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第39話『ありがとうは?』

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■ ありがとうは?

 地球一家6人がホストハウスへの道を歩いていると、前方でスーツ姿の中年男性がしゃがみこんでいた。道に紙幣を落としてしまい、探しているという。地球一家は、一緒に探してあげることにした。しばらくみんなで探したが、見つからない。男性が立ち上がった。
「仕方がない、諦めます。風で飛ばされたのかもしれません」
 男性は、地球一家に背を向けて去っていった。『ありがとう』と言われなかったのだ。この国には『ありがとう』がないのだろうか? 父が言う。
「もし我々がお金を見つけていれば、お礼の言葉があったかもしれないよ。でも、結果として見つけられなかったのだから、手伝わなかったのと同じなのかもしれない」
 それはひどい! しかし、それが普通だという国もあるということか?

「あ、あった!」
 リコが突然走り出し、落ちていた紙幣を拾った。足の速いミサがリコから紙幣を受け取り、走って男性を追いかけた。そして、ちゃんと渡したのだが、やはり『ありがとう』がなく、『あー、よかった』とだけ言い残して行ってしまったのだ。これで決まりだ。お礼の言葉がない世界なのだ。なんだか寂しい気がする。

 ホストハウスに到着するとすぐに、彼らが経営している食堂に案内された。フライドフィッシュの専門店らしい。HM(ホストマザー)、娘のサロワ、息子のサガトと一緒に客席に座っていると、お盆を持ったHF(ホストファーザー)が2歳の息子チムトと一緒に席についた。チムトが舌足らずな口調で言った。
「また会いましょう」
 その時、HFが大声で作り笑いを始めた。
「ワッハッハッハ」
 HM、サロワ、サガトもそれに続いて作り笑いをした。
「間違えちゃった」
 チムトはそう言って照れ笑いした。HFはチムトに言った。
「『また会いましょう』はお別れの挨拶だよ。初めて会った時は『会えてうれしいです』とか『はじめまして』と言わなきゃいけないよ」
「さっきの笑いは何だったんですか? あんなに大声で笑っちゃ、かわいそうですよ」
 ミサがそう言うと、HFは説明を始めた。
「いいんですよ。この子は、言葉を言い間違えて、笑われて恥ずかしい思いをするたびに、言葉を覚えるんです。それから、子供はすぐに我々大人が言うことをまねしてしゃべりますから、うかつなことは言えません。子供の模範となるようにいつも気を付けています。特に挨拶はちゃんと言える子に育てたいですからね。『こんにちは』、『すみません』……、それから、『ありがとう』」
 『ありがとう』と聞いて、地球一家全員が顔を見合わせた。

 食事を済ませると、地球一家とホストファミリー全員で観光に出かけた。
 バスに乗ると、少し混んでいたが、父の目の前の席が空席だった。父が座ろうとした時、それを遮るようにサガトがその席に座ってしまった。彼は、座ったまま父に向かってほほえんだ。父が苦笑いをすると、サガトは立ち上がり、父に席を譲った。
「どうぞ、お座りください」
 父が不思議そうな顔で座ると、サガトは父に言った。
「ありがとうは?」
「え?」
「ありがとうは?」
「あ、あ、ありがとう。うん、どうもありがとう」
 サガトはほほえみながら、首からぶら下げていたペンダントのボタンを押した。

 その時、高齢の女性の乗客が大きな荷物を上の棚に乗せようとして苦労しているのを、そばにいたサロワが気付き、手伝った。荷物が無事に棚の上に乗ると、サロワは女性に言った。
「ありがとうは?」
「ありがとう」
 サロワはほほえみながら、首からぶら下げていたペンダントのボタンを押した。立っていたHFがサロワとサガトを手招きで呼び寄せた。
「見ていたよ。サロワ。君は良かった。しかし、サガト。君はルール違反だよ。座りかけていた人を押しのけて座ってから席を譲っても、『ありがとう』を言われる価値はないな。取り消しなさい」
 サガトは、頭をかきながらペンダントに手をやった。このペンダントは何だろうと思っていると、HFが説明した。
「子供たちはみんなこのペンダントを持って、お礼を言われるたびにボタンを押すんです。つまりこのペンダントは、子供たちがどれだけ良いことをしたかを記録する装置なんです」
 へえ。周りを見渡すと、ほかの子供たちもみんなペンダントを首からぶら下げている。
「学校で子供たちが、お礼を言われた回数を競い合うんです。勉強の成績よりも重視されているので、子供たちは必死です。これはとてもいいシステムだと思いませんか? 3歳になるとペンダントを渡されますので、小さいうちから人に親切にする習慣が身に付くんですよ。もっとも、親切にしているつもりでも、相手にとっては親切でない場合もありますから、あくまでボタンを押せるのは、『ありがとう』と言われた後です」
 なるほど。

 その時、HMの目の前に座っていた乗客の中年女性が、ハンカチを拾ってHMに渡した。
「落ちましたよ」
「あ、私のだわ」
「ありがとうは?」
「ありがとうございます」
 地球一家は、ますますあ然とした。子供だけでなく、大人まで?

