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記憶を繕う令嬢と、過去を失くした辺境伯の追想録
記憶を繕う令嬢と、過去を失くした辺境伯の追想録
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第一章:色褪せた追憶
私の世界は、他人の思い出の断片でできている。
子爵令嬢リノア・クインティルス。それが私の名だが、社交界では「居眠り令嬢」と呼ばれている。物に残された記憶を読み取り、修復する「記憶修復師」である私は、その力の代償として、常に脳が疲労し、気だるい眠気に襲われるのだ。パーティーの片隅で、船を漕いでいる姿を見られては、そう揶揄されるのも仕方がなかった。
その日、私の婚約者であるフィニアス・エアリー子息の邸宅で開かれた茶会で、私の人生は静かに、しかし決定的に断ち切られた。
きっかけは、彼が家宝として見せてくれた、止まってしまった古い懐中時計だった。私は、その時計に触れた瞬間、流れ込んでくる温かい記憶を感じ取った。それは、彼の祖父が、若き日の祖母へ愛を誓った瞬間の、幸せな記憶だった。
「フィニアス様。この時計、私が修復してもよろしいでしょうか。きっと、もう一度時を刻み始めますわ」
私の申し出に、彼は一瞬、顔を輝かせた。しかし、隣にいた彼の母親が、蔑むような声で言った。
「まあ、およしなさい、フィニアス。その方に触らせるなどと。人の思い出を勝手に覗き見る、不気味な力だそうではありませんか」
その一言で、場の空気は一変した。フィニアスは、周りの好奇と侮蔑の視線に耐えかねたように、顔を真っ赤にして私から時計をひったくった。
「そうだとも! リノア、君はいつもそうだ! 人の心に土足で踏み込んでくる! その気味の悪い力で、私や、私の家の何を覗き見たのだ!」
違う。私はただ、幸せな記憶を、もう一度動かしてあげたかっただけなのに。
「君のような不気味な女とは、もはや共に歩めない! この場で、君との婚約を破棄させてもらう!」
彼は、まるで汚物でも振り払うかのように、私を突き放した。周囲からは、「やっぱり」「エアリー様がお可哀想」という囁きが聞こえる。
私の世界から、幸せな記憶が、また一つ色褪せて消えていく。
涙を堪え、その場を去ろうとした時だった。
「――実に興味深い。失われた時を、取り戻せるというのか」
重く、厳かな声が、その場の空気を支配した。入り口に、一人の男性が立っていた。
北の厳しい自然を思わせる、硬質な美貌。鍛え上げられた体にまとった軍服。そして、その灰色の瞳には、何も映っていなかった。まるで、過去という名の背景を、すべて失ってしまったかのように。
「ブランドン辺境伯閣下……!」
帝国の最北端、「魔の森」との境界を守る、カイアス・ウル・ブランドン。数年前の大戦で記憶の大部分を失ったと噂される、孤独な英雄。彼がなぜ、王都に?
