3 / 82
黒曜の瞳に囚われて
第三章:過去の亡霊
しおりを挟む
サイラスの庇護のもと、私は社交界に「サイラス・ナイトシェードの婚約者」として華々しく返り咲いた。
以前の私を知る人々は、その変貌ぶりに目を見張った。最高のドレスと宝石を身に纏い、ミステリアスな大富豪にエスコートされる私の姿は、以前の地味な伯爵令嬢とはまるで別人だった。
「まあ、ヴァレリウス嬢……なんてお美しくなられて」
「ナイトシェード様は、国際貿易を裏で牛耳る大物ですって。ボルジア公爵家も、もう手が出せないわね」
賞賛と嫉妬の混じった声が、心地よかった。私を侮辱した者たちを見返す、というささやかな復讐が果たされていく。
そして、その夜会の片隅で、苦々しい顔をしてこちらを見つめる男がいた。
ジュリアス・ボルジア。私の元婚約者だ。
彼の隣には、以前よりもけばけばしい化粧をしたロクサーヌがいたが、ジュリアスの視線は私に釘付けだった。
夜会の中盤、私が一人でテラスの空気に当たっていると、ジュリアスが姿を現した。
「……オーレリア」
久しぶりに呼ばれた名前に、心臓が小さく跳ねる。
「ジュリアス様。何かご用でしょうか」
私は努めて冷静に、しかし冷ややかに応じた。サイラスに教え込まれた、女王のような態度で。
私の変化に怯んだのか、ジュリアスは一瞬言葉に詰まった。
「その男……ナイトシェードとか言ったか。あんな得体の知れない男の側にいて、幸せなのか」
「ええ、とても。サイラス様は、ジュリアス様とは比べ物にならないほど、私を大切にしてくださいますから」
「嘘だ! あいつは裏社会の人間だという噂だぞ! きっと君を利用しているに決まっている!」
ジュリアスの言葉に、私の心は揺れた。サイラスの黒い噂は、私の耳にも届いていた。しかし、それでも。
「たとえそうだとしても、構いません。私を石ころのように捨てた貴方に、とやかく言われる筋合いはございませんわ」
きっぱりと告げると、ジュリアスの顔が悔しさに歪んだ。
「俺が悪かった……! ロクサーヌとのことだって、ほんの遊びのつもりだったんだ。君の本当の価値に、俺は気づけなかった。だから、頼む。俺の元に帰ってきてくれ、オーレリア!」
彼は私の腕を掴もうとした。その時。
「――その汚い手で、私のものに触れるな」
氷点下の声と共に、ジュリアスの腕がサイラスによって掴みあげられていた。いつの間に現れたのか、サイラスはジュリアスを殺さんばかりの形相で睨みつけている。
「な、ナイトシェード……!」
「聞き分けのない男だな。彼女はもう、君の知る無力な令嬢ではない。私の庇護下にある、私の至宝だ。二度と彼女の前に現れるな。さもなくば――」
サイラスはジュリアスの耳元で何かを囁いた。すると、ジュリアスの顔がみるみるうちに青ざめていく。彼は恐怖に引きつった顔でサイラスの手を振りほどくと、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「……大丈夫か、オーレリア」
私に向き直ったサイラスの顔は、いつもの穏やかな無表情に戻っていた。
「はい……ありがとうございます、サイラス様」
「奴が何か囁いたか?」
「……復縁を、と」
その言葉を聞いた瞬間、サイラスの纏う空気が再び凍てついた。
「……そうか」
彼はそれ以上何も言わなかったが、その夜から、私に対する彼の束縛はさらに強くなった。
私が少しでも他の男性と話せば、その相手は翌日から不可解な理由で社交界から姿を消した。私の行動は常に監視され、外出する際には必ず屈強なボディガードがつくようになった。
まるで、美しいガラスケースに閉じ込められた蝶。それが今の私だった。
サイラスの溺愛は、甘美であると同時に、息苦しさも伴っていた。
そんなある日、私はサイラスの書斎で、偶然一枚の写真を見つけてしまった。
それは古いモノクロの写真で、そこには、驚くほど私に似た顔立ちの、儚げな微笑みを浮かべた女性が写っていた。彼女の隣には、まだ少年らしい面影を残したサイラスが、硬い表情で立っている。
