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1986年

伝えるにはあまりにも

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「薬……化粧台の引き出しに」

 アンクはピルケースを冬子に手渡す。なかなか開けられない冬子の代わりにケースを開け、アンクは薬を冬子の口にねじ込んだ。

 ひゅーひゅーと痛々しい呼吸が、しばらくして落ち着く。

「ごめん、もう大丈夫。薬、忘れちゃって」

 冬子は水を一口飲むと、唇を舐めた。気まずくて、アンクの顔が見られないのだ。

「あのね、アンク——」
「今布団敷きますから。少し横になりましょう」
「え……うん」

 アンクは布団を敷くと、台所に向かう。冷蔵庫から小ネギと卵を出した。

「無理してでも何か食べないと。最近冬子さん、痩せすぎです」
「ねえ」
「雑炊にしますね。後で果物も買ってきますから」
「アンク」
「何か欲しいものとか——」
「話を聞いて!」

 ネギを切るアンクの手が、止まる。

「わたし癌なの。多分もう、幾日も持たない」

 冬子は黙ったままのアンクの背中に、言葉を紡ぐ。

「黙っていてごめんなさい。あなたには病気とか関係なく、普通に接して欲しかったの。もうずっと調子良くなくて、手術も何度かしたけどダメで。最後はもう、自分の好きなように生きてみようって腹を括った」


 
 桂木冬子かつらぎふゆこ。三十四歳。

 冬子は施設で育った。冷たい風が肌に染みる季節、カゴに入れられた赤子は精一杯声を上げる。親から名前すらつけてもらえなかった彼女は、役場から『冬子』そう名前をもらった。

「十五で施設を出た後は、寮が併設されている缶詰工場に雇ってもらった。流れてくる缶詰にひたすらシールを貼るの。もー、頭おかしくなるんじゃないかって思ったわ。あ、ほら。アンク、こっちに座って」

 努めて明るく話す冬子に促され、アンクは冬子が座る布団の前に腰を下ろした。

「他に求人はないかってずっと探していたんだけれど、どうせならこんな地味な生活じゃなくて、華やかな世界に身を置いてみようって。飛び込みで入ったキャバクラで、初めて夜の世界を知ったわ」

 冬子が自身の美貌に気が付いてからは、あっという間だった。キャバクラでは持て余した冬子は、高級クラブに箱を変え、三十一歳の若さで自分の店を開店させた。

「自分の城が持てた。私が働いたお金で、私だけの居場所を作れた。当時、そんな風に歓喜したのをよく覚えてる。でもね。その頃から私の身体は、小さな悲鳴を上げ始めた」

 最初は小さな吐き気から始まり、貧血のようにフラフラすることや、動悸が気になった。だが開店間もない店を切り盛りすることに必死で、冬子は病院に行くことをしなかった。

「一年位前、お腹にしこりを見つけて。ついに病院にかかった。そしたら先生言うのよ、すぐに入院しろって」

 冬子は笑う。

「無理。店だってやっと軌道に乗り始めたのに、そんなことできるわけなかった。私は通院しながらなんとか治療を続けたけれど、だんだんと融通の利かなくなっていく身体に、いいかげん不安を覚えたの」

 そんな時、冬子はふと育った施設に立ち寄った。だがそこは既に閉園していて、隣に住んでいた園長の家を訪ねると、息子が出た。

「園長、亡くなってた。息子さんが嬉しそうに当時の写真を出してきて、思い出に浸って。なぜか園長の趣味の話になってね。そういえば園長は、古代エジプト文明の物語をよく聴かせてくれていたなって思い出したの。周りの子供は車とかおままごとに夢中ななか、私は結構まじめに園長の話を聞いていたなって」

 園長の部屋に案内されると、そこには珍しげな装飾や書物が山のように置かれていた。

「それはもう、なかなかのコレクションだった。きっと出すとこに出せば、値が付くものもあったと思う。息子さんはそれを私の好きなようにしていいって言ってくれて、私はごっそり持ち帰ることにした。たぶんその息子さん、誰かが園長を訪ねに来たことが、よほど嬉しかったんだと思うわ」

 冬子は持ち帰った装飾品を基準に自分の店の雰囲気を見直し、外装や店名まで変えた。

「店の女の子はずいぶん戸惑ってね。すぐに受け入れてくれたのは、典子ちゃんくらい。でもまあ、お客さまは少し遠のいたかも」

 懸命に笑顔を保つ冬子の肩に、アンクはブランケットを掛けた。

「そしてついに二ヶ月前。もういつ死んでもおかしくないと医者に言われた。そう診断を受けたその日に、アンクは店にやってきたの。私ね、一目見て決めた。最後はあなたと過ごそう、って」
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