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「よーし、完成。うん、いい感じじゃん。東伍、飯できたぞ」
コンロの前に立つジンは、ビニールで仕切られたエレベータ側に聞こえるよう声を上げた。
鍋をかき混ぜながら待つも、東伍からの返事はない。
「今日は贅沢にワインを使ったビーフストロガノフだ。ブロッコリーのパスタサラダに、オニオングラタンスープも。上等だろう? パーティといこう。今日はそっちじゃなくて、こっちで一緒に食わないか? 一度くらい、顔突き合わせて晩餐ってのも悪くないだろ? なあ、聞いてんのかー」
自分の独り言に痺れを切らしたジンは、ビニールの穴からエレベータ側のスペースに顔を出した。
「東伍。返事くらいしろよ」
「……」
「あ、そういやお前シャワーまだだろ。流石に浴びてもらわないと、半径一メートル以内に近付いてほしくないな」
冗談めいた明るめの声でジンが言えば、東伍はようやく伏せた瞼を開ける。
その瞳は、枯れていた。
鉄の扉を背に座り込む東伍。顔周りにはボサボサと髭を蓄え、クタクタによれた襟ぐりから覗く鎖骨が、妙に色香を纏う。
右手に持ったスマートフォンのサイドのボタンを押しては離して、押しては離して。とっくの昔に充電の尽きた真っ暗な画面を一瞥してから、東伍は言う。
「どれくらいですか」
「悪いけど、そんなに量はないぜ。——なんつって」
「俺がここに来てから、どれくらい経ちましたか」
抑揚のない声。幾度となく繰り返される東伍の問いに、ジンは一息置いてから答える。
「だから僕に訊くなよ」
「……俺はもう、二ヶ月なんてとっくに過ぎてしまったような気がして」
「ああ、そうかもな。でもさ、東伍はああ言ったけど、僕は最初から助けなんて期待してない。来るか分からない、そんなものに期待するのはもうやめてしまえばいい。辛くなるだけだぞ? ほら、いいから立って。幸いまだ水は出る。シャワー浴びてこい」
ジンはそう言い残して、再び流し台に向かった。おたまで混ぜた鍋の中身をすくい取り器に盛ると、それをふたつ、床に置く。
「どうよ、僕の最高傑作。この湯気なんか見て、今にも香ってきそうだろ」
「そうですね」
「はっ、なんだよそのつまんない返事」
「いや。っていうか逆に、なんでそんなに元気なんですか。信じられない」
「まあ兎に角だ。東伍との食事も、残りそう多くはないだろうから。早く始めよう」
ジンの言葉に、東伍は仕方なく重い腰を上げた。ビニールの穴を潜り、気だるさを連れて隣の空間へ向かう。そうしてすぐ、器の置かれた床に視線を落とした。
「……拷問だ」
焦げ目と光沢を帯びた肉の塊が、皿から溢れる。ブラウンソースが、添えられたブロッコリーに流れ付き、その下のパスタを侵食するさまも食欲をそそった。
オニオングラタンスープには、クルトンがよく似合う。下に敷かれたギンガムチェックのクロスが、華々しい。
そうして、煌めく豪華な食事の描かれたキャンバスを前に。常温の水が張ってあるだけの器がふたつ、置かれていた。
東伍が隔離室に辿り着いてから数日後、ガスが止まった。それでもしばらくは、気力を絶やすことなくエレベータ前に張り付き続けた。
食事はおおよそ、日に二回。体内時計とは侮れないもので、約六時間経てば東伍の身体は栄養を求めた。その腹時計を目安に、東伍は日に一回、スマートフォンの電源を入れては時刻を確認した。
時計のない隔離室。時間の経過を確認できるスマートフォンは貴重だと気が付いてから、東伍はすぐに電源を落とした。
だがスマートフォンというものは、起動するときに一番バッテリーをくう代物で、度々のオンオフにその寿命が尽きるのも早かった。
そんな頃、電気が止まった。
