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黒獅子の執愛と夜明けの花
黒獅子の執愛と夜明けの花
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序章:完璧な人形
アウレリア・フォン・クラウゼン公爵令嬢は、完璧だった。
澄んだ湖面のような銀髪は、夜会でもひときわ清らかな光を放ち、見る者の目を奪う。宝石のアメシストを嵌め込んだかのような紫の瞳は、常に冷静な光を宿し、感情の揺らぎを一切見せない。立ち居振る舞いは水が流れるように優雅で、その知識は王宮の学者さえも舌を巻くほど。
彼女は、次期国王と目されるリシアンサス・ド・ヴァリエール公爵の婚約者として、まさに完璧な存在だった。
「アウレリア、今宵も君は美しい。私の隣に立つにふさわしい、唯一の女性だ」
リシアンサスは、きらびやかなシャンデリアの下で、満足げにアウレリアの腰に手を回した。陽光を溶かしたような金髪に、空の色を映した青い瞳。神が寵愛を注ぎ込んで創り上げたかのような美貌を持つ彼は、アウレリアの完璧さに心酔していた。
「お褒めにいただき光栄ですわ、リシアンサス様」
アウレリアは、教科書通りの淑女の笑みを浮かべて応える。心の中では、北風が吹き荒れていることなどおくびにも出さずに。
彼女はリシアンサスを愛していた。初めて会ったあの日から、ずっと。しかし、彼が愛しているのは「完璧なアウレリア」という名の、美しい人形であることを知っていた。彼がアウレリア自身を見てくれたことは一度もない。彼の腕の中にいても、アウレリアはいつも独りだった。その孤独は、じわじわと彼女の心を蝕んでいた。
それでも、これが公爵令嬢としての務めなのだと、自分に言い聞かせ続けてきた。感情を殺し、完璧な婚約者を演じ続けること。それが、クラウゼン家に生まれた自分の宿命なのだと。
その宿命が、音を立てて崩れ去る瞬間が訪れることなど、この時のアウレリアは知る由もなかった。
第一章:ガラスの破片
それは、国王主催の盛大な夜会でのことだった。
音楽が鳴り響き、着飾った貴族たちが談笑に興じる中、リシアンサスはアウレリアを伴ってホールの中央に進み出た。誰もが二人の美しい姿に注目する。リシアンサスが何か重大な発表でもするのかと、会場は期待に満ちた静寂に包まれた。
「皆、静粛に!」
リシアンサスの声が響き渡る。彼はアウレリアの隣で、勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。しかし、その青い瞳がアウレリアに向けられた瞬間、凍てつくような冷たさを帯びた。
「本日、皆に証人になってもらいたいことがある。私、リシアンサス・ド・ヴァリエールは、アウレリア・フォン・クラウゼンとの婚約を、これより破棄する!」
時が、止まった。
アウレリアの耳には、自分の心臓の音がやけに大きく響いていた。婚約破棄?今、彼は何と言った?
周囲の貴族たちが息を呑み、ざわめきが波のように広がっていく。リシアンサスはそんな喧騒を楽しんでいるかのように、言葉を続けた。
「私は、真実の愛を見つけたのだ。彼女こそ、私の魂が求める唯一の女性。さあ、こちらへ、セレスティーナ」
リシアンサスが手を差し伸べた先から、一人の令嬢がおずおずと現れた。小動物のように可憐な、亜麻色の髪を持つ男爵令嬢、セレスティーナだった。彼女はリシアンサスの腕にしがみつき、潤んだ瞳でアウレリアを見つめている。
「アウレリア、君は完璧すぎた。感情のない、美しいだけの氷の人形だ。君が愛していたのは私ではなく、ヴァリエール公爵家という権力だろう?君のような悪女に、真実の愛など分かりはしない!」
リシアンサスの言葉は、鋭いガラスの破片となってアウレリアの胸に突き刺さった。違う。違う、違う、違う!あなたを愛していたからこそ、完璧であろうと努力してきたのに。あなたの隣に立つために、自分のすべてを殺してきたのに。
喉まで出かかった叫びを、アウレリアは必死に飲み込んだ。ここで感情を露わにすれば、彼の言葉を肯定することになる。それはクラウゼン公爵家の名誉を汚すことだった。
彼女は、ゆっくりと背筋を伸ばした。そして、最後の力を振り絞り、完璧な淑女の仮面を貼り付ける。
「リシアンサス様。……それが、あなたの選択なのですね」
声は、震えていなかっただろうか。
「分かりましたわ。あなた様と、そちらの……セレスティーナ様のお幸せを、心よりお祈りしております」
アウレリアは、深々と淑女の礼をした。顔を上げた時、彼女の紫の瞳には、もはや何の感情も映ってはいなかった。ただ、底なしの虚無が広がっているだけだった。
誰の同情も乞わず、誰の助けも求めず、アウレリアはたった一人で、ホールを後にした。無数の好奇と侮蔑の視線が、背中に突き刺さるのを感じながら。
馬車に乗り込み、扉が閉められた瞬間、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。アウレリアの瞳から、堰を切ったように涙が溢れ出した。声にならない嗚咽が、暗い車内に響き渡る。
完璧な人形は、壊れた。粉々に砕け散って、もう二度と元には戻れないほどに。
第二章:黒獅子と氷の薔薇
婚約破棄の醜聞は、瞬く間に王都を駆け巡った。「感情のない悪女」「氷の薔薇」――アウレリアには、そんな不名誉なレッテルが貼られた。クラウゼン公爵家は沈黙を守り、アウレリアは屋敷の自室に閉じこもった。
光の届かない深い海の底に、独りで沈んでいくような日々。食事も喉を通らず、ただベッドの上で虚空を見つめるだけ。砕け散った心は、もはや痛みさえ感じなくなっていた。
そんなある日、部屋の扉が乱暴にノックされた。
「アウレリア様、お客様でございます」
侍女の困惑した声。アウレリアは返事もしなかった。誰にも会いたくない。
しかし、その客は許可なく部屋に入ってきた。ぎしり、と重いブーツが床を踏みしめる音。アウレリアがゆっくりと顔を上げると、そこには見知らぬ男が立っていた。
闇を溶かしたような黒髪に、焼けるような紫の瞳。日に焼けた肌と、戦士のように鍛え上げられた体躯。貴族の着るような優雅な服ではなく、実用的な革のジャケットを無造作に着こなしている。その存在感は、部屋の空気を圧するほどに強烈だった。
「……どなたですの?」
かろうじて、かすれた声を絞り出す。
男は答えず、無遠慮な視線でアウレリアを頭のてっぺんからつま先まで眺め回した。値踏みするような、それでいて何かを探るような視線に、アウレリアは不快感を覚える。
「……ひどい顔だな。噂の『氷の薔薇』も、形無しだ」
低く、少し掠れた声。その言葉には、嘲笑も同情もなかった。ただ、事実を述べただけ、という響きがあった。
「無礼ですわ。お引き取りください」
「断る」
男は即答し、部屋の椅子にどっかりと腰を下ろした。「俺はゼノ・イグナーティウス。北の辺境を治める伯爵だ」
ゼノ・イグナーティウス。その名には聞き覚えがあった。戦場で「黒獅子」と恐れられる猛将。しかし、その粗野で野蛮な振る舞いから、王都の社交界では爪弾きにされている男。
「辺境伯様が、わたくしに何の御用ですの?」
「王命だ」ゼノは簡潔に言った。「お前は俺の婚約者候補になった」
「……は?」
アウレリアは耳を疑った。婚約者候補?この私が?この、野蛮な男の?
