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第2章
イノセスの弁明
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王は激怒した。あるいは、失望した。最も可愛がっていた汚れなき天使、純粋無垢の権化、この世で唯一の宝だと思っていた末娘が、事もあろうに己を癒してくれる女に邪悪な念を抱き、悪事に手を染めてしまうだなんて、想像すらしていなかった。
ディヴォテーの言を、イノセスはもちろん否定したのだ。ところが部屋の大捜索で、巧妙に隠された宝石が発見された。それは切り抜かれた本の中に挟み込まれ、さらに本棚の奥にしまい込んであったのである。先の捜索で見つけられなかったそれが見つかったのは、ディヴォテーの口添えのおかげであり、同時にそれは、彼の供述が真実であると人々に信じさせるには充分な根拠になってしまった。
それでもイノセスを俄かには疑い難いトルス。父王と同様、トルスにとっても、彼女はただ一人の汚れを知らぬ存在だった。あれほど人を愛し、自然を愛で、動物たちを世話する少女が、父親をとられた嫉妬心に駆られて盗みを働くなんてことは、到底考えられない。しかしそんな考えを、王も姉も甘いと否定した。
「朕は見てきた、汚い政治家たちのやり方を。人とはこうも醜く、残酷であるのかとショックを受けたこともある。月日を経て、それが人間の本質であると悟ったのだ。イノセスを天使と思っていた朕が愚かだったのだよ。あの子もまた、人間だったのだ」
王は悲痛な面持ちで語った。傍で肩を支えるのは、今回の被害者でもある愛人クトレ。そんな二人を冷ややかに見やったものの、長女デジレイも同意見を述べた。
「トルス、あなたはいつも、理想論に偏くきらいがあるわ。国家を治めるということは、国民の理想を叶えることでもあるけれど、そのために我々が現実的にならなくてはいけないのよ」
姉の言うことは最もだ。そうトルスも思った。確かに、盗人として法廷に預けられた平民の素行を逐一調べて、「こいつはいい奴だから無罪」なんて判決を下したりはしない。決定的な証拠がある以上、イノセスの立場はないに等しい。
それでも。トルスは妹の潔白を信じた。信じたかっただけかもしれないが、とにかくトルスは反証探しに奔走した。しかしながら、何の成果も得られぬうちに、王はイノセスを裁判にかけた。
そんな中、国内の混乱を知ってか知らずか、デジレイに縁談が舞い込んだ。遥か彼方より、海越え山越え運ばれてきた手紙は、明日にでも会いたいと言わんばかりの熱烈な恋文であった。
これまでのデジレイの立場というのは、複雑だった。女性としての魅力はイノセスに劣り、縁談の数も父からの愛も、彼女に敵わなかった。まして恋愛感情など、抱かれた試しもない。他国の男からは政略結婚の相手としてしか見られず、父からもその駒程度の扱いしか受けていない。翻って、学問や政治的な手腕は父王や王子トルスをも超えると陰ながら評され、中には「生まれてくる性別を間違えた」などと揶揄する者がいることも知っている。
「どうなさるのです? 姉上」
トルスの質問に、デジレイは落ち着き払って答えた。
「こんな状況だし、おいそれとお受けすることはできかねるわね。しかし無視してしまうのも角が立つ。とりあえず会うだけ会ってみましょう」
後日、王子がウィルダードの城へとやってきた。実際に会うまでは彼の本心を疑っていたであろうデジレイも、うっかり微笑んでしまうほど、彼は彼女への愛を雄弁に語った。トルスは思った。姉のあれほどまでに柔らかいハニカミを見たのは、いつ以来だろうと。もしかしたら、生まれて初めてかもしれなかった。
「どうなさるのです? 姉上」
王子に会う前と同じ質問をした。今度は全く違う気持ちだった。
「……少し、考えたいわ」
姉にしては珍しい、曖昧な発言だった。デジレイの言葉はいつも明快。その明晰さを表すような表現をするが、今回ばかりは例外なようだ。
なぜだか少し嬉しい気持ちになって、この調子でイノセスの状況も打開できるかも、と根拠のない希望を抱いてシーツに包まった、その夜のことである。
「殿下。トルス殿下」
闇の中から呼びかけられたトルスは、目を閉じたまま返事をした。
「ん、何だ……?」
「ディヴォテーでございます」
