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灰被りの令嬢と、氷の公爵の秘められた熱情
灰被りの令嬢と、氷の公爵の秘められた熱情
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第一章:砕かれたガラスの靴
シャンデリアの光が宝石のように降り注ぐ、王宮の大広間。今宵は建国記念を祝う、一年で最も華やかな夜会が開かれていた。着飾った貴族たちの喧騒が、オーケストラの優雅な旋律と混じり合い、きらびやかな夢の世界を創り出している。
しかし、その夢の世界で、私、セラフィナ・フォン・リヒトホーフェンは、悪夢の淵に立たされていた。
「セラフィナ! この場で貴様との婚約を破棄させてもらう!」
金糸の髪を揺らし、サファイアの瞳を怒りに燃やすのは、私の婚約者であるはずのアレクシオス・フォン・ゲルラッハ侯爵子息。彼の声は音楽を切り裂き、周囲のざわめきを一瞬で静寂に変えた。全ての視線が、針のように私に突き刺さる。
「……アレクシオス様、それは、どういう……?」
かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほどか細く震えていた。
彼は嘲るように鼻を鳴らし、私の隣に立つ異母妹、イザベラ・フォン・リヒトホーフェンの肩をこれ見よがしに抱き寄せた。燃えるような赤いドレスをまとったイザベラは、勝ち誇った笑みを隠そうともしない。
「どういう、だと? わからないのか? 魔力のかけらも持たない『出来損ない』の貴様と、次期侯爵であるこの俺が、未来を共にできるはずがないだろう!」
魔力。この国では、貴族の価値は魔力の有無と量で決まる。私の父であるリヒトホーフェン伯爵は微量ながらも魔力を持つが、私は生まれてこの方、一度も魔力を感じたことがなかった。そのせいで、継母と義妹のイザベラから、物心ついた頃から「灰被り」「出来損ない」と蔑まれ、屋敷の片隅で息を潜めるように生きてきた。
アレクシオスとの婚約も、両家の家格を釣り合わせるための政略的なもの。それでも、いつかはこの惨めな生活から抜け出せるのだと、淡い期待を抱いていたのに。
「そんな……お父様同士が決めた婚約ですわ。一方的に破棄など……」
「ああ、伯爵にはすでに話を通してある。彼は快く承諾してくださったよ。なあ、イザベラ」
アレクシオスに促され、イザベラは恍惚とした表情で頷いた。
「ええ、アレクシオス様。これからは、私があなた様の隣に立つにふさわしい女ですわ。私には、あなた様を支えるに足る魔力がございますもの」
彼女の手のひらに、小さな炎が揺らめく。周囲から「おお」という感嘆の声と、私への侮蔑の囁きが聞こえてくる。
「見て、リヒトホーフェン家の灰被りよ」
「ゲルラッハ様がお可哀想に。あんな娘と婚約させられていたなんて」
「これからはイザベラ様の時代ね」
世界から音が消えていく。私の足元で、見えないガラスの靴が粉々に砕け散る音がした。涙が溢れそうで、私は唇を強く噛みしめる。ここで泣けば、あの二人の思う壺だ。それだけは、嫌だった。
屈辱に耐え、背筋を伸ばしてその場から去ろうとした、その時だった。
「――ならば、その婚約、俺が拾おう」
凛とした、それでいて氷のように冷たい声が、再び広間の空気を凍らせた。声の主を見て、誰もが息を呑む。
黒曜石のような髪、彫刻のように整った顔立ち。そして、全てを見透かすかのような、冷たいサファイアブルーの瞳。そこに立っていたのは、この国の武の象徴、ヴァルロワ公爵家の当主、ゼノン・ド・ヴァルロワその人だった。
「戦場の悪魔」「氷の公爵」と誰もが畏れる、王国最強の魔力を持つ男。彼がなぜ、ここに? なぜ、私に?