そうなるともう絶望的で、冷蔵庫に保存されていた食材は急速に痛み、腐り、口にできなくなった。
部屋の明かりは、何故か大量に常備されていた蝋燭が担う。揺れる燈に室温は上がったが、唯一換気扇だけはソーラー発電を採用していたようで助かった。
——いや。助かったとは言い難かった。
ダメになった食材をダストシュートに投げ落とす度、空気が淀んだ。それでも、東伍は諦めなかった。二ヶ月なんてまだ先だ、負けちゃいけない、挫けちゃダメと、己を鼓舞して気力で助けを待ち続けた。
ジンは大抵、キャンバスを前に筆を動かしていた。絵を描く以外は、シャワーか食事か寝ているか。
ジンは毎度眠りから覚めると、自身ががどれくらい寝ていたかを東伍に確かめたが、スマートフォンの充電が切れてからはそれもなくなる。
互いの過ごし方に干渉することもなく、淡々と、冷酷に時だけが過ぎていった。
「どれくらいですか」
遂にそう口にしてしまった東伍。今思えば、この言葉が東伍の心の端っこにできた“めくれ”を剥がすきっかけとなった。
一度口にしたら、止まらなかった。
あとどれだけ耐えればいい? あとどれだけ待てばいい? ——急激にざわつき出した心臓の鼓動で、東伍は自身が震えているのか地面が揺れているのかも分からない感覚に陥る。
脳内がアドレナリンで満たされ、目が血走るほどの興奮状態になったかと思えば、今度は途端に青ざめて、東伍の挙動はプツっと糸が切れたように静かになった。
そうして、髭を剃るなどの最低限の身だしなみを整えることを、東伍はやめた。
食事を咀嚼することも面倒になり、そのうち声を出すことも億劫になる。それでもジンが嫌がるので、シャワーだけはかろうじて浴びた。
赤い印のついた蛇口を捻っても、頭に流れ落ちるのは真水。筋力の落ちた肩から背中、尻を通って脹脛を伝う滴が、東伍の熱を奪っていく。
温かさが、酷く恋しかった。
コンロの前に立つジンは、ビニールで仕切られたエレベータ側に聞こえるよう声を上げた。
鍋をかき混ぜながら待つも、東伍からの返事はない。
「今日は贅沢にワインを使ったビーフストロガノフだ。ブロッコリーのパスタサラダに、オニオングラタンスープも。上等だろう? パーティといこう。今日はそっちじゃなくて、こっちで一緒に食わないか? 一度くらい、顔突き合わせて晩餐ってのも悪くないだろ? なあ、聞いてんのかー」
自分の独り言に痺れを切らしたジンは、ビニールの穴からエレベータ側のスペースに顔を出した。
「東伍。返事くらいしろよ」
「……」
「あ、そういやお前シャワーまだだろ。流石に浴びてもらわないと、半径一メートル以内に近付いてほしくないな」
冗談めいた明るめの声でジンが言えば、東伍はようやく伏せた瞼を開ける。
その瞳は、枯れていた。
鉄の扉を背に座り込む東伍。顔周りにはボサボサと髭を蓄え、クタクタによれた襟ぐりから覗く鎖骨が、妙に色香を纏う。
右手に持ったスマートフォンのサイドのボタンを押しては離して、押しては離して。とっくの昔に充電の尽きた真っ暗な画面を一瞥してから、東伍は言う。
「どれくらいですか」
「悪いけど、そんなに量はないぜ。——なんつって」
「俺がここに来てから、どれくらい経ちましたか」
抑揚のない声。幾度となく繰り返される東伍の問いに、ジンは一息置いてから答える。
「だから僕に訊くなよ」
「……俺はもう、二ヶ月なんてとっくに過ぎてしまったような気がして」
「ああ、そうかもな。でもさ、東伍はああ言ったけど、僕は最初から助けなんて期待してない。来るか分からない、そんなものに期待するのはもうやめてしまえばいい。辛くなるだけだぞ? ほら、いいから立って。幸いまだ水は出る。シャワー浴びてこい」
