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銀灰の薔薇は氷血公爵の腕で融かされる
銀灰の薔薇は氷血公爵の腕で融かされる
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第一章:砕け散った硝子の誓い
シャンデリアの光が降り注ぐ、王宮の夜会。人々が纏う絹や宝石がきらびやかな光の粒子を撒き散らす中で、私の世界は音を立てて砕け散った。
「リヴェリア・フォン・クライフォルト! この場で貴様との婚約を破棄させてもらう!」
甲高く響き渡った声の主は、私の婚約者であるユリシーズ・ド・ヴァレンティン公爵子息。彼の美しい顔は侮蔑に歪み、その隣には可憐な男爵令嬢、コリンヌ・ベルナールが勝ち誇ったように寄り添っている。
喧騒が嘘のように静まり返り、すべての視線が私――リヴェリアに突き刺さる。なぜ。どうして。昨日まで、愛を囁いてくれたではないですか。
「ユリシーズ様……何かの、間違いでは……?」
か細く絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。
「間違いだと? とぼけるのも大概にしろ!」
ユリシーズは私の手を取り、衆人の前に晒す。
「毎晩のように夜遊びを繰り返し、あまつさえ他の男と密会していたという報告もある! クライフォルト伯爵家の名誉も地に落ちたものだ! こんな不貞な女をヴァレンティン家に迎えるわけにはいかない!」
根も葉もない嘘。私はこの三年間、ユリシーズ様だけを想い、淑女の嗜みと未来の公爵妃としての勉強に明け暮れる毎日だったというのに。夜遊びなど、したこともない。
「そ、そんなことは……」
「黙れ! 言い訳は聞きたくない! 見ろ、このコリンヌの健気さを! 貴様の嫌がらせに耐え、私のために尽くしてくれた彼女こそ、私の隣に立つにふさわしい!」
ユリシーズの腕の中で、コリンヌが悲劇のヒロインのように儚げに瞳を潤ませる。周囲からは「ああ、やはりクライフォルト嬢が…」「なんてお労しい、ベルナール嬢」という同情の声が聞こえ始める。仕組まれた舞台。完全に悪役に仕立て上げられた私に、味方はどこにもいなかった。
父と母の絶望に満ちた顔が見える。彼らの期待を裏切ってしまった。クライフォルト家の名に泥を塗ってしまった。血の気が引き、指先が氷のように冷たくなっていく。世界が白く、遠くなっていく。
「――茶番はそこまでにしていただこうか」
その声は、凍てつく冬の夜のように冷たく、しかし不思議なほど明瞭にホールに響き渡った。声のした方へ視線を向けると、そこに立っていたのは、この国の最高位貴族の一人、ゼファニヤ・ヴァル・ドラクロワ公爵。
「氷血公爵」
漆黒の髪に、まるで血のように赤い瞳。彫像のように完璧な顔立ちは常に感情を映さず、その冷徹さから誰もが恐れる存在。彼が、なぜ。
ゼファニヤ公爵は、ゆっくりとこちらへ歩みを進める。その一歩一歩に、周囲の人間が道を空けていく。
「ドラクロワ公爵……これは私と彼女の問題です。口出しはご無用に願いたい」
ユリシーズが虚勢を張るが、その声は微かに震えていた。
ゼファニヤ公爵はユリシーズを一瞥もせず、私の目の前で足を止めた。そして、その赤い瞳が初めて私を捉える。吸い込まれそうなほど、深い赤。
「ヴァレンティン子息。君の言う『不貞の証拠』とやらは、どこにある?」
「そ、それは……信頼できる筋からの情報で……」
「情報、か。では、その『信頼できる筋』とやらを今この場に呼んでもらおう。私も聞きたい。この淑女が、いつ、どこで、誰と密会していたのかを」
有無を言わせぬ威圧感。ユリシーズは言葉に詰まり、顔を青ざめさせる。コリンヌもまた、予想外の介入者に怯えた表情を隠せない。
ゼファニヤ公爵は、そんな二人にはもう興味を失ったように、私に向かって手を差し伸べた。節くれだった、大きな手。
「リヴェリア・フォン・クライフォルト嬢。君が流した涙の価値も知らぬ愚か者のために、これ以上心を痛める必要はない」
「……え?」
「私の手を取るか、否か。君が決めればいい」
周囲の人間が息を飲むのが分かった。あの氷血公爵が、婚約破棄されたばかりの令嬢に手を差し伸べている。ありえない光景。
私は、目の前の大きな手に視線を落とした。この手を取れば、何かが変わるのだろうか。しかし、これ以上ドラクロワ公爵にご迷惑をおかけするわけには……。
私がためらっていると、ゼファニヤ公爵は小さく息を吐き、私の震える手をそっと掬い取った。彼の体温が、冷え切った私の指先にじんわりと伝わってくる。
「君の意思は、その瞳が雄弁に語っている」
彼はそう言うと、私の手を引いてその場から歩き出した。誰も、その行く手を阻むことはできない。呆然と立ち尽くすユリシーズとコリンヌを背に、私はただ、彼の広い背中についていくしかなかった。
ホールの扉を出る間際、彼の低い声が耳元で囁いた。
「もう大丈夫だ。君を傷つけるものは、私がすべて排除しよう」
それは、今まで聞いたどんな言葉よりも甘く、そして力強い誓いのように、私の心に響いたのだった。
第二章:氷の城で咲く温もり
公爵家の馬車は、まるで夜の闇に溶け込むように静かに王都を進んだ。外の喧騒が嘘のように、車内は静寂に包まれている。私はただ、窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めていた。隣に座るゼファニヤ公爵は、何も言わずに腕を組んで目を閉じている。
やがて馬車は、王都のはずれに立つ壮麗な屋敷の前に止まった。ドラクロワ公爵邸。鉄の門が重々しい音を立てて開くと、そこには完璧に手入れされた広大な庭園が広がっていた。