アレクシオスもイザベラも、あまりの衝撃に言葉を失っている。ゼノン公爵は、そんな彼らを意にも介さず、ゆっくりと私の方へ歩みを進めてくる。一歩、また一歩と彼が近づくたびに、尋常ではない威圧感に心臓が締め付けられる。
そして、私の目の前で足を止めると、彼は私を見下ろし、もう一度、はっきりと言った。
「セラフィナ・フォン・リヒトホーフェン。アレクシオス・ゲルラッハが不要だというのなら、君を俺の妻に迎えよう」
第二章:氷の公爵との契約
ゼノン公爵の言葉は、爆弾となって夜会に集った人々を混乱の渦に叩き込んだ。誰もが、自分の耳を疑っていた。あの、女性に一切の興味を示さないと噂の「氷の公爵」が、よりにもよって、婚約破棄されたばかりの「灰被り」に求婚したのだから。
呆然とする私をよそに、ゼノン公爵はアレクシオスに向き直った。
「ゲルラッハ子息。君は、このセラフィナ嬢との婚約を破棄する。それで間違いないな?」
「は、はい! もちろんです、公爵閣下! ですが、なぜ閣下がこのような……」
「理由は君には関係ない。ただ、言質は取った」
それだけ言うと、ゼノン公爵は私の手首を掴んだ。彼の手に触れた部分が、氷に触れたかのように冷たい。しかし、不思議と嫌な感じはしなかった。
「行くぞ」
「え……あ、あの、公爵閣下!?」
「返事は後で聞く。ここは長居する場所ではない」
有無を言わさぬ口調で、彼は私を連れて大広間を後にした。残された貴族たちの困惑と好奇の視線が、背中に突き刺さる。ちらりと振り返ると、信じられないといった表情で立ち尽くすアレクシオスと、嫉妬と怒りで顔を歪ませるイザベラの姿が見えた。
人気のないバルコニーに連れ出され、ようやく私の手は解放された。ひんやりとした夜風が、火照った頬に心地よい。
「……あの、公爵閣下。一体、これはどういうことなのでしょうか?」
恐る恐る尋ねると、彼は月明かりを背に、静かに私を見つめていた。
「言葉通りの意味だ。リヒトホーフェン嬢。俺と結婚する気はあるか?」
「ですが……なぜ、私のような者を……」
「俺にも都合がある」
ゼノン公爵は淡々と語り始めた。彼は独身を貫いてきたが、そのせいでしつこく縁談を持ちかけてくる貴族たちが後を絶たず、うんざりしていたこと。かといって、下手に力のある家の令嬢を娶れば、外戚が政治に口出ししてくる可能性があること。
「その点、君はちょうどいい」
「ちょうどいい、ですか?」
「ああ。後ろ盾も、魔力もない。おまけに、家では疎まれていると聞く。君を妻にしても、リヒトホーフェ-ン伯爵家が余計な口出しをしてくる心配はない。君は家族からの虐待から逃れられ、俺は厄介な縁談から解放される。これは、双方に利のある『契約』だ」
契約――。その言葉に、胸がちくりと痛んだ。やはり、私自身に価値があるわけではないのだ。それでも、この地獄のような家から出られるのなら、どんな条件でも構わなかった。
「……お受け、いたします。その契約」
私がそう答えると、彼は初めて、ほんの少しだけ口元を緩めたように見えた。
「賢明な判断だ。明日の朝、正式な使者をリヒトホーフェン伯爵邸に送る。君は、荷物をまとめて待っていればいい」
「……はい」
「それから、公爵邸では俺の妻として振る舞ってもらう。情愛は期待するな。だが、ヴァルロワ公爵夫人としての地位と、不自由ない暮らしは保証しよう」
情愛は、期待するな。
その言葉は、氷の刃のように冷たく私の胸に突き刺さった。けれど、私は頷くしかなかった。元より、誰かに愛されることなど、望むべくもなかったのだから。
翌日、予告通りヴァルロワ公爵家からの使者が訪れた時、リヒトホーフェン家は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。継母とイザベラは顔を真っ青にし、父はただ狼狽えるばかり。
彼らがどんなに引き留めようと、公爵家の決定は覆らない。私は、最低限の身の回りの品だけをトランクに詰め込むと、誰に見送られることもなく、迎えの馬車に乗り込んだ。
振り返ったリヒトホーフェン伯爵邸は、私にとっては美しい家ではなく、長年私を閉じ込めてきた鳥籠にしか見えなかった。
第三章:不器用な優しさ
ヴァルロワ公爵邸での生活は、静かで、そして孤独なものだった。
広大すぎる屋敷には、必要最低限の侍女と使用人がいるだけ。彼らは私を「公爵夫人」として敬ってはくれるが、どこか遠巻きに接しているのが分かった。
そして、夫であるゼノン公爵は、多忙を極めていた。朝早くから執務室に籠もり、夜遅くに帰宅する。食事もほとんど別々で、顔を合わせるのは日に一度、彼の書斎でお茶を共にする時間だけだった。
「何か不自由はないか」
「……はい。ございません」
「そうか」
会話はいつも、それだけ。彼は書類から目を離すこともなく、ただ義務として私の様子を尋ねる。情愛は期待するな、という言葉を思い出し、私はいつも「大丈夫です」と微笑むだけだった。
しかし、そんな生活がひと月ほど続いた頃、些細な変化が訪れ始めた。
ある日の夕食後、侍女が私の部屋に美しいナイトドレスを運んできた。柔らかなシルクでできた、菫色のドレス。それは、私の瞳の色と同じだった。
「まあ、綺麗……。ですが、私はこのようなもの、頼んでいませんが」
「公爵閣下が、奥様にとお選びになりました。『きっとお似合いになるだろう』と」
侍女の言葉に、心臓がとくん、と跳ねた。あの、氷の公爵が? 私のために?
