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絡繰令嬢と、心臓なき公爵の永久機関
絡繰令嬢と、心臓なき公爵の永久機関
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第一章:歯車の軋む音
私の世界は、油と金属、そして規則正しく時を刻む歯車の音で満たされている。
私の名はアルエット・フォン・ヴァレリアン。子爵家の令嬢でありながら、舞踏会よりも工房を、絹のドレスよりも作業着を、そして宝石の輝きよりも、美しく噛み合う真鍮の歯車を愛する女だった。人々は私を「絡繰令嬢」と呼ぶ。ある者は好奇の目で、ある者は侮蔑を込めて。
その日、私は自室でもある工房で、来たるべき王立博覧会に出品する自動人形(オートマタ)の最終調整に没頭していた。繊細な指の関節に油を差し、ゼンマイの巻き具合を確かめる。その時、乱暴に扉が開け放たれた。
「アルエット! またそんな鉄クズをいじくり回しているのか!」
怒声と共に現れたのは、私の婚約者であるレジナルド・ド・グラモン伯爵子息。磨き上げられた靴で工房の床を踏み鳴らし、心底不愉快そうに顔を歪めている。
「レジナルド様。これは鉄クズではございません。私の夢ですわ」
「夢だと? こんなガラクタが? 私の顔に泥を塗るのが、君の夢だというのか!」
彼は、今日が彼の母親が主催する重要な茶会であったことを、私がいかに無様にすっぽかしたかを、怒りに任せてまくし立てた。
「君のせいで、私は社交界中の笑いものだ!『グラモン様の婚約者は、今日も油まみれだそうですよ』とな! もう我慢ならん!」
彼は、私の隣にいた、完成間近の自動人形を蹴り飛ばした。ガシャン、と悲鳴のような金属音が響き、美しい人形は無残に床に転がった。その腕はあらぬ方向に曲がり、精巧に作り上げた顔には深い傷がついていた。
「……っ!」
言葉が出なかった。それは、ただの人形ではない。私の知識と技術、そして情熱の結晶だった。まるで、私自身が蹴りつけられたかのような痛みが、胸を貫いた。
「いいか、アルエット。君のような女は、もはや私の隣にはふさわしくない。その汚れた手も、油の匂いも、何もかもが不愉快だ!」
彼は、工房の入り口で控えていた、完璧に着飾った令嬢、クラリッサ嬢の手を取った。
「私は、クラリッサ嬢を新たな婚約者として迎える。彼女こそ、私の隣で輝くべき、本物の淑女だ。君との婚約は、今この瞬間をもって破棄させてもらう!」
世界が、軋みを立てて崩れていくようだった。
それでも、涙だけは見せたくなかった。私は、壊れた自動人形の残骸から目を逸らし、背筋を伸ばして彼らと向き合った。
「……承知、いたしました。レジナルド様と、クラリッサ様の前途を、心よりお祝い申し上げます」
私の精一杯の強がりに、彼は鼻で笑うと、クラリッサ嬢を伴って工房から出て行った。
一人残された工房に、静寂が戻る。私は、床に崩れ落ち、壊れてしまった私の「夢」の破片を、ただ呆然と見つめていた。
その時だった。
「――見事な作動機構(メカニズム)だ。特に、この差動歯車の組み合わせは独創的だ」
静かで、感情の温度が読めない声が、背後から聞こえた。いつからそこにいたのか。入り口に、一人の男性が立っていた。
豪奢だが華美ではない、黒を基調とした上着。その胸元からは、金時計の鎖が覗いている。何よりも印象的だったのは、その瞳。氷のように冷たい、鋼色の瞳だった。
彼は、私が今まで見たどの貴族とも違う、異質な空気をまとっていた。
「あなたは……?」
「名はヴァレリウス・アイゼンヘルツ。ただの通りすがりの者だ」
アイゼンヘルツ――その名を聞いて、私は息を呑んだ。この国で最も広大な領地を持ちながら、決して社交界に姿を見せない謎多き公爵家の名だ。そして、最悪の噂を持つ男。