「お断りしますわ。わたくしはもう、誰とも婚約するつもりはございません」
「それはお前が決めることじゃない」ゼノはアウレリアの言葉を切り捨てた。「お前には二つの道がある。俺と結婚するか、修道院に行くかだ。クラウゼン公爵家は、醜聞をまとったお前をこれ以上置いてはおけない。だが、お前ほどの駒を腐らせるのも惜しい。だから、俺のような男に押し付けようというわけだ」
あまりに率直な、残酷な言葉。しかし、それは紛れもない事実だった。アウレリアは、もはや自分の意志で人生を選ぶことさえ許されないのだ。
絶望が、再び彼女の心を黒く塗りつぶしていく。
「……どちらも、地獄ですわね」
自嘲気味に呟くと、ゼノがふっと息を漏らした。笑った、と気づいた時には、彼はアウレリアのベッドのそばに膝をついていた。大きな、節くれだった手が伸びてきて、アウレリアの涙で濡れた頬に触れる。その手は驚くほど優しかった。
「地獄にするか、天国にするか。それくらいは、お前自身で選べるだろう」
ゼノの紫の瞳が、アウレリアの魂の奥底を覗き込むようだった。この男は、他の誰もが見ようとしなかった、アウレリアの仮面の下にある何かを見ている。
「泣いて、喚いて、怒ればいい。お前は人形じゃない。感情があるんだろう?全部吐き出せ。俺が受け止めてやる」
その言葉は、アウレリアがずっと誰かに言ってほしかった言葉だった。張り詰めていた何かが、ぷつりと切れる。
「……っ、う、あああああああ!」
アウレリアは、生まれて初めて、人前で声を上げて泣いた。リシアンサスへの怒り、裏切られた悲しみ、自分自身への絶望。押し殺してきたすべての感情が、濁流となって溢れ出した。
ゼノは何も言わず、ただアウレリアの背中を力強く、それでいて優しくさすり続けていた。その温もりが、凍てついていたアウレリアの心を、ほんの少しだけ溶かしていくのだった。
第三章:氷解の序曲
ゼノは、アウレリアの返事を待たずに、彼女を北の辺境領へと連れ出した。王都の屋敷の息苦しさから逃れられたことに、アウレリアは少しだけ安堵していた。
辺境の地は、アウレリアが知る世界の何もかもが違っていた。どこまでも続く雄大な山々、厳しい風が吹き抜ける広大な草原、そして夜には空から降ってきそうなほどの星々。洗練された王都とは違う、荒々しくも生命力に満ちた風景が、アウレリアの心を少しずつ癒していく。
ゼノの城は、砦と呼んだ方がふさわしい、質実剛健な造りだった。召使いたちも王都のそれとは違い、気さくで遠慮がなかった。
「奥様、もっとお食べにならないと!そんな細い体じゃ、この北の冬は越せませんよ!」
恰幅のいい料理長は、アウレリアの皿に山盛りのシチューを乗せてくる。初めは戸惑っていたアウレリアも、その素朴な温かさに触れるうち、いつしか自然に笑えるようになっていた。
ゼノはアウレリアを特別扱いしなかった。彼はアウレリアを馬に乗せ、草原を駆けさせた。剣を握らせ、手ずから稽古をつけた。
「腰が入ってない!そんなんじゃ、ハエも斬れんぞ!」
「……っ、無礼ですわ!」
泥だらけになりながら剣を振るうなど、以前のアウレリアには考えられないことだった。しかし、汗を流し、体を動かすうちに、心の中に溜まっていた澱のようなものが浄化されていくのを感じた。
ある日、ゼノはアウレリアを連れて、麓の村を訪れた。領民たちはゼノを見ると、親しげに声をかけてくる。
「伯爵様!この前の魔獣討伐、ありがとうございました!」
「ゼノ様、うちの娘が熱を出した時、薬草を届けてくださって……」
アウレリアは驚いた。王都で「野蛮な黒獅子」と恐れられている男が、ここでは英雄として、家族のように慕われている。
「……意外ですわ。あなたは、もっと……恐れられているのかと」
帰り道、アウレリアが呟くと、ゼノは馬上で肩をすくめた。
「王都の連中が、好き勝手言ってるだけだ。俺は俺のやり方で、守るべきものを守る。それだけだ」
彼の横顔は、夕日に照らされてどこか誇らしげに見えた。
その夜、アウレリアは温室で育てていた珍しい花が、長旅で枯れてしまったことに気づいた。それは、リシアンサスから唯一贈られたもので、彼の心ない言葉を思い出させ、アウレリアは思わず鉢を床に叩きつけてしまった。
駆けつけたゼノが見たのは、割れた鉢と土にまみれて泣きじゃくるアウレリアの姿だった。
「どうした」
「……何でも、ありませんわ」
「嘘をつけ」
ゼノはアウレリアの隣にしゃがみ込むと、枯れた花の茎をそっと拾い上げた。
「リシアンサスを、まだ忘れられないのか」
「……違います」アウレリアは首を横に振った。「忘れられないのは、彼ではありません。……信じていたものに、裏切られたという事実です。わたくしが今まで捧げてきたもの全てが、無意味だったのだと思うと……悔しくて、情けなくて……!」
ゼノは黙ってアウレリアの話を聞いていた。そして、静かに口を開いた。
「無意味なんかじゃない」
彼は、懐から小さな布袋を取り出した。中から現れたのは、一つの球根だった。
「これはセラフィナイト。この北の地でしか咲かない花だ。極寒の冬を耐え抜き、春一番に、夜明けの光のような色の花を咲かせる」
ゼノは、その球根をアウレリアの掌に置いた。
「お前は、この花に似ている。今はまだ固い殻に閉じこもっているが、その中には誰よりも強い生命力と、美しい魂が眠っている。お前が捧げてきた時間は、お前を強く、美しくするための冬だったんだ。無駄なものなど、一つもなかった」