信じられない思いでドレスを受け取る。袖を通すと、まるで私のために作られたかのように、ぴったりと体に馴染んだ。鏡に映る自分の姿が、少しだけ輝いて見えた。
その翌日には、私の部屋のテーブルに、一輪の白い薔薇が飾られていた。
またその次の日には、私が読みたいと呟いていた詩集が、いつの間にか置かれていた。
誰がしているのかは、聞かなくても分かった。ゼノン公爵は何も言わない。相変わらず、彼は書斎で私と会う時も無表情で、事務的な言葉しか口にしない。けれど、彼の不器用な贈り物は、静かに、確実に私の心を温めていった。
ある晩、私は勇気を出して、彼に尋ねてみることにした。
「あの、公爵閣下。いつも、素敵なお心遣いをありがとうございます。ドレスも、お花も……とても、嬉しいです」
彼は一瞬、驚いたように目を見開いた。そして、気まずそうに視線を逸らす。
「……君が、この屋敷の主婦だ。みすぼらしい格好をされては、俺の沽券に関わる」
「…………」
「花は、庭師が勝手にやったことだ。詩集は、書庫の整理をしていたらたまたま見つけただけだ」
ぶっきらぼうな言い方。でも、その耳がほんのり赤く染まっているのを、私は見逃さなかった。
ああ、この人は、なんて不器用で、そして優しい人なのだろう。
冷たい仮面の奥に隠された温かさに触れた気がして、私の胸に、今まで感じたことのない甘い感情が芽生え始めていた。
「ふふっ」
思わず笑みがこぼれると、彼はますます居心地悪そうに眉を寄せた。
「……何がおかしい」
「いえ。とても、あなたらしいと思いまして」
「……訳が分からん」
そう言ってそっぽを向いてしまう彼の横顔は、もう「氷の公爵」には見えなかった。
孤独だった公爵邸での生活が、少しずつ色づき始めた瞬間だった。
第四章:仕掛けられた罠と覚醒の時
私の穏やかな日々は、しかし、長くは続かなかった。
私がヴァルロワ公爵夫人として社交界にデビューすると、それを快く思わない者たちが動き出したのだ。言うまでもなく、アレクシオスとイザベラだった。
彼らは、私がゼノン公爵の寵愛を受けているという噂を耳にし、嫉妬の炎を燃やしていた。そして、私を破滅させるための卑劣な罠を仕掛けてきた。
ある夜会で、アレクシオスが声をかけてきた。
「セラフィナ。少し、話がある」
「アレクシオス様……。申し訳ありませんが、私にはあなたとお話しすることはありません」
きっぱりと断る私に、彼は歪んだ笑みを浮かべた。
「そう冷たいことを言うな。君の出生の秘密について、面白い話を聞いてしまってね」
彼の言葉に、嫌な予感がする。
アレクシオスは、勝ち誇ったように言った。
「君の母方の祖母は、禁忌とされた『血の魔法』を使う一族の生き残りだったそうじゃないか。その力を使い、人の生命力を奪っていたとか。そんな危険な血を引く者が、公爵夫人でいていいものかな?」
血の魔法。聞いたこともない。だが、アレクシオスの目は、それが真実だと確信しているようだった。
その噂は、あっという間に貴族たちの間に広まった。
「ヴァルロワ公爵夫人は、呪われた血筋だ」
「人の精気を吸って生きているらしい」
「だから、あんなに美しいのでは……」
根も葉もない噂が、悪意を持って形を変え、私を追い詰めていく。とうとう、王宮からも調査団が派遣される事態となった。
調査団の代表として公爵邸を訪れたのは、他でもない、ゲルラッハ侯爵――アレクシオスの父親だった。彼は、私に反逆罪の疑いをかけ、魔力の精密検査を要求してきた。
応接室の空気は、張り詰めていた。私の隣には、ゼノン公爵が静かに座っている。彼の表情は、いつも通り無表情で、何を考えているのか読み取れない。
「セラフィナ・フォン・リヒトホーフェン。いや、ヴァルロワ公爵夫人。あなたにかけられた嫌疑は重大です。潔白を証明するためにも、検査に応じていただきたい」
ゲルラッハ侯爵の言葉に、私は唇を噛んだ。検査を受ければ、私に魔力がないことが改めて証明されるだけだ。だが、それがどう「血の魔法」と結びつけられるのか、分からなかった。
私が返答に窮していると、隣のゼノンが初めて口を開いた。
「断る」
「なっ……公爵閣下! それは、王命に背くと?」
「俺の妻に、いわれのない疑いをかけること自体が不敬だ。彼女の潔白は、この俺が保証する」
力強い言葉。彼は、私のことを信じてくれている。それだけで、涙が出そうだった。
しかし、ゲルラッ-ハ侯爵は引き下がらない。
「閣下のお気持ちは分かりますが、これは国を揺るがす問題です! もし、夫人が本当に禁忌の魔女だとしたら……!」
その時だった。
アレクシオスと共に部屋に入ってきていたイザベラが、隠し持っていた短剣で、突然私に斬りかかってきたのだ。
「きゃあ!」
咄嗟に身を庇う。ゼノンが私をかばうように前に立った。だが、イザベラの狙いは私ではなかった。彼女は、私をかばったゼノンの腕を、深く切りつけたのだ。
「公爵閣下!」
鮮血が飛び散る。彼の腕から、どくどくと血が流れ落ちた。
「ゼノン様!」
私は悲鳴を上げて彼のそばに駆け寄った。傷は深い。このままでは……!