彼は、私の壊れた自動人形を、値踏みするように見ている。その視線は、同情ではない。純粋な、技術者としての興味の色をしていた。
「この人形を、君が一人で?」
「……はい」
「そうか」
彼は短く応えると、私に向き直った。
「ヴァレリアン嬢。君に、仕事の依頼がある。私の『壊れた時計』を、修理してほしい。報酬は、君が望むものすべてだ」
第二章:絡繰の心臓を刻む盟約
ヴァレリウス・アイゼンヘルツ公爵の「壊れた時計」とは、比喩ではなかった。
彼に連れられてやってきた公爵邸の最奥、堅牢な扉で閉ざされた一室で、私は信じがたい光景を目の当たりにした。
彼は、静かに上着を脱ぎ、シャツのボタンを外した。彼の胸の中央には、皮膚の代わりに分厚い水晶の板が埋め込まれていた。そして、その水晶の向こう側で、無数の歯車とルビーの軸受、そして青白い魔力の光を放つゼンマイが、複雑に絡み合いながら、かち、かち、と正確なリズムを刻んでいた。
それは、彼の心臓だった。
魔術と、最高峰の絡繰技術によって作られた、人工の心臓。
「……これが」
「ああ。幼い頃の事故で、私は本来の心臓を失った。当代一の絡繰師であった私の祖父が、命懸けでこれを作り、私の命を繋いだ。だが、祖父はもういない。そして、この心臓は、もはや寿命を迎えつつある」
彼の声は、淡々としていた。しかし、その鋼色の瞳の奥に、深い絶望が横たわっているのが見て取れた。
「近頃、不整脈がひどい。時折、一瞬だが時を忘れる。このままでは、長くは保たないだろう。国内の絡繰師に片端から見せたが、誰もが匙を投げた。君が、最後の希望だ」
婚約者に捨てられ、夢も壊された私。命の灯火が消えかけている、孤独な公爵。
私たちは、どちらも、世界の片隅で壊れかけている存在だった。
「君を、私の専属絡繰師として雇いたい。いや、これは盟約だ。君は、私の心臓を修理し、維持する。その代わり、私は君に、最高の環境と、君の才能を守るためのすべてを捧げよう」
彼の屋敷の地下には、王立研究所をも凌ぐほどの、巨大な工房が広がっていた。あらゆる種類の金属素材、世界中から集められた希少な魔石、最新鋭の工作機械。それは、すべての絡繰師が夢見る、理想郷だった。
私の壊れた夢。彼の壊れた心臓。
私たちが手を組めば、もしかしたら、もう一度、時を刻み始めることができるかもしれない。
「お受けいたします、その盟約。アイゼンヘルツ公爵閣下」
私がそう答えると、彼は初めて、安堵したように息をついた。
「……ヴァレリウスでいい。これより、君は俺の命の管理者だ」
こうして、私と、心臓なき公爵との、奇妙な盟約が結ばれた。それは、油と、金属と、そして互いの孤独の匂いがする、いびつな関係の始まりだった。
第三章:歯車が紡ぐ優しい時間
ヴァレリウス様との生活は、静かで、満ち足りたものだった。
私は、与えられた工房に朝から晩まで籠もり、彼の「心臓」の設計図を読み解き、修復のための部品作りに没頭した。彼は、時折工房に顔を出し、私の作業を、ただ静かに眺めているのが常だった。
私たちは、あまり会話をしなかった。しかし、言葉は必要なかった。工具の音、金属を削る匂い、図面の上を走るペンの音。それらが、私たちの共有言語だった。
彼の「溺愛」は、あまりにも不器用で、そしてあまりにも徹底していた。
私が、「心臓部の動力ゼンマイには、隕鉄(いんてつ)から精錬した特殊合金が必要かもしれない」と呟けば、その数日後、彼は文字通り空から降ってきたという巨大な隕石を、工房の庭に運び込ませた。
「これで、足りるか」
呆然とする私に、彼は当然という顔でそう言った。
私が、夜遅くまで作業に没頭して夕食を忘れていると、彼は何も言わずに、工房の隅のテーブルに、完璧な温度に温められたシチューとパンを置いていった。そして、私が食べ終わるまで、部屋の隅で本を読みながら、静かに待っているのだった。