ゼノの言葉が、温かい光のようにアウレリアの心に沁み込んでいく。この男は、いつだってそうだ。不器用で、言葉はぶっきらぼうなのに、その実、誰よりも深くアウレリアの内面を見つめ、肯定してくれる。
アウレリアは、掌の中の球根を強く握りしめた。
「……育てて、みますわ」
「ああ。きっと、美しい花が咲く」
ゼノは満足げに頷くと、立ち上がってアウレリアに手を差し伸べた。
「立てるか?」
アウレリアは、ためらうことなくその手を取った。大きくて、ごつごつしていて、傷だらけの手。でも、世界で一番、温かくて安心できる手だった。
氷が溶ける、確かな音がした。
第四章:芽生える想いと黒い影
アウレリアが辺境の地で穏やかな日々を送るようになって、数ヶ月が過ぎた。セラフィナイトの球根は、温室の新しい鉢の中で、静かに芽吹きの時を待っていた。アウレリアの心もまた、その球根のように、ゆっくりと新しい光に向かって伸び始めていた。
彼女はもはや、か弱い「氷の薔薇」ではなかった。馬を駆り、剣を振るい、領民たちと気さくに言葉を交わす。その表情は日に日に豊かになり、よく笑い、時にはゼノに憎まれ口を叩いては、からかわれることもあった。
「おいアウレリア、今日のシチューは塩辛いぞ」
「あら、それは辺境伯様のお好みに合わせたつもりでしたのに。塩辛いものがお好きだと伺いましたから」
「いつ俺がそんなことを言った」
「さあ?昨日の夢の中だったかしら」
くすくすと笑うアウレリアを見て、ゼノもまた、口元を緩める。彼の紫の瞳が、アウレリアに向ける時だけ、燃えるような熱を帯びることに、アウレリアは気づいていた。
「お前は、笑っていた方がいい」
ある夜、城壁の上で星を眺めながら、ゼノがぽつりと言った。
「初めて会った時のお前は、まるで死人のようだった。だが今は違う。ちゃんと生きてる。……俺は、そんなお前がいい」
その真っ直ぐな言葉に、アウレリアの心臓が大きく跳ねた。この感情は何だろう。リシアンサスに向けていた、盲目的な恋心とは違う。もっと穏やかで、温かくて、そしてどうしようもなく惹きつけられる、この想いは。
「ゼノ様……」
彼を、もっと知りたい。彼の強さも、弱さも、その孤独も、すべて。
アウレリアがゼノに手を伸ばしかけた、その時だった。
「アウレリア!」
背後から聞こえたのは、決して忘れることのない声。アウレリアが振り返ると、そこには信じられない人物が立っていた。
「リシアンサス、様……」
かつての婚約者、リシアンサス・ド・ヴァリエールが、息を切らしてそこにいた。彼の傍らには、不安げな表情を浮かべたセレスティーナの姿もある。
「なぜ、あなたがここに……」
「君を取り戻しに来たんだ!」リシアンサスは悲痛な表情で叫んだ。「アウレリア、私が間違っていた!君がいなくなって、初めて君の大切さが分かったんだ。あんな可憐に見えたセレスティーナも、実際はただの我儘で無知な小娘だった!君の完璧さ、君の聡明さこそが、私には必要だったんだ!」
身勝手な言葉の羅列に、アウレリアの心は急速に冷えていく。この男は、やはり何も分かっていない。今もなお、自分を都合の良い人形としてしか見ていない。
「お断りしますわ」アウレリアは、きっぱりと言った。「わたくしはもう、あなたのための人形ではありません」
「なんだと?この私を袖にするというのか!この……辺境の猿にでも誑かされたか!」
逆上したリシアンサスがアウレリアの腕を掴もうとした瞬間、彼の前に黒い影が立ちはだかった。ゼノだった。
「その汚い手を、俺の女に触れるな」
地を這うような低い声。その瞳には、殺気さえもが宿っている。
「俺の女、だと?笑わせるな!アウレリアは私のものだ!」
「黙れ」ゼノはリシアンサスの胸ぐらを掴み上げた。「お前は、何も知らない。なぜ、アウレリアがお前の元を去り、ここにいるのか。その本当の理由をな」
「何……?」
ゼノの紫の瞳が、嘲りを込めてリシアンサスを見据えた。
「お前の陳腐な婚約破棄劇は、すべて仕組まれたものだったんだよ。お前は、道化として踊らされたにすぎん」
衝撃的な言葉に、アウレリアもリシアンサスも、そしてセレスティーナさえもが息を呑んだ。
第五章:明かされた真実
城壁の上は、張り詰めた沈黙に支配されていた。
「……仕組まれた、とはどういうことですの?」
最初に口を開いたのは、アウレリアだった。声が震えるのを止められない。
ゼノはリシアンサスの胸ぐらを掴んだまま、ゆっくりとアウレリアの方を向いた。その表情は、苦渋に満ちていた。
「アウレリア。お前は、王都の権力争いの渦中にいた。お前の聡明さとクラウゼン家の力を恐れる者たちが、お前を排除しようと画策していたんだ。リシアンサスとの結婚は、お前をさらに危険な立場に追いやるだけだった」
ゼノの言葉は続く。
「国王陛下は、それを憂慮されていた。そして、お前を安全な場所へ移すための策を講じられた。……それが、リシアンサスによる婚約破棄だ」
「そんな……馬鹿な……」リシアンサスが愕然と呟いた。
「お前は利用されたんだよ、公爵様」ゼノは冷たく言い放った。「お前の傲慢さと、新しい玩具に飛びつく軽薄さを、敵も、そして我々も利用させてもらった。この女、セレスティーナは、お前を唆すために対抗勢力が送り込んできた駒だ」
ゼノに睨みつけられ、セレスティーナは顔を真っ青にしてへなへなと座り込んだ。
「すべては、アウレリアを守るためだった。醜聞という名の鎧を着せ、辺境という名の聖域に匿う。それが、俺と陛下が立てた計画の全てだ」
真実の重みに、アウレリアはよろめいた。自分の人生を揺るがしたあの出来事が、すべて自分を守るための芝居だったというのか。
「……では、あなたも……わたくしを騙していたのですか」
絞り出すような声で問うと、ゼノは初めて狼狽したような顔を見せた。
「違う!いや……計画の上ではそうだった。だが、俺の気持ちは本物だ。初めてお前に会った時から、お前を守りたいと、お前を俺だけのものにしたいと、そう思った。計画など関係なく、俺はお前を愛してしまったんだ、アウレリア」
必死の告白。その言葉に嘘はないと、アウレリアには分かった。彼の燃えるような瞳が、何よりも雄弁にそれを物語っていた。
一方、リシアンサスは呆然と立ち尽くしていた。自分が道化だったという事実、そしてアウレリアが自分ではなく、辺境の男に愛を告げられているという現実を受け入れられずにいた。
「アウレリア……戻ってきてくれ。謝る。私がすべて悪かった。だから、もう一度……」
「黙りなさい」
アウレリアの声は、冬の空気のように澄み渡り、そして冷たかった。
「リシアンサス様。あなたは最後まで、わたくし自身を見てはくださらなかった。あなたが求めていたのは、あなたの虚栄心を満たすための完璧な人形でしかありませんでした。わたくしは、もうあなたのための人形ではありません」
彼女はリシアンサスに背を向け、真っ直ぐにゼノを見つめた。その紫の瞳には、もう迷いはなかった。
「ゼノ様」
アウレリアは、ゼノの前に進み出ると、彼の傷だらけの手に、そっと自分の手を重ねた。
「わたくしは、ここにいます。あなたの隣に。騙されていたとか、守られていたとか、そんなことはもうどうでもいいのです。わたくしは、自分の意志で、あなたを選びます」
彼女は、つま先立ちになり、ゼノの唇にそっと自分の唇を重ねた。
「わたくしは、あなたの隣で生きていきたいのです」
その瞬間、ゼノはアウレリアを力強く抱きしめた。まるで、二度と離さないと誓うかのように。
「……ああ。お前は、俺だけのものだ」
彼の腕の中で、アウレリアは安堵のため息をついた。遠くで、リシアンサスの絶望に満ちた叫び声が聞こえたが、もはや彼女の心には届かなかった。
終章:夜明けのセラフィナイト
リシアンサスが失意のうちに去った後、辺境の地には再び穏やかな時間が流れ始めた。
春が訪れ、北の厳しい冬を乗り越えた大地が、一斉に生命の息吹を放ち始める。そして、あの日ゼノがアウレリアに手渡した球根もまた、見事な花を咲かせた。
その花びらは、まさに夜明けの空の色。淡い紫とピンク、そして黄金の光が混じり合ったような、神秘的な輝きを放っている。
「……綺麗ですわ」
温室で花に見入るアウレリアを、ゼノは背後から優しく抱きしめた。
「お前の方が、綺麗だ」
耳元で囁かれる甘い言葉に、アウレリアは頬を染める。かつての彼女なら、こんな風に感情を素直に表すことなどできなかっただろう。ゼノと出会い、彼に愛されることで、アウレリアは本当の自分を取り戻したのだ。
「ゼノ様」
「ゼノ、と呼べ」
「……ゼノ。わたくし、あなたに会えて、本当によかった」
振り返ったアウレリアは、満面の笑みを浮かべた。その笑顔は、どんな宝石よりも輝いて見えた。ゼノは愛おしさに耐えきれないといったように、彼女の唇を深く奪う。
もはや、そこに言葉は必要なかった。
二人は、夜明けの光が差し込む城壁の上に立っていた。眼下には、生命力に満ちた自分たちの領地が広がっている。
「アウレリア。俺はお前に、何もかもを捧げよう。この命も、魂も、この地のすべてを。お前が笑ってくれるなら、俺はなんだってする」
「わたくしもですわ、ゼノ。わたくしのすべては、あなたのものです」
二人は固く手を取り合い、昇り始めた太陽に向かって永遠の愛を誓った。
かつて「氷の薔薇」と呼ばれた令嬢は、今や愛する人の隣で、誰よりも温かく、そして誇り高く咲き誇る一輪の花となった。
その花の名は、セラフィナイト。
夜明けの光をその身に宿し、永遠の愛を象徴する、奇跡の花。
二人の物語は、まだ始まったばかりだ。
アウレリア・フォン・クラウゼン公爵令嬢は、完璧だった。
澄んだ湖面のような銀髪は、夜会でもひときわ清らかな光を放ち、見る者の目を奪う。宝石のアメシストを嵌め込んだかのような紫の瞳は、常に冷静な光を宿し、感情の揺らぎを一切見せない。立ち居振る舞いは水が流れるように優雅で、その知識は王宮の学者さえも舌を巻くほど。
彼女は、次期国王と目されるリシアンサス・ド・ヴァリエール公爵の婚約者として、まさに完璧な存在だった。
「アウレリア、今宵も君は美しい。私の隣に立つにふさわしい、唯一の女性だ」
リシアンサスは、きらびやかなシャンデリアの下で、満足げにアウレリアの腰に手を回した。陽光を溶かしたような金髪に、空の色を映した青い瞳。神が寵愛を注ぎ込んで創り上げたかのような美貌を持つ彼は、アウレリアの完璧さに心酔していた。
「お褒めにいただき光栄ですわ、リシアンサス様」
アウレリアは、教科書通りの淑女の笑みを浮かべて応える。心の中では、北風が吹き荒れていることなどおくびにも出さずに。
彼女はリシアンサスを愛していた。初めて会ったあの日から、ずっと。しかし、彼が愛しているのは「完璧なアウレリア」という名の、美しい人形であることを知っていた。彼がアウレリア自身を見てくれたことは一度もない。彼の腕の中にいても、アウレリアはいつも独りだった。その孤独は、じわじわと彼女の心を蝕んでいた。
それでも、これが公爵令嬢としての務めなのだと、自分に言い聞かせ続けてきた。感情を殺し、完璧な婚約者を演じ続けること。それが、クラウゼン家に生まれた自分の宿命なのだと。