「これで証明されるわ! 出来損ないのあなたには、閣下を癒すことなんてできやしない! あなたは無力で、公爵夫人にはふさわしくないのよ!」
イザベラが高笑いする。
その瞬間、私の内側で、何かがぷつりと切れる音がした。
――この人を、死なせたくない。
その強い想いが引き金になったのか。私の体中を、今まで感じたことのない熱い何かが駆け巡った。それは、まるで奔流のようだった。
「……っ!」
私の手のひらが、淡い光を放ち始める。それは、イザベラが使うような攻撃的な炎の色ではない。生命力に満ちた、温かい黄金色の光だった。
「な……なに、これ……?」
自分でも何が起きているのか分からない。けれど、私の体は、心が、何をすべきかを知っていた。
私は、光る手のひらを、恐れることなくゼノンの傷口にそっと重ねた。
「セラフィナ……?」
ゼノンが、驚きに目を見開いて私の名前を呼ぶ。
すると、奇跡が起きた。
黄金の光が彼の傷を包み込むと、あれほど深くえぐれていた傷が、みるみるうちに塞がっていく。流れ出ていた血は止まり、裂けていた皮膚が繋がり、やがてそこには、傷跡一つ残っていなかった。
「そん……な……治癒魔法……? それも、最高位の……」
ゲルラッハ侯爵が、信じられないものを見る目で呟く。
「嘘よ……魔力なしの出来損ないが、どうして……!」
イザベラが絶叫した。
私の家系に伝わるのは「血の魔法」などという呪われた力ではなかった。それは、自らの魔力を生命力に変換し、内に秘めることで、いざという時に他者の傷を癒し、命を繋ぐことができる『祝福』の力。魔力がないのではなく、ただ、その力の使い方を知らなかっただけなのだ。
ようやく、私は本当の自分を見つけた。そして、守りたい人が、すぐそばにいる。
私は、もう「灰被り」ではない。
最終章:氷が溶ける時
私の覚醒を目の当たりにし、ゲルラッハ侯爵たちは顔面蒼白になっていた。ゼノンは、傷一つない腕を確かめると、静かに立ち上がった。その瞳には、今まで見たこともないような、激しい怒りの炎が燃え盛っていた。
「……全て、お前たちの仕組んだ芝居か」
地を這うような低い声に、アレクシオスとイザベラが震え上がる。
「ひっ……ち、違います! 私たちは、国のことを思って……!」
「黙れ」
ゼノンが一喝すると、部屋の空気がビリビリと震えた。彼の体から放たれる凄まじい魔力の圧に、誰もが身動き一つ取れなくなる。
「俺の妻を陥れ、あまつさえ害そうとした罪、万死に値する。だが、すぐに殺してはつまらん。お前たちには、これからその罪を償う時間をたっぷりと与えてやろう」
彼のその後の裁きは、迅速かつ苛烈を極めた。
ゲルラッハ侯爵家は、ヴァルロワ公爵家への反逆罪で爵位を剥奪され、領地も没収された。アレクシオスは北の辺境へ、イザベラは南の修道院へと送られ、二度と社交界に戻ることはなかった。私の父も、娘の危機に際して何もしなかった責任を問われ、爵位こそ維持したものの、事実上の隠居を余儀なくされた。
全ての嵐が過ぎ去った夜。
私は、ゼノンの書斎にいた。暖炉の炎が、静かに揺れている。
「……セラフィナ」
不意に、彼が私の名前を呼んだ。私は彼の隣に座り、黙って次の言葉を待つ。
彼は、私の手を取ると、その甲にそっと口づけた。
「すまなかった。君を、危険な目に遭わせた」
「いいえ。私は、大丈夫です。あなたこそ、お怪我は……」
「この通りだ。君のおかげでな」
彼は、私の瞳をまっすぐに見つめた。そのサファイアの瞳には、もう氷のような冷たさはない。そこにあるのは、深く、そして熱い、甘い光。
「最初に言った言葉を、撤回させてほしい」
「……え?」
「情愛は期待するな、と言った。だが、あれは嘘だ。いや、そう思い込もうとしていただけだった」
彼は、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
初めて夜会で私を見た時、婚約者に裏切られながらも、涙を見せず気丈に振る舞う姿に、強く心惹かれたこと。契約結婚を申し出たのは、ただ、私のそばにいるための口実だったこと。
不器用な贈り物も、どうすれば私の心を開けるか分からず、試行錯誤した結果だったこと。
