不機嫌な子猫

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75話

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 またいつもの日常へと一応は戻ったはずのある日、ウィルフレッドはやらかしてしまった。
 久しぶりにキープからの展望を楽しもうと目論み、またレッドがいつの間にかやって来るだろうと思いつつも「そういえばエメリーが持ち帰ったあの赤い石は調べて何か分かったのだっけか」などと考え事をしていたせいだろうか。塔の階段で間抜けかと自分に突っ込みたくなるほど華麗に足を踏み損ね、見事なほどに滑り落ちてしまった。フェルはその場にいたが、あいにく咄嗟のことである上に首輪をした小さな姿のせいで下敷きとなって守ることも魔力でどうにかすることも出来ず、ウィルフレッドは痛みに顔をしかめた後意識を手放した。



 ふと目を覚ますとたくさんの顔が自分を覗き込んでいる。
 何事だろうかとびくりと体を震わせ、横たわったまま唖然とその光景を見上げていた。

「目を覚ました! ウィルが目を覚ましたよー」
「よかった……ウィル、本当によかった……」
「すぐに主治医に連絡してくるからね、ウィル。本当によかったよ」

 目を見張るほど美しい顔を、目を、そして髪をした人たち三人がそんなことを言っている。

「……あの……失礼ですが……あなた方は」

 おずおずと口にした途端、その三名はギシリと音が聞こえてきそうなほど不自然な様子で体を固まらせてきた。



「──俺は、ウィルフレッド、ですか」

 その後主治医らしい人が連れてこられ、いくつか体を調べられた後に言われたのが「おそらく落ちた衝撃でウィルフレッド様は逆行性健忘症になられたのだと」だった。
 逆行性健忘症というのは発症する以前のことが思い出せなくなる障害だ。一般的に失われる期間は数日から数か月、下手をすると何年にも渡ったり最悪自分が誰であるかも忘れてしまうのだと主治医は言った。

「待って、じゃあウィルはその最悪のパターンじゃ」
「ラルフ、お医者様のお話は最後まで大人しく聞いてなさい」
「でも姉さま」
「ラルフ。ちょっと黙っててくれ」
「……分かったよ兄さま」

 ちなみにあまりに美形な三人がどうやら自分の兄姉らしいと分かるとウィルフレッドはかなり驚いたが、自分確認のために鏡で我がの顔を見た時は更に驚いた。三人とは目と髪の色しか似ていない。

「この症状は一時的なものが大半です」
「そうなんだ。よかったあ……」
「しかしまれに一生治らないこともあります」
「ねぇ、何で分けたの? 何で言うの分けたの? 俺の気持ちを揺さぶるため?」
「ラルフ、ほんと黙りなさい」
「はぁ……。ではウィルフレッドは、全く何も覚えていないということになるのか?」
「ルイ様、一応一般的には古い記憶ほど覚えていることが多いと言われております。古い記憶は長らく脳に蓄積されておりますから、どうやら思い出しやすいのでは、と」
「なるほど……。ねえ、ウィル」

 主治医に話を聞いていた、ルイと呼ばれた青年がウィルフレッドを切なげな顔で見てくる。

「は、はい……」
「……何か、少しでも覚えていることはあるかい?」
「覚え……?」

 ウィルフレッドは困惑しながらも何か思い出そうとした。だが頭の中はまるでモヤがかかったかのようだ。そして考えるとズキズキと痛む。ウィルフレッドが思わず頭を抱えると、ルイは慌てて「無理に考えなくていいんだよ」と言ってきた。

「し、かし……それではご迷惑、を」
「何を言ってるんだウィル。俺たちの可愛い弟。迷惑な訳がないだろうっ? ただ心配なんだよ。とても心配で心配で胸が潰れそうだ。でも無理はしなくていいんだ、本当に」
「……すみま、せん」

 ふとその時、部屋に引きこもってぼんやりとして小さな手を見ている自分が浮かんだ。だがそれと同時に松明が沢山灯された中魑魅魍魎といった生き物にかしずかれている自分も浮かぶ。

「は?」
「ウィル?」
「あ、いえ……なんでもありません」

 一体なんだったのかと思いつつも小さく首を振っていると、今までずっと頭を下げていたらしく存在すら気づかなかったもう一人がようやく頭を上げてきたようだ。

「俺がいながら本当に申し訳ありません……!」

 だがそう言うとまた頭を酷く下げた。

「頭を上げるんだ。お前が悪いんじゃないと何度も言っているだろう。むしろすぐに見つけてくれて感謝している、と」
「そうよ。それにあの時はあなたそばにいなかったじゃない。ずっとそばにいるなんてそもそも不可能なんだから何一つあなたに不手際なんてありません」
「そうだよ。俺なんてむしろイーサンから逃げてるくらいだよ。それ思うとよくウィルにあれだけついていられるなっていつも感心するくらいだよ」
「いえ、それでも俺は……」

 何だろうか、とウィルフレッドは怪訝な顔で頭を下げている青年を眺めた。綺麗な顔立ちではあるがとても鋭い目をしている。だが今にも自害するのではないかというほどに申し訳なさそうにしている。

「あの、どうかしたんですか……」
「王子……本当に、本当に申し訳ありません。何とも不甲斐ない……あなたに怪我をさせるどころかこんな酷い目に……」
「……よく分かりませんが、その、この人たち──」
「ウィル。記憶がないのは分かっているけど、でも俺たちが兄弟であることを受け入れて欲しい」
「す、すみません。えっと、ル、ルイたち?」

 兄弟ならば呼び捨てでいいのだろうかと口にすると、ルイが何故か目を押えながら体を震わせている。失敗してしまったかと思っているとラルフと呼ばれていた青年が「俺も! ねえウィル! 俺もラルフって呼んで」などと詰め寄ってきた。

「ラ、ラルフ」
「ラルフ。本当にいい加減になさい。それに話が進みません。でもウィル、私のこともアレクシア、もしくはアレクと呼んでいいのよ」
「アレク……」
「うふふ」
「……あ、えっと、とりあえずその、ルイとラルフとアレクが言っていることを鑑みるに、あなたに非はないとしか」
「王子……しかし」
「ところであなたは誰ですか?」

 何とか微笑みながら聞くと、目の前の青年は何故か今まで以上に落ち込んだ様子を見せてきた。
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