婚約破棄と溺愛のアンソロジー[短編集]

イアペコス

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夢紡ぎの令嬢と、眠れぬ獅子の夜想曲

夢紡ぎの令嬢と、眠れぬ獅子の夜想曲

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第一章:砕かれた夢の欠片

私の名はアウレーリア・ファベル。子爵令嬢として生まれた私には、人に語ってはならない秘密があった。それは、眠りに落ちた人間の夢に入り込み、その物語に干渉する「夢紡ぎ」の力。この力は、私の人生に、祝福ではなく呪いとして影を落としていた。

その力のせいで、私は婚約者であるカシウス・ランバート伯爵子息から、ある非道な要求を突きつけられていた。
「アウレーリア。今夜、政敵であるオルブライト侯爵の夢に潜り、彼の弱みを握る情報を探ってきてほしい」
書斎の椅子に深く腰掛け、カシウスは冷酷に言い放った。
「それは、できません。人の心を無理やり覗き、操るなど……人の道に反します」
「感傷に浸っている場合か! この取引が成功すれば、我が家の地位は安泰なのだ! 君のその『便利な力』は、そのためにこそあるのだろう!」

彼の欲望は、私の良心を踏みにじった。私は、固く首を横に振った。その夜、カシウスは痺れを切らし、私が眠っている隙に、私の髪を一房切り取り、オルブライト侯爵の枕元に置くという暴挙に出た。私の力を、無理やり使おうとしたのだ。

しかし、彼の浅はかな計画は失敗した。不完全な儀式は侯爵の夢を悪夢に変え、彼は絶叫と共に目を覚ました。そして、枕元にあった私の髪を見つけ、すべてを察したのだ。

事件は、王宮で開かれた仮面舞踏会で露見した。
オルブライト侯爵が、国王陛下の前でカシウスの卑劣な企みを告発したのだ。追い詰められたカシウスは、仮面を外し、悲劇の恋人を演じるように、私の腕を掴んで叫んだ。

「陛下! 私は、騙されていたのです! この女、アウレーリア・ファベルこそが、人の夢を操る危険な夢魔なのです! 彼女は、その邪悪な力で私を惑わし、オルブライト侯爵を陥れようとしたのです!」

音楽が止まり、広間の全ての視線が、刃となって私に突き刺さる。
「なんと、おぞましい……」
「ランバート様は被害者だったのね」
「近づいてはいけないわ、あの女には……」

カシウスは、私の手を見せつけるように振り払った。
「よって、この場を借りて宣言する! この夢魔、アウレーリア・ファベルとの婚約を、即刻破棄させていただく!」

夢魔。その烙印が、私の魂に焼き付けられた。信じていた人に裏切られ、私の力は、私の善意は、邪悪なものだと断じられた。
涙が溢れそうで、私は唇を強く噛みしめた。この場から、今すぐ消え去りたかった。
私が、絶望の淵で立ち尽くしていた、その時だった。

「――ならば、その『夢魔』、我が館に引き取ろう」

地を這うような、それでいて、疲労の色が滲む低い声が響いた。群衆が割れ、その奥から一人の男が姿を現す。
獅子のたてがみを思わせる金の髪。戦歴を刻んだ、鋭くも美しい顔立ち。だが、その黄金の瞳の奥には、何年も眠れずにいる者の、底なしの闇が淀んでいた。

「ドラケン公爵閣下……!」

『帝国の獅子』と讃えられる、無敗の英雄、ゼフィリオン・ヴァル・ドラケン公爵。彼がなぜ、ここに?

彼は、誰にも目もくれず、まっすぐに私の元へと歩みを進めてくる。そして、私の前に立つと、その闇を湛えた瞳で、私を見つめた。
「ファベル嬢。君に、眠りを売ってはもらえないだろうか。悪夢を見ない、ただの一夜でいい。その対価として、俺のすべてを君に捧げよう」

第二章:眠れぬ獅子との夜想曲

ゼフィリオン公爵の申し出は、あまりにも唐突で、そして切実だった。彼は、私を「夢魔」として断罪するのではなく、救いを求めるように、その手を差し伸べていた。

私は、彼の馬車に乗せられ、街の喧騒から隔絶された、城塞のような公爵邸へと連れて行かれた。通されたのは、広大な書斎。暖炉の炎だけが、彼の疲れた横顔を照らしている。

「俺は、何年も、眠れていない」
彼は、静かに語り始めた。東部戦線での、最後の戦い。多くの部下を失い、敵の血を浴び、地獄を生き抜いた。その日から、彼の夜は悪夢に閉ざされた。
「目を閉じれば、あの日の光景が蘇る。叫び声が聞こえ、血の匂いがする。眠りは、安らぎではなく、俺にとってはただの地獄だ。医者も、神官も、誰も俺を救えなかった」