「それは……」
背後からかけられた声に、私はびくりと肩を震わせた。いつの間にか、サイラスが私の後ろに立っていた。
「私の母だ」
彼は静かに言った。
「君によく似ているだろう。母は、病弱で、儚い人だった。父はそんな母を深く愛していたが……その愛は、母を追い詰めた。父は母を外の世界から守ろうとするあまり、屋敷という名の鳥籠に閉じ込めてしまったんだ」
彼の声には、これまで感じたことのない、深い悲しみが滲んでいた。
「母は、日に日に光を失っていった。そして、私が15の時に、自ら命を絶った。父への抗議の意を込めてな」
衝撃の事実に、私は言葉を失った。
「私は、父を憎んだ。愛という名目で、一人の人間を支配しようとした父を。だが……今、私が君にしていることは、父と同じことなのかもしれないな」
自嘲的な笑みを浮かべるサイラスの横顔は、ひどく傷ついて見えた。
「サイラス様……」
「君を見ていると、母を思い出す。守らなければという強迫観念に駆られる。君を失うことが、何よりも怖い。だから、こんな愚かな真似をしてしまう」
彼は、まるで懺悔するかのように、ぽつりぽつりと本心を語った。
「ジュリアスのような男に、君が再び傷つけられるのは耐えられない。君を曇らせるものは、全てこの手で排除したいと思ってしまう」
初めて見せる彼の弱さに、私の胸は締め付けられた。
私は、彼の冷たい手を、そっと自分の両手で包み込んだ。
「私は、あなたのお母様ではありません。私は、ここにいます。あなたの鳥籠が、どんなに居心地が良くても……いつかは、自分の翼で飛びたいと願ってしまうかもしれません。でも、今は……あなたの側で、あなたの傷を少しでも癒すことができたら、と思います」
私の言葉に、サイラスは驚いたように目を見開いた。その黒曜の瞳が、僅かに潤んでいるように見えたのは、気のせいだっただろうか。
彼は私の手を強く握り返すと、その額に自分の額をこつんと合わせた。
「……オーレリア。君は、残酷なほどに優しいな」
この日を境に、私とサイラスの関係は、少しだけ変わった気がした。
偽りの婚約者と、その庇護者。その関係性は変わらない。けれど、私たちの間には、契約だけではない、確かな心の繋がりが生まれ始めていた。
しかし、穏やかな時間は長くは続かなかった。
私への執着を捨てきれないジュリアスの狂気が、私たちに最悪の形で牙を剥くことになるのを、この時の私はまだ知らなかった。
以前の私を知る人々は、その変貌ぶりに目を見張った。最高のドレスと宝石を身に纏い、ミステリアスな大富豪にエスコートされる私の姿は、以前の地味な伯爵令嬢とはまるで別人だった。
「まあ、ヴァレリウス嬢……なんてお美しくなられて」
「ナイトシェード様は、国際貿易を裏で牛耳る大物ですって。ボルジア公爵家も、もう手が出せないわね」
賞賛と嫉妬の混じった声が、心地よかった。私を侮辱した者たちを見返す、というささやかな復讐が果たされていく。
そして、その夜会の片隅で、苦々しい顔をしてこちらを見つめる男がいた。
ジュリアス・ボルジア。私の元婚約者だ。
彼の隣には、以前よりもけばけばしい化粧をしたロクサーヌがいたが、ジュリアスの視線は私に釘付けだった。
夜会の中盤、私が一人でテラスの空気に当たっていると、ジュリアスが姿を現した。
「……オーレリア」
久しぶりに呼ばれた名前に、心臓が小さく跳ねる。
「ジュリアス様。何かご用でしょうか」
私は努めて冷静に、しかし冷ややかに応じた。サイラスに教え込まれた、女王のような態度で。
私の変化に怯んだのか、ジュリアスは一瞬言葉に詰まった。
「その男……ナイトシェードとか言ったか。あんな得体の知れない男の側にいて、幸せなのか」
「ええ、とても。サイラス様は、ジュリアス様とは比べ物にならないほど、私を大切にしてくださいますから」
「嘘だ! あいつは裏社会の人間だという噂だぞ! きっと君を利用しているに決まっている!」
ジュリアスの言葉に、私の心は揺れた。サイラスの黒い噂は、私の耳にも届いていた。しかし、それでも。
