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黒曜の瞳に囚われて
第一章:偽りのダイヤモンド
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シャンデリアの光が降り注ぐ、帝都グランドホテルの大広間。そこは今、国の名だたる名家が集う、年に一度の社交界の頂点ともいえる夜会の舞台となっていた。しかし、その煌びやかな光は、今この瞬間、一人の令嬢にとっては残酷なスポットライトと化していた。
「オーレリア・ヴァレリウス! この場で貴様との婚約を破棄させてもらう!」
甲高く、傲慢な声がホールに響き渡った。声の主は、公爵家の嫡男、ジュリアス・ボルジア。私の婚約者――いや、元婚約者となる男だ。彼の腕には、男爵令嬢のロクサーヌ・モンローが、勝利を誇示するように妖艶な笑みを浮かべて絡みついている。
「ジュリアス様……どうして……」
かろうじて絞り出した私の声は、喧騒にかき消されそうなほど弱々しかった。
ジュリアスは、私をゴミでも見るかのような冷たい目で見下ろした。
「理由だと? 鏡を見てみろ。その地味な顔、覇気のない瞳、まるで色のない花だ。隣にいるだけでこちらの価値が下がる。それに比べてロクサーヌは、どうだ。美しく、刺激的で、俺の隣に立つにふさわしい!」
ロクサーヌがくすくすと笑う。「ごめんなさい、オーレリア様。ジュリアス様が、どうしても私でなければ嫌だとおっしゃるものですから」
その言葉に、周囲から同情や嘲笑の視線が突き刺さる。父であるヴァレリウス伯爵の面目は丸潰れだろう。ただでさえ傾きかけている家が、これで完全に社交界から爪弾きにされるかもしれない。
絶望的な状況。なのに、私の心の奥底では、奇妙な安堵感が芽生えていた。これでやっと、ジュリアスの支配的な態度や、私をアクセサリーのようにしか見ない空虚な視線から解放されるのだ、と。
私は、ぐっと唇を噛み締め、背筋を伸ばした。震える足に力を込めて、せめてもの意地で毅然と振る舞おうとした。
「……ジュリアス・ボルジア様。お言葉、確かに承りました。これまでのお心遣い、感謝いたします。どうぞ、ロクサーヌ様とお幸せに」
精一杯の強がりを口にして、踵を返そうとした、その時だった。
ふわりと、上質で落ち着いた白檀の香りが鼻を掠めた。そして、低く、それでいてホール全体に響き渡るような声が、私の耳元で囁かれた。
「――彼は、ダイヤモンドの原石をただの石ころと勘違いする愚か者らしい」
驚いて顔を上げると、そこに立っていたのは、見たこともないほど美しい男性だった。夜の闇を溶かし込んだような黒髪に、全てを見透かすかのような鋭い黒曜の瞳。まるで影と大理石から神の手によって彫り出されたかのような、人間離れした美貌を持つ彼は、仕立ての良い漆黒のタキシードを完璧に着こなし、他の誰とも違う圧倒的な存在感を放っていた。
彼は私を庇うように一歩前に出ると、ジュリアスを冷ややかに一瞥した。
「公爵家の嫡男ともあろう方が、婚約者に対して随分な物言いをされる。ボルジア家の教育とはその程度のものか」
「な、貴様は誰だ!」
突然現れた男に気圧され、ジュリアスがたじろぐ。
男はジュリアスを無視し、再び私に向き直った。その黒曜の瞳が、私だけを真っ直ぐに捉える。
「オーレリア・ヴァレリウス嬢。私はサイラス・ナイトシェードと申します。――単刀直入に申し上げましょう。あの愚かな男への最高の復讐は、貴女が世界で一番幸せになることだ。その手伝いを、私にさせてはいただけませんか?」
「え……?」
あまりに突飛な申し出に、私は言葉を失った。サイラス・ナイトシェード。その名は聞いたことがない。しかし、彼の佇まいは、ただ者ではないことを雄弁に物語っていた。
サイラスと名乗った男は、私の返事を待たずに続けた。
「私と、契約を。貴女を私の『偽りの婚約者』として迎え入れたい。見返りは、ヴァレリウス家の完全な再生と、貴女が何不自由なく暮らせるだけの保証。そして、いずれ貴女が心から愛する者を見つけた時には、綺麗さっぱり身を引きましょう」
「偽りの、婚約者……?」
「目的は、私の周りに群がるハイエナ共を牽制するため。貴女のような、清らかで芯の強い女性が隣にいてくれれば、面倒が省ける」
彼の提案は、あまりにも魅力的で、そしてあまりにも胡散臭かった。しかし、今の私には、藁にもすがる思いだった。家族を、家を守りたい。そして、私を侮辱した男たちを見返したい。
私は、彼の黒曜の瞳を見つめ返した。その奥に、冷徹さだけではない、何か深い色が見えた気がした。
「……分かりました。その契約、お受けいたします」
私の答えを聞くと、サイラスは満足そうに微笑んだ。その笑みは、氷の彫刻にほんのりと灯がともったように、ぞっとするほど美しかった。
彼は私の手を取り、その甲に恭しく口づけを落とす。
「契約成立だ、私の宝石。――さあ、行こう。こんな下劣な舞台は、我々にはふさわしくない」
サイラスはそう言うと、唖然とするジュリアスとロクサーヌ、そして会場中の人々を置き去りにして、私の腰を抱き、毅然とホールを後にした。
