【完結】バッカスの鍵にくちづけを

千鶴

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 一九九六年。
 鷹司家に嫁いだ美和が女児を出産した。
 それまでも鷹司家の恩恵を受け、何不自由ない贅沢な生活を手に入れていた美和は、出産を経たことで一層、その立場を強固なものにしていく。
 赤子を置いて夜の街に繰り出せば店は貸切り。散財時には一般客を店から追い出し、使用人や赤子の世話係に対する罵詈雑言も目に余った。
 だが、それを咎めるものは存在しなかった。夫である直幸は家に寄り付かなくなり、出産前までは体調を気遣ってしょっちゅう様子を伺いにきていた慶三も、子が生まれるとパタリと訪問をやめていた。
 
 美和は自由な生活を堪能した。欲しいものは全て手に入れ、暴飲暴食を繰り返すも、鷹司製薬が開発したダイエットサプリでそのスタイルは健在。とうとう欲に溺れた美和が、複数のホストを自宅に呼んではべらずようになった頃。異変は起きる。
 
「美和が子供を産んでから三年ほどだった頃よ。直幸さんは、とうとう美和に鷹司の家を去るように告げたわ」
「そりゃ自分の子かどうかも不明瞭、さらには子供の面倒も見ずに遊び呆けているような女、見限られて当然だな。だけど素直に出ていったのか? 話に聞く限り、そんな従順そうな印象はないけど」
「もちろん美和はゴネたわよ。だけど、最終的には鷹司の家を去った。その理由の一つが、美聖の妊娠」
 
 美和の出産後、直幸が鷹司の本邸に顔を出さなくなったのは、使用人宿舎に追いやられた美聖と会っていたからだった。
 
「直幸さんと美聖……始まりが無理矢理だっから、その関係は最初こそ険悪だったものの、二人は時間をかけてゆっくりと打ち解けていった。その点、使用人宿舎という場所は都合が良かったの。あ、恭一さんが鷹司の使用人だったって話は聞いてる?」
「ああ」
「その頃私は美聖が心配でよく宿舎を訪ねていて、恭一さんとも顔見知りに。恭一さんにはまだ、直幸さんの秘書なんて肩書はついていなくてね。今思えば四人で過ごしたあの日々が、私たちの人生での数少ない平穏な時間だったように思う」
 
 そうして遂に美聖は妊娠。同時に、美聖はこれまで一人で温めてきた計画を、例の箱と一緒に皆に提示する。
 
 “鷹司の不穏な研究データを破壊したい”
 
「この言葉を皮切りに美聖が口にした内容は、衝撃的なものだったわ。幼い頃から父親の狂気に触れていた直幸さんでさえ、美聖が暴露した事実には腰を抜かしていた。だから私たち三人は、美聖の計画を支持することにしたの」
「支持って、具体的にはどんな?」
「最終目的はもちろん、研究データの破壊よ。だけど事はそう単純じゃなくて。何故ならこの研究には、実験のための検体が何人も存在したはずなのに、彼らはいまだ行方不明なままで生存を確認できていないの。まずは彼らの所在を突き止め現状を把握し、現状確認及び対処法を考案した上で世間に公表したい、美聖はそう考えていたわ。まあ、対処法と言ったところで、望みはかなり薄いようだったけどね」
 
 一度人格ゲノムを組み込まれた人間は、二度と元に戻ることは出来ない。美聖は研究データを思考し、既にそう結論づけていた。
 
「検体を元に戻す。そのわずかな希望がある限り、人格ゲノム及びその研究データを破壊するわけにはいかなかった。けれど、データを一箇所に留めておくにはリスクが高い」
「なるほどな。だから美聖さんはその鍵入りの箱を製作して、データを分散させることを思いついたってわけか。でも、それが美聖さんやあんたの死とどう繋がるんだ。美和はもう、鷹司の家を追い出されてしまったんだろう?」
 