その瞳は、あまりにも深く、そして孤独だった。
「そんな時、君の噂を聞いた。『夢を紡ぐ令嬢がいる』と。ある者は夢魔と呼び、ある者は聖女と呼んだ。どちらでもいい。君が、俺の悪夢を、たとえ一瞬でも終わらせてくれるというのなら……」

彼は、私に一枚の契約書を差し出した。
それは、私の身の安全と、不自由ない生活、そして私の「夢紡ぎ」の研究に必要なすべての援助を、公爵家が保証するという内容だった。その代わり、私は、彼の専属「夢紡ぎ師」として、彼の安眠のためだけに、その力を使う。

「これは、契約だ。君が俺に安らぎを与え、俺が君に安寧を与える。ただ、それだけの関係だ」

ただ、それだけ。その言葉が、少しだけ胸に痛んだ。しかし、社交界から追放され、行き場を失った私にとって、これ以上ない申し出だった。なにより、私のこの忌み嫌われた力が、この傷ついた英雄を救えるかもしれないのだ。

「……お受け、いたします。その契約」

私の答えに、彼は初めて、ほんのわずかに、その表情を緩めた。
「礼を言う。君が安心して力を発揮できるよう、最高の環境を用意させた」

こうして、私はその日から、この眠れぬ獅子のための、夜想曲を奏でる役目を負った。それは、決して誰にも理解されない、二人だけの、秘密の盟約だった。

第三章:安らぎの繭と絶対の庇護

ゼフィリオン様は、契約の言葉通り、私に最高の環境を与えてくれた。
彼が用意したのは、屋敷の最上階にある、外界から完全に遮断された一室。「夢紡ぎの間」と名付けられたその部屋は、壁も床も、音を吸収する分厚いビロードで覆われ、窓はなく、天井には星空のように穏やかな魔光石が埋め込まれていた。

「ここでなら、誰にも邪魔されることはない」

毎夜、私はこの部屋で、眠りについたゼフィリオン様の夢に、そっと意識を繋いだ。彼の夢の中は、いつも凄惨な戦場だった。燃え盛る砦、飛び交う矢、血と硝煙の匂い。私は、彼の夢の片隅で、静かに、安らぎの物語を紡いだ。

故郷の、穏やかな風の物語を。暖炉の前でまどろむ、猫の物語を。
私の紡ぐささやかな物語は、彼の悪夢を完全に消し去ることはできない。しかし、地獄のような戦場の風景の片隅に、小さな、温かい焚き火を灯すことはできた。

「……久しぶりに、部下の夢を見なかった」
朝、目覚めた彼が、掠れた声でそう言った。その目の下の隈は、ほんの少しだけ、薄くなっているように見えた。

彼の「溺愛」は、私の心を、まるで上質な繭のように、優しく包み込んでいった。

私が「心を落ち着かせるには、南国の『月雫茶』というものが良いと聞きます」と零せば、翌日には、王家ですら入手困難なその茶葉が、山のように届けられた。
私が、古い文献を求めていると知れば、彼は自ら国の古文書館に出向き、館長に交渉して、禁帯出の書物を一晩だけ借り出してきた。

そして彼は、私を傷つけようとする者に対して、一切の容赦をしなかった。
私の噂を聞きつけた貴族たちが、物見遊山に屋敷を訪ねてきても、彼は門前で追い返した。私を「夢魔」と呼んだ新聞社は、翌日には公爵家からの圧力で廃刊に追い込まれた。

「君の心を乱すものは、すべて排除する。君は、ただ、俺のためだけに、美しい夢を紡いでいればいい」
彼の鋼色の瞳には、私への絶対的な信頼と、そして、ほとんど信仰に近い、凄まじい執着の色が宿っていた。彼は、私の紡ぐ安らぎなしでは、もう生きていけなくなっていたのだ。

私は、この傷ついた獅子を、心の底から愛おしいと思うようになっていた。
この人の見る悪夢を、いつか、私がすべて引き受けることができたなら。そんな、大それたことを、私は願い始めていた。

第四章:永遠の悪夢と魂の潜行

穏やかな日々は、突如として終わりを告げた。
ゼフィリオン様に恨みを持つ、滅びた敵国の残党が、復讐のために動き出したのだ。彼らが用いたのは、剣でも、毒でもない。古代の呪物を使った、最も残忍な呪いだった。

ある夜、ゼフィリオン様は、夕食の席で突然、血を吐いて倒れた。
「閣下!」
駆け寄った医師にも、原因は分からない。彼の命に別状はない。しかし、彼は、目を覚まさない。ただ、悪夢にうなされるように、苦悶の表情を浮かべ、指一本動かせないのだ。

「『眠れる獅子の呪い』だ……」
駆けつけた王宮魔術師が、絶望的な声で言った。
「魂を、永遠に悪夢の中に閉じ込める、古代の呪いだ。目覚めることは、決してない。やがて精神が崩壊し、生きたまま朽ち果てるのを待つのみ……」

絶望が、部屋を支配する。
しかし、私だけは、諦めていなかった。私の脳裏に、師から受け継いだ禁断の秘術が、蘇っていたからだ。

『魂の潜行(ソウル・ダイブ)』。
それは、自らの魂を、相手の精神世界に直接送り込む、究極の夢紡ぎ。成功すれば、悪夢の根源を破壊し、相手を救い出せるかもしれない。しかし、失敗すれば、私の魂もまた、相手の悪夢に永遠に囚われることになる。

「私が、行きます」
私は、静かに立ち上がった。
「私が、ゼフィリオン様の魂を、連れ戻します」
「無茶だ、ファベル嬢! それは、自殺行為に等しい!」

魔術師の制止を振り切り、私は、眠り続ける彼のそばに座った。そして、彼の手を、固く握りしめた。
「大丈夫。私は、あなたの専属夢紡ぎ師ですから」

目を閉じ、意識を集中させる。
「我が魂を、彼の夜へ。我が物語を、彼の道標へ――」
世界が、光に包まれ、そして、私は彼の精神の、底なしの闇へと、落ちていった。

最終章:夜明けのノクターン

私が降り立ったのは、彼の記憶から生まれた、地獄の戦場だった。空は赤黒く、大地は血で濡れている。絶えず響く悲鳴と、剣戟の音。

私は、その地獄の中心で、一人佇む彼を見つけた。
彼は、幼い子供のような姿で、膝を抱えて座り込んでいた。彼の周りには、彼が守れなかった、部下たちの幻影が、彼を責めるように取り囲んでいる。

「俺のせいだ……俺が、決断を誤ったから……」
これこそが、彼の悪夢の根源。彼を縛り続ける、罪悪感の鎖。

私は、彼のそばに駆け寄り、その小さな体を、そっと抱きしめた。
「いいえ、あなたは、間違っていない」
私は、彼に語りかけた。紡ぎ始めた。
「あなたは、皆を救うために、最善を尽くした。あなたの決断があったからこそ、この国は救われた。あなたの背負った痛みは、敗北の証ではなく、英雄の勲章なのです」

私の言葉は、温かい光となって、悪夢の闇を少しずつ溶かしていく。 「さあ、帰りましょう、ゼフィリオン様。あなたの帰りを待っている人がいます。あなたのいない朝は、もう、私には耐えられない」

彼は、ゆっくりと顔を上げた。その幼い瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちる。
「……アウレーリア」
彼が、私の名を呼んだ。

その瞬間、地獄の戦場は、光の粒子となって消え去り、私たちは、柔らかな光に満ちた、静かな草原に立っていた。
悪夢は、終わったのだ。

気がつくと、私は、公爵邸の寝室のベッドで、目を覚ました。隣には、穏やかな寝息を立てる、ゼフィリオン様の姿があった。その表情には、もう、苦悶の色はない。何年ぶりかの、本当の安らぎが、そこにはあった。

「……目が覚めたか」
私に気づいた彼が、ゆっくりと目を開けた。その黄金の瞳は、夜の闇ではなく、穏やかな夜明けの光を宿していた。
「君が、俺を救ってくれたのだな」
「……はい」
「そうか」

彼は、そっと身を起こすと、私の髪を優しく撫でた。
「アウレーリア。俺との契約は、ここで終わりにしよう」
その言葉に、胸が凍りつく。やはり、悪夢を見なくなった彼にとって、私はもう――。

「そして、新たに、生涯を共にするという、魂の契約を結んでほしい」
彼は、私の手をとり、その甲に、誓いの口づけを落とした。
「俺は、もう悪夢を見ない。だが、君のいない朝を迎えることは、悪夢よりも恐ろしい。俺の人生という物語の、最後の章まで、どうか、隣で紡いではくれないだろうか。俺の妻として」

涙が、止まらなかった。それは、悲しみの涙ではない。生まれて初めて知る、歓喜の涙だった。
「はい……喜んで。私の、愛しい獅子様」

こうして、「夢紡ぎの令嬢」と「眠れぬ獅子」の夜想曲は、夜明けと共に、最も美しい愛の調べへと変わった。
彼の心に安らぎが訪れた今、私たちの本当の物語が、これから始まるのだ。
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