その一言に、トルスは飛び起きた。よく目を凝らしてみると、そこにいるのは正しくディヴォテー本人である。
「お前、どうやって⁉︎」
そこまで言って、トルスは慌てて傍の短剣を掴んだ。彼は自分を殺しにきたのかもしれないと思ったからだが、すぐに思い直す。それならわざわざ声をかけて起こすことはない。
「隠し持っていた薬で見張りの者を眠らせ、鍵を拝借したのでございます。殿下にある重大な事実をお伝えするため、致し方なく」
「重大な事実だと?」
「左様にございます。イノセス様をお救いになるには、ディヴォテーの話をお聞きいただくより他に手はございません」
イノセスを救う情報を、召使ディヴォテーが握っている。つまりそれは、彼女を主犯とした彼の証言が嘘だったということだろう。彼はどういうわけか、真犯人をトルスに打ち明けにきたに違いなかった。
「いいだろう、話せ」
「ありがとうございます。ディヴォテーに首飾りを盗めと命じられたのは、イノセス様ではございません」
「では、誰だ。はっきり申してみよ」
「……はい。真犯人は、我が主人……デジレイ様でございます」
ディヴォテーは、デジレイの篤き信奉者だった。その崇拝ぶりは、召使たちの間でたびたび話題になる程だったという。デジレイの名を出し、真実を暴露した直後、彼は持っていた毒薬を口に含んだ。だからこれは、後に召使たちから聞いた証言を元にしたトルスの勝手な憶測に過ぎない。恐らく彼はデジレイに恋慕の情を抱いていた。従者として越えてはならない一線を越える感情である。そこに現れたのが、同じく彼女を慕う王子。そして王子にだけ見せた彼女の微笑み。それがディヴォテーをさらに狂わせた。
ディヴォテーの決死の告白を聞いた翌日、トルスは田舎町に来ていた。彼はデジレイが自分に盗みを命じた証拠を遺していた。城内にあってはまずいそれを、田舎の教会の神父に送ったのだという。懺悔の意味もあったのだろうか。それを聞く前に彼は天に召された。
トルスは古びた教会の門を叩いた。神父はにこやかに、しかし悲しみを隠したような顔でトルスを迎え入れてくれた。神父から受け取った手紙には確かに、クトレの首飾りを盗み出す手段からどこに隠すかまで、詳細な指示が書かれていた。間違いなく、姉の筆跡である。
トルスは泣きたいような吐きたいような、妙な感覚に襲われた。尊敬する姉、だが目の上のたんこぶでもあった、優秀な姉。これ以上、姉のことを考えると気がおかしくなる。そう思ったトルスは、急ぎ馬を走らせた。何はともあれこれで、イノセスの無実を証明できる。今はそれを喜ぼうじゃないか。
カン、カン、カン――!
イノセスの裁判が始まった。手錠をかけられ、目隠しをされた彼女は、役人に両脇を支えられながら証言台に立った。目隠しを外されると、その大きな瞳は震え、水たまりのように潤っていた。
「王女イノセス、何の罪でそこに立っているかは理解しているか」
「はい……クトレさんの首飾りを盗んだと、疑われております」
か細く震える声である。世界中の男が守ってやりたくなる女性は、唯一残った味方である兄の到着を今か今かと待っていた。
「可愛い我が娘、イノセスよ。証拠は揃っている。素直に罪を認め、謝罪せよ。さすれば重罰には処さないと約束しよう」
王としては、愛娘に最大の慈悲を与えたつもりだった。しかしイノセスにとっては、この上ない屈辱であった。
「……いいえ。私は首飾りを盗んでなどいません!」
純真で素直な姫、イノセス。争いを嫌う彼女が皆に逆らう姿を見せたのは、森で子鹿を射た狩人を泣いて責め立てた、その一度きりであろう。途端にザワザワと慌てた観衆の様子から見て、やはり誰もが彼女に厳罰を下すことに抵抗があったとみて間違いない。
「見苦しいぞイノセス。お前の部屋から宝石が出てきたのだ」
「私が隠したのではありません!」
「では誰が隠したというのだ」
「それはわかりません。ですが、ディヴォテーの言ったことは全部デタラメです! お父様も皆も、騙されているのです!」
「いい加減になさい! 陛下に対して何と不躾な口ぶりですか!」
口を挟んだのはデジレイである。
デジレイが王の耳元に何か囁くと、王は目を閉じて言葉を反芻するように沈黙した。そして深い、深いため息を吐いた。
「イノセス。最後までお前を信じようとした、朕は己が情けないよ」
「ど、どういうことですか、お父様?」
「朕はお前に騙されていたのだな」
カンカンカン――!