その宿命が、音を立てて崩れ去る瞬間が訪れることなど、この時のアウレリアは知る由もなかった。
第一章:ガラスの破片
それは、国王主催の盛大な夜会でのことだった。
音楽が鳴り響き、着飾った貴族たちが談笑に興じる中、リシアンサスはアウレリアを伴ってホールの中央に進み出た。誰もが二人の美しい姿に注目する。リシアンサスが何か重大な発表でもするのかと、会場は期待に満ちた静寂に包まれた。
「皆、静粛に!」
リシアンサスの声が響き渡る。彼はアウレリアの隣で、勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。しかし、その青い瞳がアウレリアに向けられた瞬間、凍てつくような冷たさを帯びた。
「本日、皆に証人になってもらいたいことがある。私、リシアンサス・ド・ヴァリエールは、アウレリア・フォン・クラウゼンとの婚約を、これより破棄する!」
時が、止まった。
アウレリアの耳には、自分の心臓の音がやけに大きく響いていた。婚約破棄?今、彼は何と言った?
周囲の貴族たちが息を呑み、ざわめきが波のように広がっていく。リシアンサスはそんな喧騒を楽しんでいるかのように、言葉を続けた。
「私は、真実の愛を見つけたのだ。彼女こそ、私の魂が求める唯一の女性。さあ、こちらへ、セレスティーナ」
リシアンサスが手を差し伸べた先から、一人の令嬢がおずおずと現れた。小動物のように可憐な、亜麻色の髪を持つ男爵令嬢、セレスティーナだった。彼女はリシアンサスの腕にしがみつき、潤んだ瞳でアウレリアを見つめている。
「アウレリア、君は完璧すぎた。感情のない、美しいだけの氷の人形だ。君が愛していたのは私ではなく、ヴァリエール公爵家という権力だろう?君のような悪女に、真実の愛など分かりはしない!」
リシアンサスの言葉は、鋭いガラスの破片となってアウレリアの胸に突き刺さった。違う。違う、違う、違う!あなたを愛していたからこそ、完璧であろうと努力してきたのに。あなたの隣に立つために、自分のすべてを殺してきたのに。
喉まで出かかった叫びを、アウレリアは必死に飲み込んだ。ここで感情を露わにすれば、彼の言葉を肯定することになる。それはクラウゼン公爵家の名誉を汚すことだった。
彼女は、ゆっくりと背筋を伸ばした。そして、最後の力を振り絞り、完璧な淑女の仮面を貼り付ける。
「リシアンサス様。……それが、あなたの選択なのですね」
声は、震えていなかっただろうか。
「分かりましたわ。あなた様と、そちらの……セレスティーナ様のお幸せを、心よりお祈りしております」
アウレリアは、深々と淑女の礼をした。顔を上げた時、彼女の紫の瞳には、もはや何の感情も映ってはいなかった。ただ、底なしの虚無が広がっているだけだった。
誰の同情も乞わず、誰の助けも求めず、アウレリアはたった一人で、ホールを後にした。無数の好奇と侮蔑の視線が、背中に突き刺さるのを感じながら。
馬車に乗り込み、扉が閉められた瞬間、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。アウレリアの瞳から、堰を切ったように涙が溢れ出した。声にならない嗚咽が、暗い車内に響き渡る。
完璧な人形は、壊れた。粉々に砕け散って、もう二度と元には戻れないほどに。
第二章:黒獅子と氷の薔薇
婚約破棄の醜聞は、瞬く間に王都を駆け巡った。「感情のない悪女」「氷の薔薇」――アウレリアには、そんな不名誉なレッテルが貼られた。クラウゼン公爵家は沈黙を守り、アウレリアは屋敷の自室に閉じこもった。
光の届かない深い海の底に、独りで沈んでいくような日々。食事も喉を通らず、ただベッドの上で虚空を見つめるだけ。砕け散った心は、もはや痛みさえ感じなくなっていた。
そんなある日、部屋の扉が乱暴にノックされた。
「アウレリア様、お客様でございます」
侍女の困惑した声。アウレリアは返事もしなかった。誰にも会いたくない。
しかし、その客は許可なく部屋に入ってきた。ぎしり、と重いブーツが床を踏みしめる音。アウレリアがゆっくりと顔を上げると、そこには見知らぬ男が立っていた。
闇を溶かしたような黒髪に、焼けるような紫の瞳。日に焼けた肌と、戦士のように鍛え上げられた体躯。貴族の着るような優雅な服ではなく、実用的な革のジャケットを無造作に着こなしている。その存在感は、部屋の空気を圧するほどに強烈だった。
「……どなたですの?」
かろうじて、かすれた声を絞り出す。
男は答えず、無遠慮な視線でアウレリアを頭のてっぺんからつま先まで眺め回した。値踏みするような、それでいて何かを探るような視線に、アウレリアは不快感を覚える。
「……ひどい顔だな。噂の『氷の薔薇』も、形無しだ」
低く、少し掠れた声。その言葉には、嘲笑も同情もなかった。ただ、事実を述べただけ、という響きがあった。
「無礼ですわ。お引き取りください」
「断る」
男は即答し、部屋の椅子にどっかりと腰を下ろした。「俺はゼノ・イグナーティウス。北の辺境を治める伯爵だ」
ゼノ・イグナーティウス。その名には聞き覚えがあった。戦場で「黒獅子」と恐れられる猛将。しかし、その粗野で野蛮な振る舞いから、王都の社交界では爪弾きにされている男。
「辺境伯様が、わたくしに何の御用ですの?」
「王命だ」ゼノは簡潔に言った。「お前は俺の婚約者候補になった」
「……は?」
アウレリアは耳を疑った。婚約者候補?この私が?この、野蛮な男の?
