婚約破棄と溺愛のアンソロジー[短編集]

イアペコス

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紫電の騎士は、古文書の乙女を溺愛する

紫電の騎士は、古文書の乙女を溺愛する

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序章:偽りの終焉

きらびやかなシャンデリアの光が、集まった貴族たちの宝石やドレスに反射して、無数の星屑のように煌めいている。ここは王城の大広間。国王陛下主催の夜会は、今宵も華やぎの頂点にあった。

そんな喧騒の中心で、わたくし、リリアンヌ・フォン・クラインフェルト伯爵令嬢は、背筋に氷の刃を突き立てられたかのような衝撃に耐えていた。

「リリアンヌ。悪いが、君との婚約は今この時をもって破棄させてもらう」

目の前に立つのは、婚約者であるジェラール・ド・ヴァレンティノワ公爵子息。完璧な笑みをその端正な顔に浮かべ、しかしその瞳は凍てつくほどに冷たい。彼の隣には、扇で口元を隠しながらも勝ち誇ったような視線を向ける、イザベラ・ド・ロシュフォール侯爵令嬢が寄り添っている。

「……ジェラール様、それは、どういう意味でしょうか」
かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。

ジェラールはわざとらしく溜息をついてみせる。周囲の貴族たちが、興味津々といった下卑た視線をこちらに向けているのがわかる。晒しものだ。
「意味も何もあるものか。そのままの意味だよ。魔力を持たない君は、次期公爵夫人として、そして我がヴァレンティノワ家の伴侶としてふさわしくない。そうだろ?」

その言葉は、リリアンヌの胸の奥深くに突き刺さった。
クラインフェルト伯爵家は、由緒ある家柄ではあるが、代々魔力に恵まれない血筋だった。その代わり、初代から受け継がれてきたのは、古代魔法に関する膨大な知識と、失われた古代語を解読する類稀なる才能。わたくしも父からその才能を受け継ぎ、幼い頃から書庫にこもって古文書を読み解くことが何よりの喜びだった。

ジェラール様との婚約も、わたくしのその知識が、彼の野心にとって有用だと判断されたからだということは、薄々感づいていた。それでも、彼が見せる甘い言葉や紳士的な振る舞いに、淡い恋心を抱いていたのは事実だった。

「僕の隣に立つのは、このイザベラだ。彼女の持つ強大な水の魔力こそ、僕の炎の魔力と釣り合う、最高の力なのだから」
ジェラールはそう言ってイザベラの腰を抱き寄せる。イザベラは「まあ、ジェラール様」と媚びた声をあげ、扇の向こうで唇を歪めた。

周囲からくすくすという嘲笑が聞こえる。同情、侮蔑、好奇心。様々な感情の渦が、リリアンヌを飲み込もうとしていた。

(ああ、そうだったのですね)

彼の優しさは、彼の甘い言葉は、すべて偽りだった。わたくしの背後にある、家の知識という価値が目当てだっただけ。用済みになれば、こうして衆目の前でゴミのように捨てられる。

涙が溢れそうになるのを、ぐっと堪える。クラインフェルト伯爵令嬢としての誇りが、それを許さなかった。
わたくしはゆっくりと背筋を伸ばし、できる限り優雅にカーテシー(淑女の礼)をとる。

「……ジェラール様のお考え、よくわかりましたわ。これまで、ありがとうございました。どうぞ、イザベラ様とお幸せに」

感情を殺した声でそう告げると、ジェラールは一瞬、虚を突かれたような顔をした。わたくしが泣き喚き、彼に縋りつくとでも思っていたのだろうか。

わたくしは彼らに背を向け、一歩、また一歩と、燃えるような視線の集中砲火の中から抜け出す。ドレスの裾を翻し、毅然と、しかし内心では崩れ落ちそうな心を引きずりながら、その場を去った。

