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黒曜の瞳に囚われて
第二章:黒曜石の檻
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サイラス・ナイトシェードとの「偽りの婚約者」生活は、私の想像を絶するものだった。
彼が用意した住まいは、都心の一等地に聳え立つ高層マンションの最上階、ペントハウスだった。壁一面の窓からは、宝石を散りばめたような街の夜景が一望できる。
「今日からここが君の家だ。何一つ不自由はさせない」
そう言ったサイラスの言葉通り、私の身の回りには、次々と最高級の品々が運び込まれた。名だたるデザイナーが仕立てたドレス、目も眩むような宝石、一流の職人が作った靴やバッグ。まるで、人形に着せ替えをさせているかのようだ。
「サイラス様、こんな高価なものばかり……私にはもったいないです」
戸惑う私に、サイラスは呆れたように息をついた。
「いいか、オーレリア。君は私の婚約者だ。私の隣に立つ人間が、みすぼらしい格好をすることは許されない。君はただ、黙って私に飾られていればいい」
彼の言葉は冷たいようで、けれど不思議と不快ではなかった。彼の選ぶものは全て、私自身が気づかなかった魅力を引き出してくれるものばかりだったからだ。地味だと思い込んでいた自分の顔立ちが、プロのメイクアップアーティストの手にかかると、驚くほど華やいで見える。控えめな色ばかり選んでいた私が、真紅のドレスを纏うと、肌の白さが際立った。
サイラスは私に、教養も叩き込んだ。テーブルマナー、社交ダンス、数カ国語の会話、美術史、経済学。一流の家庭教師が次々とやってきて、私の頭脳を知識で満たしていく。
「君のその聡明な瞳は、もっと多くの知識を吸収するべきだ。空っぽの頭でただ美しいだけの女など、何の価値もない」
彼はそう言って、時折レッスンの様子を眺めては、満足そうに頷くのだった。
彼の態度は、あくまでも契約の履行。ビジネスライクなもののはずだった。しかし、時折、その仮面が剥がれ落ちる瞬間があった。
ある夜、社交ダンスのレッスンで男性教師とワルツを踊っていた時のことだ。教師が私の腰に手を回した瞬間、部屋の隅で見ていたサイラスの纏う空気が、すっと冷たくなった。
「――そこまでだ」
低い声でレッスンを中断させると、彼は無言で教師に退室を促した。そして、私の腕を掴むと、ぐいと引き寄せる。
「……今夜のレッスンは、私が直々に指導しよう」
「え、でも……」
「他の男に、気安く君に触れさせるのは気分が悪い」
そう言って私の腰を抱いた彼の手は、驚くほど熱かった。彼のリードは完璧で、私はまるで羽のように軽くステップを踏むことができた。間近で見る彼の顔は恐ろしいほど整っていて、心臓が大きく跳ねる。
「……いいか、オーレリア。君のその身体も、笑顔も、涙も、全て私のものだ。契約期間中は、他の誰にも渡さない」
耳元で囁かれた独占欲に満ちた言葉に、私の頬がカッと熱くなる。これは契約のはずだ。なのに、どうしてこんなにも胸がときめくのだろう。
またある時は、私が昔の癖で、つい俯きがちに歩いてしまったことがあった。
すると彼は、私の顎をすくい上げ、無理やり顔を上げさせた。
「前を向け。君は、誰にも卑下されるような存在ではない。私が保証する。これからは常に胸を張って、世界を見下ろすつもりでいろ」
彼の黒曜の瞳が、強い光を宿して私を見つめる。「君のその瞳は、濁った世の中にあって唯一の真実だ。曇らせることは、私が許さない」
彼の言葉は、呪いのように甘く、私を縛り付けた。彼は私を「宝物」「私の宝石」と呼んだ。それはまるで、美しい鳥を黄金の鳥籠で飼うような、歪んだ愛情表現だった。
けれど、その鳥籠は、私にとって心地の良い場所になりつつあった。誰にも認められず、自信を持てなかった私が、彼によって価値を与えられ、生まれ変わっていく。その感覚は、麻薬のような快感を伴っていた。
私は、この冷徹で美しい男の、本当の姿を知りたくなっていた。彼が時折見せる、深い孤独の影の理由を。彼がなぜ、これほどまでに私に執着するのかを。
しかし、彼の過去や仕事については、依然として厚いベールに包まれていた。時折、彼の書斎から漏れ聞こえてくる電話の内容は、穏やかなものではない。中国語やロシア語が飛び交い、緊迫した空気が漂うこともある。
「サイラス様、あなたはいったい……何者なのですか?」
一度、勇気を出して尋ねたことがある。
彼は一瞬だけ目を細め、そしてすぐにいつもの無表情に戻った。
「君が知る必要のないことだ。君はただ、私の隣で美しく咲いていればいい」
その答えは、私と彼の間に見えない壁があることを、改めて突きつけてくるようだった。
この生活は、偽りの婚約という契約の上に成り立つ、砂上の楼閣。彼が私に見せている優しさも、溺愛も、全ては契約の一部なのかもしれない。そう思うと、胸がちくりと痛んだ。
