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忘れられた歌姫と隻眼の公爵の契約婚約
序章:玻璃(はり)の夜会
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王都の夜を彩る、数多のシャンデリアの光が、宝石を纏った貴族たちを照らし出す。今宵は、有力な侯爵家が主催する盛大な夜会。その華やかな喧騒の片隅で、子爵令嬢フィロメーラ・フォン・クラインシュミットは、息を潜めるように壁際に佇んでいた。
かつては「黄金の声を持つ歌姫」と社交界の寵愛を一身に受けた彼女も、五年前に起きたある事件を境に、その美しい声を失った。今では、ただ大人しく微笑むだけの、価値のない人形。それが、社交界におけるフィロメーラの評価だった。
「フィロメーラ、少し話がある」
声をかけてきたのは、婚約者であるカシアン・ド・モルガン伯爵子息。その整った顔立ちは、いつもより硬く、フィロメーラの心に冷たい予感を走らせる。
誘われるままにテラスへ出ると、ひやりとした夜風が火照った肌を撫でた。
「大事な話だ。手短に済ませる」
カシアンはそう前置きすると、ためらいのかけらもない声で言った。
「君との婚約を、今この時をもって破棄させてもらう」
「……え?」
フィロメーラの喉から、か細い声が漏れる。理解が追いつかない。なぜ? 私が何か至らないことでも? 疑問符が頭の中をぐるぐると回る。
「理由を、お聞かせいただけますか、カシアン様」
「理由か。そんなもの、君自身が一番よく分かっているだろう」
カシアンは、フィロメーラを嘲るように鼻で笑った。
「歌えない君に、もはや何の価値もない。モルガン家に、君のような『出来損ない』は不要なのだよ」
出来損ない――その言葉が、鋭いナイフとなってフィロメーラの胸を突き刺す。血の気が引き、指先が冷たくなっていく。
そのとき、カシアンの背後から、甘い香りを漂わせた一人の令嬢が寄り添ってきた。イゾルデ・ブランシェ侯爵令嬢。今、社交界で最も輝いている花だ。
「カシアン様、このような方とまだお話が続いていたのですか?」
「ああ、すまない、イゾルデ。すぐに終わらせる」
カシアンは、先ほどまでの冷たい態度とはうって変わり、イゾルデに蕩けるような甘い笑みを向ける。その光景が、フィロメーラの目の前で繰り広げられる現実なのだと、否応なく突きつけてきた。
「そういうことだ。僕はイゾルデと新たな婚約を結ぶ。君も、身の程をわきまえて、これ以上僕たちに関わらないでくれたまえ」
周りを取り囲むように集まってきた野次馬たちが、ひそひそと嘲笑の声を交わしているのが聞こえる。辱めと絶望に、フィロメーラの膝ががくりと折れそうになった、その瞬間だった。
「――実に、不愉快な茶番だな」
地を這うような、低く、それでいて有無を言わせぬ威厳に満ちた声が響き渡った。
人々がモーゼの海割れのように道を開けるその先に立っていたのは、一人の男。漆黒の髪、そして片目を黒い眼帯で覆った、異様な存在感を放つ人物。
『隻眼の公爵』ゼファニアス・レヴィ・ヴァーミリオン。
戦場での活躍と、その冷徹さで王都の誰もが恐れる、北方の広大な領地を治める大貴族。彼がなぜ、このような場に?
ゼファニアスは、凍てつくような視線をカシアンとイゾルデに向けた。
「貴殿の個人的な痴情のもつれを、公の場で披露するとは。モルガン伯爵家の教育とは、その程度のものか」
「なっ……ヴァーミリオン公爵! これは私と彼女の問題です。口出しされる筋合いは……」
「筋合い、だと?」
ゼファニアスの声の温度が、さらに数度下がる。カシアンの顔が恐怖に引きつった。
「私の『未来の妻』となるかもしれぬ女性を、衆目の前で辱めておいて、筋合いがないと申すか」
「……は?」
カシアンだけでなく、フィロメーラ自身も、その場にいた全員が耳を疑った。
未来の、妻?