 東伍の問いに、小春はゆっくり首を横に振る。
 
「私たちもそう思っていた。だからこそ、私たちはデータ解析と情報収集に全力を注いでいたわ。でも、美聖の出産当日に……」
 
 小春は言葉を詰まらせる。東伍が目をやれば、小春は歯を食いしばって後悔に耐えているようだった。
 
「美和は産院に侵入して、美聖の点滴バッグに薬を混入させた。看護師のフリをしてね。美聖の容体は急変。そのまま、帰らぬ人に」
「それって……鷹司泉は、鷹司美聖の子供じゃないのか?」
「いいえ。泉は正真正銘、美聖の娘よ。点滴は母体を経て、赤子である泉の身体にも巡った。でも奇跡的に泉の命は助かったの。但し、特別な体質・・・・・を付与された。美和が混入させたものがなんなのかは分からない。でもそれは、人格分裂ゲノム——pasmontパスモントに関係するものだったはずよ。その後遺症で、鷹司泉の身体には今でも、多数の人格が現存する」
「美和が美聖さんを殺したことは世間に知れなかったのか? 捕まってもおかしくないだろう」
「美聖の死は公表されていないわ」
「どうして」
「鷹司慶三が公表させなかったからよ。美聖が出産に携わった産院の医院長、彼と慶三は繋がりが深くてね。美和が点滴バッグに混ぜたなんらかの薬は、さっき言った通りゲノム開発に関わるものであった可能性が高い。公表するわけにはいかなかった」
「まさか。人が死んでいるんだぞ? そんな個人間のやり取りで、簡単に無かったことになんて」
「美聖は死んだことにはなってない。行方不明として警察に届が出されてる」
 
 小春はなんとか気持ちを立て直して顔を上げると、同時に立ち上がる。部屋の壁際に設置された棚まで歩いて向かって、そっと引き戸を開けた。
 
「美和が美聖の病室に入ったことは確認できてる。点滴バッグに何かを注入した姿もね。口で説明するより、観るほうが早いわ」
 
 見れば、小春の手にはUSBメモリ。
 小春はそれを近くのモニターに繋げると、パネルをタッチ操作して、ひとつの映像データを選択した。
 
 ジリジリと雑音の混じったその映像は、床に近い画角から美聖の横たわるベッドを見上げている。美聖は眠っているようだった。
 
「あ」
 
 東伍が声を漏らした時。映像には、長い巻き髪を揺らす一人の女が写り込む。
 
「この女が、美和よ」
 
 美和は眠る美聖を無表情で数秒眺め、その後、鞄から取り出した注射器のようなものを点滴バッグにぷすりと刺した。
 立ち去る美和。しばらくして、美聖の身体に変化が訪れる。
 
「注意して。おぞましいから」
 
 小春の言葉の意味を、東伍はすぐに理解する。
 打ち上げられた魚のように激しく跳ねる美聖の身体。そうしてすぐに、点滴の針が刺さった左腕から蒸気のようなものが立ち昇り始めた。荒い映像でも、美聖の瞼が全開なことがよく分かる。点滴針を引き抜き、うずくまるように上半身を折り曲げるも、蒸気は腕から全身へ。
 まるで砂でできた人形のように、美聖の身体は腕から肩、頭部と、順番に崩れ始める。
 
「なんだよ、これ……」
 
 小春は見るに耐えかねている東伍の横顔を確認すると、おもむろに映像を切った。
 
「ごめんなさいね。後数分はこの映像が続く。そしてこの後、私と恭一さんが病室にやってくるわ。美聖の異常を目の当たりにした私たちは、ただただ狼狽えるしかなくて」
「この映像はどうした。なんでこんなものが録画されてるんだ」
「美聖が内緒で設置していたの。自分の身に何かあったときには、映像データを回収するように言われていたわ」
「それはつまり、美聖さんは自分の身に危険が迫ることを分かっていたってことじゃないか。なんで逃げなかったんだ」
「言ったじゃない。産院の医院長と慶三は深い仲だったって。逃げられない……いや、違う。美聖は最初から、逃げる気なんてなかったんだと思う。自分の身を投げ打ってでも、慶三の企みに深く切り込みたかったのよ。その産院の名を、資料で見たことがあったから」
「見たことがあった? ……まさか、その産院って」
「なぎさ総合病院よ。ここ斎木の森と同じく、例のゲノム研究の協力施設として資料に名を連ねていたでしょう。そして、その病院はいま名を変えている。小瀬メンタルクリニック、ってね」
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