「……あの、公爵様」
「ゼファニヤでいい」
「え?」
「私のことはゼファニヤと。君の名はリヴェリア、で間違いないな」
淡々とした口調だが、拒絶する雰囲気はない。
「は、はい……リヴェリアです。ゼファニヤ様、本日は……その、ありがとうございました。ですが、これ以上ご迷惑はおかけできません。私はこれで……」
馬車を降り、すぐにこの場を辞去しようとする私を、ゼファニヤ様は静かに制した。
「行く当てなどないだろう。今宵はここに泊まっていくといい。いや、君が望むなら、ずっとここにいても構わない」
「そ、そんなわけにはまいりません!」
家名を汚し、醜聞の的となった私だ。これ以上、彼に累が及ぶことだけは避けなければ。
「迷惑かどうかは、私が決めることだ」
ゼファニヤ様は有無を言わさぬ口調でそう言うと、屋敷の扉へと私を促した。
中へ入ると、初老の執事とメイドたちがずらりと並んで出迎えてくれた。
「お帰りなさいませ、旦那様。そして……お客様」
執事は私を見て一瞬驚いた顔をしたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。
「セバス。彼女の部屋を用意してくれ。一番陽当たりの良い、東の客間を」
「かしこまりました。お嬢様、こちらへどうぞ」
セバスと名乗った執事に導かれ、私は大理石の階段を上る。案内された部屋は、客間と呼ぶにはあまりにも広く、豪華だった。天蓋付きのベッドに、優雅な猫脚のソファ。そして、バルコニーの向こうには、月明かりに照らされた美しい庭が広がっている。
「温かいお飲み物と、着替えをすぐにお持ちします。何なりとお申し付けください」
メイドたちが手際よく準備を整えてくれる。私はただ、されるがままになっていた。温かいハーブティーを一口飲むと、強張っていた身体から少しだけ力が抜けた。
しばらくして、部屋の扉がノックされた。入ってきたのは、ゼファニヤ様だった。その手には、小さな鉢植えが一つ。銀色がかった灰色の葉を持つ、見たことのない植物だった。
「これは……?」
「銀灰薔薇(アルジェント・ローザ)だ。極北の地でしか育たない珍しい薔薇でな。普段はこうして色を失っているが、真の安らぎを得た時、七色の花を咲かせると言われている」
彼はその鉢植えを、陽光が差し込む窓辺にそっと置いた。
「君に似ていると思った」
「私に……?」
「ああ。気高く、美しい。だが今は、心を閉ざし、その色を隠している」
彼の赤い瞳が、真っ直ぐに私を見つめる。
「リヴェリア。君が本来の色を取り戻すまで、私が君の盾となり、土となろう。だから、今は何も考えず、ゆっくりと休むといい」
彼の言葉は、魔法のように私の心を解きほぐしていく。あの夜会での絶望、ユリシーズへの怒り、未来への不安。渦巻いていた感情が、彼の静かな優しさの前に凪いでいくのを感じた。気づけば、私の頬を涙が伝っていた。こらえていたものが、一気に溢れ出す。
「……っ、う……ぅ……」
声を殺して泣く私を、ゼファニヤ様は黙って見つめていた。そして、おもむろに私を抱き寄せると、その広い胸に顔をうずめさせてくれた。彼の服から、白檀のような落ち着く香りがする。
「泣きたいだけ泣くといい。ここでは、誰も君を責めはしない」
彼の大きな手が、子供をあやすように優しく私の背中を叩く。私はその温もりに縋りつくように、声を上げて泣いた。どれくらいの時間、そうしていただろうか。涙が枯れ果てた頃、私は彼の胸の中で眠りに落ちていた。
第三章:甘やかな毒と癒しの光
ドラクロワ公爵邸での生活は、夢のように穏やかだった。
朝は小鳥のさえずりで目を覚まし、陽光がたっぷりと降り注ぐ部屋で、メイドが用意してくれた美味しい朝食をとる。昼間は、ゼファニヤ様が私のために集めてくれたという膨大な蔵書を読んだり、セバスに教わりながら庭園の手入れをしたりして過ごした。
「リヴェリア様は、植物の扱いがお上手でいらっしゃる。この枯れかけていたビオラも、すっかり元気になりましたな」
セバスは目を細めてそう言った。私は元々、土いじりが好きだった。実家の小さな庭で、母と花を育てるのが何よりの楽しみだった。ユリシーズ様と婚約してからは、公爵妃にふさわしくないと禁じられていたけれど。
「好きなのです。土に触れていると、心が落ち着きますから」
「旦那様も、そうおっしゃいます」
「ゼファニヤ様が?」
意外だった。あの冷徹に見える人が、私と同じように土に安らぎを感じるなんて。
「はい。特に、あの銀灰薔薇は旦那様がそれは大切に育てていらっしゃいました。ですが、ここ数年は少し元気がなくて……リヴェリア様が来てから、心なしか葉の色が濃くなったような気がいたします」
窓辺に置かれた銀灰薔薇。確かに、ここに来た時よりも葉の銀色が鮮やかになっている気がする。まるで、私の心の状態を映しているかのように。
夜は、ほとんどゼファニヤ様と共に食卓を囲んだ。彼はいつも、その日にあった出来事を静かに聞いてくれる。私が庭で花を植え替えた話をすれば、「今度、私にも見せてくれ」と微笑み、私が読んだ本の話をすれば、その物語について深い知識で語ってくれた。
彼の「溺愛」は、決して甘い言葉や派手な贈り物だけではなかった。それは、私の失われた日常を、一つ一つ丁寧に紡ぎ直してくれるような、深く、静かな愛情だった。
「リヴェリア。何か欲しいものはないか」
ある晩、デザートの時間を過ごしている時に彼が尋ねた。
「いいえ、何も。毎日が夢のようです。これ以上望むものなどありません」
「そうか。……では、私から君に贈り物をさせてほしい」
彼が合図をすると、メイドが大きな箱を運んできた。中に入っていたのは、夜空の星をすべて溶かし込んだような、美しい瑠璃色のドレスだった。
「これは……」
「来週、隣国の王子を歓迎する舞踏会が開かれる。それに着ていくといい」
「舞踏会、ですか……? 私が、そのような場所へ……?」
あの夜会のトラウマが蘇る。人々の好奇と侮蔑の視線。もう二度と、あんな思いはしたくない。
「大丈夫だ」
私の不安を見透かしたように、彼は言った。
「私が隣にいる。今度は、君を一人にはしない」
彼の赤い瞳には、絶対的な自信と、私への揺るぎない信頼が宿っていた。この人となら、大丈夫かもしれない。私は、小さく頷いた。
舞踏会の当日。
瑠璃色のドレスを身に纏い、ゼファニヤ様が贈ってくれたサファイアの首飾りをつけた私は、鏡に映る自分の姿が信じられなかった。まるで、知らない誰かのようだった。
「美しい」
迎えに来てくれたゼファニヤ様が、感嘆のため息と共に言った。
「まるで、夜の女神だ」
「そ、そんな……」
「謙遜は無用だ。君は、世界で一番美しい」
彼は私の手を取り、その甲に恭しく口づけをする。その仕草だけで、頬に火が灯るのを感じた。
王宮の舞踏会場に足を踏み入れた瞬間、空気が凍りついた。すべての視線が、私たち二人に集中する。氷血公爵が、あのクライフォルト家の醜聞の令嬢を伴っている。誰もが信じられないという表情で、私たちを見ていた。
そして、その中には、ユリシーズとコリンヌの姿もあった。ユリシーズは驚愕に目を見開き、コリンヌは扇の影で唇を噛み締めている。
「ゼファニヤ……!」
音楽が始まると、彼は私をダンスの輪へと誘った。彼のリードは完璧で、私はまるで羽が生えたかのように軽やかにステップを踏むことができた。彼の腕に抱かれ、赤い瞳に見つめられていると、周囲の視線など気にならなくなった。世界に、彼と私しかいないような錯覚に陥る。
「気分は悪くないか?」
「はい。あなたが、いてくださるから」
素直な気持ちを口にすると、彼の口元に満足そうな笑みが浮かんだ。
一曲踊り終えると、私たちの周りには人だかりができていた。しかし、誰もが遠巻きに見ているだけで、話しかけてくる者はいない。そんな中、わざとらしく声をかけてきた者がいた。
「まあ、ドラクロワ公爵様。ごきげんよう。……そちらは、クライフォルト嬢ではありませんか。大変な目に遭われたと伺っておりましたが、すっかりお元気そうで何よりですわ」
コリンヌだった。その声には、蜜に混ぜた毒のような棘がある。
「おかげさまで。今は、この上なく幸せな毎日を過ごしておりますの」
私は、精一杯の笑顔で言い返した。ここで負けるわけにはいかない。
「そうですの? ヴァレンティン様との婚約をあのような形で……私、自分のことのように胸が痛みますわ」
「心配には及びません。私には、ユリシーズ様よりもずっと素敵な方が現れましたから」
私はそう言って、隣に立つゼファニヤ様を見上げた。彼は私の言葉に応えるように、私の腰をぐっと引き寄せる。
「彼女は、私の庇護下にある。今後、彼女に対して無礼な言動があれば、それが誰であろうと、ドラクロワ家への敵対と見なす。覚えておくがいい」
氷のように冷たい声。コリンヌは顔を真っ青にして、すごすごと引き下がっていった。その後ろで、ユリシーズが悔しそうにこちらを睨みつけているのが見えた。
スカッとした、というよりも、胸の奥が温かくなるのを感じた。私を守るために、彼は全世界を敵に回すことも厭わない。その事実が、何よりも私を強くしてくれた。
その夜、屋敷に帰る馬車の中で、私は彼の肩に寄りかかっていた。
「ゼファニヤ様……ありがとうございます」
「礼を言う必要はない。私は、私の望むことをしているだけだ」
「あなたの、望むこと?」
「ああ」
彼は私の顎にそっと手を添え、顔を上げさせた。月明かりに照らされた彼の赤い瞳が、熱を帯びて揺れている。
「君を愛し、守り、誰よりも幸せにすること。それが、今の私の唯一の望みだ」
そして、彼の唇が、ゆっくりと私の唇に重ねられた。それは、壊れ物に触れるような、優しい優しいキスだった。
第四章:過去の亡霊と未来への誓い
舞踏会の一件で、王都の社交界における私の立場は一変した。以前は「婚約破棄された哀れな令嬢」として同情や好奇の的だったのが、今や「氷血公爵の寵愛を受ける謎の女性」として畏怖と羨望の対象となっていた。
しかし、平穏な日々は長くは続かなかった。ユリシーズが、私たちの仲を引き裂こうと画策し始めたのだ。
ある日の午後、私が庭で銀灰薔薇の手入れをしていると、セバスが慌てた様子でやってきた。
「リヴェリア様、大変でございます! ヴァレンティン子息が……!」
振り返ると、そこにはユリシーズが立っていた。彼の顔には、焦りと嫉妬が醜く浮かんでいる。
「リヴェリア! 君に話がある!」
「ユリシーズ様。ここはドラクロワ公爵邸ですわ。無断で立ち入ることは許されません」
「そんなことはどうでもいい! リヴェリア、頼む、私の元へ帰ってきてくれ!」
彼は私の腕を掴み、必死に訴えかけてきた。
「君がいなくなって、初めて君の大切さが分かったんだ! コリンヌは……あいつはただ、私の家名と財産が目当てだったんだ! 君の純粋な愛だけが、本物だった!」
身勝手な言い分に、怒りを通り越して呆れてしまう。
「お言葉ですが、ユリシーズ様。あなたはその『純粋な愛』とやらを、ご自分の手で踏みにじったではありませんか」
「あれは間違いだった! 私はコリンヌに騙されていたんだ! 頼む、リヴェリア。もう一度やり直そう。君を必ず幸せにしてみせる!」
私がその手を振り払おうとした、その時。
「彼女の身体に、気安く触れるな」