王は木槌を打ち鳴らした。
「罪人イノセスを、斬首刑に処す。すぐに執行せよ」
イノセスの額に青筋が走った。
「お待ちください、お父様!」
「黙れ。お前の声などもうただの1秒も聞きたくないわ」
「そんな、お父様! お父様ー‼︎」
家臣たちに引き摺られていく娘を、ウィルダードは悲痛な面持ちで見つめていた。
城の裏手にある処刑場。イノセスは大人しく跪き、俯いて処刑の時を待っていた。運命を受け入れるしかないと悟ったのだろうか。それとも単に、悲しみに溺れて息もできずにいるのだろうか。
「罪人イノセス。言い遺すことはあるか」
処刑人の質問に、悲劇の少女は少しだけ顔を上げた。
「ひとつだけ、お尋ねしてもよろしいでしょうか。お姉様はお父様に、何を耳打ちされたのですか?」
質問を許可した覚えはない! そう言ってイノセスの頭を鷲掴みにした処刑人を制し、王は答えた。
「冥土の土産だ、教えてやろう。デジレイはこう言った。『イノセスの純真さは全て演技だ。猫を被って陛下の寵愛を手に入れてきたのに、愛人にその座を奪われそうになって嫉妬に狂ったのでしょう。あの子がいちばん愛しているのは陛下ではなく、自分自身なのですよ』と」
「そうですか……」
イノセスは静かに呟いた。王はさらに続ける。
「だがな、イノセス。朕は本当は、そんな風に思いたくないのだ。幼いお前が朕の膝で眠った時に思った。『この世に生きとし生けるものたち、今だけは沈黙せよ。この子が目覚めたなら、どんな罵詈雑言にも朕は耳を傾けようぞ』と。そんなお前がどうだ、今私の目の前で首を落とされそうになっている。涙しない父がいようか」
ウィルダードは皺くちゃな手の甲で目尻を拭った。後ろ手に縛られたイノセスの涙は、成す術なく目隠しを湿らせ、頬を伝って落ちた。
「ああ、愛するイノセス。最後のチャンスだ。父への愛を聞かせておくれ」
王の涙声は、見守る家臣たちの胸を打つ。もしもこの場にデジレイがいたら、同じく涙ぐんでみせただろうか。
「お父様……」
イノセスは小さな体を震わせて、一気に息を吸い込んだ。
「今の私がお父様に捧げられる愛は、――お姉様に及びません」
え?