彼は、フィニアスたちには目もくれず、まっすぐに私を見つめていた。
「クインティルス嬢。君に、仕事を依頼したい」
彼は、腰に佩いていた剣を、ゆっくりと鞘から抜いた。それは、見事な装飾が施された、しかし刀身が半ばから砕けている、無残な剣だった。
「この剣に残された、『記憶』を修復してほしい。君が、私の最後の希望だ」
第二章:砕けた剣との対話
カイアス辺境伯の居城、ウル・フェルン砦は、彼の魂そのものを表しているかのようだった。質実剛健で、一切の無駄がなく、そして、どこまでも静かだった。
「これが、俺の全てだ」
書斎に案内された私は、彼から改めて、砕けた剣を託された。
「数年前の大戦で、俺は頭に深手を負い、それ以前の記憶を失った。医者によれば、俺自身の人生も、家族の顔も、何もかもだ。ただ、この辺境を守るという責務だけが、体に染みついている」
その灰色の瞳は、感情という名の光を失っていた。
「我が一族には、代々伝わる『呪い』があるという。その呪いは、俺の代で頂点に達すると。そして、解呪の手がかりは、失われた俺の記憶の中にしかないらしい。この剣は、先祖代々のものだ。大戦の時、俺を守って砕けた。もし、ここに何か記憶が残っているのなら……」
最後の希望。その言葉が、私の胸に重く響いた。
「君には、最高の環境を約束する。報酬も、望むだけ支払おう。この剣の記憶を、どうか、取り戻してほしい」
それは、婚約者のように私の力を利用しようとするものではなく、ただひたすらに、救いを求める、魂の願いだった。
「報酬は、結構です。私は、ただ、この剣と話がしたいだけですから」
その日から、砦の一室が、私の仕事場となった。カイアス様は、私の能力が、どれほど精神を消耗させるかを、誰よりも深く理解してくれた。
私が作業に集中できるよう、部屋は完全に防音にされ、窓には厚いカーテンが引かれた。私が少しでも顔をしかめると、彼はすぐに作業を中断させ、最高級の寝台で私を休ませた。
「……無理はするな。君が倒れれば、元も子もない」
彼の世話は、あまりにも無骨で、そしてあまりにも優しかった。
私が、疲労で食事を残すと、彼は何も言わず、滋養のある温かいスープを、匙で一口ずつ、私の口元へと運んでくれた。
私が、眠れない夜を過ごしていると、彼は、夜通し、静かな竪琴を奏で、私の心を安らげてくれた。
彼の不器用な優しさに触れるたび、私の疲弊した心が、少しずつ、繕われていくのを感じた。
私は、毎日、砕けた剣に触れ、その奥深くに眠る記憶の断片を、一つ、また一つと、手繰り寄せていった。
それは、あまりにも永く、そして壮大な、ブランドン家の記憶の物語だった。
第三章:偽りの記憶と真実の封印
数週間にわたる修復作業の末、私は、ついに剣の記憶の核心へとたどり着いた。しかし、そこに現れた光景は、私の予想を遥かに超える、衝撃的なものだった。
カイアス様の記憶喪失は、魔物との戦いで負った傷が原因ではなかった。
それは、彼自身が、自らの記憶を封印した結果だったのだ。
『カイアス、お前が十六になった時、我が一族の呪いは、お前の身に顕現するだろう。それは、愛する者を、その手で破滅させてしまうという、あまりにも酷い呪いだ』
剣の記憶の中で、彼の父親が、悲痛な表情で彼に語りかけていた。
『呪いを解く方法は、ただ一つ。お前が、真実の愛を知り、その愛する者と共に、呪いの根源である『忘れられた祭壇』で、血の誓いを立てることだ。だが、それは、お前の命を懸けるに等しい儀式となる』
そして、大戦の日。彼は、瀕死の重傷を負ったのではない。彼は、その戦いの混乱に乗じて、自ら、この呪われた記憶を、剣に封じ込めたのだ。愛する者を作らないために。誰も、不幸にしないために。
彼は、すべてを忘れることで、世界を、そして、まだ見ぬ誰かを、守ろうとしたのだ。
なんと、孤独で、そして気高い魂なのだろう。
私は、すべての真実を、カイアス様に告げた。
彼は、黙って私の話を聞いていた。そして、静かに、一言だけ、呟いた。
「……そうか。俺は、逃げたのか」
その背中は、今まで見たどの時よりも、小さく、そして寂しく見えた。
「違います」
私は、彼の前に立った。