ジンはそう言い残して、再び流し台に向かった。おたまで混ぜた鍋の中身をすくい取り器に盛ると、それをふたつ、床に置く。
「どうよ、僕の最高傑作。この湯気なんか見て、今にも香ってきそうだろ」
「そうですね」
「はっ、なんだよそのつまんない返事」
「いや。っていうか逆に、なんでそんなに元気なんですか。信じられない」
「まあ兎に角だ。東伍との食事も、残りそう多くはないだろうから。早く始めよう」
ジンの言葉に、東伍は仕方なく重い腰を上げた。ビニールの穴を潜り、気だるさを連れて隣の空間へ向かう。そうしてすぐ、器の置かれた床に視線を落とした。
「……拷問だ」
焦げ目と光沢を帯びた肉の塊が、皿から溢れる。ブラウンソースが、添えられたブロッコリーに流れ付き、その下のパスタを侵食するさまも食欲をそそった。
オニオングラタンスープには、クルトンがよく似合う。下に敷かれたギンガムチェックのクロスが、華々しい。
そうして、煌めく豪華な食事の描かれたキャンバスを前に。常温の水が張ってあるだけの器がふたつ、置かれていた。
東伍が隔離室に辿り着いてから数日後、ガスが止まった。それでもしばらくは、気力を絶やすことなくエレベータ前に張り付き続けた。
食事はおおよそ、日に二回。体内時計とは侮れないもので、約六時間経てば東伍の身体は栄養を求めた。その腹時計を目安に、東伍は日に一回、スマートフォンの電源を入れては時刻を確認した。
時計のない隔離室。時間の経過を確認できるスマートフォンは貴重だと気が付いてから、東伍はすぐに電源を落とした。
だがスマートフォンというものは、起動するときに一番バッテリーをくう代物で、度々のオンオフにその寿命が尽きるのも早かった。
そんな頃、電気が止まった。
そうなるともう絶望的で、冷蔵庫に保存されていた食材は急速に痛み、腐り、口にできなくなった。
部屋の明かりは、何故か大量に常備されていた蝋燭が担う。揺れる燈に室温は上がったが、唯一換気扇だけはソーラー発電を採用していたようで助かった。
——いや。助かったとは言い難かった。
ダメになった食材をダストシュートに投げ落とす度、空気が淀んだ。それでも、東伍は諦めなかった。二ヶ月なんてまだ先だ、負けちゃいけない、挫けちゃダメと、己を鼓舞して気力で助けを待ち続けた。
ジンは大抵、キャンバスを前に筆を動かしていた。絵を描く以外は、シャワーか食事か寝ているか。
ジンは毎度眠りから覚めると、自身ががどれくらい寝ていたかを東伍に確かめたが、スマートフォンの充電が切れてからはそれもなくなる。
互いの過ごし方に干渉することもなく、淡々と、冷酷に時だけが過ぎていった。
「どれくらいですか」
遂にそう口にしてしまった東伍。今思えば、この言葉が東伍の心の端っこにできた“めくれ”を剥がすきっかけとなった。
一度口にしたら、止まらなかった。
あとどれだけ耐えればいい? あとどれだけ待てばいい? ——急激にざわつき出した心臓の鼓動で、東伍は自身が震えているのか地面が揺れているのかも分からない感覚に陥る。
脳内がアドレナリンで満たされ、目が血走るほどの興奮状態になったかと思えば、今度は途端に青ざめて、東伍の挙動はプツっと糸が切れたように静かになった。
そうして、髭を剃るなどの最低限の身だしなみを整えることを、東伍はやめた。
食事を咀嚼することも面倒になり、そのうち声を出すことも億劫になる。それでもジンが嫌がるので、シャワーだけはかろうじて浴びた。
赤い印のついた蛇口を捻っても、頭に流れ落ちるのは真水。筋力の落ちた肩から背中、尻を通って脹脛を伝う滴が、東伍の熱を奪っていく。
温かさが、酷く恋しかった。
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