「お断りしますわ。わたくしはもう、誰とも婚約するつもりはございません」
「それはお前が決めることじゃない」ゼノはアウレリアの言葉を切り捨てた。「お前には二つの道がある。俺と結婚するか、修道院に行くかだ。クラウゼン公爵家は、醜聞をまとったお前をこれ以上置いてはおけない。だが、お前ほどの駒を腐らせるのも惜しい。だから、俺のような男に押し付けようというわけだ」
あまりに率直な、残酷な言葉。しかし、それは紛れもない事実だった。アウレリアは、もはや自分の意志で人生を選ぶことさえ許されないのだ。
絶望が、再び彼女の心を黒く塗りつぶしていく。
「……どちらも、地獄ですわね」
自嘲気味に呟くと、ゼノがふっと息を漏らした。笑った、と気づいた時には、彼はアウレリアのベッドのそばに膝をついていた。大きな、節くれだった手が伸びてきて、アウレリアの涙で濡れた頬に触れる。その手は驚くほど優しかった。
「地獄にするか、天国にするか。それくらいは、お前自身で選べるだろう」
ゼノの紫の瞳が、アウレリアの魂の奥底を覗き込むようだった。この男は、他の誰もが見ようとしなかった、アウレリアの仮面の下にある何かを見ている。
「泣いて、喚いて、怒ればいい。お前は人形じゃない。感情があるんだろう?全部吐き出せ。俺が受け止めてやる」
その言葉は、アウレリアがずっと誰かに言ってほしかった言葉だった。張り詰めていた何かが、ぷつりと切れる。
「……っ、う、あああああああ!」
アウレリアは、生まれて初めて、人前で声を上げて泣いた。リシアンサスへの怒り、裏切られた悲しみ、自分自身への絶望。押し殺してきたすべての感情が、濁流となって溢れ出した。
ゼノは何も言わず、ただアウレリアの背中を力強く、それでいて優しくさすり続けていた。その温もりが、凍てついていたアウレリアの心を、ほんの少しだけ溶かしていくのだった。
第三章:氷解の序曲
ゼノは、アウレリアの返事を待たずに、彼女を北の辺境領へと連れ出した。王都の屋敷の息苦しさから逃れられたことに、アウレリアは少しだけ安堵していた。
辺境の地は、アウレリアが知る世界の何もかもが違っていた。どこまでも続く雄大な山々、厳しい風が吹き抜ける広大な草原、そして夜には空から降ってきそうなほどの星々。洗練された王都とは違う、荒々しくも生命力に満ちた風景が、アウレリアの心を少しずつ癒していく。
ゼノの城は、砦と呼んだ方がふさわしい、質実剛健な造りだった。召使いたちも王都のそれとは違い、気さくで遠慮がなかった。
「奥様、もっとお食べにならないと!そんな細い体じゃ、この北の冬は越せませんよ!」
恰幅のいい料理長は、アウレリアの皿に山盛りのシチューを乗せてくる。初めは戸惑っていたアウレリアも、その素朴な温かさに触れるうち、いつしか自然に笑えるようになっていた。
ゼノはアウレリアを特別扱いしなかった。彼はアウレリアを馬に乗せ、草原を駆けさせた。剣を握らせ、手ずから稽古をつけた。
「腰が入ってない!そんなんじゃ、ハエも斬れんぞ!」
「……っ、無礼ですわ!」
泥だらけになりながら剣を振るうなど、以前のアウレリアには考えられないことだった。しかし、汗を流し、体を動かすうちに、心の中に溜まっていた澱のようなものが浄化されていくのを感じた。
ある日、ゼノはアウレリアを連れて、麓の村を訪れた。領民たちはゼノを見ると、親しげに声をかけてくる。
「伯爵様!この前の魔獣討伐、ありがとうございました!」
「ゼノ様、うちの娘が熱を出した時、薬草を届けてくださって……」
アウレリアは驚いた。王都で「野蛮な黒獅子」と恐れられている男が、ここでは英雄として、家族のように慕われている。
「……意外ですわ。あなたは、もっと……恐れられているのかと」
帰り道、アウレリアが呟くと、ゼノは馬上で肩をすくめた。
「王都の連中が、好き勝手言ってるだけだ。俺は俺のやり方で、守るべきものを守る。それだけだ」
彼の横顔は、夕日に照らされてどこか誇らしげに見えた。
その夜、アウレリアは温室で育てていた珍しい花が、長旅で枯れてしまったことに気づいた。それは、リシアンサスから唯一贈られたもので、彼の心ない言葉を思い出させ、アウレリアは思わず鉢を床に叩きつけてしまった。
駆けつけたゼノが見たのは、割れた鉢と土にまみれて泣きじゃくるアウレリアの姿だった。
「どうした」
「……何でも、ありませんわ」
「嘘をつけ」
ゼノはアウレリアの隣にしゃがみ込むと、枯れた花の茎をそっと拾い上げた。
「リシアンサスを、まだ忘れられないのか」
「……違います」アウレリアは首を横に振った。「忘れられないのは、彼ではありません。……信じていたものに、裏切られたという事実です。わたくしが今まで捧げてきたもの全てが、無意味だったのだと思うと……悔しくて、情けなくて……!」
ゼノは黙ってアウレリアの話を聞いていた。そして、静かに口を開いた。
「無意味なんかじゃない」
彼は、懐から小さな布袋を取り出した。中から現れたのは、一つの球根だった。