地を這うような低い声が響いた。いつの間にか、ゼファニヤ様が私たちの後ろに立っていた。その赤い瞳は、見たこともないほどの怒りの炎を宿している。
「ドラクロワ公爵……!」
「ヴァレンティン子息。警告はしたはずだ。これ以上、私のリヴェリアを煩わせるな」
「君の、だと……? リヴェリアは私の婚約者だったんだぞ!」
「過去形だな。彼女はもう、君のものではない」
ゼファニヤ様は私を自分の背中にかばうように立ち、ユリシーズを睨みつけた。二人の間に、火花が散るような緊張が走る。
「リヴェリアは私を愛している! 今のはただの気の迷いだ!」
ユリシーズが叫んだ、その瞬間だった。
「いいえ」
凛とした自分の声が、庭に響いた。
「私が愛しているのは、ゼファニヤ様です」
驚いて振り返る二人の男。私自身も、自分の口から飛び出した言葉に驚いていた。でも、それは紛れもない本心だった。
「私はもう、あなたのための人形ではありません、ユリシーズ様。私は、私自身の意思で、ゼファニヤ様のそばにいることを選びました。だから、もう二度と私の前に現れないでください」
きっぱりと告げると、ユリシーズは絶望したようにその場に崩れ落ちた。ゼファニヤ様は衛兵を呼び、彼を屋敷からつまみ出すよう命じる。
騒動が去った後、庭には静寂が戻った。
「……今の言葉、本心か?」
ゼファニヤ様が、少しだけ不安そうな声で尋ねた。
「はい」
私は彼の胸に飛び込み、その身体にしっかりと腕を回した。
「本心です。私は、あなたを愛しています、ゼファニヤ様」
彼は驚いたように少しだけ身体を硬直させたが、すぐに力強い腕で私を抱きしめ返してくれた。
「……私もだ、リヴェリア。私も、君を愛している」
彼の告白に、胸がいっぱいになる。私たちはどちらからともなく唇を求め、深く、甘いキスを交わした。
その夜、私は初めて、彼の過去について聞いた。
彼にもかつて、心から愛した女性がいたのだという。しかし、彼女はドラクロワ家の権力を狙う政敵の罠にはまり、命を落とした。彼は、彼女を守ることができなかった。その悔恨と絶望が、彼を「氷血公爵」という仮面の中に閉じ込めてしまったのだ。
「君を初めて見た時、彼女を思い出した。いや、違うな。君の瞳の奥にある、決して折れることのない芯の強さに、私は光を見たんだ。君となら、私も過去を乗り越え、もう一度人を愛せるかもしれない、と」
彼の痛みを、私は初めて知った。彼もまた、癒えない傷を抱えて生きてきたのだ。
「ゼファニヤ様……」
「君を守ると誓ったのは、自己満足だったのかもしれない。過去の過ちを繰り返したくないという、私のエゴだったのかもしれない。だが、今は違う。私は心から、君と共に未来を歩みたいと願っている」
彼の告白は、私の心の最後の扉を開けた。過去のトラウマも、未来への不安も、もう何もない。この人の腕の中だけが、私のいるべき場所なのだ。
私たちは、どちらからともなく互いの服に手をかけた。それはあまりにも自然な流れだった。彼の赤い瞳が、熱っぽい欲望の色を帯びて私を見つめる。私もまた、彼のすべてを受け入れたいと、心の底から願っていた。
月明かりが差し込む部屋で、私たちは一つになった。彼が与えてくれる快感は、今まで知らなかった世界の扉を開けていく。痛みは少しもなかった。ただ、愛されているという実感だけが、私の全身を満たしていく。何度も名前を呼び合い、互いの存在を確かめ合うように、私たちは夜が明けるまで求め合った。
翌朝、私が目を覚ますと、隣で眠る彼の美しい寝顔があった。私はそっとその頬に触れる。彼と出会ってから、私の世界は色を取り戻した。いや、以前よりもずっと鮮やかで、美しい色に満ちている。
ふと、窓辺に視線をやると、信じられない光景が広がっていた。
あの銀灰薔薇が、花を咲かせている。
赤、青、黄、緑……まるで虹のかけらを集めたような、七色の花びらが、朝の光を浴びてキラキラと輝いていた。
「……綺麗だ」
いつの間にか目を覚ましていたゼファニヤ様が、私の後ろからそっと抱きしめながら言った。
「君のようだ、リヴェリア」
私は彼の胸に身を委ね、七色の薔薇を見つめた。
私の凍てついた心は、この人の腕の中で完全に融かされたのだ。
エピローグ:銀灰色の薔薇が咲き誇る場所
それから半年後。
クライフォルト家は、ユリシーズとコリンヌが共謀して私を陥れた証拠をゼファニヤ様が掴んでくれたおかげで、名誉を回復することができた。ヴァレンティン家はその醜聞によって爵位を剥奪され、没落の一途を辿ったと聞く。
そして私は今、純白のウェディングドレスを身に纏い、教会の祭壇の前に立っている。隣には、漆黒のタキシードに身を包んだゼファニヤ様。彼の赤い瞳は、これ以上ないほどの愛情に満ちて、私を見つめている。
「――汝、リヴェリア・フォン・クライフォルトは、ゼファニヤ・ヴァル・ドラクロワを夫とし、健やかなる時も、病める時も、富める時も、貧しき時も、彼を愛し、敬い、慈しむことを誓いますか」
「はい、誓います」
迷いのない、はっきりとした声が出た。
誓いのキスは、あの夜のように優しく、そしてあの夜よりも深く、情熱的だった。
ドラクロワ公爵邸の、あの東の部屋は、今では私たちの寝室になっている。窓辺では、銀灰薔薇が毎日、美しい七色の花を咲かせ続けている。
「リヴェリア」
夜、ベッドの中で彼に抱きしめられながら名前を呼ばれるのが、私の何よりの幸せだった。
「愛している」
「私もです、ゼファニヤ様。心の底から、あなたを愛しています」
かつて婚約破棄され、絶望の淵にいた令嬢はもういない。
ここにいるのは、世界で一番大切な人から、世界で一番愛されている、幸福な一人の女性だ。
銀灰色の薔薇は、もう二度とその色を失うことはないだろう。
なぜなら、氷血公爵と呼ばれた男の腕の中は、世界で一番温かく、優しい光に満ちているのだから。
シャンデリアの光が降り注ぐ、王宮の夜会。人々が纏う絹や宝石がきらびやかな光の粒子を撒き散らす中で、私の世界は音を立てて砕け散った。
「リヴェリア・フォン・クライフォルト! この場で貴様との婚約を破棄させてもらう!」
甲高く響き渡った声の主は、私の婚約者であるユリシーズ・ド・ヴァレンティン公爵子息。彼の美しい顔は侮蔑に歪み、その隣には可憐な男爵令嬢、コリンヌ・ベルナールが勝ち誇ったように寄り添っている。
喧騒が嘘のように静まり返り、すべての視線が私――リヴェリアに突き刺さる。なぜ。どうして。昨日まで、愛を囁いてくれたではないですか。
「ユリシーズ様……何かの、間違いでは……?」
か細く絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。
「間違いだと? とぼけるのも大概にしろ!」
ユリシーズは私の手を取り、衆人の前に晒す。
「毎晩のように夜遊びを繰り返し、あまつさえ他の男と密会していたという報告もある! クライフォルト伯爵家の名誉も地に落ちたものだ! こんな不貞な女をヴァレンティン家に迎えるわけにはいかない!」
根も葉もない嘘。私はこの三年間、ユリシーズ様だけを想い、淑女の嗜みと未来の公爵妃としての勉強に明け暮れる毎日だったというのに。夜遊びなど、したこともない。
「そ、そんなことは……」
「黙れ! 言い訳は聞きたくない! 見ろ、このコリンヌの健気さを! 貴様の嫌がらせに耐え、私のために尽くしてくれた彼女こそ、私の隣に立つにふさわしい!」
ユリシーズの腕の中で、コリンヌが悲劇のヒロインのように儚げに瞳を潤ませる。周囲からは「ああ、やはりクライフォルト嬢が…」「なんてお労しい、ベルナール嬢」という同情の声が聞こえ始める。仕組まれた舞台。完全に悪役に仕立て上げられた私に、味方はどこにもいなかった。
父と母の絶望に満ちた顔が見える。彼らの期待を裏切ってしまった。クライフォルト家の名に泥を塗ってしまった。血の気が引き、指先が氷のように冷たくなっていく。世界が白く、遠くなっていく。
「――茶番はそこまでにしていただこうか」
その声は、凍てつく冬の夜のように冷たく、しかし不思議なほど明瞭にホールに響き渡った。声のした方へ視線を向けると、そこに立っていたのは、この国の最高位貴族の一人、ゼファニヤ・ヴァル・ドラクロワ公爵。
「氷血公爵」
漆黒の髪に、まるで血のように赤い瞳。彫像のように完璧な顔立ちは常に感情を映さず、その冷徹さから誰もが恐れる存在。彼が、なぜ。
ゼファニヤ公爵は、ゆっくりとこちらへ歩みを進める。その一歩一歩に、周囲の人間が道を空けていく。
「ドラクロワ公爵……これは私と彼女の問題です。口出しはご無用に願いたい」
ユリシーズが虚勢を張るが、その声は微かに震えていた。
ゼファニヤ公爵はユリシーズを一瞥もせず、私の目の前で足を止めた。そして、その赤い瞳が初めて私を捉える。吸い込まれそうなほど、深い赤。
「ヴァレンティン子息。君の言う『不貞の証拠』とやらは、どこにある?」
「そ、それは……信頼できる筋からの情報で……」
「情報、か。では、その『信頼できる筋』とやらを今この場に呼んでもらおう。私も聞きたい。この淑女が、いつ、どこで、誰と密会していたのかを」
有無を言わせぬ威圧感。ユリシーズは言葉に詰まり、顔を青ざめさせる。コリンヌもまた、予想外の介入者に怯えた表情を隠せない。
ゼファニヤ公爵は、そんな二人にはもう興味を失ったように、私に向かって手を差し伸べた。節くれだった、大きな手。
「リヴェリア・フォン・クライフォルト嬢。君が流した涙の価値も知らぬ愚か者のために、これ以上心を痛める必要はない」
「……え?」
「私の手を取るか、否か。君が決めればいい」
周囲の人間が息を飲むのが分かった。あの氷血公爵が、婚約破棄されたばかりの令嬢に手を差し伸べている。ありえない光景。
私は、目の前の大きな手に視線を落とした。この手を取れば、何かが変わるのだろうか。しかし、これ以上ドラクロワ公爵にご迷惑をおかけするわけには……。
私がためらっていると、ゼファニヤ公爵は小さく息を吐き、私の震える手をそっと掬い取った。彼の体温が、冷え切った私の指先にじんわりと伝わってくる。
「君の意思は、その瞳が雄弁に語っている」
彼はそう言うと、私の手を引いてその場から歩き出した。誰も、その行く手を阻むことはできない。呆然と立ち尽くすユリシーズとコリンヌを背に、私はただ、彼の広い背中についていくしかなかった。
ホールの扉を出る間際、彼の低い声が耳元で囁いた。
「もう大丈夫だ。君を傷つけるものは、私がすべて排除しよう」
それは、今まで聞いたどんな言葉よりも甘く、そして力強い誓いのように、私の心に響いたのだった。
第二章:氷の城で咲く温もり
公爵家の馬車は、まるで夜の闇に溶け込むように静かに王都を進んだ。外の喧騒が嘘のように、車内は静寂に包まれている。私はただ、窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めていた。隣に座るゼファニヤ公爵は、何も言わずに腕を組んで目を閉じている。
やがて馬車は、王都のはずれに立つ壮麗な屋敷の前に止まった。ドラクロワ公爵邸。鉄の門が重々しい音を立てて開くと、そこには完璧に手入れされた広大な庭園が広がっていた。
「……あの、公爵様」
「ゼファニヤでいい」
「え?」
「私のことはゼファニヤと。君の名はリヴェリア、で間違いないな」
淡々とした口調だが、拒絶する雰囲気はない。
「は、はい……リヴェリアです。ゼファニヤ様、本日は……その、ありがとうございました。ですが、これ以上ご迷惑はおかけできません。私はこれで……」
馬車を降り、すぐにこの場を辞去しようとする私を、ゼファニヤ様は静かに制した。
「行く当てなどないだろう。今宵はここに泊まっていくといい。いや、君が望むなら、ずっとここにいても構わない」
「そ、そんなわけにはまいりません!」
家名を汚し、醜聞の的となった私だ。これ以上、彼に累が及ぶことだけは避けなければ。
「迷惑かどうかは、私が決めることだ」
ゼファニヤ様は有無を言わさぬ口調でそう言うと、屋敷の扉へと私を促した。
中へ入ると、初老の執事とメイドたちがずらりと並んで出迎えてくれた。
「お帰りなさいませ、旦那様。そして……お客様」
執事は私を見て一瞬驚いた顔をしたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。
「セバス。彼女の部屋を用意してくれ。一番陽当たりの良い、東の客間を」
「かしこまりました。お嬢様、こちらへどうぞ」
セバスと名乗った執事に導かれ、私は大理石の階段を上る。案内された部屋は、客間と呼ぶにはあまりにも広く、豪華だった。天蓋付きのベッドに、優雅な猫脚のソファ。そして、バルコニーの向こうには、月明かりに照らされた美しい庭が広がっている。
「温かいお飲み物と、着替えをすぐにお持ちします。何なりとお申し付けください」
メイドたちが手際よく準備を整えてくれる。私はただ、されるがままになっていた。温かいハーブティーを一口飲むと、強張っていた身体から少しだけ力が抜けた。
しばらくして、部屋の扉がノックされた。入ってきたのは、ゼファニヤ様だった。その手には、小さな鉢植えが一つ。銀色がかった灰色の葉を持つ、見たことのない植物だった。
「これは……?」
「銀灰薔薇(アルジェント・ローザ)だ。極北の地でしか育たない珍しい薔薇でな。普段はこうして色を失っているが、真の安らぎを得た時、七色の花を咲かせると言われている」
彼はその鉢植えを、陽光が差し込む窓辺にそっと置いた。
「君に似ていると思った」
「私に……?」
「ああ。気高く、美しい。だが今は、心を閉ざし、その色を隠している」
彼の赤い瞳が、真っ直ぐに私を見つめる。
「リヴェリア。君が本来の色を取り戻すまで、私が君の盾となり、土となろう。だから、今は何も考えず、ゆっくりと休むといい」
彼の言葉は、魔法のように私の心を解きほぐしていく。あの夜会での絶望、ユリシーズへの怒り、未来への不安。渦巻いていた感情が、彼の静かな優しさの前に凪いでいくのを感じた。気づけば、私の頬を涙が伝っていた。こらえていたものが、一気に溢れ出す。
「……っ、う……ぅ……」
声を殺して泣く私を、ゼファニヤ様は黙って見つめていた。そして、おもむろに私を抱き寄せると、その広い胸に顔をうずめさせてくれた。彼の服から、白檀のような落ち着く香りがする。
「泣きたいだけ泣くといい。ここでは、誰も君を責めはしない」
彼の大きな手が、子供をあやすように優しく私の背中を叩く。私はその温もりに縋りつくように、声を上げて泣いた。どれくらいの時間、そうしていただろうか。涙が枯れ果てた頃、私は彼の胸の中で眠りに落ちていた。
第三章:甘やかな毒と癒しの光
ドラクロワ公爵邸での生活は、夢のように穏やかだった。
朝は小鳥のさえずりで目を覚まし、陽光がたっぷりと降り注ぐ部屋で、メイドが用意してくれた美味しい朝食をとる。昼間は、ゼファニヤ様が私のために集めてくれたという膨大な蔵書を読んだり、セバスに教わりながら庭園の手入れをしたりして過ごした。
「リヴェリア様は、植物の扱いがお上手でいらっしゃる。この枯れかけていたビオラも、すっかり元気になりましたな」
セバスは目を細めてそう言った。私は元々、土いじりが好きだった。実家の小さな庭で、母と花を育てるのが何よりの楽しみだった。ユリシーズ様と婚約してからは、公爵妃にふさわしくないと禁じられていたけれど。
「好きなのです。土に触れていると、心が落ち着きますから」
「旦那様も、そうおっしゃいます」
「ゼファニヤ様が?」
意外だった。あの冷徹に見える人が、私と同じように土に安らぎを感じるなんて。
「はい。特に、あの銀灰薔薇は旦那様がそれは大切に育てていらっしゃいました。ですが、ここ数年は少し元気がなくて……リヴェリア様が来てから、心なしか葉の色が濃くなったような気がいたします」
窓辺に置かれた銀灰薔薇。確かに、ここに来た時よりも葉の銀色が鮮やかになっている気がする。まるで、私の心の状態を映しているかのように。
夜は、ほとんどゼファニヤ様と共に食卓を囲んだ。彼はいつも、その日にあった出来事を静かに聞いてくれる。私が庭で花を植え替えた話をすれば、「今度、私にも見せてくれ」と微笑み、私が読んだ本の話をすれば、その物語について深い知識で語ってくれた。
彼の「溺愛」は、決して甘い言葉や派手な贈り物だけではなかった。それは、私の失われた日常を、一つ一つ丁寧に紡ぎ直してくれるような、深く、静かな愛情だった。
「リヴェリア。何か欲しいものはないか」
ある晩、デザートの時間を過ごしている時に彼が尋ねた。
「いいえ、何も。毎日が夢のようです。これ以上望むものなどありません」
「そうか。……では、私から君に贈り物をさせてほしい」
彼が合図をすると、メイドが大きな箱を運んできた。中に入っていたのは、夜空の星をすべて溶かし込んだような、美しい瑠璃色のドレスだった。
「これは……」
「来週、隣国の王子を歓迎する舞踏会が開かれる。それに着ていくといい」
「舞踏会、ですか……? 私が、そのような場所へ……?」