「君の優しさに触れるたび、君の健気な姿を見るたび、俺の中で何かが変わっていった。君がいない人生など、もう考えられない。俺は、君を愛している、セラフィナ」
そして、彼は私の前に跪いた。
「これは、契約ではない。俺の心からの願いだ。どうか、俺の本当の妻になってはくれないだろうか」
熱いものが、頬を伝う。それは、屈辱や悲しみの涙ではなかった。生まれて初めて知る、喜びの涙だった。
「……はい。喜んで」
私が頷くと、彼は安堵したように息をつき、私を力強く抱きしめた。彼の腕の中は、世界で一番、温かくて安心できる場所だった。
こうして、私の人生は再び始まった。
氷の公爵様は、今では私にだけ、とろけるように甘い笑顔を見せてくれる。彼の秘められた熱情は、これからもずっと、私一人を照らし続けてくれるだろう。
「灰被りの令嬢」は、世界で一番幸せな公爵夫人になったのだ。
シャンデリアの光が宝石のように降り注ぐ、王宮の大広間。今宵は建国記念を祝う、一年で最も華やかな夜会が開かれていた。着飾った貴族たちの喧騒が、オーケストラの優雅な旋律と混じり合い、きらびやかな夢の世界を創り出している。
しかし、その夢の世界で、私、セラフィナ・フォン・リヒトホーフェンは、悪夢の淵に立たされていた。
「セラフィナ! この場で貴様との婚約を破棄させてもらう!」
金糸の髪を揺らし、サファイアの瞳を怒りに燃やすのは、私の婚約者であるはずのアレクシオス・フォン・ゲルラッハ侯爵子息。彼の声は音楽を切り裂き、周囲のざわめきを一瞬で静寂に変えた。全ての視線が、針のように私に突き刺さる。
「……アレクシオス様、それは、どういう……?」
かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほどか細く震えていた。
彼は嘲るように鼻を鳴らし、私の隣に立つ異母妹、イザベラ・フォン・リヒトホーフェンの肩をこれ見よがしに抱き寄せた。燃えるような赤いドレスをまとったイザベラは、勝ち誇った笑みを隠そうともしない。
「どういう、だと? わからないのか? 魔力のかけらも持たない『出来損ない』の貴様と、次期侯爵であるこの俺が、未来を共にできるはずがないだろう!」
魔力。この国では、貴族の価値は魔力の有無と量で決まる。私の父であるリヒトホーフェン伯爵は微量ながらも魔力を持つが、私は生まれてこの方、一度も魔力を感じたことがなかった。そのせいで、継母と義妹のイザベラから、物心ついた頃から「灰被り」「出来損ない」と蔑まれ、屋敷の片隅で息を潜めるように生きてきた。
アレクシオスとの婚約も、両家の家格を釣り合わせるための政略的なもの。それでも、いつかはこの惨めな生活から抜け出せるのだと、淡い期待を抱いていたのに。
「そんな……お父様同士が決めた婚約ですわ。一方的に破棄など……」
「ああ、伯爵にはすでに話を通してある。彼は快く承諾してくださったよ。なあ、イザベラ」
アレクシオスに促され、イザベラは恍惚とした表情で頷いた。
「ええ、アレクシオス様。これからは、私があなた様の隣に立つにふさわしい女ですわ。私には、あなた様を支えるに足る魔力がございますもの」
彼女の手のひらに、小さな炎が揺らめく。周囲から「おお」という感嘆の声と、私への侮蔑の囁きが聞こえてくる。
「見て、リヒトホーフェン家の灰被りよ」
「ゲルラッハ様がお可哀想に。あんな娘と婚約させられていたなんて」
「これからはイザベラ様の時代ね」
世界から音が消えていく。私の足元で、見えないガラスの靴が粉々に砕け散る音がした。涙が溢れそうで、私は唇を強く噛みしめる。ここで泣けば、あの二人の思う壺だ。それだけは、嫌だった。
屈辱に耐え、背筋を伸ばしてその場から去ろうとした、その時だった。
「――ならば、その婚約、俺が拾おう」
凛とした、それでいて氷のように冷たい声が、再び広間の空気を凍らせた。声の主を見て、誰もが息を呑む。
黒曜石のような髪、彫刻のように整った顔立ち。そして、全てを見透かすかのような、冷たいサファイアブルーの瞳。そこに立っていたのは、この国の武の象徴、ヴァルロワ公爵家の当主、ゼノン・ド・ヴァルロワその人だった。
「戦場の悪魔」「氷の公爵」と誰もが畏れる、王国最強の魔力を持つ男。彼がなぜ、ここに? なぜ、私に?
アレクシオスもイザベラも、あまりの衝撃に言葉を失っている。ゼノン公爵は、そんな彼らを意にも介さず、ゆっくりと私の方へ歩みを進めてくる。一歩、また一歩と彼が近づくたびに、尋常ではない威圧感に心臓が締め付けられる。
そして、私の目の前で足を止めると、彼は私を見下ろし、もう一度、はっきりと言った。
「セラフィナ・フォン・リヒトホーフェン。アレクシオス・ゲルラッハが不要だというのなら、君を俺の妻に迎えよう」
第二章:氷の公爵との契約
ゼノン公爵の言葉は、爆弾となって夜会に集った人々を混乱の渦に叩き込んだ。誰もが、自分の耳を疑っていた。あの、女性に一切の興味を示さないと噂の「氷の公爵」が、よりにもよって、婚約破棄されたばかりの「灰被り」に求婚したのだから。
呆然とする私をよそに、ゼノン公爵はアレクシオスに向き直った。
「ゲルラッハ子息。君は、このセラフィナ嬢との婚約を破棄する。それで間違いないな?」
「は、はい! もちろんです、公爵閣下! ですが、なぜ閣下がこのような……」
「理由は君には関係ない。ただ、言質は取った」
それだけ言うと、ゼノン公爵は私の手首を掴んだ。彼の手に触れた部分が、氷に触れたかのように冷たい。しかし、不思議と嫌な感じはしなかった。
「行くぞ」
「え……あ、あの、公爵閣下!?」
「返事は後で聞く。ここは長居する場所ではない」
有無を言わさぬ口調で、彼は私を連れて大広間を後にした。残された貴族たちの困惑と好奇の視線が、背中に突き刺さる。ちらりと振り返ると、信じられないといった表情で立ち尽くすアレクシオスと、嫉妬と怒りで顔を歪ませるイザベラの姿が見えた。
人気のないバルコニーに連れ出され、ようやく私の手は解放された。ひんやりとした夜風が、火照った頬に心地よい。
「……あの、公爵閣下。一体、これはどういうことなのでしょうか?」
恐る恐る尋ねると、彼は月明かりを背に、静かに私を見つめていた。
「言葉通りの意味だ。リヒトホーフェン嬢。俺と結婚する気はあるか?」
「ですが……なぜ、私のような者を……」
「俺にも都合がある」
ゼノン公爵は淡々と語り始めた。彼は独身を貫いてきたが、そのせいでしつこく縁談を持ちかけてくる貴族たちが後を絶たず、うんざりしていたこと。かといって、下手に力のある家の令嬢を娶れば、外戚が政治に口出ししてくる可能性があること。
「その点、君はちょうどいい」
「ちょうどいい、ですか?」
「ああ。後ろ盾も、魔力もない。おまけに、家では疎まれていると聞く。君を妻にしても、リヒトホーフェ-ン伯爵家が余計な口出しをしてくる心配はない。君は家族からの虐待から逃れられ、俺は厄介な縁談から解放される。これは、双方に利のある『契約』だ」
契約――。その言葉に、胸がちくりと痛んだ。やはり、私自身に価値があるわけではないのだ。それでも、この地獄のような家から出られるのなら、どんな条件でも構わなかった。
「……お受け、いたします。その契約」
私がそう答えると、彼は初めて、ほんの少しだけ口元を緩めたように見えた。
「賢明な判断だ。明日の朝、正式な使者をリヒトホーフェン伯爵邸に送る。君は、荷物をまとめて待っていればいい」
「……はい」
「それから、公爵邸では俺の妻として振る舞ってもらう。情愛は期待するな。だが、ヴァルロワ公爵夫人としての地位と、不自由ない暮らしは保証しよう」
情愛は、期待するな。
その言葉は、氷の刃のように冷たく私の胸に突き刺さった。けれど、私は頷くしかなかった。元より、誰かに愛されることなど、望むべくもなかったのだから。
翌日、予告通りヴァルロワ公爵家からの使者が訪れた時、リヒトホーフェン家は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。継母とイザベラは顔を真っ青にし、父はただ狼狽えるばかり。
彼らがどんなに引き留めようと、公爵家の決定は覆らない。私は、最低限の身の回りの品だけをトランクに詰め込むと、誰に見送られることもなく、迎えの馬車に乗り込んだ。
振り返ったリヒトホーフェン伯爵邸は、私にとっては美しい家ではなく、長年私を閉じ込めてきた鳥籠にしか見えなかった。
第三章:不器用な優しさ
ヴァルロワ公爵邸での生活は、静かで、そして孤独なものだった。
広大すぎる屋敷には、必要最低限の侍女と使用人がいるだけ。彼らは私を「公爵夫人」として敬ってはくれるが、どこか遠巻きに接しているのが分かった。
そして、夫であるゼノン公爵は、多忙を極めていた。朝早くから執務室に籠もり、夜遅くに帰宅する。食事もほとんど別々で、顔を合わせるのは日に一度、彼の書斎でお茶を共にする時間だけだった。
「何か不自由はないか」
「……はい。ございません」
「そうか」
会話はいつも、それだけ。彼は書類から目を離すこともなく、ただ義務として私の様子を尋ねる。情愛は期待するな、という言葉を思い出し、私はいつも「大丈夫です」と微笑むだけだった。
しかし、そんな生活がひと月ほど続いた頃、些細な変化が訪れ始めた。
ある日の夕食後、侍女が私の部屋に美しいナイトドレスを運んできた。柔らかなシルクでできた、菫色のドレス。それは、私の瞳の色と同じだった。
「まあ、綺麗……。ですが、私はこのようなもの、頼んでいませんが」
「公爵閣下が、奥様にとお選びになりました。『きっとお似合いになるだろう』と」
侍女の言葉に、心臓がとくん、と跳ねた。あの、氷の公爵が? 私のために?
