のボタンを押し、エレベーターの扉が閉まったのを確認してから佐竹君が俺の身体を支えてくれた。
どうやら最初から彼にはばれていたらしい。
という事は先ほどの報告書の件は、俺をあの場から連れ出すための口実だったのか。
「俺ってそんな分かりやすい?」
「付き合いが長いから気づけただけです」
そう言って、彼は慣れた手つきで俺の頭を抱き抱えるように自身のジャケットの中に収めてくれた。
佐竹君の香りに包まれた瞬間、自然と吐き気も目眩も引いていくから不思議だ。
俺は彼の背中に腕を回し、甘えるように額を胸板へ押し付けた。
そんな不恰好な体勢がなんだかシュールで、ジャケットの中でつい笑みが溢れる。
「佐竹君、さっきは助けてくれてありがとね」
「ああいうの、迷惑ならハッキリ言ってしまっても構わないと思いますよ。もし言いづらいようなら俺が対応しましょうか」
「あはは、ありがと。でも、みんなから慕ってもらえる事はほんとに……すごく嬉しいんだ。ただ、身体が追いつかないのがもどかしいっていうか」
「そうですか」と佐竹君の大きな手が俺の背中を優しく撫でる。
無愛想なせいで冷たい印象を持たれがちな彼だが、俺はむしろこの事務的とも言えるほど淡々とした態度が佐竹君の魅力だと思っている。
佐竹君は俺が虫を吐き散らかしたって顔色一つ変えない。
そんな彼に今までどれほど救われた事か。
「橘さん、そろそろ着くので離れますよ」
そんな俺の思考を遮るように、佐竹君の穏やかな声が頭上から降ってきた。
いつの間にかエレベーターの階数表示は目的の階まであと2つというところまで迫っている。
俺は名残惜しさを感じながらも、彼の腕の中からそっと抜け出した。
ほんの数十秒佐竹君の香りに包まれただけで、あれだけ酷かった吐き気が完全に収まっている。
彼の体臭は俺の犬憑き体質と非常に相性が良いらしい。
現代医療でも治す事のできないこの身体を、彼はいとも簡単に癒してしまうのだ。
「はー、生き返った!」
「良かったですね。歩けそうですか?」
「うん、もう平気。ありがとう」
「どういたしまして」
相変わらず表情筋が仕事を放棄しているけれど、その声色はどこか嬉しそうだった。
程無くしてエレベーターの扉が開く。
「さてと、今日もお仕事頑張りますか~」
エレベーターの中から出るなり、俺は大きく伸びをした。
持病による体力の低下で前線から退くことになった時は、もう俺の居場所なんてどこにも無いものだと思っていたけれど。
技術開発部での新しい生活は存外悪いものではなかった。
体育会系が集まる赤柴とは正反対の雰囲気を持つ黒柴は、いわゆるオタク気質な人間が多く在籍している。
研究に没頭するあまり日常生活が疎かになる者。
仕事と趣味の境界があやふやな者。
推しの為に身を粉にして働く者。
……だからこそ俺みたいな病人にも寛容なところがあるんだろう、きっと。
「今日も一日よろしくね、佐竹君」
「ええ、こちらこそ」
どんな世界でも、生きやすい場所があるのならそれでいい。
10
あなたにおすすめの小説
記憶喪失のふりをしたら後輩が恋人を名乗り出た
キトー
BL
【BLです】
「俺と秋さんは恋人同士です!」「そうなの!?」
無気力でめんどくさがり屋な大学生、露田秋は交通事故に遭い一時的に記憶喪失になったがすぐに記憶を取り戻す。
そんな最中、大学の後輩である天杉夏から見舞いに来ると連絡があり、秋はほんの悪戯心で夏に記憶喪失のふりを続けたら、突然夏が手を握り「俺と秋さんは恋人同士です」と言ってきた。
もちろんそんな事実は無く、何の冗談だと啞然としている間にあれよあれよと話が進められてしまう。
記憶喪失が嘘だと明かすタイミングを逃してしまった秋は、流れ流され夏と同棲まで始めてしまうが案外夏との恋人生活は居心地が良い。
一方では、夏も秋を騙している罪悪感を抱えて悩むものの、一度手に入れた大切な人を手放す気はなくてあの手この手で秋を甘やかす。
あまり深く考えずにまぁ良いかと騙され続ける受けと、騙している事に罪悪感を持ちながらも必死に受けを繋ぎ止めようとする攻めのコメディ寄りの話です。
【主人公にだけ甘い後輩✕無気力な流され大学生】
反応いただけるととても喜びます!誤字報告もありがたいです。
ノベルアップ+、小説家になろうにも掲載中。
流れる星、どうかお願い
ハル
BL
羽水 結弦(うすい ゆずる)
オメガで高校中退の彼は国内の財閥の一つ、羽水本家の次男、羽水要と番になって約8年
高層マンションに住み、気兼ねなくスーパーで買い物をして好きな料理を食べられる。同じ性の人からすれば恵まれた生活をしている彼
そんな彼が夜、空を眺めて流れ星に祈る願いはただ一つ
”要が幸せになりますように”
オメガバースの世界を舞台にしたアルファ×オメガ
王道な関係の二人が織りなすラブストーリーをお楽しみに!
一応、更新していきますが、修正が入ることは多いので
ちょっと読みづらくなったら申し訳ないですが
お付き合いください!
あなたと過ごせた日々は幸せでした
蒸しケーキ
BL
結婚から五年後、幸せな日々を過ごしていたシューン・トアは、突然義父に「息子と別れてやってくれ」と冷酷に告げられる。そんな言葉にシューンは、何一つ言い返せず、飲み込むしかなかった。そして、夫であるアインス・キールに離婚を切り出すが、アインスがそう簡単にシューンを手離す訳もなく......。
【完結】義兄に十年片想いしているけれど、もう諦めます
夏ノ宮萄玄
BL
オレには、親の再婚によってできた義兄がいる。彼に対しオレが長年抱き続けてきた想いとは。
――どうしてオレは、この不毛な恋心を捨て去ることができないのだろう。
懊悩する義弟の桧理(かいり)に訪れた終わり。
義兄×義弟。美形で穏やかな社会人義兄と、つい先日まで高校生だった少しマイナス思考の義弟の話。短編小説です。
とある冒険者達の話
灯倉日鈴(合歓鈴)
BL
平凡な魔法使いのハーシュと、美形天才剣士のサンフォードは幼馴染。
ある日、ハーシュは冒険者パーティから追放されることになって……。
ほのぼの執着な短いお話です。
君に望むは僕の弔辞
爺誤
BL
僕は生まれつき身体が弱かった。父の期待に応えられなかった僕は屋敷のなかで打ち捨てられて、早く死んでしまいたいばかりだった。姉の成人で賑わう屋敷のなか、鍵のかけられた部屋で悲しみに押しつぶされかけた僕は、迷い込んだ客人に外に出してもらった。そこで自分の可能性を知り、希望を抱いた……。
全9話
匂わせBL(エ◻︎なし)。死ネタ注意
表紙はあいえだ様!!
小説家になろうにも投稿
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる