【完結】バッカスの鍵にくちづけを

千鶴

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 二十八年前——
 
 天災や人災に打ち震えた一九九五年。
 銀座の高級クラブの一角で、鷹司直幸たかつかさなおゆきはため息混じりにウイスキーを煽っていた。
 
『なあに、暗い顔して』
『いやさ。親父がまた強引に女性を連れてきだんだよ。僕の妻にって』
『あら結婚なさるの。良いじゃない。おめでたい話、私好きよ』
 
 クラブのママが小さく笑えば、直幸は顔の前で大袈裟に手を振る。
 
『おめでたいもんか。相手の女性には伴侶がいたんだ。それを無理やり別れさせて……冗談じゃないよ。そんな結婚、うまくいきっこない』
『でも美人なんだろう? その女性』
 
 横からそう口を挟んだのは、夏川昭彦なつかわあきひこ
 昭彦は直幸の同級で、その父親は地元である千葉県市川市の市長。昭彦は、その秘書を務めていた。
 
『そりゃあ……って、そういう問題じゃないよ。彼女は大学在住のうちから研究所に引き抜かれるような超絶優秀な社員でさ。人徳もある彼女の人生を台無しにした僕は、社員から白い目で見られてる』
 
 がっくし肩を落とす直幸。その背中を大袈裟に叩けば、昭彦は大口を開けて笑った。
 
『まあまあ、そんな噂は自然と風化するさ』
『噂っていうか、事実なんだけど』
『なんでも良いんだよ。そんなことよりさ、相談があるんだけど』
 
 昭彦はぐぐいとソファに尻を押し付けて座り直す。
 
『ほら今度、直幸の親父さんの出資で高校が建つだろう。名前なんつったっけ……ああ、淑和学院。その建設費が嵩んじゃってるみたいで、ゼネコンやら下請けがヒーヒー言っちゃってさ。ディベロッパに話つけても金は出せないの一点張りで建設が止まっちゃってんのよ。それはほら、親父さんとしても困るだろう? 巡り巡って俺のところまで話がきちゃって。金、もう少しなんとかなんないか?』
 
 その時。昭彦の隣でお酒を作っていたホステスが、耐えきれない様子で吹き出した。
 
『いやいや。自分の結婚相手のことすら意見できないのに、そんなことパパに言えるわけないじゃーん。おじさん、超ウケる』
『ちょっと美和ちゃん』
 
 くるくるグラスを回しながら悪気もない美和の態度に、ママが注意を入れる。昭彦も当然気分を害し、冷徹な面持ちでホステスの言葉に応戦しようと顔を向けた。
 だが。作り終わった酒を両手に、それまで伏せていた瞼の奥と目が合った瞬間。昭彦は、その顔貌に吸い寄せられそして——息を呑んだ。
 
 ふんわりカールした前髪。小さな顎。玉の肌にほのかに色づくオレンジのチークは、小さな唇が微笑めば花が咲いたように鮮やかに見えた。
 
『あ、えっと、美和ちゃん』
『ん?』
『いや……その、まあ。きみの言う通りだよね。はははっ』
 
 揺れるまつ毛と、その奥で煌めく美和のまんまるな瞳から、昭彦は目が離せない。
 おじさんなどと呼ばれることに、本来の昭彦ならば声をあげてもおかしくないのだが、自らのプライドと美和からの好意とを天秤にかけた時、昭彦が選び取った答えは後者だった。
 
『シャンパン入れてもいい?』
 
 美和の願いを、昭彦は当然受け入れる。
 
『二人きりに、なりたいな』
 
 美和の誘惑を、昭彦は拒むことができない。
 
 
 
 
 
 
 
「美和——この女の出現が、すべての歯車を狂わせたと言っていい。妖艶なその魅力に充てられた昭彦さんはそれ以降、毎日のようにクラブに通い、美和の好意を独占しようと必死になった」
  
 東伍はアクセルを踏みながら、後部座席で語る彼女に耳を傾ける。
 あれから頭痛の落ち着いた東伍は再び車を発進させ、交差点に差し掛かるたびに指示された方向へとハンドルを切っていた。
 
「その鷹司直幸って、きみの……鷹司泉の父親だろう? そして優秀な研究員っていうのはきみの母親だ。昭彦ってやつは置いといても、きみの両親の方はうまくいったんじゃ」
「いいえ、そうじゃない。昭彦さんを虜にした美和には後に子供ができるのだけれど、美和はそのお腹の子の父親が直幸さんだと言い張った」
「え、なんで」
「天秤にかけたのよ。昭彦さんと直幸さん、どちらを手に入れた方が得なのか。まあ、そういう意味で言えば、昭彦さんと美和は似たもの同士だったのかもしれないわ。あ、その信号右折してくれる?」
「いやでも、あそこの看板。この先は立ち入り禁止って」
「いいから進んで。道は安全だから」
 
 東伍は言われた通りにウインカーを出すと、ハンドルを切る。確かに道は安全そうだと納得して、それから話を元に戻した。
 
「……美和は、直幸とも関係を持っていたってこと?」
「どうでしょうね。直幸さんにその覚えはなかったそうだけど、正直本当のところはわからない。彼らは時々、別荘やクルーザーを貸し切って泊まりで出かけたこともあって、酔った美和が直幸さんのベッドで目を覚ましたことも何度かあったみたいだから。でもね。真実なんてこの際どうでもいいの。問題なのは、そのことを知った直幸さんの父鷹司慶三たかつかさけいぞうが、美和を鷹司家に迎え入れてしまったことなのよ」
 
 美和の顔貌を見るや否や、慶三はその家族構成や生い立ちを確認すると満足したように頷く。そうして、鷹司の家で一番豪華な客室を美和に当てがった。
 更には直幸の妻である美聖を使用人宿舎に引っ込め、美和のお腹が大きくなる間、直幸と美聖との一切の接触を認めなかったという。
 
「その頃美聖は、やっと気持ちの整理をつけて直幸さんに向き合おうと努力していた。前の伴侶との離婚を経て、鷹司の人間として生きることを決意し、いざ入籍を目前に控えた、そんな矢先のことだったわ」
「酷いな。美聖さん、ひどく落ち込んだんじゃ」
「まさか」
 
 東伍が問いに、彼女は小さく笑う。
 
「その逆よ。美聖はその機を好都合だと、内々に進めていた計画を遂行したわ」
「計画?」
 
 彼女は、座席のシートに乗せていた箱を手に取る。バックミラーで確認すれば、東伍はその箱に見覚えがあった。
 
「その箱……鍵の」
「この箱はね、鷹司製薬のラボから持ち出した機密の研究資料を隠すために作られたの。目的は研究の打ち止め。その為の最終手段がこの箱と、中に収められた鍵だった。鍵は元々存在していたものもあれば、新たに作られたものもあって。美聖は他の鍵と区別するために、色のついた石をはめ込んだわ」
 
 鍵は全部で五つ。東伍は、その鍵を一つずつ思い浮かべた。
 
 
 赤は、ラボにある美聖の引き出しで中身は日記。黄は、居酒屋の下駄箱、USB。そして青は、小瀬メンタルクリニックの地下の扉。
 
 
「きみがさっき見せてくれた鍵には、何色の石が?」
「黒よ」
「じゃあ、最後の鍵の石は緑か」
「みどり?」
 
 途端、後部座席の彼女がグイと前に身を乗り出し、慌てた様子で東伍の左頬に言葉をぶつけた。
 
「あなた、緑の石の鍵を見たことがあるのね? どこで見たの? その鍵で開く場所はどこ?」
「……まだ」
「え?」
「まだ言えない」
 
 早口で捲し立てる彼女に、東伍は冷静に返す。指示もないのに乱暴にハンドルを左に切ると、彼女は遠心力で後部座席のシートになだれて言葉を失った。
 
 一本道。すでに時刻は四時を回り、空は東伍の心模様同様、薄らと明るい。
 そうして東伍は、数メートル前から既に見えていたコンクリート塀に辿り着くと、車を停めた。
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