信じられない思いでドレスを受け取る。袖を通すと、まるで私のために作られたかのように、ぴったりと体に馴染んだ。鏡に映る自分の姿が、少しだけ輝いて見えた。
その翌日には、私の部屋のテーブルに、一輪の白い薔薇が飾られていた。
またその次の日には、私が読みたいと呟いていた詩集が、いつの間にか置かれていた。
誰がしているのかは、聞かなくても分かった。ゼノン公爵は何も言わない。相変わらず、彼は書斎で私と会う時も無表情で、事務的な言葉しか口にしない。けれど、彼の不器用な贈り物は、静かに、確実に私の心を温めていった。
ある晩、私は勇気を出して、彼に尋ねてみることにした。
「あの、公爵閣下。いつも、素敵なお心遣いをありがとうございます。ドレスも、お花も……とても、嬉しいです」
彼は一瞬、驚いたように目を見開いた。そして、気まずそうに視線を逸らす。
「……君が、この屋敷の主婦だ。みすぼらしい格好をされては、俺の沽券に関わる」
「…………」
「花は、庭師が勝手にやったことだ。詩集は、書庫の整理をしていたらたまたま見つけただけだ」
ぶっきらぼうな言い方。でも、その耳がほんのり赤く染まっているのを、私は見逃さなかった。
ああ、この人は、なんて不器用で、そして優しい人なのだろう。
冷たい仮面の奥に隠された温かさに触れた気がして、私の胸に、今まで感じたことのない甘い感情が芽生え始めていた。
「ふふっ」
思わず笑みがこぼれると、彼はますます居心地悪そうに眉を寄せた。
「……何がおかしい」
「いえ。とても、あなたらしいと思いまして」
「……訳が分からん」
そう言ってそっぽを向いてしまう彼の横顔は、もう「氷の公爵」には見えなかった。
孤独だった公爵邸での生活が、少しずつ色づき始めた瞬間だった。
第四章:仕掛けられた罠と覚醒の時
私の穏やかな日々は、しかし、長くは続かなかった。
私がヴァルロワ公爵夫人として社交界にデビューすると、それを快く思わない者たちが動き出したのだ。言うまでもなく、アレクシオスとイザベラだった。
彼らは、私がゼノン公爵の寵愛を受けているという噂を耳にし、嫉妬の炎を燃やしていた。そして、私を破滅させるための卑劣な罠を仕掛けてきた。
ある夜会で、アレクシオスが声をかけてきた。
「セラフィナ。少し、話がある」
「アレクシオス様……。申し訳ありませんが、私にはあなたとお話しすることはありません」
きっぱりと断る私に、彼は歪んだ笑みを浮かべた。
「そう冷たいことを言うな。君の出生の秘密について、面白い話を聞いてしまってね」
彼の言葉に、嫌な予感がする。
アレクシオスは、勝ち誇ったように言った。
「君の母方の祖母は、禁忌とされた『血の魔法』を使う一族の生き残りだったそうじゃないか。その力を使い、人の生命力を奪っていたとか。そんな危険な血を引く者が、公爵夫人でいていいものかな?」
血の魔法。聞いたこともない。だが、アレクシオスの目は、それが真実だと確信しているようだった。
その噂は、あっという間に貴族たちの間に広まった。
「ヴァルロワ公爵夫人は、呪われた血筋だ」
「人の精気を吸って生きているらしい」
「だから、あんなに美しいのでは……」
根も葉もない噂が、悪意を持って形を変え、私を追い詰めていく。とうとう、王宮からも調査団が派遣される事態となった。
調査団の代表として公爵邸を訪れたのは、他でもない、ゲルラッハ侯爵――アレクシオスの父親だった。彼は、私に反逆罪の疑いをかけ、魔力の精密検査を要求してきた。
応接室の空気は、張り詰めていた。私の隣には、ゼノン公爵が静かに座っている。彼の表情は、いつも通り無表情で、何を考えているのか読み取れない。
「セラフィナ・フォン・リヒトホーフェン。いや、ヴァルロワ公爵夫人。あなたにかけられた嫌疑は重大です。潔白を証明するためにも、検査に応じていただきたい」
ゲルラッハ侯爵の言葉に、私は唇を噛んだ。検査を受ければ、私に魔力がないことが改めて証明されるだけだ。だが、それがどう「血の魔法」と結びつけられるのか、分からなかった。
私が返答に窮していると、隣のゼノンが初めて口を開いた。
「断る」
「なっ……公爵閣下! それは、王命に背くと?」
「俺の妻に、いわれのない疑いをかけること自体が不敬だ。彼女の潔白は、この俺が保証する」
力強い言葉。彼は、私のことを信じてくれている。それだけで、涙が出そうだった。
しかし、ゲルラッ-ハ侯爵は引き下がらない。
「閣下のお気持ちは分かりますが、これは国を揺るがす問題です! もし、夫人が本当に禁忌の魔女だとしたら……!」
その時だった。
アレクシオスと共に部屋に入ってきていたイザベラが、隠し持っていた短剣で、突然私に斬りかかってきたのだ。
「きゃあ!」
咄嗟に身を庇う。ゼノンが私をかばうように前に立った。だが、イザベラの狙いは私ではなかった。彼女は、私をかばったゼノンの腕を、深く切りつけたのだ。
「公爵閣下!」
鮮血が飛び散る。彼の腕から、どくどくと血が流れ落ちた。
「ゼノン様!」
私は悲鳴を上げて彼のそばに駆け寄った。傷は深い。このままでは……!