あの夜会のトラウマが蘇る。人々の好奇と侮蔑の視線。もう二度と、あんな思いはしたくない。
「大丈夫だ」
私の不安を見透かしたように、彼は言った。
「私が隣にいる。今度は、君を一人にはしない」
彼の赤い瞳には、絶対的な自信と、私への揺るぎない信頼が宿っていた。この人となら、大丈夫かもしれない。私は、小さく頷いた。
舞踏会の当日。
瑠璃色のドレスを身に纏い、ゼファニヤ様が贈ってくれたサファイアの首飾りをつけた私は、鏡に映る自分の姿が信じられなかった。まるで、知らない誰かのようだった。
「美しい」
迎えに来てくれたゼファニヤ様が、感嘆のため息と共に言った。
「まるで、夜の女神だ」
「そ、そんな……」
「謙遜は無用だ。君は、世界で一番美しい」
彼は私の手を取り、その甲に恭しく口づけをする。その仕草だけで、頬に火が灯るのを感じた。
王宮の舞踏会場に足を踏み入れた瞬間、空気が凍りついた。すべての視線が、私たち二人に集中する。氷血公爵が、あのクライフォルト家の醜聞の令嬢を伴っている。誰もが信じられないという表情で、私たちを見ていた。
そして、その中には、ユリシーズとコリンヌの姿もあった。ユリシーズは驚愕に目を見開き、コリンヌは扇の影で唇を噛み締めている。
「ゼファニヤ……!」
音楽が始まると、彼は私をダンスの輪へと誘った。彼のリードは完璧で、私はまるで羽が生えたかのように軽やかにステップを踏むことができた。彼の腕に抱かれ、赤い瞳に見つめられていると、周囲の視線など気にならなくなった。世界に、彼と私しかいないような錯覚に陥る。
「気分は悪くないか?」
「はい。あなたが、いてくださるから」
素直な気持ちを口にすると、彼の口元に満足そうな笑みが浮かんだ。
一曲踊り終えると、私たちの周りには人だかりができていた。しかし、誰もが遠巻きに見ているだけで、話しかけてくる者はいない。そんな中、わざとらしく声をかけてきた者がいた。
「まあ、ドラクロワ公爵様。ごきげんよう。……そちらは、クライフォルト嬢ではありませんか。大変な目に遭われたと伺っておりましたが、すっかりお元気そうで何よりですわ」
コリンヌだった。その声には、蜜に混ぜた毒のような棘がある。
「おかげさまで。今は、この上なく幸せな毎日を過ごしておりますの」
私は、精一杯の笑顔で言い返した。ここで負けるわけにはいかない。
「そうですの? ヴァレンティン様との婚約をあのような形で……私、自分のことのように胸が痛みますわ」
「心配には及びません。私には、ユリシーズ様よりもずっと素敵な方が現れましたから」
私はそう言って、隣に立つゼファニヤ様を見上げた。彼は私の言葉に応えるように、私の腰をぐっと引き寄せる。
「彼女は、私の庇護下にある。今後、彼女に対して無礼な言動があれば、それが誰であろうと、ドラクロワ家への敵対と見なす。覚えておくがいい」
氷のように冷たい声。コリンヌは顔を真っ青にして、すごすごと引き下がっていった。その後ろで、ユリシーズが悔しそうにこちらを睨みつけているのが見えた。
スカッとした、というよりも、胸の奥が温かくなるのを感じた。私を守るために、彼は全世界を敵に回すことも厭わない。その事実が、何よりも私を強くしてくれた。
その夜、屋敷に帰る馬車の中で、私は彼の肩に寄りかかっていた。
「ゼファニヤ様……ありがとうございます」
「礼を言う必要はない。私は、私の望むことをしているだけだ」
「あなたの、望むこと?」
「ああ」
彼は私の顎にそっと手を添え、顔を上げさせた。月明かりに照らされた彼の赤い瞳が、熱を帯びて揺れている。
「君を愛し、守り、誰よりも幸せにすること。それが、今の私の唯一の望みだ」
そして、彼の唇が、ゆっくりと私の唇に重ねられた。それは、壊れ物に触れるような、優しい優しいキスだった。
第四章:過去の亡霊と未来への誓い
舞踏会の一件で、王都の社交界における私の立場は一変した。以前は「婚約破棄された哀れな令嬢」として同情や好奇の的だったのが、今や「氷血公爵の寵愛を受ける謎の女性」として畏怖と羨望の対象となっていた。
しかし、平穏な日々は長くは続かなかった。ユリシーズが、私たちの仲を引き裂こうと画策し始めたのだ。
ある日の午後、私が庭で銀灰薔薇の手入れをしていると、セバスが慌てた様子でやってきた。
「リヴェリア様、大変でございます! ヴァレンティン子息が……!」
振り返ると、そこにはユリシーズが立っていた。彼の顔には、焦りと嫉妬が醜く浮かんでいる。
「リヴェリア! 君に話がある!」
「ユリシーズ様。ここはドラクロワ公爵邸ですわ。無断で立ち入ることは許されません」
「そんなことはどうでもいい! リヴェリア、頼む、私の元へ帰ってきてくれ!」
彼は私の腕を掴み、必死に訴えかけてきた。
「君がいなくなって、初めて君の大切さが分かったんだ! コリンヌは……あいつはただ、私の家名と財産が目当てだったんだ! 君の純粋な愛だけが、本物だった!」
身勝手な言い分に、怒りを通り越して呆れてしまう。
「お言葉ですが、ユリシーズ様。あなたはその『純粋な愛』とやらを、ご自分の手で踏みにじったではありませんか」
「あれは間違いだった! 私はコリンヌに騙されていたんだ! 頼む、リヴェリア。もう一度やり直そう。君を必ず幸せにしてみせる!」
私がその手を振り払おうとした、その時。
「彼女の身体に、気安く触れるな」
地を這うような低い声が響いた。いつの間にか、ゼファニヤ様が私たちの後ろに立っていた。その赤い瞳は、見たこともないほどの怒りの炎を宿している。
「ドラクロワ公爵……!」
「ヴァレンティン子息。警告はしたはずだ。これ以上、私のリヴェリアを煩わせるな」
