【完結】バッカスの鍵にくちづけを

千鶴

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 一瞬の静寂。それを高笑いで破ったのは女だった。
 
「おっかしい。私が陽子じゃない? 東伍、小中高と私の卒業アルバム見せましょうか? 私の顔の下には、しっかりと小林陽子って名前が刻まれてるわよ」
「得意料理はなんだ」
「……は?」
「生クリームは好きか? ファミレスで俺が頼む定番メニューを言ってみろ。陽子が頼むメニューはなんだ? 言えるのか?」
「なんなの、急に」
 
 戸惑いの笑みを浮かべる女に、東伍は畳み掛ける。
 
「答えられないよな。なぜなら俺は陽子とファミレスに行ったことはあっても、お前と行ったことはない。お前の手作り料理を食べたことはないし、遊びに出かけた記憶ひとつ今の俺には存在しないんだ。この意味、分かるだろ?」
 
 女はツンと顎を上げながら必死に笑顔を保っていた。
 
「お前は、陽子のガワを被った夏川千紗子。この薄気味悪いカプセルん中で目を瞑ってるのが本当のお前の姿だ、違うか」
 
 東伍が示したカプセルには、まだ幼さの残る顔貌が目を閉じて入っている。小春や直幸同様、繋がれた管はサーバーらしき黒いボックスに繋がっていた。
  
 夏川千紗子。そう呼ばれた女の顔から、笑顔が消える。女は鼻から深く息を吐くと、小瀬へと一歩近づいた。
 
「やっぱり、ちゃんと継続的に飲ませなきゃダメだったわ。だから私は反対だったのよ。あんな地下に東伍を閉じ込めて、案の定壊れちゃったじゃない。ソウ、どうしてくれるのよ」
「ま、待ってよヒナタ。これは研究に必要な過程だと何度も説明したじゃないか」
「口答えしないで!」
 
 ばちん、と女の平手が小瀬の左頬を捉えた。小瀬は殴られた顔をすぐに女に向け、潤んだ瞳で謝罪を伝えると眉を下げる。
 女は不快感を抑え込むように数回肩で息をすると、無理やりに口元に弧を描いて東伍に向き直した。
 
「東伍、すぐにサプリを飲みましょう。飲めば忘れる。元の東伍に戻れる。大体そんな事を言うのなら、私だって今のあなたと結婚したいわけじゃないわ。新しい方・・・・の東伍と結婚したいの。何もかも一からやり直しましょうよ。ね? 私、いくらでも付き合うから」
「お前……」
「東伍はね、特別なの。毒にも近い作用をもたらすゲノムの組み換えに耐えられた、希少な検体なのよ。鷹司泉のように、出生のバグで生み出された欠陥品じゃない。あなたは完璧なの。そう……代わりなんていらない。私はあなたが欲しいの。陽子が欲しがったよりずっと完璧な、水野東伍が」
 
 一歩ずつ。女は東伍に歩み寄る。
 その顔貌に重なるように、東伍の頭中の小林陽子が明るく笑った。
 
 “水野くんは髪、黒くて長い方が好きでしょう?”
 
 
 
 
 
 
 東伍が記憶にもぐったほんの一瞬。その隙に女の腕は、手のひらが東伍の頬に触れる寸前まで伸びていた。
 その腕を回避するように、泉が咄嗟に東伍の腕を引く。
 
「水野くんに、近づかないで」
 
 そう小さく発した泉の視線は、明らかな敵意を女に向けていた。女は泉を見下すと、反応する。
 
「水野、くん? 今あなた、東伍を水野くんって」
「千紗子、もうやめるの。もう十分でしょう?」
「まさか……あなた陽子なの? そうなんでしょ?! すごいわ、久しぶりじゃない!」
 
 泉の顔をした陽子。その出現において、陽子の顔をした千紗子は歓喜を剥き出しにその場を飛び跳ねた。
 
「ねえ、みて。本当はね陽子、あなたに一番最初にこの姿を見せたかったのよ。すっかり綺麗になったでしょう? 大人になってから、脱毛とか、エステとか筋トレとか、努力は怠らなかった。おかげでほら、あの時のまま、私の好きな陽子が、朝起きたら毎日鏡に映っているの、こんな幸せなことってある?」
 
 自分だけの世界に没入する千紗子は止まらない。
 
「ずっと伝えたかった、ずっと! どの検体に組み込んでも、陽子のゲノムは反応を見せずに検体が壊れしまって、絶望した。まあ、その度におこぼれ・・・・を貰えるのは良かったんだけど、私はどうしても、もう一度あなたに会いたかったの。だから鷹司泉が人格分裂ゲノム、pasmontパスモントの適合者だと判明した時、藁にもすがる思いで陽子の人格データを組み込んだわ。まさか、成功していたなんて。嬉しい……こんなに嬉しい日はないわ。これから東伍を修理・・して、新しい陽子陽子。幸せに暮らしていける」
「ふざけないで!」
 
