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四節 高校に行けることになりました。

016 制服が、ぶかぶかだった。

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「……入った!」

 歓声を上げたのは、幸紀だった。広海よりも早く、両脚を揃えて飛び上がった。垂直飛びで満点が取れそうなほどの高さだった。

 グイッと、幸紀のてのひらが出された。それに応えて、広海もハイタッチする。

「一ポイント、取ったよ!」

 コートに入れれば無条件で一点を取れると思い込んでいる。実戦では相手がいるのを、すっかり忘れているようだ。

「私も、私も!」

 後に続くのは自分だと、意気揚々で幸紀が打球体勢に入った。広海と同じように、スイングする。

 ……うーん……。

 全く飛ばなければネタになり、入ればまた喜びをさらに増幅させたことだろう。何にもならないネットの手前に、ボールが吸い込まれて行った。

「……やっぱり、難しかったか……」

 練習時間十五分では、やはり甘かった。幸紀ならいけるかもしれないと淡い期待を抱いていたが、壁は高かった。

 さて、ボールを向こう側へ飛ばしたのなら、次にしなければならないことは球拾いだ。立つ鳥跡を濁さずだ。

「……できないことだらけだけど、何だかとっても楽しい。毎日来ようかな」
「別の部活が使うから、毎日は無理だろ」
「……アルバイトもあるしね」

 そうであった。今日のところは大丈夫だが、明日は早速早退することになる。丁度活動日と重なってしまっているため、幸紀にとっては実質月曜日だけしかテニスに来ることが出来ない。

 ……部活で汗を流してる幸紀、とっても生き生きしてるよな……。

 ホームレス生活では、自己表現どころか意見を発信する気力も無かった。隠れ蓑生活では、移動の自由が無かった。

 高校も、不自由なところは多い。休み時間のグラウンドはバイクが走っており、とても遊べるような状態ではない。個人間の会話でも、トップ層に反抗するようなことを語ればどこかへ連れていかれる。

 対して部活は、重い枷となるものが無い。他の部では部長に絶対服従らしいのだが、ソフトテニスは人数が少なすぎてそれが居ない。実質的なトップは先輩だが、ああいったラフで他人を見下さない人なのでパシリをさせられるということもない。

「……広海ー、お腹すいてきたー……」

 元気よく球拾いをしていた幸紀の体の切れが落ちてきた。はしゃぎすぎてエネルギーを使い果たしたようだ。

 初めての高校は知らないことだらけだったらしく、規模の大きくなった理科室を覗いてははしゃぎだし、数学の教科書を一目見ただけで気絶しそうになっていた。

『広海、これなに……? ルートの中に、ルート……?』

 当然授業は今までの過程をすべて履修している前提で進んでいるので、幸紀にはチンプンカンプンだろう。

(……授業が分からないなら、ノートはどうしてるんだろう)

 そう好奇心をもって数学の授業の終了後、幸紀がどこかへ行っている間に彼女のノートをちらりと盗み見てみたのだ。

 幸紀のノートには、彼女の考えがギッシリとつまっていた。記号の一つ一つに考察文とクエスチョンマークがついており、参考書の解説本のようになっていたのだ。

 そして広海が最も驚いたのは、教科書の問題を解いているページである。

『この式がこうなるから、こういうこと?』
『基本の式がこれで、ここがこうなるから……』

 その問題は応用問題だった。基本式だけでは答えを導き出すことは出来ず、二学期に習った知識を活用するものだ。

 幸紀は、持ち前の考察力と冴える頭をフル回転させ、見事答えに辿り着いていたのである。

 ……天才じゃないのか?

 生まれつき持っている能力が飛びぬけていると『天才』だと揶揄されるが、幸紀もその仲間に入るのではないだろうか。特殊な能力があるようには見えないが、彼女は『努力の天才』なのではないだろうか。

 ともかく、もう幸紀は素早く動くことが出来ないようである。

「……しまったな、昼食なんて持ってきてないぞ……」

 授業が午前中のみで終わることしか覚えておらず、部活用の弁当を用意するのがすっかり抜け落ちていた。

 高校には、食堂が営業している。周辺の定食屋よりもはるかに安い金額で大盛の料理を打っているので、食べ盛りの高校生がよく集まるのだ。

 しかし、今日は食堂も閉まっている。お金も、帰りの切符代一人分しか持ち合わせていない。

「……帰ろう」

 まだまだ部活にいそしみたい幸紀には申し訳ないが、帰宅するしかなかった。

 広海たちが使っていたコートだけ整備をして、学校を出た。グラウンドで殺人サッカーをしているサッカー部からは極力離れたので、幸紀と一緒に居ることには突っ込まれなかった。

