【完結】バッカスの鍵にくちづけを

千鶴

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 沈黙が二人を包んだのも束の間。ジンはメスを手にしたまま、揺れる火のついた蝋燭のひとつを掴み取る。そうしてそれを、ベッドの真ん中へと放った。
 
「な、なにしてるんですか!」
「悪いな東伍。どの道もう数日しか生きられない。このまま焼け死ぬのが嫌なら、僕が先にとどめを刺す。目を瞑ってろ。痛みのないうちに殺してあげるよ」
 
 一歩ずつ近づいてくるジンの背後で、ベッドに燃え広がる炎。暗がりを一気に侵食していくオレンジ色のグラデーションが、眼球に染みる。
 
 ——それは、急な気づきだった。
 霞んだ視界に映るジンの姿を見て、東伍は衝撃を受けたように思い切り目を見開く。
 
 お尻のポケットに手を突っ込み、いつぞやの洗濯で一緒に洗われてしまってクタクタになった二つ折りの黒い財布を取り出すと、小銭の入るファスナーに手をかけた。焦る気持ちが先行して、手が震える。
 
「鍵なら、俺も持ってます」
 
 財布から取り出されたのは、小ぶりの鍵。銀色で持ち手がまるく、そこには青い宝石が埋められていた。
 
 ジンは東伍の顔と鍵とを、交互に見る。
 
「それがなんだよ」
「何年も前に海で拾ったんです。高校生二年の夏、俺はライフセーバーの手伝いみたいなことをしていて。それでその時、俺は海に浮かぶ女の子を——」
 
 
 
 “誰にも渡さないで”
 
 
 
 腹の底から湧き出てきたその記憶は、ゴボゴボと音を立てて東伍を刺激する。
 
「彼女……あの時の子だ」
 
 ひとり、なにかを分かり始めた東伍の表情を見つつ、ジンはため息をついた。
 
「東伍。悪いがそんな茶番に付き合ってる時間はないんだ。燃え死にたいのか?」
「ねえ、ジンさん。この鍵でもしも、扉が開いたら。俺と一緒に逃げてくれますか?」
 
 ベッドから天井を這うようにして燃え上がる炎が、ふたりの頬に熱を移す。
 いつの間にか瞳に活力を取り戻した東伍の顔に、ジンは驚きを隠せずに叫んだ。
 
「なんでこの状況でそんなことが言えるんだよ! その鍵じゃ開かない、僕はこの扉の鍵がどんなものか知ってるんだぞ!」
「鍵が一つとは限らないでしょう? 大丈夫、鍵が開かなくても、選択肢は増えました」
「選択肢?」
「エレベータがくるか、鍵を開ける方法を見つけるか。最悪、水はまだ止められていません。なんとかなります。ほら、火を消しますよ」
「なんでそうなるんだよ! あり得ない……なんなんだよあんた!」
 
 混乱を極めイライラを募らせるジンに反し、東伍は冷静に流し台へと向かうと、水道の蛇口を捻る。
 
「ジンさん」
「なんだよ!」
「まずいです」
「ああ?!」
「水が、出ません」
 
 流し台から振り向く東伍の顔は、青ざめていた。
 
「だから言ったろう! ああもう! それ貸せ!!」
「あ、ちょっと」
 
 ジンは大股で東伍に近寄ると鍵を奪い取り、扉に向かう。
 
「こんなんで開くかよ! 希望なんてない! 僕はもう殺してやらないからな。このままふたりで焼け死ぬしか」
 
 
 
 
 ——————————カチャ
 
 
 
 
 
「え? 開いたんですか?」
 
 まさかの解鍵音に東伍が言えば、ジンは驚いて振り向く。それからすぐに、ジンは東伍から距離を取った。
 
「……東伍。僕に隠し事しているなら今すぐ吐け」
「なんですか、隠し事って」
「だって、こんなのおかしいだろ! これじゃ、東伍と奴らがグルだとしか……ゴホッ」
 
 室内に充満する煙に充てられ、ジンが咳き込む。
 
「とにかく行きましょう。言い分はあとでいくらでも聞きます。このままじゃ、焼け死ぬ前に酸欠で意識を失ってしまいますよ」
 
 口元を腕で押さえながらジンの手を掴んだ東伍は、足を踏み出す。が、ジンの足は地面にブレーキをかけたまま動かなかった。
 
「ジンさんいい加減にしてください、早くしないと」
「ひとつ、約束してくれないか」
 
 今までのどの時よりも真剣な声色に、東伍はジンに向き合う。
 
「この先、僕が外の世界で生きることが困難になったら。その時は東伍、きみに責任を取ってもらう」
「責任?」
「僕は臆病なんだ。ひとりでは死ねない」
 
 東伍は掴んだジンの手首に視線を下ろし、腕、肩、首、そうして順に見ていった後、目を合わせた。
 
「分かりました。責任は俺がとります。行きますよ」
 
 そうして。東伍とジンはようやく、小瀬メンタルクリニックの地下の要塞から脱出する決意を固める。
 燃え盛るベッドを横目に靴を履き、東伍は財布と充電の切れたスマートフォン、ジンは医療用カートに乗ったドイツ語の箱を開封すると、そこから瓶を二つ抜き取って懐にしまった。
 
 鍵は開いたものの、扉の開閉に少々手こずる。扉はダストシュートの幅だけ分厚く、さらに若干上向きに傾いているおかげで、二人の栄養不足で筋肉の落ちた身体では、目一杯押して半開させるのがやっとだった。
 
「も、もうちょっと本気出せよ」
「食料尽きるまで扉の存在を黙っていたジンさんにい、言われたくない。肉で英気を養った初日だったなら、こんな扉、俺ひとりで……」
 
 肩で息を吐きながら、なんとか身体を横向きにして扉を抜ける。重力に従って再び閉じられた扉は、隣室に燃え盛る炎の気配をも閉ざしてくれた。
 
 そうして同時に東伍は気づく。
 
「ジ、ジンさんまずいですよ。ここ真っ暗です」
「大丈夫、明かりならある。言っただろ、僕はこの道を行くくらいなら死んだほうがマシだって。つまりはこの道をどう行けば外に出られるか、この道の先に何が待っているのかを、僕はよーく知っているってこと」
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