婚約破棄と溺愛のアンソロジー[短編集]

イアペコス

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書庫の令嬢と、狂える公爵の偏愛論

書庫の令嬢と、狂える公爵の偏愛論

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第一章:価値なき本の虫

王立アカデミーの大書庫。そこは、私の聖域であり、逃げ場所だった。古びた羊皮紙の匂い、静寂の中に響くのは頁をめくる音だけ。華やかな夜会よりも、流行のドレスよりも、私、リディア・クローデルにとっては、この場所にいる方がずっと心が安らいだ。

クローデル子爵家の長女である私は、社交界では「書庫の令嬢」あるいは「本の虫」と揶揄されていた。刺繍やダンスは不得手で、貴婦人たちの噂話にも興味がない。ただひたすらに、古代語で記された魔法理論や、忘れ去られた歴史を読み解くことだけが、私の世界のすべてだった。

そんな私に、不釣り合いなほど家格の高い婚約者がいた。次期侯爵、オズワルド・フォン・ハインリヒ。文武両道に優れ、社交界の花形である彼が、なぜ地味で何の取り柄もない私を婚約者に選んだのか、ずっと不思議だった。それは、父が持つ古代魔法具のコレクションを目当てにした、政略的な結びつきに過ぎなかったのだけれど。

その日も、私は大書庫の奥深くで、失われた魔法文明に関する文献を読み解いていた。その静寂を破ったのは、苛立ちを隠そうともしない、よく知った声だった。

「リディア! やはりこんな所にいたのか! 今日が何の日か忘れたわけではあるまいな!」

オズワルドだった。彼の後ろには、取り巻きの令嬢たちが嘲笑を浮かべて控えている。
「……オズワルド様。申し訳ありません、少し時間を忘れていました」
「少し、だと? 母が主催する茶会をすっぽかしておいて、その言い草か! お前のせいで、私がどれだけ恥をかいたと思っている!」

彼の金色の髪が、窓から差し込む光を反射して輝く。しかし、その美しい貌は怒りに歪んでいた。
「お前という女は、本当に役に立たない。貴族の妻として、夫を立て、家名を高めるという最も重要な役目を、まるで理解していない。興味があるのは、そんな時代遅れのガラクタのような知識だけか!」

彼が指さした先には、私が夢中で読んでいた古代語の文献があった。ガラクタ。その一言が、私の胸に鋭く突き刺さる。

私は静かに本を閉じた。
「オズワルド様にとって、わたくしは『役に立たない』存在なのですね」
「当たり前だ! 私が求めるのは、私の隣で輝き、私の地位をより強固にしてくれる女神だ! 埃っぽい書庫にこもる本の虫ではない!」

彼はそう言い放つと、隣にいたリリアナ・ウィンザー男爵令嬢の腰を抱き寄せた。リリアナは、今の社交界で最も注目されている、美しく才気煥発な令嬢だ。

「リディア、この場で貴様との婚約を破棄する! そして新たに、リリアナ嬢を私の婚約者として迎え入れることを、ここに宣言する!」

周囲にいたアカデミーの生徒たちから、どよめきが起こる。「やっぱり」「お似合いだわ」という囁き声が、私を打ちのめす。まただ。また、私の価値が、他人の物差しで決められて、否定される。

涙を見せるものか。私は奥歯をぐっと噛みしめ、背筋を伸ばした。
「……承知、いたしました。オズワルド様とリリアナ様の前途に、祝福があらんことを」

精一杯の強がり。惨めな姿でその場を去ろうとした、その時だった。

「――実に興味深い。無価値の定義とは、かくも容易く覆るものらしい」

低く、それでいてよく通る声が、書庫の空気を震わせた。その声の主は、誰もが予想だにしない人物だった。

漆黒の髪、同じ色の瞳は底なしの沼のように深く、何を考えているのか一切読み取れない。長身痩躯のその男は、アカデミーの制服ではなく、黒一色の質素だが上質なコートをまとっていた。彼の周りだけ、空気が歪んでいるかのような、異質な存在感。

「カシアン・デ・ヴァレンティス公爵……!」

誰かが、畏怖の念を込めてその名を呟いた。
「狂える公爵」「兵器開発の悪魔」と噂される、天才にして、奇人。王家の遠縁にあたる最高位の貴族でありながら、社交界には一切顔を出さず、自らの領地で常軌を逸した魔法兵器や魔導具の研究に没頭していると噂の男。彼がなぜ、アカデミーの書庫に?

