【完結】バッカスの鍵にくちづけを

千鶴

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「さて。乾杯といこうか」
 
 ジンが水道水の張ったワイングラスを掲げる。自らの描いたキャンバスを満足げに眺めながら、グラスと共に中身の水をゆらゆら揺らした。
 その横を、シャワーを終えて着替えを済ませた東伍が通る。ジンから少し距離を取り、皿のセッティングされた床へと胡座をかいた。
 
「もう、やめましょう」
 ぼそり、東伍が言う。
 
「やめるってのは、どういう? 遂に死にたくなった?」
 
 顔を手のひらで覆う東伍。疲弊した丸まった背中を見て、ジンはグラスを床に置くと立ち上がり、部屋の中心に鎮座するベッドへと腰かけた。
 
「そうか。そうだよね。東伍が普通の人間で安心したよ。人間は弱いんだ。そうなって当たり前だよ」
 
 足を組んで、そう軽く発したジンを東伍は睨む。
 
「怖っ。そんな顔すんなって。なあ、東伍。僕たちさ、よく頑張ったと思うよ。僕が他人とこんなにも長い時間を過ごせたのは初めてなんだ。それも二人きり。正直、最初の頃は蕁麻疹が止まらなかったけど、今じゃそれもないし」
 
 ほら、と顔を上げて首元を晒すジン。それから気を抜くように深呼吸をした。
 
「白状するよ。本当はね。もうとっくの昔に東伍は死んでなきゃならなかった。というか、僕が殺す手筈だったんだ」
 
 ジンは左手のひらを上に向け、手招きするように指を折る。そうして折り曲げた指を再び開けば、手のひらには小さなリモコン装置がのっていた。
 
「でも、僕はそうしなかった。いや。出来なかった、という方が正しい」
 
 ジンは言葉を紡ぎつつ、リモコンについたボタンを操作する。するとなにか歯車のようなものが、壁の向こうで小さくうごめく気配を東伍は感じた。
 そうしてほんの少しだけ、ダストシュートの設置された壁が手前に浮き出たのを確認すると、ジンはその隙間に手を突っ込んで手前に引いてみせる。
 その壁がサイドに寄せられ収納されると、現れたのは鍵穴が特徴的な扉だった。
 
「これって……」
「黙っていてごめんね。妙な期待をさせたくなかったんだ。確かにこの扉の向こうは外へと繋がってる。でも、扉には鍵が掛かっていてね」
 
 ジンは両手を広げてふざけた笑顔を見せると、首にかけて胸元にしまっていた紐を引っ張り出す。その先端には鍵があった。
 
「この扉はそう簡単には開かない。無理に壊せば火がついて、たちまち部屋中に散らばる蝋燭に燃え移る。そうしてこの地下室は、名実共にこの世界から消滅するって寸法さ」
「名実、共に?」
「そう。覚えてないかもしれないけど、エレベータに乗り込んでからこの場に着くまで、随分長く掛かっただろ。この地下は埋め立てられた最深部。だから電波も届かない。この部屋が燃えて消滅しようと、外界にはなんの影響もないんだよ」
 
 ジンの言葉に、東伍は思い出す。
 確かに、エレベータ内の地下一階のボタンはカバーで隠されていた。それに思い返せば、院内図で見た【隔離室】の表記は、ビニールテープに書かれた急ごしらえだったようにも。
 視線を下げて考えていた東伍だったが、顔を上げると指を差し、ジンに訊く。
 
「じゃあ、その首の鍵が、扉の?」
「だったら良かったんだけどね。残念ながら違う。この鍵は、少し前に話した脱出を共にした少年、彼から貰ったんだ。僕のお守りみたいなものさ」