ある日、レジナルドが私に復縁を迫って、屋敷に押しかけてきたことがあった。私の新しい評判を聞きつけ、手のひらを返したのだ。
「アルエット! 君の才能を、私はようやく理解した! 私の元へ戻ってきてくれ!」
彼が私の腕を掴もうとした瞬間、どこからともなく現れたヴァレリウス様が、その腕を掴み返した。
「彼女のその手に、気安く触れるな」
氷のように冷たい声だった。
「その手は、私の命を繋ぐ、世界で最も尊い手だ。お前のような俗物には、その価値を測ることすら許されん」
彼は、レジナルドを、まるで虫けらを払うように追い返した。そして、私に向き直ると、こう言った。
「アルエット。君の才能を脅かすものは、たとえ神であろうと、私が排除する。君は、ただ、君の思うままに、作品を創り続ければいい」
彼の鋼色の瞳に、強い独占欲と、そして、私にしか見せない、深い優しさの色が浮かんでいた。
彼の心臓は、絡繰でできているのかもしれない。しかし、彼の魂は、誰よりも温かい。
私は、この心臓なき公爵を、いつしか心の底から愛するようになっていた。
この想いが、彼の冷たい心臓に、いつか本当の温もりを与えることができたなら。そんな、叶わぬ夢を、私は抱き始めていた。
第四章:永久機関の夢と最後の鼓動
数ヶ月にわたる研究の末、私はついに、ヴァレリウス様の心臓を、根本的に修復する設計図を完成させた。それは、ただ壊れた部品を交換するのではない。外部の魔力を動力源とするのではなく、彼の生命力そのものを、ごく僅かずつ魔力に変換し、半永久的に動き続ける『永久機関』へと作り変える、前代未聞の計画だった。
「これなら、もう、外部からのメンテナンスは必要なくなります。あなたは、本当の意味で、自由になれる」
私の説明に、彼は、ただ静かに頷いた。その瞳には、信頼と、そして、かすかな寂しさの色が浮かんでいたように見えたのは、私の気のせいだろうか。
修復作業は、三日三晩に及んだ。私は、持てる技術のすべてを注ぎ込み、彼の胸の中で、新しい歯車を組み上げていく。それは、神の領域に踏み込むような、あまりにも繊細で、そして危険な作業だった。
そして、運命の最終日。最後の歯車をはめ込み、新しい心臓を起動させようとした、その瞬間だった。
工房の扉が、轟音と共に爆破された。
「その技術、そっくりいただくぞ!」
現れたのは、レジナルドだった。彼は、国の転覆を狙うテロリストと手を組み、私の『永久機関』の技術を軍事転用しようと企んだのだ。
爆発の衝撃で、工房の天井が崩れ落ちてくる。
「アルエット!」
ヴァレリウス様は、私をかばうように、その身を投げ出した。彼の背中に、巨大な梁が直撃する。
「ヴァレリウス様!」
彼の体はぐったりと動かなくなり、そして、私の耳に、聞きたくなかった音が届いた。
かち……かち……かくん。
彼の胸の奥で、時を刻んでいた音が、止まった。
起動前だった新しい心臓が、衝撃で完全に沈黙してしまったのだ。
「そんな……嘘でしょう……?」
テロリストたちが、勝ち誇ったように私たちを取り囲む。
絶望。私の世界から、再び、すべての音が消えた。
最終章:心臓が愛を刻むとき
絶望の淵で、私は、ヴァレリウス様の冷たくなっていく手を見つめていた。
――諦めるものか。
私の絡繰師としての魂が、そう叫んでいた。
私は、懐から予備の動力ゼンマイと、最小の工具を取り出した。そして、彼のシャツを裂き、水晶の蓋に手をかける。
「何を……?」
レジナルドが、訝しげに私を見る。
「私の最高傑作を、こんなところで終わらせはしない……!」
私は、彼の胸の中で、最後の戦いを始めた。それは、図面も、万全の設備もない中での、あまりにも無謀な手作業だった。指先の感覚だけを頼りに、壊れた歯車をバイパスし、予備のゼンマイを、魔力を込めて直接動力炉に繋ぐ。
一分、一秒が、永遠のように感じられた。
私の額から、汗が滴り落ち、彼の冷たい胸を濡らす。
「お願い……動いて……! あなたのいない世界なんて、私には、ただのガラクタなの……!」
涙ながらの祈りが、届いたのだろうか。
――かち。
か細い、しかし確かな音が、彼の胸の奥で響いた。
そして、かち、かち、かち、と、再び、彼の心臓は、力強く時を刻み始めたのだ。
ゆっくりと、彼の瞼が開かれる。その鋼色の瞳が、私を捉えた。
「……アルエット」
「ヴァレリウス様……!」
私たちは、どちらからともなく、固く抱きしめ合った。
その後のことは、あまり覚えていない。意識を取り戻したヴァレリウス様が、文字通り鉄拳を振るって、テロリストたちを一人で鎮圧してしまったことだけは、確かだった。
すべてが終わり、静けさを取り戻した工房で、彼は私の手を取った。
「アルエット。私の心臓は、もはや君なしでは時を刻めない。いや、君のためにしか、時を刻みたくない」
彼は、私の油で汚れた手の甲に、そっと口づけた。
「これは、盟約ではない。私の魂からの願いだ。どうか、私の永久機関の、唯一の主となってはくれないだろうか。私の妻として」
彼の胸に耳を当てると、力強く、そして、温かい鼓動が聞こえた。それは、もはやただの機械の音ではなかった。
私の愛が、彼の絡繰の心臓に、本当の命を吹き込んだのだ。
「はい、喜んで。私の愛しい、絡繰師様」
こうして、「絡繰令嬢」と「心臓なき公爵」は、永遠に時を刻む、二人だけの永久機関を手に入れた。
私たちの工房から生まれる発明は、これからも、世界を驚かせ続けるだろう。そして、そのすべての動力源は、私たちの愛なのだ。
私の世界は、油と金属、そして規則正しく時を刻む歯車の音で満たされている。
私の名はアルエット・フォン・ヴァレリアン。子爵家の令嬢でありながら、舞踏会よりも工房を、絹のドレスよりも作業着を、そして宝石の輝きよりも、美しく噛み合う真鍮の歯車を愛する女だった。人々は私を「絡繰令嬢」と呼ぶ。ある者は好奇の目で、ある者は侮蔑を込めて。
その日、私は自室でもある工房で、来たるべき王立博覧会に出品する自動人形(オートマタ)の最終調整に没頭していた。繊細な指の関節に油を差し、ゼンマイの巻き具合を確かめる。その時、乱暴に扉が開け放たれた。
「アルエット! またそんな鉄クズをいじくり回しているのか!」
怒声と共に現れたのは、私の婚約者であるレジナルド・ド・グラモン伯爵子息。磨き上げられた靴で工房の床を踏み鳴らし、心底不愉快そうに顔を歪めている。
「レジナルド様。これは鉄クズではございません。私の夢ですわ」
「夢だと? こんなガラクタが? 私の顔に泥を塗るのが、君の夢だというのか!」
彼は、今日が彼の母親が主催する重要な茶会であったことを、私がいかに無様にすっぽかしたかを、怒りに任せてまくし立てた。
「君のせいで、私は社交界中の笑いものだ!『グラモン様の婚約者は、今日も油まみれだそうですよ』とな! もう我慢ならん!」
彼は、私の隣にいた、完成間近の自動人形を蹴り飛ばした。ガシャン、と悲鳴のような金属音が響き、美しい人形は無残に床に転がった。その腕はあらぬ方向に曲がり、精巧に作り上げた顔には深い傷がついていた。
「……っ!」
言葉が出なかった。それは、ただの人形ではない。私の知識と技術、そして情熱の結晶だった。まるで、私自身が蹴りつけられたかのような痛みが、胸を貫いた。
「いいか、アルエット。君のような女は、もはや私の隣にはふさわしくない。その汚れた手も、油の匂いも、何もかもが不愉快だ!」
彼は、工房の入り口で控えていた、完璧に着飾った令嬢、クラリッサ嬢の手を取った。
「私は、クラリッサ嬢を新たな婚約者として迎える。彼女こそ、私の隣で輝くべき、本物の淑女だ。君との婚約は、今この瞬間をもって破棄させてもらう!」
世界が、軋みを立てて崩れていくようだった。
それでも、涙だけは見せたくなかった。私は、壊れた自動人形の残骸から目を逸らし、背筋を伸ばして彼らと向き合った。
「……承知、いたしました。レジナルド様と、クラリッサ様の前途を、心よりお祝い申し上げます」
私の精一杯の強がりに、彼は鼻で笑うと、クラリッサ嬢を伴って工房から出て行った。
一人残された工房に、静寂が戻る。私は、床に崩れ落ち、壊れてしまった私の「夢」の破片を、ただ呆然と見つめていた。
その時だった。
「――見事な作動機構(メカニズム)だ。特に、この差動歯車の組み合わせは独創的だ」
静かで、感情の温度が読めない声が、背後から聞こえた。いつからそこにいたのか。入り口に、一人の男性が立っていた。
豪奢だが華美ではない、黒を基調とした上着。その胸元からは、金時計の鎖が覗いている。何よりも印象的だったのは、その瞳。氷のように冷たい、鋼色の瞳だった。
彼は、私が今まで見たどの貴族とも違う、異質な空気をまとっていた。
「あなたは……?」
「名はヴァレリウス・アイゼンヘルツ。ただの通りすがりの者だ」
アイゼンヘルツ――その名を聞いて、私は息を呑んだ。この国で最も広大な領地を持ちながら、決して社交界に姿を見せない謎多き公爵家の名だ。そして、最悪の噂を持つ男。
彼は、私の壊れた自動人形を、値踏みするように見ている。その視線は、同情ではない。純粋な、技術者としての興味の色をしていた。
「この人形を、君が一人で?」
「……はい」
「そうか」
彼は短く応えると、私に向き直った。
「ヴァレリアン嬢。君に、仕事の依頼がある。私の『壊れた時計』を、修理してほしい。報酬は、君が望むものすべてだ」
第二章:絡繰の心臓を刻む盟約
ヴァレリウス・アイゼンヘルツ公爵の「壊れた時計」とは、比喩ではなかった。
彼に連れられてやってきた公爵邸の最奥、堅牢な扉で閉ざされた一室で、私は信じがたい光景を目の当たりにした。
彼は、静かに上着を脱ぎ、シャツのボタンを外した。彼の胸の中央には、皮膚の代わりに分厚い水晶の板が埋め込まれていた。そして、その水晶の向こう側で、無数の歯車とルビーの軸受、そして青白い魔力の光を放つゼンマイが、複雑に絡み合いながら、かち、かち、と正確なリズムを刻んでいた。
それは、彼の心臓だった。
魔術と、最高峰の絡繰技術によって作られた、人工の心臓。
「……これが」
「ああ。幼い頃の事故で、私は本来の心臓を失った。当代一の絡繰師であった私の祖父が、命懸けでこれを作り、私の命を繋いだ。だが、祖父はもういない。そして、この心臓は、もはや寿命を迎えつつある」
彼の声は、淡々としていた。しかし、その鋼色の瞳の奥に、深い絶望が横たわっているのが見て取れた。
「近頃、不整脈がひどい。時折、一瞬だが時を忘れる。このままでは、長くは保たないだろう。国内の絡繰師に片端から見せたが、誰もが匙を投げた。君が、最後の希望だ」
婚約者に捨てられ、夢も壊された私。命の灯火が消えかけている、孤独な公爵。
私たちは、どちらも、世界の片隅で壊れかけている存在だった。
「君を、私の専属絡繰師として雇いたい。いや、これは盟約だ。君は、私の心臓を修理し、維持する。その代わり、私は君に、最高の環境と、君の才能を守るためのすべてを捧げよう」
彼の屋敷の地下には、王立研究所をも凌ぐほどの、巨大な工房が広がっていた。あらゆる種類の金属素材、世界中から集められた希少な魔石、最新鋭の工作機械。それは、すべての絡繰師が夢見る、理想郷だった。
私の壊れた夢。彼の壊れた心臓。
私たちが手を組めば、もしかしたら、もう一度、時を刻み始めることができるかもしれない。
「お受けいたします、その盟約。アイゼンヘルツ公爵閣下」
私がそう答えると、彼は初めて、安堵したように息をついた。
「……ヴァレリウスでいい。これより、君は俺の命の管理者だ」
こうして、私と、心臓なき公爵との、奇妙な盟約が結ばれた。それは、油と、金属と、そして互いの孤独の匂いがする、いびつな関係の始まりだった。
第三章:歯車が紡ぐ優しい時間
ヴァレリウス様との生活は、静かで、満ち足りたものだった。
私は、与えられた工房に朝から晩まで籠もり、彼の「心臓」の設計図を読み解き、修復のための部品作りに没頭した。彼は、時折工房に顔を出し、私の作業を、ただ静かに眺めているのが常だった。
私たちは、あまり会話をしなかった。しかし、言葉は必要なかった。工具の音、金属を削る匂い、図面の上を走るペンの音。それらが、私たちの共有言語だった。
彼の「溺愛」は、あまりにも不器用で、そしてあまりにも徹底していた。
私が、「心臓部の動力ゼンマイには、隕鉄(いんてつ)から精錬した特殊合金が必要かもしれない」と呟けば、その数日後、彼は文字通り空から降ってきたという巨大な隕石を、工房の庭に運び込ませた。
「これで、足りるか」
呆然とする私に、彼は当然という顔でそう言った。
私が、夜遅くまで作業に没頭して夕食を忘れていると、彼は何も言わずに、工房の隅のテーブルに、完璧な温度に温められたシチューとパンを置いていった。そして、私が食べ終わるまで、部屋の隅で本を読みながら、静かに待っているのだった。
ある日、レジナルドが私に復縁を迫って、屋敷に押しかけてきたことがあった。私の新しい評判を聞きつけ、手のひらを返したのだ。
「アルエット! 君の才能を、私はようやく理解した! 私の元へ戻ってきてくれ!」
彼が私の腕を掴もうとした瞬間、どこからともなく現れたヴァレリウス様が、その腕を掴み返した。
「彼女のその手に、気安く触れるな」
氷のように冷たい声だった。
「その手は、私の命を繋ぐ、世界で最も尊い手だ。お前のような俗物には、その価値を測ることすら許されん」
彼は、レジナルドを、まるで虫けらを払うように追い返した。そして、私に向き直ると、こう言った。
「アルエット。君の才能を脅かすものは、たとえ神であろうと、私が排除する。君は、ただ、君の思うままに、作品を創り続ければいい」
彼の鋼色の瞳に、強い独占欲と、そして、私にしか見せない、深い優しさの色が浮かんでいた。
彼の心臓は、絡繰でできているのかもしれない。しかし、彼の魂は、誰よりも温かい。
私は、この心臓なき公爵を、いつしか心の底から愛するようになっていた。
この想いが、彼の冷たい心臓に、いつか本当の温もりを与えることができたなら。そんな、叶わぬ夢を、私は抱き始めていた。
第四章:永久機関の夢と最後の鼓動
数ヶ月にわたる研究の末、私はついに、ヴァレリウス様の心臓を、根本的に修復する設計図を完成させた。それは、ただ壊れた部品を交換するのではない。外部の魔力を動力源とするのではなく、彼の生命力そのものを、ごく僅かずつ魔力に変換し、半永久的に動き続ける『永久機関』へと作り変える、前代未聞の計画だった。
「これなら、もう、外部からのメンテナンスは必要なくなります。あなたは、本当の意味で、自由になれる」
私の説明に、彼は、ただ静かに頷いた。その瞳には、信頼と、そして、かすかな寂しさの色が浮かんでいたように見えたのは、私の気のせいだろうか。
修復作業は、三日三晩に及んだ。私は、持てる技術のすべてを注ぎ込み、彼の胸の中で、新しい歯車を組み上げていく。それは、神の領域に踏み込むような、あまりにも繊細で、そして危険な作業だった。
そして、運命の最終日。最後の歯車をはめ込み、新しい心臓を起動させようとした、その瞬間だった。
工房の扉が、轟音と共に爆破された。
「その技術、そっくりいただくぞ!」
現れたのは、レジナルドだった。彼は、国の転覆を狙うテロリストと手を組み、私の『永久機関』の技術を軍事転用しようと企んだのだ。
爆発の衝撃で、工房の天井が崩れ落ちてくる。
「アルエット!」
ヴァレリウス様は、私をかばうように、その身を投げ出した。彼の背中に、巨大な梁が直撃する。
「ヴァレリウス様!」
彼の体はぐったりと動かなくなり、そして、私の耳に、聞きたくなかった音が届いた。
かち……かち……かくん。
彼の胸の奥で、時を刻んでいた音が、止まった。
起動前だった新しい心臓が、衝撃で完全に沈黙してしまったのだ。
「そんな……嘘でしょう……?」
テロリストたちが、勝ち誇ったように私たちを取り囲む。
絶望。私の世界から、再び、すべての音が消えた。
最終章:心臓が愛を刻むとき
絶望の淵で、私は、ヴァレリウス様の冷たくなっていく手を見つめていた。
――諦めるものか。
私の絡繰師としての魂が、そう叫んでいた。
私は、懐から予備の動力ゼンマイと、最小の工具を取り出した。そして、彼のシャツを裂き、水晶の蓋に手をかける。
「何を……?」
レジナルドが、訝しげに私を見る。
「私の最高傑作を、こんなところで終わらせはしない……!」
私は、彼の胸の中で、最後の戦いを始めた。それは、図面も、万全の設備もない中での、あまりにも無謀な手作業だった。指先の感覚だけを頼りに、壊れた歯車をバイパスし、予備のゼンマイを、魔力を込めて直接動力炉に繋ぐ。
一分、一秒が、永遠のように感じられた。
私の額から、汗が滴り落ち、彼の冷たい胸を濡らす。
「お願い……動いて……! あなたのいない世界なんて、私には、ただのガラクタなの……!」
涙ながらの祈りが、届いたのだろうか。
――かち。
か細い、しかし確かな音が、彼の胸の奥で響いた。
そして、かち、かち、かち、と、再び、彼の心臓は、力強く時を刻み始めたのだ。
ゆっくりと、彼の瞼が開かれる。その鋼色の瞳が、私を捉えた。
「……アルエット」
「ヴァレリウス様……!」
私たちは、どちらからともなく、固く抱きしめ合った。
その後のことは、あまり覚えていない。意識を取り戻したヴァレリウス様が、文字通り鉄拳を振るって、テロリストたちを一人で鎮圧してしまったことだけは、確かだった。
すべてが終わり、静けさを取り戻した工房で、彼は私の手を取った。
「アルエット。私の心臓は、もはや君なしでは時を刻めない。いや、君のためにしか、時を刻みたくない」
彼は、私の油で汚れた手の甲に、そっと口づけた。
「これは、盟約ではない。私の魂からの願いだ。どうか、私の永久機関の、唯一の主となってはくれないだろうか。私の妻として」
彼の胸に耳を当てると、力強く、そして、温かい鼓動が聞こえた。それは、もはやただの機械の音ではなかった。
私の愛が、彼の絡繰の心臓に、本当の命を吹き込んだのだ。
「はい、喜んで。私の愛しい、絡繰師様」
こうして、「絡繰令嬢」と「心臓なき公爵」は、永遠に時を刻む、二人だけの永久機関を手に入れた。
私たちの工房から生まれる発明は、これからも、世界を驚かせ続けるだろう。そして、そのすべての動力源は、私たちの愛なのだ。
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「たかが子爵の娘が、公爵家の奥様面など」 ユーカ様はそう言って、私に次から次へと理不尽な嫌がらせを仕掛けてくる。大切な食器を隠したり、ルーカス様に嘘の告げ口をしたり、社交界で恥をかかせようとしたり。
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誰も気づかないほど巧妙に、いじめを優雅にスルーするアエナ。公爵であるあなたに心配をかけまいと、彼女は今日も微笑みを絶やさない。しかし、毒は徐々に、確実に、その濃度を増していく。ついに義母は、アエナの命に関わるような、取り返しのつかない大罪に手を染めてしまう。
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