カシアン公爵は、騒めきを意にも介さず、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。その視線は、オズワルドでも、リリアナでもなく、ただまっすぐに私――正確には、私が抱えている一冊の古書に注がれていた。

「ハインリヒの小僧。お前は今、それを『ガラクタ』と言ったか?」
「こ、公爵閣下! いえ、これはその……」
「お前が捨てたのは、ただの女ではない。失われた『アークライト文明』の魔導言語を解読できる、この国で唯一の頭脳だ。その価値も分からぬとは、侯爵家の次期当主も目が曇ったものだな」

彼は私の手から、そっとその本を取り上げる。そして、こともなげに、そこに記された古代語の一節を諳んじてみせた。その完璧な発音に、今度は私が息を呑む番だった。

そして彼は、私に向き直ると、こう言ったのだ。
「リディア・クローデル嬢。その無能な男が君を捨てるというのなら、私が君を拾おう。いや、ぜひ我が研究所の主席研究員として、そして――私の妻として、君を迎えたい」

第二章:狂える公爵との契約

カシアン公爵の言葉は、婚約破棄の衝撃をはるかに上回る爆弾だった。オズワルドは口をパクパクさせ、リリアナは信じられないものを見る目で公爵と私を交互に見ている。書庫にいた誰もが、現実感を失っていた。

「さあ、行くぞ」
カシアン公爵は、私の返事も待たずに私の手を取った。その手は意外なほど温かく、節くれだった研究者の指をしていた。
「ま、お待ちください、公爵閣下! 私のような者が、あなた様の妻など……」
「君でなければならない。私の研究を完成させるには、君の知識が不可欠だ。それ以外の女に用はない」

断言する彼の瞳には、狂気ともいえるほどの純粋な探究心の色が浮かんでいた。彼は私という人間に興味があるのではなく、私の「知識」という機能に価値を見出している。それは、ある意味オズワルドと同じだった。だが、決定的に違う点が一つだけあった。

彼は、私が人生を捧げてきたものを、世界で一番価値のあるものだと断言してくれたのだ。

「……わかりました。お受けいたします、そのお話を」

私の答えに、彼は初めて満足げに頷いた。
「賢明な判断だ。契約の詳細は、私の屋敷で話そう」

彼は私を連れ、誰の制止も聞かずに書庫を後にした。残されたオズワルドたちの呆然とした顔が、やけに滑稽に見えた。

馬車で連れて行かれたヴァレンティス公爵邸は、噂に違わぬ場所だった。壮麗な調度品に混じって、用途不明の機械や設計図が山と積まれ、庭ではゴーレムが奇妙な動きで実験を繰り返している。普通の貴族令嬢なら悲鳴を上げて逃げ出すであろう光景に、私の心は不思議と高揚していた。

「ここが、君の新しい研究室だ」
彼が案内してくれたのは、屋敷の三階分をぶち抜いた、巨大な吹き抜けの図書館だった。壁一面を埋め尽くす、天井まで届く本棚。そこには、王立アカデミーの書庫ですら見たことのない、貴重な文献や魔導書がぎっしりと並べられていた。

「すごい……」
思わず、感嘆のため息が漏れる。ここは、天国だ。
「ここに収蔵されている古代文献の解読を、君に一任したい。特に、第五書架にある『魂の転写』に関する理論だ。解読できた暁には、望むものを何でも与えよう。もちろん、ヴァレンティス公爵夫人としての地位、財産、権力もすべて君のものだ」

彼は、私に一枚の契約書を差し出した。
『甲(カシアン・デ・ヴァレンティス)は乙(リディア・クローデル)に対し、最高の研究環境と、公爵夫人としてのすべての権利を提供する。乙は甲に対し、その知識と能力のすべてを提供し、研究に協力する』

それは、愛も恋も介在しない、あまりにも無機質な「契約」だった。しかし、私の心は喜びで打ち震えていた。私の知識が、誰かの役に立つ。それだけで、十分だった。

「この契約、謹んでお受けいたします。カシアン様」

私が初めて彼の名を呼ぶと、彼は一瞬、虚を突かれたように目を見開き、そしてすぐに興味なさそうに顔を背けた。
「……好きに呼べ。食事と睡眠は最低限とれ。研究の効率が落ちる」