「たとえそうだとしても、構いません。私を石ころのように捨てた貴方に、とやかく言われる筋合いはございませんわ」
きっぱりと告げると、ジュリアスの顔が悔しさに歪んだ。
「俺が悪かった……! ロクサーヌとのことだって、ほんの遊びのつもりだったんだ。君の本当の価値に、俺は気づけなかった。だから、頼む。俺の元に帰ってきてくれ、オーレリア!」
彼は私の腕を掴もうとした。その時。
「――その汚い手で、私のものに触れるな」
氷点下の声と共に、ジュリアスの腕がサイラスによって掴みあげられていた。いつの間に現れたのか、サイラスはジュリアスを殺さんばかりの形相で睨みつけている。
「な、ナイトシェード……!」
「聞き分けのない男だな。彼女はもう、君の知る無力な令嬢ではない。私の庇護下にある、私の至宝だ。二度と彼女の前に現れるな。さもなくば――」
サイラスはジュリアスの耳元で何かを囁いた。すると、ジュリアスの顔がみるみるうちに青ざめていく。彼は恐怖に引きつった顔でサイラスの手を振りほどくと、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「……大丈夫か、オーレリア」
私に向き直ったサイラスの顔は、いつもの穏やかな無表情に戻っていた。
「はい……ありがとうございます、サイラス様」
「奴が何か囁いたか?」
「……復縁を、と」
その言葉を聞いた瞬間、サイラスの纏う空気が再び凍てついた。
「……そうか」
彼はそれ以上何も言わなかったが、その夜から、私に対する彼の束縛はさらに強くなった。
私が少しでも他の男性と話せば、その相手は翌日から不可解な理由で社交界から姿を消した。私の行動は常に監視され、外出する際には必ず屈強なボディガードがつくようになった。
まるで、美しいガラスケースに閉じ込められた蝶。それが今の私だった。
サイラスの溺愛は、甘美であると同時に、息苦しさも伴っていた。
そんなある日、私はサイラスの書斎で、偶然一枚の写真を見つけてしまった。
それは古いモノクロの写真で、そこには、驚くほど私に似た顔立ちの、儚げな微笑みを浮かべた女性が写っていた。彼女の隣には、まだ少年らしい面影を残したサイラスが、硬い表情で立っている。
「それは……」
背後からかけられた声に、私はびくりと肩を震わせた。いつの間にか、サイラスが私の後ろに立っていた。
「私の母だ」
彼は静かに言った。
「君によく似ているだろう。母は、病弱で、儚い人だった。父はそんな母を深く愛していたが……その愛は、母を追い詰めた。父は母を外の世界から守ろうとするあまり、屋敷という名の鳥籠に閉じ込めてしまったんだ」
彼の声には、これまで感じたことのない、深い悲しみが滲んでいた。
「母は、日に日に光を失っていった。そして、私が15の時に、自ら命を絶った。父への抗議の意を込めてな」
衝撃の事実に、私は言葉を失った。
「私は、父を憎んだ。愛という名目で、一人の人間を支配しようとした父を。だが……今、私が君にしていることは、父と同じことなのかもしれないな」
自嘲的な笑みを浮かべるサイラスの横顔は、ひどく傷ついて見えた。
「サイラス様……」
「君を見ていると、母を思い出す。守らなければという強迫観念に駆られる。君を失うことが、何よりも怖い。だから、こんな愚かな真似をしてしまう」
彼は、まるで懺悔するかのように、ぽつりぽつりと本心を語った。
「ジュリアスのような男に、君が再び傷つけられるのは耐えられない。君を曇らせるものは、全てこの手で排除したいと思ってしまう」
初めて見せる彼の弱さに、私の胸は締め付けられた。
私は、彼の冷たい手を、そっと自分の両手で包み込んだ。
「私は、あなたのお母様ではありません。私は、ここにいます。あなたの鳥籠が、どんなに居心地が良くても……いつかは、自分の翼で飛びたいと願ってしまうかもしれません。でも、今は……あなたの側で、あなたの傷を少しでも癒すことができたら、と思います」