「これはセラフィナイト。この北の地でしか咲かない花だ。極寒の冬を耐え抜き、春一番に、夜明けの光のような色の花を咲かせる」
ゼノは、その球根をアウレリアの掌に置いた。
「お前は、この花に似ている。今はまだ固い殻に閉じこもっているが、その中には誰よりも強い生命力と、美しい魂が眠っている。お前が捧げてきた時間は、お前を強く、美しくするための冬だったんだ。無駄なものなど、一つもなかった」
ゼノの言葉が、温かい光のようにアウレリアの心に沁み込んでいく。この男は、いつだってそうだ。不器用で、言葉はぶっきらぼうなのに、その実、誰よりも深くアウレリアの内面を見つめ、肯定してくれる。
アウレリアは、掌の中の球根を強く握りしめた。
「……育てて、みますわ」
「ああ。きっと、美しい花が咲く」
ゼノは満足げに頷くと、立ち上がってアウレリアに手を差し伸べた。
「立てるか?」
アウレリアは、ためらうことなくその手を取った。大きくて、ごつごつしていて、傷だらけの手。でも、世界で一番、温かくて安心できる手だった。
氷が溶ける、確かな音がした。
第四章:芽生える想いと黒い影
アウレリアが辺境の地で穏やかな日々を送るようになって、数ヶ月が過ぎた。セラフィナイトの球根は、温室の新しい鉢の中で、静かに芽吹きの時を待っていた。アウレリアの心もまた、その球根のように、ゆっくりと新しい光に向かって伸び始めていた。
彼女はもはや、か弱い「氷の薔薇」ではなかった。馬を駆り、剣を振るい、領民たちと気さくに言葉を交わす。その表情は日に日に豊かになり、よく笑い、時にはゼノに憎まれ口を叩いては、からかわれることもあった。
「おいアウレリア、今日のシチューは塩辛いぞ」
「あら、それは辺境伯様のお好みに合わせたつもりでしたのに。塩辛いものがお好きだと伺いましたから」
「いつ俺がそんなことを言った」
「さあ?昨日の夢の中だったかしら」
くすくすと笑うアウレリアを見て、ゼノもまた、口元を緩める。彼の紫の瞳が、アウレリアに向ける時だけ、燃えるような熱を帯びることに、アウレリアは気づいていた。
「お前は、笑っていた方がいい」
ある夜、城壁の上で星を眺めながら、ゼノがぽつりと言った。
「初めて会った時のお前は、まるで死人のようだった。だが今は違う。ちゃんと生きてる。……俺は、そんなお前がいい」
その真っ直ぐな言葉に、アウレリアの心臓が大きく跳ねた。この感情は何だろう。リシアンサスに向けていた、盲目的な恋心とは違う。もっと穏やかで、温かくて、そしてどうしようもなく惹きつけられる、この想いは。
「ゼノ様……」
彼を、もっと知りたい。彼の強さも、弱さも、その孤独も、すべて。
アウレリアがゼノに手を伸ばしかけた、その時だった。
「アウレリア!」
背後から聞こえたのは、決して忘れることのない声。アウレリアが振り返ると、そこには信じられない人物が立っていた。
「リシアンサス、様……」
かつての婚約者、リシアンサス・ド・ヴァリエールが、息を切らしてそこにいた。彼の傍らには、不安げな表情を浮かべたセレスティーナの姿もある。
「なぜ、あなたがここに……」
「君を取り戻しに来たんだ!」リシアンサスは悲痛な表情で叫んだ。「アウレリア、私が間違っていた!君がいなくなって、初めて君の大切さが分かったんだ。あんな可憐に見えたセレスティーナも、実際はただの我儘で無知な小娘だった!君の完璧さ、君の聡明さこそが、私には必要だったんだ!」
身勝手な言葉の羅列に、アウレリアの心は急速に冷えていく。この男は、やはり何も分かっていない。今もなお、自分を都合の良い人形としてしか見ていない。
「お断りしますわ」アウレリアは、きっぱりと言った。「わたくしはもう、あなたのための人形ではありません」
「なんだと?この私を袖にするというのか!この……辺境の猿にでも誑かされたか!」
逆上したリシアンサスがアウレリアの腕を掴もうとした瞬間、彼の前に黒い影が立ちはだかった。ゼノだった。
「その汚い手を、俺の女に触れるな」
地を這うような低い声。その瞳には、殺気さえもが宿っている。
「俺の女、だと?笑わせるな!アウレリアは私のものだ!」
「黙れ」ゼノはリシアンサスの胸ぐらを掴み上げた。「お前は、何も知らない。なぜ、アウレリアがお前の元を去り、ここにいるのか。その本当の理由をな」
「何……?」
ゼノの紫の瞳が、嘲りを込めてリシアンサスを見据えた。
「お前の陳腐な婚約破棄劇は、すべて仕組まれたものだったんだよ。お前は、道化として踊らされたにすぎん」
衝撃的な言葉に、アウレリアもリシアンサスも、そしてセレスティーナさえもが息を呑んだ。
第五章:明かされた真実
城壁の上は、張り詰めた沈黙に支配されていた。
「……仕組まれた、とはどういうことですの?」
最初に口を開いたのは、アウレリアだった。声が震えるのを止められない。
ゼノはリシアンサスの胸ぐらを掴んだまま、ゆっくりとアウレリアの方を向いた。その表情は、苦渋に満ちていた。
「アウレリア。お前は、王都の権力争いの渦中にいた。お前の聡明さとクラウゼン家の力を恐れる者たちが、お前を排除しようと画策していたんだ。リシアンサスとの結婚は、お前をさらに危険な立場に追いやるだけだった」