静まり返った。王も処刑人も、クトレでさえ驚きで言葉が出なかった。
「お姉様は嘘をついてまで、お父様の味方になっておられます。私はたとえお父様のためでも、嘘をつくことはできません。もう一度だけ申し上げます。“イノセスは無実でございます”」
しばらく呆気に取られていた王だが、みるみるうちに顔を赤くした。
「いけしゃあしゃあと、よくも言えたな、この大嘘つきめが!」
王はイノセスが罪を認め、謝罪すると思っていた。その上で、自分への多大なる愛を、言葉を尽くして語ってくれることを望んでいた。
「この期に及んでまだ無垢なフリをするか! 朕が未だ騙されるほど阿呆だと思っているのか⁉︎ 朕への愛を語れと命じたのに、己の身を案じることしかせず、それどころか姉の発言までも嘘だなどと貶め、恥ずかしくないのか‼︎」
イノセスは、姉のことを信じていた。優秀な姉が、真実に気づかないはずがない。気づいていながら、父の気持ちに寄り添おうと最善を尽くした結果、妹を追い詰めることになってしまったのだと、錯覚していた。
イノセスはまた、父を信じていた。だが彼女が信じているほど、父は強く賢明ではなかった。
「お前にはほとほと愛想が尽きたわ。処刑人、さっさと執行しろ!」
「はっ!」
大鎌が振り下ろされる。歯を食いしばったイノセスの首が、コロコロと土の上を駆けていった。
法廷の重い扉を開けたトルスは、唖然とした。人がひしめき合っているはずのその場所は、もぬけの殻だった。帰城して最初に会った部下に、イノセスの裁判が早まったことを知らされた。例の手紙を握り締め、電光石火で駆けつけたのに、人っこひとりいない。
どうしていいかわからず突っ立っていると、背後から女性の声がした。
「トルス、どこへ行っていたの」
振り向くとそこには、姉の白い顔があった。
「姉上……」
トルスは迷った。ここで真実を姉に突きつけるべきか。否、他に誰もいない場所で自分ひとり、丸め込むくらい姉には造作もないことだろう。
「イノセスはどこです。まさか裁判がこんなに早まるなんて……」
「トルス、落ち着いて聞きなさい。イノセスは」
言いかけた時、伝令係が走ってきて二人に傅いた。
「申し上げます! イノセス殿下の処刑がたった今、執行されたとのこと」
時が、止まった。
トルスが目と口を大きく開けて呆けている間に、デジレイは横目でトルスの手にある手紙を見つめた。
「イノセス……そんな、嘘だ……イノセス……」
「トルス」
伝令係が去った後、デジレイがトルスの肩に手をかけようとした瞬間、トルスが勢い良く振り返って逆にデジレイの両肩を掴んだ。
「姉上‼︎ どういうことですか⁉︎ イノセスは無実です、それは貴女がいちばんよくわかっておいででしょう‼︎」
「っ、痛いわ」
姉の苦痛に歪んだ顔を見ても、トルスは離してやる気にはならなかった。
「仰ってください姉上、お得意でしょう! なぜイノセスが、姉上の代わりに死なねばならなかったのですか! なぜ止めなかったのか‼︎」
「……」
デジレイは考えた。やはり弟は真実を知っている。恐らくディヴォテーが漏らしたのだろう。使える男であったが、まさか証拠の手紙を燃やさず残していたとは。奴もまた、デジレイを100%信頼していたわけではなかった。長年彼女の心を鈍く蝕んできた影が、彼女の肺を強く圧迫した。
デジレイは深い息を吐いて、トルスの両腕を強く握った。
「終わったことよ、トルス。あの子はもう戻らない」
「あ、貴女がっ、言うセリフか⁉︎」
トルスはデジレイの体を壁に押し付け迫った。
「無垢な妹に罪をなすりつけ、挙句見殺しにしておいて!」
「私はこの国のために言っているのよ。失った者を嘆くより、遺された者でやるべきことがある。それが王家、私たちの務めでしょう」
トルスはたまらず頽れた。