それだけ言うと、彼はすぐに自分の工房へと消えていった。
こうして、私と狂える公爵との、奇妙な共同生活が始まった。

第三章:偏愛のカタチ

公爵邸での生活は、私にとって夢のような日々だった。
朝から晩まで、誰に咎められることもなく、膨大な知識の海に身を浸すことができる。カシアンは時折、工房から出てきては私の研究の進捗を尋ね、鋭い質問を投げかけてくる。

「ここの第7節の解釈は、本当にそれで正しいのか? 前後の文脈から、別のアーティファクトを指している可能性はないか?」
「いいえ、カシアン様。この文様はアークライト前期にしか使われない王家の紋章です。つまり、これは……」

議論は白熱し、深夜まで続くことも珍しくなかった。彼は私の意見を頭から否定せず、常に論理的な根拠を求めた。対等な研究者として扱ってくれる彼の態度は、私の心を少しずつ解きほぐしていった。

彼の「溺愛」は、実に独特な形で現れた。

ある日、私が古い文献の微細な文字を解読するために、眉間にしわを寄せて目を細めていると、彼は何も言わずに巨大なレンズがついた奇妙な機械を持ってきた。
「これを使え。水晶体を傷めるぞ。お前の目は、ただ物を見るためだけにあるのではない。世界が忘れた真理を読み解くための、貴重な『観測装置』なのだからな」

またある時は、私が夜食も忘れて研究に没頭していると、彼は呆れたようにため息をつき、栄養バランスが完璧に計算された(そして、あまり美味しくはない)薬のようなスープを無理やり飲ませた。
「倒れられては、計画がすべて狂う。君という『演算装置』が最高のパフォーマンスを発揮できるよう、コンディションを管理するのも私の役目だ」

観測装置。演算装置。彼は私を人間としてではなく、高性能な機械か何かのように扱う。でも、不思議と嫌ではなかった。なぜなら、彼の言葉の根底には、私の能力に対する絶対的な信頼と、それを損なわせたくないという、不器用なまでの気遣いがあることが分かったからだ。

侍女たちも、私を「本の虫」と見下す者は一人もいなかった。
「奥様、公爵閣下が『リディアの思考を妨げる者は、たとえ国王陛下であっても追い返せ』と厳命されておりますので、ご安心ください」
「奥様が集中されている時は、足音ひとつ立てるな、と。閣下、奥様のことになると本当に周りが見えなくなられますから」

彼の偏愛は、屋敷の隅々にまで徹底されていた。それは、甘い言葉や華やかな贈り物よりも、ずっと私の心に深く、温かく染み渡った。

いつからだろう。彼の姿を、目で追うようになったのは。
工房にこもる彼の背中を、議論を交わす時の真剣な眼差しを、時折見せる少年のような無邪気な笑顔を、愛おしいと感じるようになったのは。

これは、契約違反だろうか。
私は、この高性能な「演算装置」に、恋という名のバグを発生させてしまったのかもしれない。

第四章:書庫の攻防

私たちの研究が大きく進展し、古代の魔導理論の再現まであと一歩に迫った頃、招かれざる客が公爵邸に現れた。オズワルドとリリアナだった。

彼らは、私がカシアン公爵のもとで、国家機密級の研究に関わっているという噂をどこからか聞きつけ、その成果を横取りしようと企んだのだ。

「リディア! 君を迎えに来た!」
応接室に現れたオズワルドは、以前とは打って変わって甘い言葉を口にした。
「君がいなくなって、私はようやく自分の過ちに気づいた。君のその素晴らしい知性こそ、我がハインリヒ家に必要な宝だったのだ。リリアナとの婚約は偽りだ。さあ、私の元へお帰り」

あまりの身勝手さに、言葉も出ない。私の隣にいたカシアンは、温度のない目でオズワルドを一瞥した。
「……三秒以内にここから立ち去れ。さもなくば、塵にする」
「なっ……! カシアン公爵、あなたこそ彼女を騙している! その知識だけを搾取するつもりだろう! 彼女には、愛のある家庭が必要なのだ!」

その時、オズワルドの後ろにいたリリアナが、隠し持っていた小型の魔道具を起動させた。まばゆい光が放たれ、私とカシアンの目をくらませる。目くらましの魔法だ。

「研究資料はいただくわ!」
リリアナの甲高い声が響く。彼らの狙いは、大書庫にある私の研究ノートだった。

「させるか!」
カシアンが動こうとする。だが、それより早く、私は叫んでいた。
「カシアン様、動かないで! ここは任せて!」

私は目を閉じたまま、記憶の中にある大書庫の地図を思い浮かべる。そして、床に手を触れ、かすかに魔力を流した。それは攻撃魔法ではない。ただの「命令」だった。

「大書庫、防衛機構(ディフェンス・システム)、シークエンス・デルタ、起動!」

次の瞬間、屋敷全体が震動した。
大書庫に侵入したオズワルドとリリアナの悲鳴が聞こえる。

「な、何だこれは! 本棚が動いて、道が……!」
「きゃあ! 床が抜ける!」

私が起動したのは、この大書庫に組み込まれていた古代の防衛システムだった。それは特定の魔力パターンと古代語のキーワードによってのみ作動する。数ヶ月間、この書庫のすべてを読み解いてきた私だけが、それを知っていた。

本棚が迷路のように組み変わり、侵入者を閉じ込める。床の一部が落とし穴となり、彼らを地下の牢獄へと導く。それは、武力ではなく、知識による完全な勝利だった。

やがて静寂が戻ると、カシアンが驚愕の表情で私を見ていた。
「……君は、いつの間にこれを……」
「三週間前の文献整理中に、設計図を見つけましたので。まさか、実践で試すことになるとは思いませんでしたが」

私は、誇らしい気持ちで胸を張った。初めて、自分の知識で、この人の役に立てた。この人の城を、守ることができた。

しかし、カシアンの表情は、私の予想とは違っていた。彼は、安堵でも、賞賛でもなく――見たこともないほど、激しい怒りに燃える瞳で、私を見つめていた。

「……君に、万が一のことがあったら、どうするつもりだった」
「え?」
「奴らが、君のその頭脳に、その指先に、一つでも傷をつけていたら……。私は、奴らだけでなく、この国そのものを地図から消していた」

それは、研究が滞ることへの怒りではなかった。私自身が危険に晒されたことへの、純粋で、原始的な怒りだった。
彼は、私の肩を掴むと、震える声で言った。
「もう二度と、私の前からいなくなるなどと考えるな。君は、私のものだ。その知識も、その魂も、髪の一本に至るまで、すべて」

狂える公爵の瞳が、初めて私に、ただの男としての激しい独占欲を映し出していた。

最終章:二人の偏愛論

オズワルドとリリアナは、公爵家への反逆罪で捕らえられ、二度と日の目を見ることはなかった。

すべてが終わった夜、私はカシアンと共に、静まり返った大書庫にいた。彼は、私の研究ノートを一枚一枚、愛おしそうに眺めている。

「……カシアン様」
「なんだ」
「私たちの『契約』は、どうなるのでしょうか。研究は、もうすぐ完成します」

私の言葉に、彼はゆっくりと顔を上げた。
「契約は、破棄する」
「……え」
心が、冷えていくのが分かった。やはり、用済みになれば、私は――。

「新たに、終身契約を結び直す」
「……へ?」
「君という存在そのものが、私の研究対象になった。リディア・クローデルという人間が、何を考え、何を感じ、どう世界を認識するのか。そのすべてを、私は生涯をかけて解き明かしたい。これは、私の人生で最も重要な研究テーマだ」

彼は私の前に立つと、不器用に私の頬に触れた。その手は、少し震えている。
「君を『演算装置』などと言ったことを、謝罪する。君は、世界で最も複雑で、美しく、そして愛おしい『未解読の文献』だ。他の誰にも、指一本触れさせたくない」

それは、今まで聞いたどんな言葉よりも、甘く、情熱的な告白だった。
涙が、ぽろぽろとこぼれ落ちる。

「……ずるいです、カシアン様」
「何がだ」
「そんな風に言われたら、私……あなたから、離れられなくなってしまう」

「離れる必要などない。いや、離さない」
彼は私を強く抱きしめた。彼の心臓の音が、力強く私の耳に響く。
「リディア。愛している。君のすべてを、狂おしいほどに」

私も、彼の背中に腕を回した。
「私もです、カシアン様。あなたのその狂気的なまでの探究心と、不器用な優しさを、愛しています」

私たちの愛の形は、少し変わっているのかもしれない。
でも、互いの知性を誰よりも尊重し、互いの世界を何よりも愛おしむ。
これこそが、私たち二人だけの『偏愛論』。

「書庫の令嬢」と「狂える公爵」は、こうして世界で最も幸福な共著者になった。私たちの研究は、まだ始まったばかりだ。
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