 地球一家とホストファミリーがバスを降り、歩き始めようとした時、ミサが叫んだ。
「しまった! バスの中に帽子を置き忘れたわ。脱いで目の前の席の所に置いて、そのまま忘れちゃった……。あの帽子、お気に入りだったのに」
 その時、誰かがミサの手を引っ張った。振り向くと、チムトが帽子を差し出していた。
「はい、帽子。忘れてたよ」
「あ!」
 ミサは帽子を受け取ると、チムトを無言で見つめ、しばらく間を置いてから言った。
「ありがとう!」
 ミサは、大喜びの表情で、チムトの頭を何度もなでた。
「気付いてくれて、本当によかったわ。もう戻ってこないと諦めていたの」
 ミサはチムトの頭をさらになで、ふと横を見ると、ジュンが見ていた。
「何?」
「いや、坊やと一瞬見つめ合っていたのはどうしてかと思って」
「もしかして『ありがとうは?』って言われるかと思ったのよ。でも、言わなかったから、私が先に『ありがとう』って言ったの」
「ペンダントをもらうのは3歳だと言ってたからな。2歳児の彼は、まだ『ありがとうは?』って催促する習慣が身に付いていないんだよ」
「そうか」

 そして観光地を歩きながら、地球一家6人は人々の会話に聞き耳を立てた。
「ありがとうは?」
「ありがとう」
 このやりとりが、あちこちから聞こえる。3歳になってペンダントをもらうと、みんなこんなふうになるのか。子供のうちから『ありがとう』と言われてポイントを稼ぐことに夢中だ。ポイントを稼ごうとするあまり、『ありがとうは?』と言って催促する習慣までついている。その習慣が大人になっても続く。そして、お礼を言うほうも、『ありがとうは?』と言われるのを待つ習慣がついていて、自分からお礼を決して言わない。きっと、さっきお金を落とした人も、我々が『ありがとうは?』と言うのを待っていたのかな。

 翌日の午前、地球一家6人は出発の支度を終えてリビングに集まった。そろそろ出発しないといけないのだが、ホストファミリーの姿が見えない。
 食堂にいるかもしれないと思い、6人が向かうと、食堂から煙が出ていた。キッチンが炎に包まれている。そばで、サロワとサガトがうろたえていた。
「どうした!」とジュン。
「フライドフィッシュを僕たちで作ろうと思ったら、油に引火して……」とサガト。

 炎がさらに強くなった。サロワが水の入ったおけを持ち上げ、炎に向かって水をかけようとしたので、母が慌てて制止した。揚げ油に水をかけたら危険だ。しかし、消火器はどこにあるかわからない。
 父はリュックサックからタオルを取り出して水につけ、炎に向かって投げた。そこへ、ミサが消火器を2本抱えてきた。
「消火器を見つけたわ!」
 父とミサは消火器の栓を抜いて、夢中で火を消した。
 その時、食堂に戻ってきたホスト夫妻が、事態を見て目を丸くした。父とミサは火を消し続ける。火はやがて沈静していった。

 全員が疲れ果てた表情でキッチンの床に座り込んだ。火が消えてよかったという安どの気持ちから、全身の力が抜けたのだ。ホスト夫妻と二人の子供は、無言のまま地球一家のほうを見ている。
「ねえ、『ありがとうは?』って言ったほうがいいのかしら? みんな困って、黙っているわ」
 ミサが小声で父に尋ねると、父も小声で聞き返した。
「ミサは、お礼を言ってほしくて火を消したのかい?」
「違う」
「だったら、お礼なんか別にいらないじゃないか」
「そうね」

 その時、ホスト夫妻の陰に隠れていた2歳のチムトが顔を出した。チムトは地球一家に、ゆっくりとした口調で言った。
「ありがとう」
 地球一家は耳を疑った。チムトはひょこひょこと歩いて地球一家に近づき、父の頭をなでながら再度言った。
「ありがとう」
 地球一家から笑みがこぼれた。
 チムトは、今度はミサの所に行き、ミサの頭をなでながら言った。
「ありがとう」
 ミサは、涙ぐみながらほほえんだ。

 するとその時、HFが突然大笑いを始めた。
「ワッハッハッハ」
 チムトは我に返ったように、なでていた手を止めた。HM、サロワ、サガトの3人も一緒になって笑った。
「2歳の子供って本当に面白いなあ。突然自分から『ありがとう』と言い出したり、頭なでたり」
 HFがそう言うと、HMはうなずいた。
「ほんとね。今回は心の底から笑えたわ」
 チムトは、照れ笑いをしながらつぶやいた。
「また間違えちゃった」
 ホストファミリーの笑い声の中、ミサは渋い表情になった。父がチムトに向かって優しく言った。
「いや、間違ってないよ」
 ホスト夫妻が耳を疑う中、父が続けた。
「もしかすると、間違っているのは皆さんのほうかもしれません。なぜならば、チムト君は心からお礼を言ってくれたからです。世の中の習わしに左右されることのないチムト君がお礼を言ったということは、まさにお礼を言う場面だったということになりませんか? ね、皆さん」

 少しの静寂の後、サロワが言った。
「私も、前からそんな気がしてた」
 サガトも、握っているペンダントを見つめながら言った。
「『ありがとうは?』ってお礼を催促するのは、やっぱりおかしいと思う。僕は、お礼を言ってもらうようにお願いするんじゃなくて、自然にお礼を言ってもらえるようになりたい」

 ホストファミリーと別れた地球一家6人は、次の星に向かうために飛行機に乗り込んだ。ミサが父に言った。
「この国は、最初はあまり好きになれなかったけど、最後はやっぱり好きになれたわ。これも、最後のお父さんの言葉のおかげね」
 しかし、母は静かに首を横に振った。
「ねえ、みんな。これで本当によかったの? この星の人たちを哀れむような目で見て、挙句の果てに地球の常識を押しつけてしまったけれど、私たちの常識って本当にそこまで正しいものかしら? 郷に入っては郷に従えということわざのとおり、旅行先の文化を受け入れようという気持ちを忘れていなかったかしら?」
 母が目を閉じて胸に手を当てると、5人も同じように胸に手を当てた。
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