ディヴォテーの言を、イノセスはもちろん否定したのだ。ところが部屋の大捜索で、巧妙に隠された宝石が発見された。それは切り抜かれた本の中に挟み込まれ、さらに本棚の奥にしまい込んであったのである。先の捜索で見つけられなかったそれが見つかったのは、ディヴォテーの口添えのおかげであり、同時にそれは、彼の供述が真実であると人々に信じさせるには充分な根拠になってしまった。
それでもイノセスを俄かには疑い難いトルス。父王と同様、トルスにとっても、彼女はただ一人の汚れを知らぬ存在だった。あれほど人を愛し、自然を愛で、動物たちを世話する少女が、父親をとられた嫉妬心に駆られて盗みを働くなんてことは、到底考えられない。しかしそんな考えを、王も姉も甘いと否定した。
「朕は見てきた、汚い政治家たちのやり方を。人とはこうも醜く、残酷であるのかとショックを受けたこともある。月日を経て、それが人間の本質であると悟ったのだ。イノセスを天使と思っていた朕が愚かだったのだよ。あの子もまた、人間だったのだ」
王は悲痛な面持ちで語った。傍で肩を支えるのは、今回の被害者でもある愛人クトレ。そんな二人を冷ややかに見やったものの、長女デジレイも同意見を述べた。
「トルス、あなたはいつも、理想論に偏くきらいがあるわ。国家を治めるということは、国民の理想を叶えることでもあるけれど、そのために我々が現実的にならなくてはいけないのよ」
姉の言うことは最もだ。そうトルスも思った。確かに、盗人として法廷に預けられた平民の素行を逐一調べて、「こいつはいい奴だから無罪」なんて判決を下したりはしない。決定的な証拠がある以上、イノセスの立場はないに等しい。
それでも。トルスは妹の潔白を信じた。信じたかっただけかもしれないが、とにかくトルスは反証探しに奔走した。しかしながら、何の成果も得られぬうちに、王はイノセスを裁判にかけた。
そんな中、国内の混乱を知ってか知らずか、デジレイに縁談が舞い込んだ。遥か彼方より、海越え山越え運ばれてきた手紙は、明日にでも会いたいと言わんばかりの熱烈な恋文であった。
これまでのデジレイの立場というのは、複雑だった。女性としての魅力はイノセスに劣り、縁談の数も父からの愛も、彼女に敵わなかった。まして恋愛感情など、抱かれた試しもない。他国の男からは政略結婚の相手としてしか見られず、父からもその駒程度の扱いしか受けていない。翻って、学問や政治的な手腕は父王や王子トルスをも超えると陰ながら評され、中には「生まれてくる性別を間違えた」などと揶揄する者がいることも知っている。
「どうなさるのです? 姉上」
トルスの質問に、デジレイは落ち着き払って答えた。
「こんな状況だし、おいそれとお受けすることはできかねるわね。しかし無視してしまうのも角が立つ。とりあえず会うだけ会ってみましょう」
後日、王子がウィルダードの城へとやってきた。実際に会うまでは彼の本心を疑っていたであろうデジレイも、うっかり微笑んでしまうほど、彼は彼女への愛を雄弁に語った。トルスは思った。姉のあれほどまでに柔らかいハニカミを見たのは、いつ以来だろうと。もしかしたら、生まれて初めてかもしれなかった。
「どうなさるのです? 姉上」
王子に会う前と同じ質問をした。今度は全く違う気持ちだった。
「……少し、考えたいわ」
姉にしては珍しい、曖昧な発言だった。デジレイの言葉はいつも明快。その明晰さを表すような表現をするが、今回ばかりは例外なようだ。
なぜだか少し嬉しい気持ちになって、この調子でイノセスの状況も打開できるかも、と根拠のない希望を抱いてシーツに包まった、その夜のことである。
「殿下。トルス殿下」
闇の中から呼びかけられたトルスは、目を閉じたまま返事をした。
「ん、何だ……?」
「ディヴォテーでございます」
その一言に、トルスは飛び起きた。よく目を凝らしてみると、そこにいるのは正しくディヴォテー本人である。
「お前、どうやって⁉︎」
そこまで言って、トルスは慌てて傍の短剣を掴んだ。彼は自分を殺しにきたのかもしれないと思ったからだが、すぐに思い直す。それならわざわざ声をかけて起こすことはない。
「隠し持っていた薬で見張りの者を眠らせ、鍵を拝借したのでございます。殿下にある重大な事実をお伝えするため、致し方なく」