扉が閉まる直前、聞こえてきたジェラールの声。
「ふん、つまらん女だ。せいぜい書庫で埃にまみれて暮らすがいい」

その言葉を最後に、わたくしの初恋は、屈辱と絶望の色に染め上げられ、終わりを告げた。

第一章:静寂と王命

婚約破棄の夜会から一週間。わたくしは自室に引きこもっていた。父も母も、何も言わずにそっとしておいてくれたが、その沈黙がかえって胸を締め付けた。

大好きだった古文書も、インクの匂いも、今はただ虚しいだけ。文字を目で追っても、その意味は頭に入ってこない。ジェラールの冷たい瞳と、嘲笑の声が何度も蘇る。

「……魔力がないから」

ぽつりと呟いた言葉が、静かな部屋に落ちて消えた。
わたくしだって、望んで魔力なしに生まれたわけではない。それでも、自分には古代語の解読という、他の誰にも真似できない力があるのだと信じていた。それが、ささやかな誇りだった。

だが、それすらも、強大な魔力の前では何の価値もないのだと、ジェラールは証明してくれた。

コンコン、と控えめなノックの音。
「リリアンヌ、入ってもよろしいか?」
父の声だ。
「……はい、お父様」

入ってきた父は、いつも通りの穏やかな表情だったが、その目には憂いの色が浮かんでいた。
「辛い思いをさせたな」
「……いいえ」
「ジェラール様の件は、こちらからも正式に抗議し、婚約は白紙撤回となった。ヴァレンティノワ公爵からも謝罪の言葉があったが……到底、許せるものではない」
父の静かな怒りが伝わってくる。

「リリ。お前の才能は、決して無価値などではない。お前が解き明かす一文が、この国の歴史を塗り替えることだってあるのだ。それを忘れるな」
「……はい」
父の言葉は温かい。けれど、一度砕かれた自信は、そう簡単には元に戻らなかった。

そんな時だった。父の手にある一通の封蝋された手紙が、わたくしの目に留まった。王家の紋章が押されている。

「お父様、それは?」
「ああ、これか。……リリアンヌ、お前に、国王陛下からの王命が下った」
「わたくしに……王命?」

思いもよらない言葉に、わたくしは目を見開いた。
「うむ。『黒銀の騎士』ゼノン・ヴォルフガング様の、魔力制御に協力せよ、と」

ゼノン・ヴォルフガング。
その名を知らない者は、この国にはいないだろう。
平民の出身でありながら、その規格外の雷の魔力で数々の武功を上げ、史上最年少で魔法騎士団長に任命された英雄。しかし同時に、そのあまりに強大すぎる力は制御が難しく、時折暴走させては周囲に甚大な被害を出すことから、『呪われた騎士』とも畏怖されている人物。

「なぜ、わたくしが……?」
「ヴォルフガング様の魔力は、現代の魔法理論では制御不能らしい。そこで、お前の古代魔法の知識に白羽の矢が立った、というわけだ」

父は少し言いづらそうに続けた。
「……断ることもできる。お前が望むなら、私が陛下に」
「いいえ」

父の言葉を遮り、わたくしは顔を上げていた。
「お受けいたします」

絶望の淵に沈んでいた心に、小さな灯がともった気がした。
誰にも必要とされない、価値のない存在だと思っていた自分に、王家が、国が、助けを求めている。古代魔法の知識が、誰かの役に立てるかもしれない。
それは、傷ついた誇りを取り戻すための、唯一の蜘蛛の糸のように思えた。

数日後。わたくしは騎士団の執務室で、その人と対面していた。
黒く艶やかな髪は、光の加減で銀色にも見える。そして、射抜くような紫電の瞳。鍛え上げられた体躯を包む漆黒の騎士服が、彼の威圧感をさらに際立たせていた。

彼が、ゼノン・ヴォルフガング。

「クラインフェルト伯爵令嬢だな」
低く、感情の読めない声。
「はい。リリアンヌ・フォン・クラインフェルトと申します。この度は、よろしくお願いいたします」
カーテシーをとるが、彼は微動だにしない。ただ、じっとこちらを見つめている。その視線に、値踏みされているような居心地の悪さを感じた。

「……王命でなければ、関わりたくはなかった」
「え……」
「あんたのような、温室育ちの令嬢に何ができる。時間の無駄だ」

あまりに率直な、というより無礼な物言いに、言葉を失う。
噂通りの、冷たい人。
婚約破棄の屈辱が、別の形で蘇るような感覚。やはり、わたくしなど、誰からも歓迎されない存在なのだ。

俯いて唇を噛み締めていると、不意に彼が溜息をついた。
「……いや、すまない。八つ当たりだ。気にするな」
「……」
「必要な文献があれば、王宮の書庫でもどこでも、閲覧許可を取ろう。俺は任務がある。何かあれば、副団長に」

それだけ言うと、彼はさっさと部屋を出て行ってしまった。
一人残された執務室で、わたくしは呆然と立ち尽くす。
しかし、彼の去り際の瞳に、一瞬だけ、深い苦悩と諦めのような色がよぎったのを、わたくしは見逃さなかった。

(あの人も、苦しんでいるんだわ)

そう思うと、不思議と恐怖心は薄れていた。
わたくしは、きゅっと拳を握りしめる。
やってやろう。この知識が本物だと、わたくしが無価値ではないのだと、証明して見せる。
それは、彼のためであり、そして何より、自分自身のためだった。

第二章:古文書が繋ぐ心

それからの日々は、まさに古文書との戦いだった。父の屋敷の書斎、王宮の地下書庫、時には魔法省の資料室まで。ありとあらゆる文献を読み漁り、ゼノン様の魔力の謎に迫ろうと必死だった。

『雷神の系譜』、『古代魔力制御論』、『元素魔法の起源』……。

埃っぽい紙の束と格闘する毎日は、婚約者だった頃の華やかな生活とはかけ離れていたが、不思議と心は満たされていた。一つの単語を解読し、一つの魔法陣の構造を理解するたびに、失いかけていた自信が少しずつ戻ってくるのを感じた。

ゼノン様とは、時折顔を合わせることがあった。彼はいつもぶっきらぼうで、必要最低限のことしか話さない。それでも、わたくしが深夜まで書庫に籠もっていると、どこからか温かいハーブティーと甘い焼き菓子を差し入れてくれるようになった。

「……夜食だ。少しは休め」
「あ、ありがとうございます……」
「礼を言われる筋合いはない。あんたが倒れたら、俺が王に叱責されるだけだ」

そう言ってそっぽを向く彼の耳が、少しだけ赤いことに気づいたのは、何度目かの差し入れの時だった。
不器用な人。けれど、根はきっと優しいのだ。

ある夜、ついにわたくしは大きな発見をした。
ゼノン様の魔力暴走は、単なる制御不能ではない。彼の魔力そのものが、現代の魔力とは異質なものだったのだ。

「これだわ……!」

古い羊皮紙に書かれていたのは、遥か昔、この地を統べていたという伝説の『雷神』の記述。雷神の力は、人の身には余る強大なエネルギーであり、それを宿した者は、神の祝福と呪いを同時に受けることになる、と。

「呪いではなく、祝福……。彼の魔力には、古代の雷神の力が混じっているんだわ」

つまり、彼の魔力を制御するには、現代魔法の理論では不可能。雷神の力を鎮めるための、古代語による特殊な制御魔法陣が必要不可見だった。

翌日、わたくしは少し興奮気味に、その発見をゼノン様に報告した。
「……つまり、俺のこの力は呪いではなかったと?」
「はい。むしろ神聖な力です。ただ、人の器には強大すぎるだけで……。でも、ご安心ください。古代の文献に、この力を制御するための魔法陣の記述がありました。わたくしが、必ずそれを完成させてみせます!」

力強く宣言したわたくしを、ゼノン様は驚いたような、それでいて何か眩しいものを見るような、不思議な目で見つめていた。

「……そうか」
彼は短くそう呟くと、ふっと表情を和らげた。それは、わたくしが初めて見る、彼の穏やかな笑みだった。
「……礼を言う、リリアンヌ嬢。君は、すごいな」
「え……」
「誰もが俺を『呪われた騎士』と呼び、遠ざけた。この力は忌むべきものだと、俺自身もそう思っていた。だが、君は……」

彼の紫電の瞳が、まっすぐにわたくしを射抜く。
「君だけが、この力の本当の姿を見てくれた」

その言葉と眼差しに、心臓が大きく跳ねた。顔に熱が集まるのがわかる。
「そ、そんなことは……わたくしは、自分の仕事をしたまでです」
慌てて俯くわたくしに、彼は小さな声で「ありがとう」と繰り返した。

その日を境に、二人の間の空気は少しずつ変わっていった。
彼は任務の合間に、わたくしの研究室に顔を出すようになり、時には研究の進捗を熱心に尋ねたり、古文書の重い束を運ぶのを手伝ってくれたりした。

「リリアンヌ嬢は、なぜ古代語の研究を?」
「それは……幼い頃から、書庫にある古い本を読むのが好きだったんです。誰も読めない文字が読めるようになるのが、まるで謎解きみたいで楽しくて」
「そうか。……楽しそうに古文書を読む君の横顔は、悪くない」
「えっ!?」
「な、何でもない!」

そんな他愛ない会話を交わす時間が増えるたびに、彼の不器用な優しさに触れるたびに、凍てついていたわたくしの心が、陽だまりの中で雪解けしていくように温かくなっていくのを感じた。

この気持ちは、何なのだろう。
ジェラール様に抱いていた淡い憧れとは違う、もっと深く、温かい感情。
気づけば、わたくしはゼノン様のことばかり考えていた。

第三章:暴かれた策略と騎士の決意

わたくしとゼノン様が親しくしているという噂は、あっという間に社交界に広まったらしい。
そして、その噂は最も聞かれたくない人物の耳にも届いていた。

ある日の午後、研究室に思いがけない人物が訪れた。
「ごきげんよう、リリアンヌさん。研究は捗っているかな?」
そこに立っていたのは、元婚約者のジェラール・ド・ヴァレンティノワだった。

「ジェラール様……。何のご用でしょうか。ここは関係者以外、立ち入り禁止のはずですが」
わたくしは冷たく言い放つ。もう彼に対して、何の感情も残っていなかった。いや、正確には、軽蔑と不快感だけがあった。

「つれないことを言うな。君の才能を、僕は誰よりも評価しているつもりだよ」
彼は以前と変わらない、甘い笑みを浮かべている。
「君が解読しているという、古代の制御魔法……素晴らしいじゃないか。ぜひ、僕にも協力させてくれないか? あの忌まわしき『呪われた騎士』に独占させておくのは、国の損失だ」

その言葉に、わたくしは全身の血が逆流するような怒りを覚えた。
「お断りします。この研究は、ゼノン様のために行っているものです。あなたの野心のために利用されるつもりは、毛頭ございません」
「ほう……随分と強気になったじゃないか。魔力なしの君が、あの騎士団長に庇護されて、少しばかり思い上がっているようだな」

ジェラールの顔から笑みが消え、剥き出しの傲慢さが覗く。
「いいか、リリアンヌ。君の家の知識は、本来なら僕のものになるはずだったんだ。それを大人しく渡せば、悪いようにはしない」

彼がわたくしに一歩近づいた、その時だった。
バタン!と乱暴に扉が開かれ、漆黒の騎士服が翻る。

「――彼女に、指一本でも触れてみろ」

地を這うような低い声。そこに立っていたのは、燃えるような怒りを紫電の瞳に宿した、ゼノン様だった。
「ゼノン様!」
「ヴォルフガング……! なぜ貴様がここに」
ジェラールが狼狽える。

「貴様の企みなど、お見通しだ。ヴァレンティノワ」
ゼノン様はゆっくりとジェラールに歩み寄り、その胸ぐらを掴み上げた。
「リリアンヌの研究成果を横取りし、手柄を自分のものにするつもりだったのだろう。そのために、ロシュフォール嬢を使って資料を盗み出させようとしたことも、調べはついている」
「なっ……!?」

ジェラールの顔が青ざめる。
「彼女を衆目の前で辱め、その心を深く傷つけた貴様に、彼女の隣に立つ資格などない。二度と彼女に近づくな。次に近づいた時は……命はないと思え」

その声は、絶対零度の冷たさだった。騎士団長の、そしてこの国最強の男の威圧感を前に、ジェラールはなすすべもなく震え上がる。
ゼノン様はジェラールをゴミのように床に放り投げると、わたくしの腕を掴んだ。

「行くぞ」
「え、あ、はい!」
呆然とするわたくしを連れ、彼は研究室を後にした。

連れてこられたのは、騎士団の建物にある、バルコニーだった。夕日が空を茜色に染めている。
「……申し訳ありませんでした。わたくしのせいで、ご迷惑を」
「君が謝ることじゃない」
ゼノン様は、掴んでいたわたくしの腕をそっと離すと、気まずそうに視線を逸らした。

「……驚かせて、すまなかった。だが、あいつが君を侮辱するのが許せなかった」
そして、彼はぽつりぽつりと、自分の過去を語り始めた。
彼が平民の出であること。幼い頃、住んでいた村が魔獣に襲われたこと。暴走する魔力で魔獣を倒したものの、村人からは化け物扱いされ、孤独だったこと。

「そんな時だ。調査に来られたクラインフェルト伯爵――君の父親が、俺を庇ってくれた。『この少年は英雄だ。彼の力は、いずれ国を守る盾となるだろう』と。あのお言葉がなければ、俺はとっくに処刑されていただろう」

初めて聞く彼の過去。
「……お父様が」
「ああ。だから、ずっと恩を返したいと思っていた。君が婚約破棄されたと聞いた時、俺は……自分のことのように腹が立った。君の父親の、そして君自身の尊厳が踏みにじられたことが、許せなかった」

彼はゆっくりとこちらに向き直り、わたくしの両肩に手を置いた。その紫電の瞳が、真剣な光を帯びて、わたくしを捉える。

「リリアンヌ」

初めて、彼はわたくしを名前で呼んだ。

「俺は、君に惹かれている。君の聡明さに、その強さに、そして、時折見せるはにかんだ笑顔に……どうしようもなく、心を奪われた」
「……ゼノン様」
「もう、誰にも君を傷つけさせない。俺が君を守る。だから……俺の隣に、いてくれないか」

熱のこもった告白。
夕日が、彼の黒銀の髪をきらきらと照らしている。
わたくしの頬を、涙が一筋、伝った。それは、悲しみや悔しさの涙ではなかった。
心の底から湧き上がる、温かい喜びの涙だった。

「……はい」
わたくしは、こくりと頷いた。
「はい、ゼノン様。わたくしでよろしければ……喜んで」

その瞬間、彼の硬い表情がふっと緩み、わたくしを力強く、しかし壊れ物を扱うかのように優しく、その腕の中に抱きしめた。
彼の胸に顔を埋めると、たくましい心臓の鼓動が聞こえる。それは、わたくしの高鳴る鼓動と、確かに重なり合っていた。

第四章:命を懸けた儀式

制御魔法陣は、ついに完成した。
それは、何枚もの羊皮紙に描かれた、複雑で美しい幾何学模様。古代語の呪文がびっしりと書き込まれている。これをゼノン様の体に刻み、起動させることができれば、彼の力は完全に制御されるはずだった。

しかし、問題があった。
魔法陣を起動させるための儀式は、術者であるわたくしの生命力を著しく消耗させる危険なものだということが、最後の最後で判明したのだ。最悪の場合、命を落とす可能性もある、と。

その事実をゼノン様に伝えると、彼は血相を変えて反対した。
「馬鹿を言うな! そんな危険なこと、許可できるわけがない!」
「ですが、これをしなければ、あなたの力は……!」
「君を失ってまで手に入れる力に、何の意味がある! 俺は、君に生きていてほしいんだ!」

彼の悲痛な叫びが、胸に突き刺さる。
「わたくしだって、同じです! あなたに、もう二度と力の暴走で苦しんでほしくない……! あなたの笑顔が見たいんです!」

初めて、わたくしたちは激しく言い争った。互いを想うが故の、すれ違い。
けれど、その言い争いの末に、わたくしたちは互いの気持ちの強さを再確認することになった。

「……何か、方法があるはずだ。君の命を危険に晒さず、儀式を成功させる方法が」
彼はそう言って、わたくし以上に真剣な顔で、古文書を読み解き始めた。その姿に、胸が熱くなる。

そして、二人で何日も夜を徹して研究を重ねた結果、一つの可能性を見つけ出した。
「……これなら」

それは、術者と対象者の魔力と生命力を、魔法陣を介して完全に同調させ、儀式の負担を二人で分かち合う、という前代未聞の方法だった。成功すれば、わたくしの負担は最小限に抑えられる。
しかし、それには、互いの魂のレベルでの絶対的な信頼と、寸分の狂いもない魔力の同調が必要だった。少しでも心が揺らげば、魔法陣は暴走し、二人ともただでは済まないだろう。

「……できるか?」
ゼノン様が、不安げに尋ねる。
わたくしは、彼の大きな手をぎゅっと握った。
「あなたと一緒なら、できます。わたくしは、あなたを信じていますから」
「……リリアンヌ」

わたくしたちは、見つめ合った。もう、言葉は必要なかった。

儀式は、王宮の最も奥にある、星見の塔で執り行われることになった。
床に描かれた巨大な魔法陣の中央に、わたくしとゼノン様が向かい合って座る。

「準備はいいか?」
「はい」

わたくしは目を閉じ、集中力を高める。そして、震える唇で、古代語の詠唱を始めた。
わたくしの声に呼応して、魔法陣が淡い光を放ち始める。ゼノン様の体からも、紫電の魔力が迸り、魔法陣に流れ込んでいく。

二つの力が混じり合い、同調していく。彼の苦しみも、喜びも、そしてわたくしへの愛情も、すべてが流れ込んでくる。わたくしも、自分のすべてを彼に捧げる。
二人の魂が、一つに溶け合っていくような、不思議な感覚。

その、まさに儀式が佳境に入った、その時だった。

「そこまでだ、反逆者ども!」

塔の扉が蹴破られ、武装した王宮騎士たちが雪崩れ込んできた。その先頭に立っていたのは、勝ち誇った顔のジェラールだった。
「リリアンヌ・クラインフェルト! 貴様が危険な古代魔法を用いて国を転覆させようとしていると、陛下にご報告申し上げた! 神聖なる騎士団長を唆した罪、万死に値するぞ!」

ジェラールの讒言。儀式の最中で、わたくしたちは身動き一つ取れない。
絶体絶命。
ジェラールが、歪んだ笑みを浮かべて剣を振り上げた。

その瞬間。

ゴオオオオオッ!!!

凄まじい轟音と共に、ゼノン様の体から放たれた紫の雷が、巨大な竜のように咆哮をあげ、ジェラールと騎士たちを薙ぎ払った。
しかし、その雷は誰一人傷つけはしなかった。ただ、彼らの剣を弾き飛ばし、その場に縫い付けただけ。

完全に制御された、神の如き力。

「……な……にが……」
ジェラールが、腰を抜かしてへたり込む。

「これが……俺の、いや、俺たちの力だ」

静かに立ち上がったゼノン様が、冷たく言い放つ。
儀式は、成功したのだ。

その後、ジェラールの悪事はすべて白日の下に晒され、彼は爵位を剥奪、辺境の地へと追放された。

すべての緊張の糸が切れたわたくしは、安堵と共に、ゼノン様の腕の中で意識を手放した。

第五章:騎士の溺愛は蜜のように

次に目覚めた時、わたくしは自室のベッドの中にいた。
窓から差し込む陽光が、部屋を優しく照らしている。

「……気がついたか」

すぐそばから聞こえた声に視線を向けると、そこにいたのは、ベッドサイドの椅子に座ったまま、心配そうにこちらを覗き込むゼノン様の姿だった。彼の目の下には隈ができていて、わたくしが眠っている間、ずっと付きっきりで看病してくれていたことが窺えた。

「ゼノン様……」
「気分はどうだ? どこか痛むところは?」
「だ、大丈夫です。それより、あなたこそ……」
「俺は問題ない。力は……驚くほど体に馴染んでいる。すべて、君のおかげだ」

彼はそう言うと、わたくしの手を優しく握りしめた。
「……すまなかった。君に、命を懸けさせてしまった」
その声は、後悔と自責の念に震えていた。
「いいえ。わたくしは、自分の意思でやったことです。あなたのために、何かをしたかった」
「リリアンヌ……」

彼は握ったわたくしの手に、そっと額を押し付けた。
「もう二度と、君を一人にはしない。危険な目にも遭わせない。俺が一生、君を守り抜くと誓う」

その日から、ゼノン様の『溺愛』が始まった。

わたくしが少しでも無理をして研究を続けようとすれば、どこからともなく現れて「休憩だ」と書庫から連れ出され、日当たりの良い庭でお茶を飲むことになる。
新しい古文書が必要になれば、彼が国中を探し回ってでも手に入れてきてくれる。
わたくしが少しでも咳をすれば、王宮の侍医を飛んで呼びに行く。

公の場では、彼は常にわたくしの隣を離れず、完璧なエスコートで守ってくれた。
かつてわたくしを嘲笑った貴族たちは、今や『雷神の騎士』の寵愛を受けるわたくしに、恐れをなして近づこうともしない。もし陰口でも叩こうものなら、ゼノン様の凍てつくような視線で射抜かれ、震え上がることになるのだ。

「呪われた騎士」は、いつしか「愛妻家の騎士団長」として、国中で有名になっていた。

「ゼノン様、少し過保護すぎではありませんか?」
ある日、わたくしが苦笑しながら言うと、彼は至極真面目な顔で答えた。

「過保護で結構だ。君が可愛すぎて、心配で仕方がないんだ。それに……」
彼はわたくしを後ろからそっと抱きしめ、耳元で囁いた。
「俺は、君に夢中なんだ。リリアンヌ」

その甘い声と、首筋にかかる熱い吐息に、わたくしの心臓はまたしても大きく跳ねるのだった。

終章:光差す未来

それから数ヶ月後。
わたくしたちは、古い教会の小さな礼拝堂で、ささやかな結婚式を挙げた。
参列者は、両親と、騎士団の信頼できる仲間たちだけ。

純白のドレスに身を包んだわたくしの隣で、正装の騎士服を着たゼノン様が、これまで見たこともないような、幸せそうな笑みを浮かべている。

「リリアンヌ・ヴォルフガング。……悪くない響きだ」
「ふふ、そうですね。ゼノン様」

誓いの口付けは、とても優しくて、温かかった。

その後、わたくしは王宮内に新設された『古代魔法研究室』の初代室長に任命された。ゼノン様も、その類稀なる力と冷静な判断力で国を守り続け、国民からの信頼は絶大なものとなった。

わたくしたちは、それぞれの場所で、それぞれの力で、この国を支えている。
そして、仕事が終われば、二人だけの家に帰る。

「おかえりなさい、あなた」
「ただいま、リリ。今日はどんな発見があった?」

他愛ない会話を交わし、一緒に食事をとり、同じベッドで眠る。
そんな穏やかで、満ち足りた毎日。

かつて、婚約破棄という絶望の淵に立たされたわたくしは、今、世界で一番の幸せを手に入れた。
魔力がないと蔑まれたこの知識が、愛する人を救い、そして、自分自身の運命を切り開いてくれたのだ。

隣で眠る彼の、黒銀の髪をそっと撫でる。
すると、彼が寝言のようにつぶやいた。

「……リリ……愛している……」

その言葉に、わたくしは微笑み返し、彼の胸にそっと寄り添った。

紫電の騎士は、もう呪われてなどいない。
彼の雷は、ただ一人、愛する古文書の乙女を守るためだけに、今日も優しく輝いている。
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