それでも、私は彼の黒曜の瞳に囚われ、その甘い檻の中から抜け出せずにいた。
彼が用意した住まいは、都心の一等地に聳え立つ高層マンションの最上階、ペントハウスだった。壁一面の窓からは、宝石を散りばめたような街の夜景が一望できる。
「今日からここが君の家だ。何一つ不自由はさせない」
そう言ったサイラスの言葉通り、私の身の回りには、次々と最高級の品々が運び込まれた。名だたるデザイナーが仕立てたドレス、目も眩むような宝石、一流の職人が作った靴やバッグ。まるで、人形に着せ替えをさせているかのようだ。
「サイラス様、こんな高価なものばかり……私にはもったいないです」
戸惑う私に、サイラスは呆れたように息をついた。
「いいか、オーレリア。君は私の婚約者だ。私の隣に立つ人間が、みすぼらしい格好をすることは許されない。君はただ、黙って私に飾られていればいい」
彼の言葉は冷たいようで、けれど不思議と不快ではなかった。彼の選ぶものは全て、私自身が気づかなかった魅力を引き出してくれるものばかりだったからだ。地味だと思い込んでいた自分の顔立ちが、プロのメイクアップアーティストの手にかかると、驚くほど華やいで見える。控えめな色ばかり選んでいた私が、真紅のドレスを纏うと、肌の白さが際立った。
サイラスは私に、教養も叩き込んだ。テーブルマナー、社交ダンス、数カ国語の会話、美術史、経済学。一流の家庭教師が次々とやってきて、私の頭脳を知識で満たしていく。
「君のその聡明な瞳は、もっと多くの知識を吸収するべきだ。空っぽの頭でただ美しいだけの女など、何の価値もない」
彼はそう言って、時折レッスンの様子を眺めては、満足そうに頷くのだった。
彼の態度は、あくまでも契約の履行。ビジネスライクなもののはずだった。しかし、時折、その仮面が剥がれ落ちる瞬間があった。
ある夜、社交ダンスのレッスンで男性教師とワルツを踊っていた時のことだ。教師が私の腰に手を回した瞬間、部屋の隅で見ていたサイラスの纏う空気が、すっと冷たくなった。
「――そこまでだ」
低い声でレッスンを中断させると、彼は無言で教師に退室を促した。そして、私の腕を掴むと、ぐいと引き寄せる。
「……今夜のレッスンは、私が直々に指導しよう」
「え、でも……」
「他の男に、気安く君に触れさせるのは気分が悪い」
そう言って私の腰を抱いた彼の手は、驚くほど熱かった。彼のリードは完璧で、私はまるで羽のように軽くステップを踏むことができた。間近で見る彼の顔は恐ろしいほど整っていて、心臓が大きく跳ねる。
「……いいか、オーレリア。君のその身体も、笑顔も、涙も、全て私のものだ。契約期間中は、他の誰にも渡さない」
耳元で囁かれた独占欲に満ちた言葉に、私の頬がカッと熱くなる。これは契約のはずだ。なのに、どうしてこんなにも胸がときめくのだろう。
またある時は、私が昔の癖で、つい俯きがちに歩いてしまったことがあった。
すると彼は、私の顎をすくい上げ、無理やり顔を上げさせた。
「前を向け。君は、誰にも卑下されるような存在ではない。私が保証する。これからは常に胸を張って、世界を見下ろすつもりでいろ」
彼の黒曜の瞳が、強い光を宿して私を見つめる。「君のその瞳は、濁った世の中にあって唯一の真実だ。曇らせることは、私が許さない」
彼の言葉は、呪いのように甘く、私を縛り付けた。彼は私を「宝物」「私の宝石」と呼んだ。それはまるで、美しい鳥を黄金の鳥籠で飼うような、歪んだ愛情表現だった。
けれど、その鳥籠は、私にとって心地の良い場所になりつつあった。誰にも認められず、自信を持てなかった私が、彼によって価値を与えられ、生まれ変わっていく。その感覚は、麻薬のような快感を伴っていた。
私は、この冷徹で美しい男の、本当の姿を知りたくなっていた。彼が時折見せる、深い孤独の影の理由を。彼がなぜ、これほどまでに私に執着するのかを。
しかし、彼の過去や仕事については、依然として厚いベールに包まれていた。時折、彼の書斎から漏れ聞こえてくる電話の内容は、穏やかなものではない。中国語やロシア語が飛び交い、緊迫した空気が漂うこともある。
「サイラス様、あなたはいったい……何者なのですか?」
一度、勇気を出して尋ねたことがある。
彼は一瞬だけ目を細め、そしてすぐにいつもの無表情に戻った。
「君が知る必要のないことだ。君はただ、私の隣で美しく咲いていればいい」
その答えは、私と彼の間に見えない壁があることを、改めて突きつけてくるようだった。
この生活は、偽りの婚約という契約の上に成り立つ、砂上の楼閣。彼が私に見せている優しさも、溺愛も、全ては契約の一部なのかもしれない。そう思うと、胸がちくりと痛んだ。
それでも、私は彼の黒曜の瞳に囚われ、その甘い檻の中から抜け出せずにいた。
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