「重大な事実だと?」
「左様にございます。イノセス様をお救いになるには、ディヴォテーの話をお聞きいただくより他に手はございません」
イノセスを救う情報を、召使ディヴォテーが握っている。つまりそれは、彼女を主犯とした彼の証言が嘘だったということだろう。彼はどういうわけか、真犯人をトルスに打ち明けにきたに違いなかった。
「いいだろう、話せ」
「ありがとうございます。ディヴォテーに首飾りを盗めと命じられたのは、イノセス様ではございません」
「では、誰だ。はっきり申してみよ」
「……はい。真犯人は、我が主人……デジレイ様でございます」
ディヴォテーは、デジレイの篤き信奉者だった。その崇拝ぶりは、召使たちの間でたびたび話題になる程だったという。デジレイの名を出し、真実を暴露した直後、彼は持っていた毒薬を口に含んだ。だからこれは、後に召使たちから聞いた証言を元にしたトルスの勝手な憶測に過ぎない。恐らく彼はデジレイに恋慕の情を抱いていた。従者として越えてはならない一線を越える感情である。そこに現れたのが、同じく彼女を慕う王子。そして王子にだけ見せた彼女の微笑み。それがディヴォテーをさらに狂わせた。
ディヴォテーの決死の告白を聞いた翌日、トルスは田舎町に来ていた。彼はデジレイが自分に盗みを命じた証拠を遺していた。城内にあってはまずいそれを、田舎の教会の神父に送ったのだという。懺悔の意味もあったのだろうか。それを聞く前に彼は天に召された。
トルスは古びた教会の門を叩いた。神父はにこやかに、しかし悲しみを隠したような顔でトルスを迎え入れてくれた。神父から受け取った手紙には確かに、クトレの首飾りを盗み出す手段からどこに隠すかまで、詳細な指示が書かれていた。間違いなく、姉の筆跡である。
トルスは泣きたいような吐きたいような、妙な感覚に襲われた。尊敬する姉、だが目の上のたんこぶでもあった、優秀な姉。これ以上、姉のことを考えると気がおかしくなる。そう思ったトルスは、急ぎ馬を走らせた。何はともあれこれで、イノセスの無実を証明できる。今はそれを喜ぼうじゃないか。
カン、カン、カン――!
イノセスの裁判が始まった。手錠をかけられ、目隠しをされた彼女は、役人に両脇を支えられながら証言台に立った。目隠しを外されると、その大きな瞳は震え、水たまりのように潤っていた。
「王女イノセス、何の罪でそこに立っているかは理解しているか」
「はい……クトレさんの首飾りを盗んだと、疑われております」
か細く震える声である。世界中の男が守ってやりたくなる女性は、唯一残った味方である兄の到着を今か今かと待っていた。
「可愛い我が娘、イノセスよ。証拠は揃っている。素直に罪を認め、謝罪せよ。さすれば重罰には処さないと約束しよう」
王としては、愛娘に最大の慈悲を与えたつもりだった。しかしイノセスにとっては、この上ない屈辱であった。
「……いいえ。私は首飾りを盗んでなどいません!」
純真で素直な姫、イノセス。争いを嫌う彼女が皆に逆らう姿を見せたのは、森で子鹿を射た狩人を泣いて責め立てた、その一度きりであろう。途端にザワザワと慌てた観衆の様子から見て、やはり誰もが彼女に厳罰を下すことに抵抗があったとみて間違いない。
「見苦しいぞイノセス。お前の部屋から宝石が出てきたのだ」
「私が隠したのではありません!」
「では誰が隠したというのだ」
「それはわかりません。ですが、ディヴォテーの言ったことは全部デタラメです! お父様も皆も、騙されているのです!」
「いい加減になさい! 陛下に対して何と不躾な口ぶりですか!」
口を挟んだのはデジレイである。
デジレイが王の耳元に何か囁くと、王は目を閉じて言葉を反芻するように沈黙した。そして深い、深いため息を吐いた。
「イノセス。最後までお前を信じようとした、朕は己が情けないよ」
「ど、どういうことですか、お父様?」
「朕はお前に騙されていたのだな」
カンカンカン――!
