源氏、恋を織る

Ilysiasnorm

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第4話:名前に宿るもの

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その夢は、妙に静かだった。

白く霞んだ薄明の中、几帳の影が風に揺れ、衣擦れの音が耳元で囁いた。
誰かを待っていた。けれど、その誰かの顔だけがどうしても見えない。

紫は目覚めた瞬間、胸の奥にひどく温かいものが残っていることに気づいた。
そして同時に、訳のわからない涙が頬を伝っていた。

「……なんで、泣いてるの?」

言葉にしてみても答えは返ってこない。ただ、風のように消えていった感触だけが、心の奥で微かに震えていた。

午後。紫は経営企画部に提出する提案書の調査資料を探しに、社内の図書スペースに足を運んだ。

目的の文献を見つけてデータをスキャンしようとしたとき、不意に隣の棚で目に留まったのは、文化雑誌の特集だった。

──《特集:千年の恋を知る 源氏物語と現代》

その言葉に、手が自然と伸びた。

パラパラとページをめくると、「紫の上」の項が目に入る。

 彼女の名は、紫草のように静かで深く香る存在として与えられた。
時に添い寝し、時に君を見守り、時に心を飲み込む——
優しさの中に、かすかな哀しみを湛えた、源氏の魂に最も近い女。

文字を目で追いながら、紫はふと、自分の名前が何かを呼び覚まそうとしているような、不思議な感覚に襲われた。

(紫……私は、なぜこの名前に反応してるの?)

理屈では説明できない。それでも、どこかでこの物語を知っていた気がした。

夜。光源次は自宅のデスクに向かい、社内で紫が提出した企画案に目を通していた。

言葉はまだ荒削りだが、芯があった。書類の端に添えられた短いコメントが目に止まる。

「人は、たとえ全部わかり合えなくても、信じることで支え合えると思います」

その一文を見たとき、源次の中に何かが引っかかった。

“誰かに、同じ言葉を言われたことがある気がする”

でも、いつのことだったか思い出せない。葵でもない。六条でもない。
もっと、ずっと昔の、けれど記憶よりも確かな「感情の痕跡」。

彼は眉を寄せて、しばらく無言のままディスプレイを見つめていた。

その日、葵は偶然、エレベーターホールで紫とすれ違った。

彼女は軽く頭を下げて通り過ぎたが、その一瞬で葵は妙な違和感を覚えた。
年若く、未熟で、どこか頼りなげなはずのその存在に、なぜか“奥行き”を感じたのだ。

(……あの目、なんなの?)

見下されていたわけでも、怯えていたわけでもない。
むしろ、どこかで“知っている”とでも言うような、まなざしだった。

そしてふと、紫という名前が脳裏で点灯する。

「……紫の上?」

自嘲気味に呟いた自分に、葵は思わず舌打ちをした。

(バカバカしい。これは現実。あんな物語の話じゃない)

それでも、胸の奥でざらついた何かが、静かに広がっていた。

その夜、空は少し霞んでいて、春の夜気が柔らかく街を包んでいた。

藤木紫は、自宅のベッドで静かに目を閉じながら、今日の出来事を思い出していた。

光源次の声。あの、ふとした笑み。
どこかで会ったような気がする——そう思った自分が、少し怖かった。

一方、源次もまた、深夜のオフィスに残り、資料を閉じた後に天井を見上げていた。

(……まただ。紫を見るたびに、この“懐かしさ”はなんなんだ)

心の奥に、誰かを愛した記憶が眠っている気がする。
それが「いつ」なのか、「誰」なのか、自分でもわからない。
けれど、確かにそこにあるのだ。

知らず、彼と彼女の心には、
言葉では追いつけない熱が生まれはじめていた。

誰かに呼ばれるように。
誰かを待っていたことを、思い出すように。

記憶という名の糸が、ふたたび世界のどこかで張り始めている。
それはまだ、夢のように儚く、
けれど確かに現実の足元をすくい始めていた。
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