 それはどこか外国のおしゃれなアパートの鍵か、はたまた海に沈む宝箱の鍵か。緑色の宝石が光る、不思議な金色の鍵だった。
 
 その鍵をじっと見つめて、真顔な東伍。
 
 時計なんて存在しないその部屋で、秒針の刻む音が幻聴できるだけの緊迫感に包まれながら、東伍は思いもよらないことを口にする。

「ジンさんの本当の名前、教えてください」
「え?」
「兄弟はいますか? 両親はどんな人でしたか? 好きな食べ物は? 得意な教科はなんでしたか?
「な、なんだよ急に」 
「知りたいんです、あなたのこと。さっき俺がやめようって言ったのは、諦めて絶望したって意味じゃない。ジンさんに対して言ったんです」
「僕に何を」
「もう、嘘はやめませんか。あなたはこんなところに隔離されなければならないほど、精神を壊してなんていないんでしょう?」
 
 怪訝に引いているジンをよそに、東伍は続ける。
 
「俺への食事が雑なことなんて一度もなかった。ジンさんが俺を警戒したのは初日くらいで、その後は互いに適度な距離を保ちながら、なんとかここまでやってきました。でも。ずっと不思議だった」
「不思議?」
「あなたから人を傷つけるような凶暴さを感じたことなんて、なかったから。強迫性障害? よく分からないけど、それだってこんな風に同じ空間に他人がいたら、精神的に耐えられないんじゃないかなって。ジンさんが衛生環境に過敏なら尚更、外から来た俺を受け入れられるはずがない。考えるほど、過ごす時間が長くなるほど、俺にはジンさんがこんな部屋に隔離されなければならない人間だとは思えなくて」
 
 そこまで聴いて、ジンは思わず吹き出した。
 
「……東伍ってさ、物事を自分に都合よく解釈する節あるよな。前向きなのは結構だが、そこまでくるとちょっと、ウザいよ」
 
 おもむろに立ち上がるジン。流し台に向かうと、洗浄されたメスを手にして東伍へと振り向いた。
 
「東伍がここにきてから経過した時間は約二二〇時間。二ヶ月どころかまだ十日も経っていないこの短期間で、僕を知った気になっちゃって。それって本気? それともジョーク?」
 
 二二〇時間。ジンにメスを向けられている状況よりも、東伍はその具体的な数字に狼狽える。
 
「て、適当なことを言わないでください。そんな時間、時計のないこの部屋でどうやって分かるって言うんですか」
「分かるんだよ。この場所に十年以上も身を置けば、東伍にだって分かるようになる。ただ、僕が把握できる時間は起きている時間だけ。一度眠りにつけば、当然どれだけ寝たかは分からない。だから最初の頃、僕は東伍にどれくらい寝ていたかを訊いていたんだ。スマホとやらの充電が切れてからは、大体で計算したけれど、そんなに誤差はないはずだよ」
「それにしたって、いくらなんでも」
 
 まだ十日——それが何を意味するか、東伍は理解したくなかった。
 
「分かっただろ? 二ヶ月もここにいるなんて初めから無理だったんだ。助けは来ない。仮に誰かやって来たとしても、それが味方な可能性はほぼ無いんだ」
 
 ジンはリモコンを床に放ると、メスを持つ手を前に突き出す。そうしてぎゅっと握り直すと、憂いを帯びた表情で笑った。
 
「たった数日でも、冷たい食事、冷たい水を被る生活は辛かったろう。助けを、死を、待つしかない時間は地獄だったろ? でもな。それよりも何よりも、僕はこの扉の先に続く道の方が怖いんだ。例えこの扉が開いたとしても、僕は先に進めない。僕はこの地下で生きて、そして死ぬんだ」
「だったら!」
 
 東伍は立ち上がる。
 
「だったら尚更、どうして俺を殺さなかったんですか。そうする手筈だったんでしょう? なのにどうして食料を分け与えてまで、俺を生かしたんですか。あなた一人だけなら、もっと長く生きられた、そう思ってもおかしくないのに」
 
 水分の足りてないカラカラな喉から発せられた東伍の言葉に、ジンは唾を飲み込んだ。
 そうしてぽつり、呟く。
 
「……一緒に逃げようって、言った」
「え?」
「あの日。絶望しかない状況でも東伍は、俺を拒絶するでも、恐れるでも、軽蔑するでもなく、一緒に逃げよう……そう言った。だから僕は」
 
 涙は出ない。それでも、鼻の奥がツンと刺激され、ジンの唇は震えた。
 
「あんたを、気に入ったんだ」
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