王は木槌を打ち鳴らした。
「罪人イノセスを、斬首刑に処す。すぐに執行せよ」
イノセスの額に青筋が走った。
「お待ちください、お父様!」
「黙れ。お前の声などもうただの1秒も聞きたくないわ」
「そんな、お父様! お父様ー‼︎」
家臣たちに引き摺られていく娘を、ウィルダードは悲痛な面持ちで見つめていた。
城の裏手にある処刑場。イノセスは大人しく跪き、俯いて処刑の時を待っていた。運命を受け入れるしかないと悟ったのだろうか。それとも単に、悲しみに溺れて息もできずにいるのだろうか。
「罪人イノセス。言い遺すことはあるか」
処刑人の質問に、悲劇の少女は少しだけ顔を上げた。
「ひとつだけ、お尋ねしてもよろしいでしょうか。お姉様はお父様に、何を耳打ちされたのですか?」
質問を許可した覚えはない! そう言ってイノセスの頭を鷲掴みにした処刑人を制し、王は答えた。
「冥土の土産だ、教えてやろう。デジレイはこう言った。『イノセスの純真さは全て演技だ。猫を被って陛下の寵愛を手に入れてきたのに、愛人にその座を奪われそうになって嫉妬に狂ったのでしょう。あの子がいちばん愛しているのは陛下ではなく、自分自身なのですよ』と」
「そうですか……」
イノセスは静かに呟いた。王はさらに続ける。
「だがな、イノセス。朕は本当は、そんな風に思いたくないのだ。幼いお前が朕の膝で眠った時に思った。『この世に生きとし生けるものたち、今だけは沈黙せよ。この子が目覚めたなら、どんな罵詈雑言にも朕は耳を傾けようぞ』と。そんなお前がどうだ、今私の目の前で首を落とされそうになっている。涙しない父がいようか」
ウィルダードは皺くちゃな手の甲で目尻を拭った。後ろ手に縛られたイノセスの涙は、成す術なく目隠しを湿らせ、頬を伝って落ちた。
「ああ、愛するイノセス。最後のチャンスだ。父への愛を聞かせておくれ」
王の涙声は、見守る家臣たちの胸を打つ。もしもこの場にデジレイがいたら、同じく涙ぐんでみせただろうか。
「お父様……」
イノセスは小さな体を震わせて、一気に息を吸い込んだ。
「今の私がお父様に捧げられる愛は、――お姉様に及びません」
え?
静まり返った。王も処刑人も、クトレでさえ驚きで言葉が出なかった。
「お姉様は嘘をついてまで、お父様の味方になっておられます。私はたとえお父様のためでも、嘘をつくことはできません。もう一度だけ申し上げます。“イノセスは無実でございます”」
しばらく呆気に取られていた王だが、みるみるうちに顔を赤くした。
「いけしゃあしゃあと、よくも言えたな、この大嘘つきめが!」
王はイノセスが罪を認め、謝罪すると思っていた。その上で、自分への多大なる愛を、言葉を尽くして語ってくれることを望んでいた。
「この期に及んでまだ無垢なフリをするか! 朕が未だ騙されるほど阿呆だと思っているのか⁉︎ 朕への愛を語れと命じたのに、己の身を案じることしかせず、それどころか姉の発言までも嘘だなどと貶め、恥ずかしくないのか‼︎」
イノセスは、姉のことを信じていた。優秀な姉が、真実に気づかないはずがない。気づいていながら、父の気持ちに寄り添おうと最善を尽くした結果、妹を追い詰めることになってしまったのだと、錯覚していた。
イノセスはまた、父を信じていた。だが彼女が信じているほど、父は強く賢明ではなかった。
「お前にはほとほと愛想が尽きたわ。処刑人、さっさと執行しろ!」
「はっ!」
大鎌が振り下ろされる。歯を食いしばったイノセスの首が、コロコロと土の上を駆けていった。
法廷の重い扉を開けたトルスは、唖然とした。人がひしめき合っているはずのその場所は、もぬけの殻だった。帰城して最初に会った部下に、イノセスの裁判が早まったことを知らされた。例の手紙を握り締め、電光石火で駆けつけたのに、人っこひとりいない。
どうしていいかわからず突っ立っていると、背後から女性の声がした。
「トルス、どこへ行っていたの」
振り向くとそこには、姉の白い顔があった。
「姉上……」
トルスは迷った。ここで真実を姉に突きつけるべきか。否、他に誰もいない場所で自分ひとり、丸め込むくらい姉には造作もないことだろう。