 陽子が叫ぶ。
 
「私や水野くん、それに研究に犠牲になった人たち皆、千紗子のおもちゃじゃないのよ? こんなメチャクチャなことして許されるわけない。あなたは昔から異常だった。私のその手に傷を付けたあの日から、ずっとよ!」
 
 陽子が示した陽子千紗子の手の甲には、薄黒くくすんだシミのような窪みがあった。
 陽子千紗子はそれを一瞥すると、愛くるしく手の甲をさする。
 
「そうね。確かに。陽子と私の関係は、この傷から始まったのかもしれない。陽子が忘れられなくて、陽子を失いたくなくて。でもね、私って可哀想なのよ? 異常だなんて酷いこと言うけど、私がこうなったのは私のせいじゃない。だって仕方がないじゃない。元々は母が、人を狂わす異常者だったんだもの」
 
 千紗子のこの発言で、東伍は小春との話を脳裏に馳せる。
 
「そうか……夏川昭彦なつかわあきひこだ。夏川千紗子の父親は、市議の夏川昭彦。つまりお前は、美和の娘なんだな」
 
 東伍が発した美和の名に、恭一は目を見開く。そんな様子に構うことなく、千紗子は東伍の言葉を肯定した。
 
「可哀想なお母さま。本当なら今頃、母はそこに眠る鷹司直幸の妻、私はその娘として豊かな暮らしを保証されるはずだった。それなのに、川村美聖なんて一研究職員の妊娠で事態は見事にひっくり返っちゃってね。騙された挙句、鷹司の家を追い出されたお母さまは復讐の鬼になってしまった。でも考えてみて。これって当然の結果よね? お母さまはなにも悪くない」
「そんな道理は通らない。そもそもお前の母親は、父親が夏川昭彦であるにも関わらずお前が直幸さんの子供であると嘘をついた、追い出されて当然だろう」
 
 強気な東伍を、女は鼻で笑う。
 
「東伍。あなたは人の気持ちってものがわかってない。初めから拒絶されるのと、一度受け入れられてから弾かれるのとでは全然意味が変わってくる」
「だとしても、それが人を殺していいってことにはならない」
「……殺した?」
 
 急に熱を冷ました女は、勝ち誇ったように眉毛を上げた。
 
「一体、誰が誰を殺したというの?」
「白々しいな。美和が出産間近の美聖さんの点滴バッグに、何かを混入する映像を観た。お腹の中にいた鷹司泉は奇跡的に助かったが、美聖さんは亡くなっただろう。美和が殺したんだ」
「どうしてそんなことがわかるの?」
「だから映像を観たんだよ」
「それだけ? なら遺体は? 美聖さんの亡骸はどこにあるの?」
 
 その物言いに、東伍は嫌悪感を表に出す。
 
「どういう意味だ」
「殺されたというには証拠がいるわ。映像が本物だとどう証明する? まあ、仮に警察が映像を受け入れてくれたとして、その犯人であるお母さまは今、どこにいらっしゃるのかしら」
「そんなもの、小瀬の病院を調べれば証拠なんていくらでも」
「旧なぎさ総合病院、今でいう小瀬メンタルクリニックはもう、跡形もないのよ」
「?!」
「東伍が地下でジンと仲良くしてる約十日、その間に全て潰して更地になったわ。あ、地下を掘ってみる? 話によれば、その部屋も消し炭になってしまったそうじゃない。ねえ、そう言っていたわよね? ジン」
 
 未だ後ろ手を組んだまま、サングラスにマスク姿で仁王立ちの男。
 男は女に声をかけられると、躊躇ためらいもなく身に付けていた装飾品を剥ぎ取った。
 薄い眉毛に青白い肌。皮の剥けた唇。そして、目の下の濃いクマ。
 突然の再会に、東伍は警戒を深める。
 
「痩せた身体がずいぶん元に戻ったんじゃないか、ジン」
「そっちこそ。まあ、それでも昔に比べたらまだまだ、ヒョロいけどな」
 
 ソウの後ろで、ジンが投げやりに笑った。
 そのやりとりを眺めたあと、女は満足げに何度か頷く。
 
「考えてみて、生きるってなんだと思う? 同時に、死ぬとは何を定義する? 肉体が衰え、やがて骨が曲がり髪が抜け、脳が縮小……そんな残酷な未来を回避できる方法があるのだとしたら、使わない手はないでしょう? 今の私たちにはそれができるの。あなたと、そこにいる鷹司泉さえその気になれば、命はもっと、手軽・・になる」
 
 女が語る中、東伍の視線は変わらずジンと噛み合っていた。
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