彼の腕に抱かれて歩きながら、私は白檀の香りに包まれ、これから始まるであろう未知の日々に、不安と、そしてほんの少しの期待を抱いていた。
これが、私の人生が劇的に変わった夜。そして、サイラス・ナイトシェードという男の、深く甘い執着に囚われる日々の始まりだった。
「オーレリア・ヴァレリウス! この場で貴様との婚約を破棄させてもらう!」
甲高く、傲慢な声がホールに響き渡った。声の主は、公爵家の嫡男、ジュリアス・ボルジア。私の婚約者――いや、元婚約者となる男だ。彼の腕には、男爵令嬢のロクサーヌ・モンローが、勝利を誇示するように妖艶な笑みを浮かべて絡みついている。
「ジュリアス様……どうして……」
かろうじて絞り出した私の声は、喧騒にかき消されそうなほど弱々しかった。
ジュリアスは、私をゴミでも見るかのような冷たい目で見下ろした。
「理由だと? 鏡を見てみろ。その地味な顔、覇気のない瞳、まるで色のない花だ。隣にいるだけでこちらの価値が下がる。それに比べてロクサーヌは、どうだ。美しく、刺激的で、俺の隣に立つにふさわしい!」
ロクサーヌがくすくすと笑う。「ごめんなさい、オーレリア様。ジュリアス様が、どうしても私でなければ嫌だとおっしゃるものですから」
その言葉に、周囲から同情や嘲笑の視線が突き刺さる。父であるヴァレリウス伯爵の面目は丸潰れだろう。ただでさえ傾きかけている家が、これで完全に社交界から爪弾きにされるかもしれない。
絶望的な状況。なのに、私の心の奥底では、奇妙な安堵感が芽生えていた。これでやっと、ジュリアスの支配的な態度や、私をアクセサリーのようにしか見ない空虚な視線から解放されるのだ、と。
私は、ぐっと唇を噛み締め、背筋を伸ばした。震える足に力を込めて、せめてもの意地で毅然と振る舞おうとした。
「……ジュリアス・ボルジア様。お言葉、確かに承りました。これまでのお心遣い、感謝いたします。どうぞ、ロクサーヌ様とお幸せに」
精一杯の強がりを口にして、踵を返そうとした、その時だった。
ふわりと、上質で落ち着いた白檀の香りが鼻を掠めた。そして、低く、それでいてホール全体に響き渡るような声が、私の耳元で囁かれた。
「――彼は、ダイヤモンドの原石をただの石ころと勘違いする愚か者らしい」
驚いて顔を上げると、そこに立っていたのは、見たこともないほど美しい男性だった。夜の闇を溶かし込んだような黒髪に、全てを見透かすかのような鋭い黒曜の瞳。まるで影と大理石から神の手によって彫り出されたかのような、人間離れした美貌を持つ彼は、仕立ての良い漆黒のタキシードを完璧に着こなし、他の誰とも違う圧倒的な存在感を放っていた。
彼は私を庇うように一歩前に出ると、ジュリアスを冷ややかに一瞥した。
「公爵家の嫡男ともあろう方が、婚約者に対して随分な物言いをされる。ボルジア家の教育とはその程度のものか」
「な、貴様は誰だ!」
突然現れた男に気圧され、ジュリアスがたじろぐ。
男はジュリアスを無視し、再び私に向き直った。その黒曜の瞳が、私だけを真っ直ぐに捉える。
「オーレリア・ヴァレリウス嬢。私はサイラス・ナイトシェードと申します。――単刀直入に申し上げましょう。あの愚かな男への最高の復讐は、貴女が世界で一番幸せになることだ。その手伝いを、私にさせてはいただけませんか?」
「え……?」
あまりに突飛な申し出に、私は言葉を失った。サイラス・ナイトシェード。その名は聞いたことがない。しかし、彼の佇まいは、ただ者ではないことを雄弁に物語っていた。
サイラスと名乗った男は、私の返事を待たずに続けた。
「私と、契約を。貴女を私の『偽りの婚約者』として迎え入れたい。見返りは、ヴァレリウス家の完全な再生と、貴女が何不自由なく暮らせるだけの保証。そして、いずれ貴女が心から愛する者を見つけた時には、綺麗さっぱり身を引きましょう」
「偽りの、婚約者……?」
「目的は、私の周りに群がるハイエナ共を牽制するため。貴女のような、清らかで芯の強い女性が隣にいてくれれば、面倒が省ける」
彼の提案は、あまりにも魅力的で、そしてあまりにも胡散臭かった。しかし、今の私には、藁にもすがる思いだった。家族を、家を守りたい。そして、私を侮辱した男たちを見返したい。
私は、彼の黒曜の瞳を見つめ返した。その奥に、冷徹さだけではない、何か深い色が見えた気がした。
「……分かりました。その契約、お受けいたします」
私の答えを聞くと、サイラスは満足そうに微笑んだ。その笑みは、氷の彫刻にほんのりと灯がともったように、ぞっとするほど美しかった。
彼は私の手を取り、その甲に恭しく口づけを落とす。
「契約成立だ、私の宝石。――さあ、行こう。こんな下劣な舞台は、我々にはふさわしくない」
サイラスはそう言うと、唖然とするジュリアスとロクサーヌ、そして会場中の人々を置き去りにして、私の腰を抱き、毅然とホールを後にした。
彼の腕に抱かれて歩きながら、私は白檀の香りに包まれ、これから始まるであろう未知の日々に、不安と、そしてほんの少しの期待を抱いていた。
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