 校外に出たところで、幸紀を呼び止めた。

「……今日一日過ごしてみて分かったと思うけど、絡まれたらただじゃすまない奴らがいる。だから、極力接しないように……」

 本来、生徒が学校の権力を牛耳っていることがあってはならない。そのはずなのだが、現実には教師も逆らえないほどの一党独裁が成立してしまっているのである。

 いじめられて教師に被害を訴えても、内部で密かに握りつぶされる。対象生徒が自殺して初めて、その全貌が明らかになる。ここは、そういう高校なのだ。

「……うん……」

 既に今朝はっきりと女子グループからの勧誘を断っていたことが脳裏をよぎったのか、幸紀の表情が曇る。

「……今年の四月までの辛抱だから」

 実は、今季一杯でこの学校は革新されることが決まっている。教師陣総入れ替えで、百戦錬磨である人ばかりと交代するのだ。そうなれば、癒着が全て消滅する。

 進路も碌に決まらず卒業する三年生は、いたちの最後っ屁とばかりに権力濫用をさらに加速させている。恩恵を受けていた一、二年の一部も、今の内に搾り取ろうとしている。

 内部告発で訴えられたときのリスクを度外視しているような気はするが、彼らは自分さえよければ『あとは野となれ山となれ』なのだろう。

「……委員長決めとか、代表決めとかも、なるべく参加しないようにしてほしいんだ」

 前に立つことが好きそうな幸紀には非情だろうが、道を間違えると本気で詰みかねない。親がバックに控えていることを言いふらしている輩もいる。どうなるかを想像するだけで吐き気がする。

「……思ってたのと何か違う気はするけど……。私は、広海といられるだけで満足だよ?」

 あまり汗をかかなかったので半袖のままでいる幸紀は、広海を心配させまいとしている。

 ……もっと自由にしたかったんだろうけど。

 広海に、高校の風習までを根こそぎ引っこ抜くだけの力はない。

「……広海」

 何かを欲しがって、視線を逸らしながらも招き猫をしていた。

 ……言葉にすればいいのに。

 奢る以外ならば、何でもあげるというのに。知られたら恥ずかしい事なのだろうか。

「……寒い」
「そりゃ、そうだろうな」

 テニスを終わってからしばらく経過している。心臓の拍動が減少したことによって、体温が下がってきたに違いない。

 寒くなることを予想していたなら、長袖の体操服を持っていけばいいだけの話だ。幸紀の分はきちんと用意されていたので、『無かった』という言い訳はできない。

 ……何も考えて無かったんだろうなぁ……。

 『動けば温かくなる』と、脳筋の考え方でバッグに半袖と短パンしか詰め込んでいない幸紀の姿が、容易に浮かんでくる。

「……だから、広海の……貸して欲しいな」

 あいにく、体操服の予備は持ってきていない。防寒着を羽織っているのだが、これを幸紀に与えると自分が風邪を引いてしまう。いくら幸紀のためといえど、自身が不健康になってしまっては意味が無い。

 ……どこにあったかな……。

 ナップサックを手探りで、お目当てのものを引っ張り出した。

「制服の上でも、着てくれ」

 簡単に幸紀が着ることの出来る上着が、これしかなかった。サイズ的にぶかぶかだが、足が引っかかるまで丈は長くないので安全性には問題ないだろう。

「うん……」

 ぎこちない手つきで、長袖に腕を通していく。

 手の先端が何とか顔を見せるほどまで、幸紀の体は小さかった。大人のジャンパーを興味本位で着てみた子供のようだった。

 いけしゃあしゃあと、幸紀が袖口を鼻に近づけた。ぴくぴくと、鼻が動いている。

「……広海だ……」

 身の丈に似合わない格好になっている幸紀は、広海へともたれかかった。顔には安堵した表情があった。

「……広海の、においだよ……」

 ……堂々と言うなぁ……。

 幸せそうにそう言われると、広海まで恥ずかしくなってきてしまう。

 幸紀は、広海のそばにいた。極寒の街中から彼女を拾った時も、説得に成功し嬉々として語る時も、彼女は常に広海にくっついていたのだ。

 広海が幸紀のにおいを嗅ぐと落ち着いて安心できたように、彼女も同じようなことになっているのではないだろうか。

「……へへへ……」

 もう、顔に出ている文字を隠す気すらないようだ。

 ……幸紀……。

 彼女の顔に、罠をはって狩人のように待ち構える職人気質は微塵も残っていなかった。

 そこには、ただ広海への愛情がにじみ出しているばかりであった。
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