ゼノの言葉は続く。
「国王陛下は、それを憂慮されていた。そして、お前を安全な場所へ移すための策を講じられた。……それが、リシアンサスによる婚約破棄だ」
「そんな……馬鹿な……」リシアンサスが愕然と呟いた。
「お前は利用されたんだよ、公爵様」ゼノは冷たく言い放った。「お前の傲慢さと、新しい玩具に飛びつく軽薄さを、敵も、そして我々も利用させてもらった。この女、セレスティーナは、お前を唆すために対抗勢力が送り込んできた駒だ」
ゼノに睨みつけられ、セレスティーナは顔を真っ青にしてへなへなと座り込んだ。
「すべては、アウレリアを守るためだった。醜聞という名の鎧を着せ、辺境という名の聖域に匿う。それが、俺と陛下が立てた計画の全てだ」
真実の重みに、アウレリアはよろめいた。自分の人生を揺るがしたあの出来事が、すべて自分を守るための芝居だったというのか。
「……では、あなたも……わたくしを騙していたのですか」
絞り出すような声で問うと、ゼノは初めて狼狽したような顔を見せた。
「違う!いや……計画の上ではそうだった。だが、俺の気持ちは本物だ。初めてお前に会った時から、お前を守りたいと、お前を俺だけのものにしたいと、そう思った。計画など関係なく、俺はお前を愛してしまったんだ、アウレリア」
必死の告白。その言葉に嘘はないと、アウレリアには分かった。彼の燃えるような瞳が、何よりも雄弁にそれを物語っていた。
一方、リシアンサスは呆然と立ち尽くしていた。自分が道化だったという事実、そしてアウレリアが自分ではなく、辺境の男に愛を告げられているという現実を受け入れられずにいた。
「アウレリア……戻ってきてくれ。謝る。私がすべて悪かった。だから、もう一度……」
「黙りなさい」
アウレリアの声は、冬の空気のように澄み渡り、そして冷たかった。
「リシアンサス様。あなたは最後まで、わたくし自身を見てはくださらなかった。あなたが求めていたのは、あなたの虚栄心を満たすための完璧な人形でしかありませんでした。わたくしは、もうあなたのための人形ではありません」
彼女はリシアンサスに背を向け、真っ直ぐにゼノを見つめた。その紫の瞳には、もう迷いはなかった。
「ゼノ様」
アウレリアは、ゼノの前に進み出ると、彼の傷だらけの手に、そっと自分の手を重ねた。
「わたくしは、ここにいます。あなたの隣に。騙されていたとか、守られていたとか、そんなことはもうどうでもいいのです。わたくしは、自分の意志で、あなたを選びます」
彼女は、つま先立ちになり、ゼノの唇にそっと自分の唇を重ねた。
「わたくしは、あなたの隣で生きていきたいのです」
その瞬間、ゼノはアウレリアを力強く抱きしめた。まるで、二度と離さないと誓うかのように。
「……ああ。お前は、俺だけのものだ」
彼の腕の中で、アウレリアは安堵のため息をついた。遠くで、リシアンサスの絶望に満ちた叫び声が聞こえたが、もはや彼女の心には届かなかった。
終章:夜明けのセラフィナイト
リシアンサスが失意のうちに去った後、辺境の地には再び穏やかな時間が流れ始めた。
春が訪れ、北の厳しい冬を乗り越えた大地が、一斉に生命の息吹を放ち始める。そして、あの日ゼノがアウレリアに手渡した球根もまた、見事な花を咲かせた。
その花びらは、まさに夜明けの空の色。淡い紫とピンク、そして黄金の光が混じり合ったような、神秘的な輝きを放っている。
「……綺麗ですわ」
温室で花に見入るアウレリアを、ゼノは背後から優しく抱きしめた。
「お前の方が、綺麗だ」
耳元で囁かれる甘い言葉に、アウレリアは頬を染める。かつての彼女なら、こんな風に感情を素直に表すことなどできなかっただろう。ゼノと出会い、彼に愛されることで、アウレリアは本当の自分を取り戻したのだ。
「ゼノ様」
「ゼノ、と呼べ」
「……ゼノ。わたくし、あなたに会えて、本当によかった」
振り返ったアウレリアは、満面の笑みを浮かべた。その笑顔は、どんな宝石よりも輝いて見えた。ゼノは愛おしさに耐えきれないといったように、彼女の唇を深く奪う。
もはや、そこに言葉は必要なかった。
二人は、夜明けの光が差し込む城壁の上に立っていた。眼下には、生命力に満ちた自分たちの領地が広がっている。
「アウレリア。俺はお前に、何もかもを捧げよう。この命も、魂も、この地のすべてを。お前が笑ってくれるなら、俺はなんだってする」
「わたくしもですわ、ゼノ。わたくしのすべては、あなたのものです」
二人は固く手を取り合い、昇り始めた太陽に向かって永遠の愛を誓った。
かつて「氷の薔薇」と呼ばれた令嬢は、今や愛する人の隣で、誰よりも温かく、そして誇り高く咲き誇る一輪の花となった。
その花の名は、セラフィナイト。
夜明けの光をその身に宿し、永遠の愛を象徴する、奇跡の花。
二人の物語は、まだ始まったばかりだ。
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