【完結】バッカスの鍵にくちづけを

千鶴

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「くっ……ああ、頭がっ」
 
 顳顬を右から左に貫かれような衝撃と痛みが東伍を襲う。
 瞼を閉じ、歯を食いしばって背中を丸めながらその場をゆらゆらと彷徨う東伍を見て、凛子は数歩後退りした。
 
「み、水野っち?」
 
 同時。その様子に共鳴するかのように小春の心臓が波打ち、呼吸が荒くなる。
 
「ママ?!」
「小春さん!」
「恭一さん……薬を、早くこの薬を、水野さんに」
 
 小春から薬を受け取った恭一は、慌てて東伍に駆け寄った。だがそうして差し出された薬を、東伍は恭一の手から叩き落とす。
 
「いらない……そんなもの、いらない。俺はラボなんて、もう絶対に行かないぞ……」
 
 痛みに耐えながら、東伍は壁に背を打ちつけ、そのまま地面に座り込む。
 浅い呼吸を繰り返し、ダンゴムシのように身体を丸めて頭を抱える東伍。恭一は何度か呼びかけるもその声は届かず、狼狽える恭一が助けを求めて小春を見れば、小春は青白い顔をして微笑んでいた。
 
「恭一さん、凛子……こっちに来て。私はもう、持たない」
 
 恭一と凛子が慌ててそばに寄ると、小春は震える手で凛子の頬を包んだ。
 
「凛子。大きくなったね」
「ママ……」
「あんなに小さくて、泣き虫で、抱っこしないとすぐ不機嫌になっちゃう凛子が、気付いたらこんなに綺麗になって。ママ、驚いたよ」
「いやだよ。やめてよママ」
「ごめんね。ずっと寂しい思いをさせて。そばに居られなくて。こうして、もっと、たくさんたくさん、抱きしめてあげなきゃいけなかったのに」
 
 小春の両手は、頬から肩に。そうして、思い切り凛子を引き寄せる。
 小春と凛子、互いの身体が小刻みに揺れ、もう言葉を発せないほどにしゃくりあげる凛子の背中を撫でながら。
 小春は、見上げるようにして恭一に目を向けた。
 
「恭一さん」
「うん」
「恭一さん」
「うん」
 
 何度も、何度も。
 小春は恭一の名を呼ぶ。
 
「私ね。自分の声、もう思い出せないのよ」
「大丈夫。僕は覚えてる。今も、ちゃんと小春さんの声だよ」
「ほんとう? そっか。良かった。じゃあ、ちゃんと伝わるね。大丈夫だよね」
「うん。伝わってるよ。大丈夫」
「凛子をお願い」
「うん」
「この子は、誰よりも優しい子だから」
 
 
 震える唇はぎこちなく弧を描き、その手は相変わらず凛子の背を優しく撫でていて。
 溢れ出す思いを、小春は目一杯の笑顔に込めた。
 
 
「愛してる。さようなら」
 
 
 
 
 
 
 力を失った小春の頭が、凛子の肩に沈んだ。
 背中を撫でていた腕はだらりと垂れて、前のめりのまま車椅子からずり落ちた小春。その身体を、凛子は一身に受け止めそして、抱きしめる。
 
 だが次の瞬間。
 項垂うなだれた身体は生気を取り戻し、頭を上げると同時に声を上げた。
 
「……凛、子?」
 
 辺りを見回す。その場に恭一、それから座り込み頭を抱える東伍を見つけ、泉は目の前の凛子を不思議そうに眺めた。
 
「私……また意識をなくしてしまったんですね。凛子を、傷つけましたか?」
 
 心配する泉の顔を見ないまま、凛子はすぐに泉から離れて立ち上がる。
 一瞬泉に背を向けて、それから強引に顔を手で擦ると、再び振り返りニコリと笑った。
 
「いいや? 全然。問題ない」
「そう、ですか。申し訳ありませんが、状況を説明して頂いても」
 
 凛子は淡々と、泉にこれまでの経緯をつげる。
 その間、恭一は座り込む東伍に寄り添っていた。
 
「なるほど。水野さんが私を連れて宿舎を飛び出し、凛子と恭一さんが後を追った……その時、私の人格は一体誰だったのでしょうか」
「……エルだよ。あいつは外の世界のことには皆目無関心だから。ただ、この場所には覚えがあったみたいで。水野っちを案内したって」
 
 凛子の言葉に泉は一瞬を開けるも、何度か頷いたのちに話を続ける。
 
「ところで、ここはどこです? トンネルのようですが」
「斎木の森だよ。ほら、泉が昔ママと一緒に病院に行ってさ。検査やらなんやらして、解離性同一性障害って判断された時。意識を取り戻した泉が、気づいたら居たって言ってた場所。覚えてない?」
「ああ、斎木の森。当然覚えています。病院に連れて行ってくれたその日から、小春さんは行方不明になってしまいましたから」
 
 泉が小春の名前を出せば、凛子は瞬時、眉間に皺を寄せる。
 その顔を、泉は見逃さなかった。
 
「やはり、何かあったのですね」
「なにもないよ」
「何を隠しているのですか?」
「だからなんでもないって!」
 
 通路には、無造作に転がった二つの懐中電灯の明かりが交差しており、その一方の明かりが凛子の頬を掠めていた。
 涙の跡。その、ほんのりと光る筋を見て、泉は小さく息を吐く。
 
「わかりました。水野さんも体調がすぐれない様子ですし、今はとにかくここを出て、一度宿舎に戻るのがいいのではないでしょうか。残りの鍵の手がかりも掴まなければいけませんし、実験体にされた方達の安否の確認も」
「ダメだ。俺たちはこのまま、先に進むんだ」
 
 そう声を上げながら立ち上がる東伍を、恭一が支える。
 
「小瀬メンタルクリニックの地下室から繋がる通路、その奥にあったように、この通路の行き着く先にはエレベータがある。ジンの父親が作ったそのエレベータは、二機とも同じ場所に辿り着くんだ。俺は、その場所がどこだか知っている」
「同じ場所? 水野っち、エレベータに乗って意識を失った後に目覚めた場所は、確か淑和学院のプールの更衣室って」
「とにかく、今はこの通路を抜ける。俺にも時間がない。意味はわかるな? 船井」
 
 不穏を纏う空気。
 凛子を見る東伍の瞳に、迷いはない。
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