「イノセスはどこです。まさか裁判がこんなに早まるなんて……」
「トルス、落ち着いて聞きなさい。イノセスは」
言いかけた時、伝令係が走ってきて二人に傅いた。
「申し上げます! イノセス殿下の処刑がたった今、執行されたとのこと」
時が、止まった。
トルスが目と口を大きく開けて呆けている間に、デジレイは横目でトルスの手にある手紙を見つめた。
「イノセス……そんな、嘘だ……イノセス……」
「トルス」
伝令係が去った後、デジレイがトルスの肩に手をかけようとした瞬間、トルスが勢い良く振り返って逆にデジレイの両肩を掴んだ。
「姉上‼︎ どういうことですか⁉︎ イノセスは無実です、それは貴女がいちばんよくわかっておいででしょう‼︎」
「っ、痛いわ」
姉の苦痛に歪んだ顔を見ても、トルスは離してやる気にはならなかった。
「仰ってください姉上、お得意でしょう! なぜイノセスが、姉上の代わりに死なねばならなかったのですか! なぜ止めなかったのか‼︎」
「……」
デジレイは考えた。やはり弟は真実を知っている。恐らくディヴォテーが漏らしたのだろう。使える男であったが、まさか証拠の手紙を燃やさず残していたとは。奴もまた、デジレイを100%信頼していたわけではなかった。長年彼女の心を鈍く蝕んできた影が、彼女の肺を強く圧迫した。
デジレイは深い息を吐いて、トルスの両腕を強く握った。
「終わったことよ、トルス。あの子はもう戻らない」
「あ、貴女がっ、言うセリフか⁉︎」
トルスはデジレイの体を壁に押し付け迫った。
「無垢な妹に罪をなすりつけ、挙句見殺しにしておいて!」
「私はこの国のために言っているのよ。失った者を嘆くより、遺された者でやるべきことがある。それが王家、私たちの務めでしょう」
トルスはたまらず頽れた。
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そこで、極悪令嬢を退学させるか否か、生徒会で決定することになった。
生徒会のほぼ全員が極悪令嬢の有罪を疑わなかった。しかし──
「ちょっといいかな。これらの証拠にはどれも矛盾があるように見えるんだけど」
一人だけ。生徒会長のウラヌスだけが、そう主張した。
そこで生徒会は改めて証拠を見直し、今回の毒殺事件についてウラヌスを中心として話し合っていく──。
主人公の恋敵として夫に処刑される王妃として転生した私は夫になる男との結婚を阻止します
白雪の雫
ファンタジー
突然ですが質問です。
あなたは【真実の愛】を信じますか?
そう聞かれたら私は『いいえ!』『No!』と答える。
だって・・・そうでしょ?
ジュリアーノ王太子の(名目上の)父親である若かりし頃の陛下曰く「私と彼女は真実の愛で結ばれている」という何が何だか訳の分からない理屈で、婚約者だった大臣の姫ではなく平民の女を妃にしたのよ!?
それだけではない。
何と平民から王妃になった女は庭師と不倫して不義の子を儲け、その不義の子ことジュリアーノは陛下が側室にも成れない身分の低い女が産んだ息子のユーリアを後宮に入れて妃のように扱っているのよーーーっ!!!
私とジュリアーノの結婚は王太子の後見になって欲しいと陛下から土下座をされてまで請われたもの。
それなのに・・・ジュリアーノは私を後宮の片隅に追いやりユーリアと毎晩「アッー!」をしている。
しかも!
ジュリアーノはユーリアと「アッー!」をするにしてもベルフィーネという存在が邪魔という理由だけで、正式な王太子妃である私を車裂きの刑にしやがるのよ!!!
マジかーーーっ!!!
前世は腐女子であるが会社では働く女性向けの商品開発に携わっていた私は【夢色の恋人達】というBLゲームの、悪役と位置づけられている王太子妃のベルフィーネに転生していたのよーーーっ!!!
思い付きで書いたので、ガバガバ設定+矛盾がある+ご都合主義。
世界観、建築物や衣装等は古代ギリシャ・ローマ神話、古代バビロニアをベースにしたファンタジー、ベルフィーネの一人称は『私』と書いて『わたくし』です。
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