「これで証明されるわ! 出来損ないのあなたには、閣下を癒すことなんてできやしない! あなたは無力で、公爵夫人にはふさわしくないのよ!」
イザベラが高笑いする。
その瞬間、私の内側で、何かがぷつりと切れる音がした。
――この人を、死なせたくない。
その強い想いが引き金になったのか。私の体中を、今まで感じたことのない熱い何かが駆け巡った。それは、まるで奔流のようだった。
「……っ!」
私の手のひらが、淡い光を放ち始める。それは、イザベラが使うような攻撃的な炎の色ではない。生命力に満ちた、温かい黄金色の光だった。
「な……なに、これ……?」
自分でも何が起きているのか分からない。けれど、私の体は、心が、何をすべきかを知っていた。
私は、光る手のひらを、恐れることなくゼノンの傷口にそっと重ねた。
「セラフィナ……?」
ゼノンが、驚きに目を見開いて私の名前を呼ぶ。
すると、奇跡が起きた。
黄金の光が彼の傷を包み込むと、あれほど深くえぐれていた傷が、みるみるうちに塞がっていく。流れ出ていた血は止まり、裂けていた皮膚が繋がり、やがてそこには、傷跡一つ残っていなかった。
「そん……な……治癒魔法……? それも、最高位の……」
ゲルラッハ侯爵が、信じられないものを見る目で呟く。
「嘘よ……魔力なしの出来損ないが、どうして……!」
イザベラが絶叫した。
私の家系に伝わるのは「血の魔法」などという呪われた力ではなかった。それは、自らの魔力を生命力に変換し、内に秘めることで、いざという時に他者の傷を癒し、命を繋ぐことができる『祝福』の力。魔力がないのではなく、ただ、その力の使い方を知らなかっただけなのだ。
ようやく、私は本当の自分を見つけた。そして、守りたい人が、すぐそばにいる。
私は、もう「灰被り」ではない。
最終章:氷が溶ける時
私の覚醒を目の当たりにし、ゲルラッハ侯爵たちは顔面蒼白になっていた。ゼノンは、傷一つない腕を確かめると、静かに立ち上がった。その瞳には、今まで見たこともないような、激しい怒りの炎が燃え盛っていた。
「……全て、お前たちの仕組んだ芝居か」
地を這うような低い声に、アレクシオスとイザベラが震え上がる。
「ひっ……ち、違います! 私たちは、国のことを思って……!」
「黙れ」
ゼノンが一喝すると、部屋の空気がビリビリと震えた。彼の体から放たれる凄まじい魔力の圧に、誰もが身動き一つ取れなくなる。
「俺の妻を陥れ、あまつさえ害そうとした罪、万死に値する。だが、すぐに殺してはつまらん。お前たちには、これからその罪を償う時間をたっぷりと与えてやろう」
彼のその後の裁きは、迅速かつ苛烈を極めた。
ゲルラッハ侯爵家は、ヴァルロワ公爵家への反逆罪で爵位を剥奪され、領地も没収された。アレクシオスは北の辺境へ、イザベラは南の修道院へと送られ、二度と社交界に戻ることはなかった。私の父も、娘の危機に際して何もしなかった責任を問われ、爵位こそ維持したものの、事実上の隠居を余儀なくされた。
全ての嵐が過ぎ去った夜。
私は、ゼノンの書斎にいた。暖炉の炎が、静かに揺れている。
「……セラフィナ」
不意に、彼が私の名前を呼んだ。私は彼の隣に座り、黙って次の言葉を待つ。
彼は、私の手を取ると、その甲にそっと口づけた。
「すまなかった。君を、危険な目に遭わせた」
「いいえ。私は、大丈夫です。あなたこそ、お怪我は……」
「この通りだ。君のおかげでな」
彼は、私の瞳をまっすぐに見つめた。そのサファイアの瞳には、もう氷のような冷たさはない。そこにあるのは、深く、そして熱い、甘い光。
「最初に言った言葉を、撤回させてほしい」
「……え?」
「情愛は期待するな、と言った。だが、あれは嘘だ。いや、そう思い込もうとしていただけだった」
彼は、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
初めて夜会で私を見た時、婚約者に裏切られながらも、涙を見せず気丈に振る舞う姿に、強く心惹かれたこと。契約結婚を申し出たのは、ただ、私のそばにいるための口実だったこと。
不器用な贈り物も、どうすれば私の心を開けるか分からず、試行錯誤した結果だったこと。
「君の優しさに触れるたび、君の健気な姿を見るたび、俺の中で何かが変わっていった。君がいない人生など、もう考えられない。俺は、君を愛している、セラフィナ」
そして、彼は私の前に跪いた。
「これは、契約ではない。俺の心からの願いだ。どうか、俺の本当の妻になってはくれないだろうか」
熱いものが、頬を伝う。それは、屈辱や悲しみの涙ではなかった。生まれて初めて知る、喜びの涙だった。
「……はい。喜んで」
私が頷くと、彼は安堵したように息をつき、私を力強く抱きしめた。彼の腕の中は、世界で一番、温かくて安心できる場所だった。
こうして、私の人生は再び始まった。
氷の公爵様は、今では私にだけ、とろけるように甘い笑顔を見せてくれる。彼の秘められた熱情は、これからもずっと、私一人を照らし続けてくれるだろう。
「灰被りの令嬢」は、世界で一番幸せな公爵夫人になったのだ。
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