婚約破棄と溺愛のアンソロジー[短編集]

イアペコス

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黒曜の瞳に囚われて

第三章:過去の亡霊

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サイラスの庇護のもと、私は社交界に「サイラス・ナイトシェードの婚約者」として華々しく返り咲いた。
以前の私を知る人々は、その変貌ぶりに目を見張った。最高のドレスと宝石を身に纏い、ミステリアスな大富豪にエスコートされる私の姿は、以前の地味な伯爵令嬢とはまるで別人だった。

「まあ、ヴァレリウス嬢……なんてお美しくなられて」
「ナイトシェード様は、国際貿易を裏で牛耳る大物ですって。ボルジア公爵家も、もう手が出せないわね」

賞賛と嫉妬の混じった声が、心地よかった。私を侮辱した者たちを見返す、というささやかな復讐が果たされていく。

そして、その夜会の片隅で、苦々しい顔をしてこちらを見つめる男がいた。
ジュリアス・ボルジア。私の元婚約者だ。
彼の隣には、以前よりもけばけばしい化粧をしたロクサーヌがいたが、ジュリアスの視線は私に釘付けだった。

夜会の中盤、私が一人でテラスの空気に当たっていると、ジュリアスが姿を現した。
「……オーレリア」
久しぶりに呼ばれた名前に、心臓が小さく跳ねる。
「ジュリアス様。何かご用でしょうか」
私は努めて冷静に、しかし冷ややかに応じた。サイラスに教え込まれた、女王のような態度で。

私の変化に怯んだのか、ジュリアスは一瞬言葉に詰まった。
「その男……ナイトシェードとか言ったか。あんな得体の知れない男の側にいて、幸せなのか」
「ええ、とても。サイラス様は、ジュリアス様とは比べ物にならないほど、私を大切にしてくださいますから」
「嘘だ! あいつは裏社会の人間だという噂だぞ! きっと君を利用しているに決まっている!」
ジュリアスの言葉に、私の心は揺れた。サイラスの黒い噂は、私の耳にも届いていた。しかし、それでも。

「たとえそうだとしても、構いません。私を石ころのように捨てた貴方に、とやかく言われる筋合いはございませんわ」
きっぱりと告げると、ジュリアスの顔が悔しさに歪んだ。
「俺が悪かった……! ロクサーヌとのことだって、ほんの遊びのつもりだったんだ。君の本当の価値に、俺は気づけなかった。だから、頼む。俺の元に帰ってきてくれ、オーレリア!」

彼は私の腕を掴もうとした。その時。
「――その汚い手で、私のものに触れるな」
氷点下の声と共に、ジュリアスの腕がサイラスによって掴みあげられていた。いつの間に現れたのか、サイラスはジュリアスを殺さんばかりの形相で睨みつけている。
「な、ナイトシェード……!」
「聞き分けのない男だな。彼女はもう、君の知る無力な令嬢ではない。私の庇護下にある、私の至宝だ。二度と彼女の前に現れるな。さもなくば――」

サイラスはジュリアスの耳元で何かを囁いた。すると、ジュリアスの顔がみるみるうちに青ざめていく。彼は恐怖に引きつった顔でサイラスの手を振りほどくと、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。

「……大丈夫か、オーレリア」
私に向き直ったサイラスの顔は、いつもの穏やかな無表情に戻っていた。
「はい……ありがとうございます、サイラス様」
「奴が何か囁いたか?」
「……復縁を、と」
その言葉を聞いた瞬間、サイラスの纏う空気が再び凍てついた。
「……そうか」

彼はそれ以上何も言わなかったが、その夜から、私に対する彼の束縛はさらに強くなった。
私が少しでも他の男性と話せば、その相手は翌日から不可解な理由で社交界から姿を消した。私の行動は常に監視され、外出する際には必ず屈強なボディガードがつくようになった。

まるで、美しいガラスケースに閉じ込められた蝶。それが今の私だった。
サイラスの溺愛は、甘美であると同時に、息苦しさも伴っていた。

そんなある日、私はサイラスの書斎で、偶然一枚の写真を見つけてしまった。
それは古いモノクロの写真で、そこには、驚くほど私に似た顔立ちの、儚げな微笑みを浮かべた女性が写っていた。彼女の隣には、まだ少年らしい面影を残したサイラスが、硬い表情で立っている。

「それは……」
背後からかけられた声に、私はびくりと肩を震わせた。いつの間にか、サイラスが私の後ろに立っていた。
「私の母だ」
彼は静かに言った。
「君によく似ているだろう。母は、病弱で、儚い人だった。父はそんな母を深く愛していたが……その愛は、母を追い詰めた。父は母を外の世界から守ろうとするあまり、屋敷という名の鳥籠に閉じ込めてしまったんだ」

彼の声には、これまで感じたことのない、深い悲しみが滲んでいた。
「母は、日に日に光を失っていった。そして、私が15の時に、自ら命を絶った。父への抗議の意を込めてな」

衝撃の事実に、私は言葉を失った。
「私は、父を憎んだ。愛という名目で、一人の人間を支配しようとした父を。だが……今、私が君にしていることは、父と同じことなのかもしれないな」
自嘲的な笑みを浮かべるサイラスの横顔は、ひどく傷ついて見えた。

「サイラス様……」
「君を見ていると、母を思い出す。守らなければという強迫観念に駆られる。君を失うことが、何よりも怖い。だから、こんな愚かな真似をしてしまう」
彼は、まるで懺悔するかのように、ぽつりぽつりと本心を語った。
「ジュリアスのような男に、君が再び傷つけられるのは耐えられない。君を曇らせるものは、全てこの手で排除したいと思ってしまう」

初めて見せる彼の弱さに、私の胸は締め付けられた。
私は、彼の冷たい手を、そっと自分の両手で包み込んだ。
「私は、あなたのお母様ではありません。私は、ここにいます。あなたの鳥籠が、どんなに居心地が良くても……いつかは、自分の翼で飛びたいと願ってしまうかもしれません。でも、今は……あなたの側で、あなたの傷を少しでも癒すことができたら、と思います」

私の言葉に、サイラスは驚いたように目を見開いた。その黒曜の瞳が、僅かに潤んでいるように見えたのは、気のせいだっただろうか。
彼は私の手を強く握り返すと、その額に自分の額をこつんと合わせた。
「……オーレリア。君は、残酷なほどに優しいな」

この日を境に、私とサイラスの関係は、少しだけ変わった気がした。
偽りの婚約者と、その庇護者。その関係性は変わらない。けれど、私たちの間には、契約だけではない、確かな心の繋がりが生まれ始めていた。

しかし、穏やかな時間は長くは続かなかった。
私への執着を捨てきれないジュリアスの狂気が、私たちに最悪の形で牙を剥くことになるのを、この時の私はまだ知らなかった。
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