ゼファニアスは呆然とするフィロメーラに歩み寄ると、その震える手を取った。驚くほど温かく、大きな手だった。
「ご令嬢。このような無礼な男のことは忘れ、私と新たな未来について語り合わないか」
その眼帯をしていない方の、深い夜空のような瞳が、まっすぐにフィロメーラを射抜く。それは、有無を言わせぬ、抗いがたい引力を持っていた。
かつては「黄金の声を持つ歌姫」と社交界の寵愛を一身に受けた彼女も、五年前に起きたある事件を境に、その美しい声を失った。今では、ただ大人しく微笑むだけの、価値のない人形。それが、社交界におけるフィロメーラの評価だった。
「フィロメーラ、少し話がある」
声をかけてきたのは、婚約者であるカシアン・ド・モルガン伯爵子息。その整った顔立ちは、いつもより硬く、フィロメーラの心に冷たい予感を走らせる。
誘われるままにテラスへ出ると、ひやりとした夜風が火照った肌を撫でた。
「大事な話だ。手短に済ませる」
カシアンはそう前置きすると、ためらいのかけらもない声で言った。
「君との婚約を、今この時をもって破棄させてもらう」
「……え?」
フィロメーラの喉から、か細い声が漏れる。理解が追いつかない。なぜ? 私が何か至らないことでも? 疑問符が頭の中をぐるぐると回る。
「理由を、お聞かせいただけますか、カシアン様」
「理由か。そんなもの、君自身が一番よく分かっているだろう」
カシアンは、フィロメーラを嘲るように鼻で笑った。
「歌えない君に、もはや何の価値もない。モルガン家に、君のような『出来損ない』は不要なのだよ」
出来損ない――その言葉が、鋭いナイフとなってフィロメーラの胸を突き刺す。血の気が引き、指先が冷たくなっていく。
そのとき、カシアンの背後から、甘い香りを漂わせた一人の令嬢が寄り添ってきた。イゾルデ・ブランシェ侯爵令嬢。今、社交界で最も輝いている花だ。
「カシアン様、このような方とまだお話が続いていたのですか?」
「ああ、すまない、イゾルデ。すぐに終わらせる」
カシアンは、先ほどまでの冷たい態度とはうって変わり、イゾルデに蕩けるような甘い笑みを向ける。その光景が、フィロメーラの目の前で繰り広げられる現実なのだと、否応なく突きつけてきた。
「そういうことだ。僕はイゾルデと新たな婚約を結ぶ。君も、身の程をわきまえて、これ以上僕たちに関わらないでくれたまえ」
周りを取り囲むように集まってきた野次馬たちが、ひそひそと嘲笑の声を交わしているのが聞こえる。辱めと絶望に、フィロメーラの膝ががくりと折れそうになった、その瞬間だった。
「――実に、不愉快な茶番だな」
地を這うような、低く、それでいて有無を言わせぬ威厳に満ちた声が響き渡った。
人々がモーゼの海割れのように道を開けるその先に立っていたのは、一人の男。漆黒の髪、そして片目を黒い眼帯で覆った、異様な存在感を放つ人物。
『隻眼の公爵』ゼファニアス・レヴィ・ヴァーミリオン。
戦場での活躍と、その冷徹さで王都の誰もが恐れる、北方の広大な領地を治める大貴族。彼がなぜ、このような場に?
ゼファニアスは、凍てつくような視線をカシアンとイゾルデに向けた。
「貴殿の個人的な痴情のもつれを、公の場で披露するとは。モルガン伯爵家の教育とは、その程度のものか」
「なっ……ヴァーミリオン公爵! これは私と彼女の問題です。口出しされる筋合いは……」
「筋合い、だと?」
ゼファニアスの声の温度が、さらに数度下がる。カシアンの顔が恐怖に引きつった。
「私の『未来の妻』となるかもしれぬ女性を、衆目の前で辱めておいて、筋合いがないと申すか」
「……は?」
カシアンだけでなく、フィロメーラ自身も、その場にいた全員が耳を疑った。
未来の、妻?
ゼファニアスは呆然とするフィロメーラに歩み寄ると、その震える手を取った。驚くほど温かく、大きな手だった。
「ご令嬢。このような無礼な男のことは忘れ、私と新たな未来について語り合わないか」
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