私の言葉に、サイラスは驚いたように目を見開いた。その黒曜の瞳が、僅かに潤んでいるように見えたのは、気のせいだっただろうか。
彼は私の手を強く握り返すと、その額に自分の額をこつんと合わせた。
「……オーレリア。君は、残酷なほどに優しいな」
この日を境に、私とサイラスの関係は、少しだけ変わった気がした。
偽りの婚約者と、その庇護者。その関係性は変わらない。けれど、私たちの間には、契約だけではない、確かな心の繋がりが生まれ始めていた。
しかし、穏やかな時間は長くは続かなかった。
私への執着を捨てきれないジュリアスの狂気が、私たちに最悪の形で牙を剥くことになるのを、この時の私はまだ知らなかった。
0
あなたにおすすめの小説
悪意には悪意で
12時のトキノカネ
恋愛
私の不幸はあの女の所為?今まで穏やかだった日常。それを壊す自称ヒロイン女。そしてそのいかれた女に悪役令嬢に指定されたミリ。ありがちな悪役令嬢ものです。
私を悪意を持って貶めようとするならば、私もあなたに同じ悪意を向けましょう。
ぶち切れ気味の公爵令嬢の一幕です。
短編 お前なんか一生結婚できないって笑ってたくせに、私が王太子妃になったら泣き出すのはどういうこと?
ヨルノソラ
恋愛
「お前なんか、一生結婚できない」
そう笑ってた幼馴染、今どんな気持ち?
――私、王太子殿下の婚約者になりましたけど?
地味で冴えない伯爵令嬢エリナは、幼い頃からずっと幼馴染のカイルに「お前に嫁の貰い手なんていない」とからかわれてきた。
けれどある日、王都で開かれた舞踏会で、偶然王太子殿下と出会い――そして、求婚された。
はじめは噂だと笑っていたカイルも、正式な婚約発表を前に動揺を隠せない。
ついには「お前に王太子妃なんて務まるわけがない」と暴言を吐くが、王太子殿下がきっぱりと言い返す。
「見る目がないのは君のほうだ」
「私の婚約者を侮辱するのなら、貴族であろうと容赦はしない」
格の違いを見せつけられ、崩れ落ちるカイル。
そんな姿を、もう私は振り返らない。
――これは、ずっと見下されていた令嬢が、運命の人に見初められる物語。
見捨ててくれてありがとうございます。あとはご勝手に。
阿里
恋愛
「君のような女は俺の格を下げる」――そう言って、侯爵家嫡男の婚約者は、わたしを社交界で公然と捨てた。
選んだのは、華やかで高慢な伯爵令嬢。
涙に暮れるわたしを慰めてくれたのは、王国最強の騎士団副団長だった。
彼に守られ、真実の愛を知ったとき、地味で陰気だったわたしは、もういなかった。
やがて、彼は新妻の悪行によって失脚。復縁を求めて縋りつく元婚約者に、わたしは冷たく告げる。
勝手にしろと言われたので、勝手にさせていただきます
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
子爵家の私は自分よりも身分の高い婚約者に、いつもいいように顎でこき使われていた。ある日、突然婚約者に呼び出されて一方的に婚約破棄を告げられてしまう。二人の婚約は家同士が決めたこと。当然受け入れられるはずもないので拒絶すると「婚約破棄は絶対する。後のことなどしるものか。お前の方で勝手にしろ」と言い切られてしまう。
いいでしょう……そこまで言うのなら、勝手にさせていただきます。
ただし、後のことはどうなっても知りませんよ?
* 他サイトでも投稿
* ショートショートです。あっさり終わります
今さら遅いと言われる側になったのは、あなたです
阿里
恋愛
夜会で婚約破棄された私は、すべてを失った――はずだった。
けれど、人生は思いもよらない方向へ転がる。
助けた騎士は、王の右腕。
見下されてきた私の中にある価値を、彼だけが見抜いた。
王城で評価され、居場所を得ていく私。
その頃、私を捨てた元婚約者は、転落の一途をたどる。
「間違いだった」と言われても、もう心は揺れない。
選ばれるのを待つ時代は、終わった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる