婚約破棄と溺愛のアンソロジー[短編集]

イアペコス

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影の公爵に拾われた調香師

影の公爵に拾われた調香師

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第一章:砕け散った玻璃の約束

王宮のシャンデリアが、星屑を煮詰めたように煌めいていた。建国記念を祝う夜会は、着飾った貴族たちの熱気と、上質な香水の匂い、そして微かな虚栄心で満たされている。私、アウレリエ・ヴァレリウスは、その中心にいるはずだった。

公爵令嬢として生まれ、幼い頃に国王陛下直々のお声がかりで、王太子であるテオン殿下と婚約した。私の人生は、生まれた時から陽の当たる場所を歩くことが約束された、完璧な物語のはずだった。

「アウレリエ嬢、今宵も実にお美しい。そのドレスの色は、春の夜明け前の空のようだ」
「ありがとうございます、マーカス侯爵」

愛想笑いを浮かべながらも、私の心は落ち着かなかった。婚約者であるテオンが、先ほどから私のそばを離れ、新興の豪商であるロシュフォール家の令嬢、リゼットとばかり親しげに言葉を交わしているからだ。リゼットの燃えるような赤いドレスは、この穏やかな色調の夜会でひどく挑戦的に見えた。

胸のざわめきを悟られまいと、手にしていたシャンパングラスを口に運んだ、その時だった。楽団の演奏がぴたりと止み、会場の視線が中央の壇上へと集まる。そこには、王太子テオンが、こともあろうにリゼットの手を取って立っていた。

何かの冗談でしょう? 私の隣に立つべき殿方が、なぜ、あそこに?

「皆、静粛に! これより、我が王国にとって重要な発表を行う!」

テオンの張りのある声が、静まり返ったホールに響き渡る。彼の視線が一度、私を捉えた。その目に宿るのは、申し訳なさ、ではなかった。冷たい、氷のような決意の色だった。

「長きにわたり、私とアウレリエ・ヴァレリウス嬢との間に結ばれていた婚約を、本日この場をもって破棄することを宣言する!」

……え?

時間が止まった。人々の息を呑む音、扇で口元を隠す貴婦人たちの驚愕の表情、そして値踏みするような好奇の視線が、槍のように私に突き刺さる。

「そして、新たに私の妃として迎えるのは、ここにいるリゼット・ロシュフォール嬢だ! 彼女の家が持つ経済力と新たな流通網は、これからの王国に不可欠な力となる。これは国益を考えた上での、最善の決断である!」

国益。私の十年という歳月は、その一言で塵芥のように掃われた。テオンは私を見ていない。彼はただ、自らの決断の正しさを、輝かしい未来を、そこにいる聴衆に説いているだけだ。

「アウレリエ嬢には気の毒だが、これも公に尽くす者の宿命。彼女も理解してくれるだろう」

理解ですって? ふざけないで。あなたの隣で微笑むために、どれほどの努力を重ねてきたと思っているの。刺繍も、ダンスも、政治学も、あなたにふさわしい妃になるためだけに学んできた。私の趣味である香りの調合も、あなたが「面白い」と言ってくれたから、心を込めて続けてきたというのに。

涙が溢れそうになるのを、奥歯を噛みしめて必死にこらえる。ここで泣き崩れたら、本当に私は「哀れな捨てられた女」になってしまう。背筋を伸ばし、唇に血が滲むほど強く結ぶ。

会場のざわめきが、まるで遠い世界の出来事のように聞こえる。私は誰にも見られないよう、静かにその場を離れ、バルコニーへと続く扉へと向かった。冷たい夜風が、燃えるように熱い頬を撫でる。

「……ひどい」

やっとの思いで絞り出した声は、自分でも驚くほどか弱く、震えていた。手すりに寄りかかり、暗い庭園を見下ろす。もうあの華やかな場所には戻れない。私の居場所は、どこにもなくなってしまった。

その時だった。

「見事な気概だ、ヴァレリウス嬢」

背後から、低く、静かな声がした。振り返ると、そこには夜の闇をそのまま纏ったかのような男性が立っていた。黒髪に、黒い瞳。夜会の豪奢な服装とは一線を画す、仕立ては良いが装飾のない漆黒の礼装。影が人の形をとったようなその姿に、私は息を呑んだ。

カエラン・アシュワース公爵。

北方の凍てつく山脈に広大な領地を持ちながら、滅多に社交界に姿を現さないことから「影の公爵」と揶揄される人物。彼の瞳は、好奇でも同情でもなく、まるで希少な鉱石を鑑定するかのように、静かに私を見つめていた。

「……公爵様。ご覧になっていましたのね。お見苦しいところを」
「見苦しいなどと。むしろ、あの場で気丈にも背を伸ばし、一筋の涙も見せなかったその精神力に感服した」

彼の言葉には、お世辞の響きがなかった。ただ、事実を述べているだけのようだった。

「しかし、君のその才能が、国益という陳腐な言葉の下に埋もれるのは惜しい」
「……才能?」

私の何の才能を、この方は言っているのだろう。妃教育の賜物である作法のことだろうか。

「君が調合する香りだ」

カエラン公爵は、こともなげに言った。
「以前、君が手がけたという香水を、とあるルートで手に入れたことがある。『月下のセレナーデ』と名付けられた、静かで、どこか儚い、だが芯のある香り。あれは芸術品だ」

驚きに言葉を失った。あれは、私が趣味で作ったもの。王宮の侍女たちに請われていくつか譲った中に、確かにそんな名前を付けた香りがあった。まさか、こんなところまで届いていたなんて。

「テオン殿下は、見る目がない。いや、嗅ぐ鼻がない、と言うべきか。彼は宝石の価値は分かっても、夜風に香る花の価値は分からない男だ」

公爵は一歩、私に近づいた。彼の纏う空気は、夜の森のように深く、それでいて不思議と安らぎを感じさせた。

「アウレリエ・ヴァレリウス嬢。君に提案がある」
「……提案、ですか?」
「私と結婚しろ」

婚約を破棄された、まさにその夜に。ありえない言葉だった。同情からの求婚だろうか。それとも、王太子への当てつけか。

「ご冗談を。私は今、国中の笑いものになった女ですわ。公爵様にとって、何の得にもなりません」
「得ならある」と、彼は即答した。
「私は君の『調香師』としての才能が欲しい。私の領地には、世界中の珍しい植物を集めた巨大な温室がある。最高の設備と材料を用意しよう。君は、誰にも邪魔されず、好きなだけ香りを作ればいい」

彼の黒い瞳が、真剣な光を宿して私を射抜く。
「君は、誰かのための飾り物じゃない。君自身の力で、世界を魅了する芸術を生み出せる人間だ。私は、その隣で、一番最初に君の作品を享受する権利が欲しい。……それだけだ」

それは、今まで誰からも言われたことのない言葉だった。
テオンは、私の作る香りを「面白い趣味だ」とは言ったけれど、それが「才能」だとは一度も言わなかった。父も母も、妃にふさわしい教養の一つとしか見ていなかった。

初めてだった。私自身を、アウレリエ・ヴァレリウスという一人の人間が持つ価値を、真っ直ぐに認め、必要だと言ってくれたのは。

「君を、誰にも笑わせはしない。君を貶めた者たちが、いずれ君の才能の前にひれ伏すことになるだろう。そのための盾にも、剣にもなろう」
「……なぜ、そこまで」
「言ったはずだ。私は君の香りに惚れた。それだけで、理由は十分だ」

カエラン公爵は、そっと手を差し出した。骨張った、美しい手だった。
「さあ、行くぞ。こんな偽りの光に満ちた場所からは、おさらばだ」

私は、一瞬ためらった。けれど、振り返った先の夜会の喧騒は、もう私を拒絶している。温かい光に見えるあれは、私を焼き尽くすための炎だ。ならば。

私は、差し出されたその手を取った。彼の手に触れた瞬間、ひどく冷たいと思っていたその指先が、驚くほど温かいことに気づいた。

第二章:影の城と秘密の温室

カエラン公爵の馬車は、夜の闇を疾走した。王都を離れ、北へ、北へと。窓の外を流れる景色が、華やかな街並みから深い森へと変わっていくのを、私はぼんやりと眺めていた。

公爵は、馬車の中ではほとんど口を開かなかった。ただ、時折私に視線を向け、「寒くないか」「疲れていないか」と、短く問いかけるだけだった。その沈黙が、不思議と苦ではなかった。無理に慰められるよりも、ただ静かにそばにいてくれることが、今は何よりありがたかった。

数日が過ぎ、馬車は険しい山道へと入っていった。霧が立ち込め、まるで世界から切り離されたような感覚に陥る。やがて、霧の向こうに、黒曜石を切り出して作ったかのような巨大な城が見えてきた。アシュワース公爵の居城、「影の城」だ。

その威圧的な佇まいに、私は思わず身を固くした。けれど、城門をくぐり、中庭へと入った瞬間、息を呑んだ。城壁に囲まれた内側は、まるで別世界だったのだ。色とりどりの花々が咲き乱れ、穏やかな水の流れる音が聞こえる。外見の厳めしさとは裏腹に、城の中は静かな生命力に満ちていた。

「ようこそ、アウレリエ。ここが今日から君の家だ」

馬車を降りた私に、カエランはそう言った。使用人たちが深々と頭を下げる。彼らの動きは統制が取れているが、恐怖で支配されているような雰囲気はなかった。

城の中は、外光を巧みに取り入れた設計になっており、暗いという印象は全くない。磨き上げられた床、壁にかけられた見事な絵画、そして、何よりも圧倒されたのは、壁という壁を埋め尽くすほどの書棚だった。

「すごい……。まるで、図書館の中に住んでいるようですわ」
「本は良き友だ。決して裏切らない」

カエランはそう言って、微かに笑った。彼が笑ったのを、私は初めて見たかもしれない。

「君の部屋はこちらだ。そして、約束の場所へ案内しよう」

案内されたのは、城の最上階に近い、日当たりの良い一角だった。広々とした居住スペースの隣に、ガラス張りの大きな扉がある。その扉を開けた瞬間、私は言葉を失った。

扉の向こうには、巨大な温室が広がっていた。見たこともないような珍しい花々、青々と茂るハーブ、そして、芳しい香りを放つ木々。温度も湿度も完璧に管理され、まるで楽園の一部を切り取ってきたかのようだった。

「ここは……」
「私の趣味だ。世界中から集めた植物を育てている。そして、この温室に隣接して、君のためのアトリエを用意した」

温室の奥には、もう一つの部屋があった。そこには、最新式の蒸留器や、ずらりと並んだガラス瓶、精油を抽出するための器具、そして香りを試すための無数のムエット(試香紙)が、完璧に整えられていた。私のささやかな趣味の道具など、足元にも及ばないほどの、プロフェッショナルな空間。

「好きなだけ使うといい。必要な材料があれば、世界中どこからでも取り寄せる」
「……本当に、よろしいのですか? 私に、ここまでしてくださるなんて」

あまりのことに、声が震える。婚約破棄の傷が癒えたわけではない。けれど、目の前に広がる光景は、失ったものよりも遥かに素晴らしい世界がここにあると、雄弁に物語っていた。

「君は、その価値がある人間だからだ」

カエランは、アトリエの机に置かれていた一輪の白い花を手に取った。それは、夜にしか咲かないという幻の花、「月光花」だった。

「君の『月下のセレナーデ』を嗅いだ時、この花の香りが脳裏に浮かんだ。誰も気づかない夜の闇の中で、たった一人のために咲く、孤高で、清らかな香り。君自身を表しているかのようだった」
「……私の、香り」
「そうだ。だから、私は君を見つけなければならなかった」

彼はその月光花を、そっと私の髪に挿してくれた。花の冷たい感触と、彼の指先が触れた熱が、私の心を揺さぶる。

「ありがとう、ございます……カエラン様」

初めて、私は彼の名前を口にした。彼は少し驚いたように目を見開いた後、満足そうに頷いた。

「カエランでいい。ここでは、私たちはただのカエランとアウレリエだ」

その日から、私の新しい生活が始まった。
朝は、小鳥のさえずりで目を覚ます。午前中は、カエランと共に広大な書庫で過ごすことが多かった。彼は驚くほど博識で、私が興味を示した本について、何時間でも語ってくれた。歴史、哲学、そして植物学。彼の話は、どんな教師の授業よりも面白かった。

そして午後は、私だけの時間。アトリエにこもり、温室の植物たちと向き合う。新しい香りを求めて、様々な組み合わせを試す。失敗もたくさんした。けれど、テオンの顔色を伺いながら作っていた頃とは違い、そこには純粋な創造の喜びがあった。

カエランは、決して私の作業に口出しをしなかった。ただ、一日の終わりに私が作った試作品の香りを嗅ぎに来るのが日課だった。

「これは、雨上がりの森の香りだ。土の匂いと、濡れた若葉の息吹が感じられる」
「こちらは……そうだな、暖炉で燃える薪と、古い本のインクの匂い。安らぎの香りだ」

彼は、私の香りが持つ物語を、的確に読み取ってくれる。私が香りに込めた想いを、誰よりも深く理解してくれる。その時間が、私にとって何よりの褒美だった。

彼への想いが、日に日に大きくなっていくのを感じていた。それは、感謝や尊敬だけではない、もっと温かく、胸を締め付けるような感情。彼が書斎で読書に没頭する横顔を、ずっと見ていたいと思う。彼が私の香りを嗅いで、穏やかに微笑む顔を、もっと見たいと思う。

ある夜、私は一つの香りを完成させた。
カエランのためだけの香り。
彼の纏う、夜の森のような静けさと、その奥に隠された太陽のような温かさを表現したかった。ベースには、彼の領地で採れるオークモスを。ミドルには、書庫の香りを思わせるシダーウッドと、微かなインクの香り。そしてトップには、彼がくれた月光花の、清らかで凛とした香りを。

名前は、「シャドウズ・エンブレイス(影の抱擁)」と名付けた。

小さなガラス瓶に詰めたその香水を手に、私は彼の書斎を訪れた。

「カエラン様。新しい香りが、できましたの」
「ほう。今度はどんな物語かな」

彼は読んでいた本を閉じ、私に向き直った。私は緊張で震える手で、小瓶を差し出す。

「あなたに、捧げます」

彼が驚いたように私を見る。私は、ムエットに一吹きし、そっと彼に手渡した。
カエランはゆっくりとそれを鼻に近づけ、目を閉じた。長い沈黙。私の心臓が、早鐘のように打つ。

やがて、彼が目を開けた。その黒い瞳が、見たこともないほど優しく、そして熱を帯びて揺らいていた。

「……アウレリエ。これは」
「あなたの香りです。私が感じた、あなたの……」

言葉が続かなかった。彼がゆっくりと立ち上がり、私との距離を詰める。大きな手が、私の頬にそっと触れた。

「これは、私の香りではない。……これは、君が私に見出した光の香りだ」

そして、彼はゆっくりと顔を近づけ、私の唇に、そっと自らの唇を重ねた。それは、月光花のように、どこまでも優しく、清らかなキスだった。

第三章:蘇る過去と、揺るぎない決意

影の城での日々は、夢のように穏やかだった。カエランからの深い愛情と、香りを創造する喜びに満たされ、私は過去の傷を忘れかけていた。彼との結婚式も、身内だけでささやかに行った。派手な祝宴はなかったけれど、彼の瞳の中に、確かに私を妻として迎えるという揺るぎない誓いが見えて、それだけで十分幸せだった。

私の作る香りは、カエランの持つ商会を通じて、王都だけでなく大陸中に広まっていた。「Aurelie」という署名だけが記されたその香水は、謎の調香師の作品として、瞬く間に貴族たちの間で評判となった。特に、王太子妃となったリゼットが、私の香水を躍起になって手に入れようとしているという噂を耳にした時は、少しだけ胸がすく思いがした。

そんなある日、王都から一通の書状が届いた。差出人は、テオン・ド・ランカスター。元婚約者からの手紙だった。

『親愛なるアウレリエへ。君がアシュワース公爵と結婚したと聞き、驚いている。だが、君の才能が彼の地で開花しているという噂も耳にし、我がことのように嬉しく思う。さて、他でもない。現在、隣国との間で重要な外交問題が持ち上がっている。和平の証として、我が国から特別な贈り物をすることになったのだが、その品として、君の作る香水を是非とも献上したい。これは、王太子としての命令だ。国のために、力を貸してほしい』

身勝手な、あまりにも身勝手な手紙だった。私を「国益」のために切り捨てたくせに、今度は「国のため」に私を利用しようというのか。

「……どうする? 断ることもできる」

隣で手紙を読んでいたカエランが、静かに言った。彼の瞳には、怒りの色が浮かんでいる。

「いいえ、お受けします」と、私は答えた。
「ただし、条件があります。香水は、私が直接王宮へ赴き、王太子殿下にお渡しする、と」
「アウレリエ? 無理に行くことはない。嫌な思いをするだけだ」
「いいえ、カエラン。これは、私自身の問題です。私はもう、過去に怯えるだけの女ではありません。それを、証明したいのです」

私の決意の固い瞳を見て、カエランは深くため息をついた後、頷いた。
「……分かった。だが、私も行こう。君の夫として、隣に立つ権利があるはずだ」

数週間後、私とカエランは王都の城門をくぐった。季節は巡り、あれから半年が経っていた。街の様子は変わらないが、それを見る私の心は、以前とは全く違っていた。

王宮の謁見の間。そこには、王太子テオンと、その隣に立つリゼット妃がいた。私とカエランの姿を認めると、テオンは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに作り物の笑みを浮かべた。

「よく来てくれた、アウレリエ嬢……いや、アシュワース公爵夫人。そして、公爵殿も」
「王太子殿下からのご命令とあらば、馳せ参じないわけにはまいりません」

カエランが、冷ややかな声で応じる。

「早速だが、例の香水は?」と、テオンが焦ったように本題を切り出した。

私は、侍従に持たせていた桐の箱を受け取り、彼の前に進み出た。
「こちらに。この香水の名は、『真実の鏡』と申します」

私が箱を開けると、ふわりと複雑で、それでいて澄み切った香りが広がった。リゼットが、うっとりとした表情でその香りを見つめている。

「素晴らしい香りだ……! これならば、隣国の女王陛下も必ずやお喜びになるだろう!」

テオンは満足げに頷き、私に手を差し伸べた。
「アウレリエ。君の才能は、やはり素晴らしい。王都に戻ってきてはくれないか。君のためなら、特別な地位を用意しよう。私のそばで、その才能を国の為に役立ててくれ」

それは、半年前の夜会で私を捨てた男と、同じ男の言葉とは思えなかった。彼の隣で、リゼットが悔しそうに唇を噛んでいる。彼女の家の財力は、確かに国を潤したかもしれない。だが、テオンが本当に求めていたのは、国の威信を高める「本物」の価値だったのだ。そして彼は、それを自らの手で手放したことに、今更ながら気づいたのだろう。

私は、彼の差し出した手を取らなかった。ただ、静かに彼を見つめ返す。

「お断りいたします、殿下」
「……何?」
「私のこの才能は、もはやあなた様や、この国のためだけにあるのではありません」

私は一歩下がり、隣に立つカエランの腕にそっと自分の手を重ねた。
「私の作る香りは、その価値を理解し、私自身を愛し、守り、そして誰よりも信じてくれる、ただ一人の人のためにあります。私の居場所は、ここにはございません」

私の言葉に、テオンは絶句した。彼の顔が、驚きから屈辱へ、そして後悔へと変わっていくのを、私は冷静に見ていた。

「アウレリエ……君は、変わったな」
「はい。私はもう、あなた様の隣で微笑むためだけに作られた人形ではございませんから」

私は彼に背を向け、カエランと共に謁見の間を後にした。後ろでテオンが何か叫んでいたが、もう私の心には届かなかった。

城を出て、影の城へと向かう馬車の中で、カエランはずっと私の手を握っていてくれた。

「……すまない。辛い思いをさせた」
「いいえ」と、私は首を振った。
「これで、本当に終わりを告げることができました。私は、私の足で立って、過去と決別できたのです。あなたのおかげです、カエラン」

私は彼に寄り添い、その肩に頭を預けた。
「カエラン。私、あなたのために、もっとたくさんの香りを作りたい。あなたがまだ知らない、世界の美しい物語を、香りに乗せてあなたに届けたい」

彼は愛おしそうに私の髪を撫で、その額にキスを落とした。
「楽しみにしている。君の紡ぐ物語なら、どんなものでも。……愛している、アウレリエ」
「私もです、カエラン。心から、あなたを愛しています」

馬車は、私たちの新しい未来へと向かって走り出す。窓の外には、半年前と同じように王都の街並みが流れていく。けれど、もうそこには何の未練もなかった。

私の手の中には、砕け散った玻璃の約束の代わりに、影の公爵が与えてくれた、揺るぎない愛と、私自身の力で掴み取った輝かしい未来が、温かい光を放っているのだから。
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