「君の、だと……? リヴェリアは私の婚約者だったんだぞ!」
「過去形だな。彼女はもう、君のものではない」
ゼファニヤ様は私を自分の背中にかばうように立ち、ユリシーズを睨みつけた。二人の間に、火花が散るような緊張が走る。
「リヴェリアは私を愛している! 今のはただの気の迷いだ!」
ユリシーズが叫んだ、その瞬間だった。
「いいえ」
凛とした自分の声が、庭に響いた。
「私が愛しているのは、ゼファニヤ様です」
驚いて振り返る二人の男。私自身も、自分の口から飛び出した言葉に驚いていた。でも、それは紛れもない本心だった。
「私はもう、あなたのための人形ではありません、ユリシーズ様。私は、私自身の意思で、ゼファニヤ様のそばにいることを選びました。だから、もう二度と私の前に現れないでください」
きっぱりと告げると、ユリシーズは絶望したようにその場に崩れ落ちた。ゼファニヤ様は衛兵を呼び、彼を屋敷からつまみ出すよう命じる。
騒動が去った後、庭には静寂が戻った。
「……今の言葉、本心か?」
ゼファニヤ様が、少しだけ不安そうな声で尋ねた。
「はい」
私は彼の胸に飛び込み、その身体にしっかりと腕を回した。
「本心です。私は、あなたを愛しています、ゼファニヤ様」
彼は驚いたように少しだけ身体を硬直させたが、すぐに力強い腕で私を抱きしめ返してくれた。
「……私もだ、リヴェリア。私も、君を愛している」
彼の告白に、胸がいっぱいになる。私たちはどちらからともなく唇を求め、深く、甘いキスを交わした。
その夜、私は初めて、彼の過去について聞いた。
彼にもかつて、心から愛した女性がいたのだという。しかし、彼女はドラクロワ家の権力を狙う政敵の罠にはまり、命を落とした。彼は、彼女を守ることができなかった。その悔恨と絶望が、彼を「氷血公爵」という仮面の中に閉じ込めてしまったのだ。
「君を初めて見た時、彼女を思い出した。いや、違うな。君の瞳の奥にある、決して折れることのない芯の強さに、私は光を見たんだ。君となら、私も過去を乗り越え、もう一度人を愛せるかもしれない、と」
彼の痛みを、私は初めて知った。彼もまた、癒えない傷を抱えて生きてきたのだ。
「ゼファニヤ様……」
「君を守ると誓ったのは、自己満足だったのかもしれない。過去の過ちを繰り返したくないという、私のエゴだったのかもしれない。だが、今は違う。私は心から、君と共に未来を歩みたいと願っている」
彼の告白は、私の心の最後の扉を開けた。過去のトラウマも、未来への不安も、もう何もない。この人の腕の中だけが、私のいるべき場所なのだ。
私たちは、どちらからともなく互いの服に手をかけた。それはあまりにも自然な流れだった。彼の赤い瞳が、熱っぽい欲望の色を帯びて私を見つめる。私もまた、彼のすべてを受け入れたいと、心の底から願っていた。
月明かりが差し込む部屋で、私たちは一つになった。彼が与えてくれる快感は、今まで知らなかった世界の扉を開けていく。痛みは少しもなかった。ただ、愛されているという実感だけが、私の全身を満たしていく。何度も名前を呼び合い、互いの存在を確かめ合うように、私たちは夜が明けるまで求め合った。
翌朝、私が目を覚ますと、隣で眠る彼の美しい寝顔があった。私はそっとその頬に触れる。彼と出会ってから、私の世界は色を取り戻した。いや、以前よりもずっと鮮やかで、美しい色に満ちている。
ふと、窓辺に視線をやると、信じられない光景が広がっていた。
あの銀灰薔薇が、花を咲かせている。
赤、青、黄、緑……まるで虹のかけらを集めたような、七色の花びらが、朝の光を浴びてキラキラと輝いていた。
「……綺麗だ」
いつの間にか目を覚ましていたゼファニヤ様が、私の後ろからそっと抱きしめながら言った。
「君のようだ、リヴェリア」
私は彼の胸に身を委ね、七色の薔薇を見つめた。
私の凍てついた心は、この人の腕の中で完全に融かされたのだ。
エピローグ:銀灰色の薔薇が咲き誇る場所
それから半年後。
クライフォルト家は、ユリシーズとコリンヌが共謀して私を陥れた証拠をゼファニヤ様が掴んでくれたおかげで、名誉を回復することができた。ヴァレンティン家はその醜聞によって爵位を剥奪され、没落の一途を辿ったと聞く。
そして私は今、純白のウェディングドレスを身に纏い、教会の祭壇の前に立っている。隣には、漆黒のタキシードに身を包んだゼファニヤ様。彼の赤い瞳は、これ以上ないほどの愛情に満ちて、私を見つめている。
「――汝、リヴェリア・フォン・クライフォルトは、ゼファニヤ・ヴァル・ドラクロワを夫とし、健やかなる時も、病める時も、富める時も、貧しき時も、彼を愛し、敬い、慈しむことを誓いますか」
「はい、誓います」
迷いのない、はっきりとした声が出た。
誓いのキスは、あの夜のように優しく、そしてあの夜よりも深く、情熱的だった。
ドラクロワ公爵邸の、あの東の部屋は、今では私たちの寝室になっている。窓辺では、銀灰薔薇が毎日、美しい七色の花を咲かせ続けている。
「リヴェリア」
夜、ベッドの中で彼に抱きしめられながら名前を呼ばれるのが、私の何よりの幸せだった。
「愛している」
「私もです、ゼファニヤ様。心の底から、あなたを愛しています」
かつて婚約破棄され、絶望の淵にいた令嬢はもういない。
ここにいるのは、世界で一番大切な人から、世界で一番愛されている、幸福な一人の女性だ。
銀灰色の薔薇は、もう二度とその色を失うことはないだろう。
なぜなら、氷血公爵と呼ばれた男の腕の中は、世界で一番温かく、優しい光に満ちているのだから。
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