「あなたは、逃げたのではありません。守ったのです。だから、今度は、私があなたを守ります」
私は、剣の記憶から読み取った、「忘れられた祭壇」の場所を、彼に告げた。それは、この砦の、さらに北、吹雪が吹き荒れる「嘆きの氷原」の奥深くにあった。
「私を、そこへ連れて行ってください。私が、あなたの失われた記憶を、すべて、取り戻してみせます」
「リノア……。それは、君を危険に晒すことになる」
「私は、もう決めました。あなたのいない過去など、私には、意味のない歴史書と同じです。私が、あなたの追想録を、完成させてみせます」
私の瞳に宿る決意を見て、彼は、ゆっくりと頷いた。
それは、二人の、最後の旅の始まりだった。
第四章:嘆きの氷原の誓い
嘆きの氷原は、人の生存を許さない、極寒の地だった。猛吹雪が視界を奪い、凍てついた大地が、足元の熱を容赦なく奪っていく。
私たちは、数日をかけて、祭壇のある氷の洞窟へとたどり着いた。
洞窟の最奥には、古代文字が刻まれた、巨大な石の祭壇が鎮座していた。ここが、彼の記憶が、そして、呪いが眠る場所。
「カイアス様。これから、あなたの精神の世界に入ります。あなたの記憶の扉を、私が開きます。でも、最後にその扉を開けて、すべてを思い出すかどうかは、あなた自身が決めることです」
「……ああ」
「もし、恐ろしくなったら、私の名前を呼んでください。必ず、私があなたを、連れ戻します」
私は、彼の前に座り、その冷たい両手を取った。そして、目を閉じ、意識を、彼の魂の最も深い場所へと、沈めていった。
彼の精神世界は、吹雪が吹き荒れる、真っ白な空間だった。そこには、記憶の断片が、凍りついたまま、無数に散らばっていた。家族の笑顔、友との誓い、そして、名も知らぬ誰かへの、淡い恋心。
私は、その一つ一つを、丁寧に拾い上げ、彼の心の傷を、繕うように、繋ぎ合わせていく。
どれくらいの時間が経っただろうか。
彼の精神世界に、少しずつ、色が戻り始めた。
そして、ついに、最後の扉の前にたどり着いた。その扉の向こうには、彼が封じ込めた、「呪い」の記憶と、それを背負うという、過酷な覚悟が眠っている。
『……リノア』
彼の声が、聞こえた。
『もう、いい。君を、これ以上危険な場所には、いさせられない』
彼は、思い出すことを、拒絶しようとしていた。私を守るために。
「いいえ、カイアス様!」
私は、叫んだ。
「一人で、背負わないでください! あなたの過去も、あなたの呪いも、すべて、私も一緒に背負います! だから、思い出してください! あなたが、誰よりも愛した、この世界を!」
私の声が、届いたのだろうか。
固く閉ざされていた扉が、ゆっくりと、軋むような音を立てて、開き始めた。
そして、溢れ出した眩い光と共に、カイアス・ウル・ブランドンの、すべての記憶が、蘇った。
最終章:二人で紡ぐ追想録
気がつくと、私は、カイアス様の腕の中で、目を覚ました。
洞窟の中は、穏やかな光に満たされていた。彼の灰色の瞳には、もう、虚無の色はない。そこには、深い叡智と、そして、温かい愛情の光が、輝いていた。
「……思い出した。すべて」
彼は、優しい声で言った。
「そして、思い出した。俺が、本当に守りたかったものが、何だったのかを」
彼は、私の頬に、そっと触れた。
「俺は、まだ見ぬ誰かではなく、目の前にいる、君を守りたかったのだと。リノア、君こそが、俺が待ち望んでいた、真実の愛だったのだ」
祭壇に刻まれた、呪いを解くための誓い。それは、愛する者と共に、未来を生きると誓うこと。
彼は、私の手を取り、祭壇の前で、深く跪いた。
「リノア・クインティルス。俺の失われた過去を、取り戻してくれた、唯一人の女。どうか、俺の妻となり、これからの未来を、共に生きてはくれないだろうか」
それは、今まで聞いた、どの記憶の物語よりも、甘く、そして、心に響く、愛の言葉だった。
「はい……喜んで。私の、愛しい辺境伯様」
私たちが誓いの言葉を口にした瞬間、祭壇がひときえ明るく輝き、彼を縛り付けていた、長年の呪いは、完全に消え去った。
こうして、「記憶を繕う令嬢」と「過去を失くした辺境伯」の、新しい追想録の、最初のページが綴られた。
彼の失われた記憶は、確かに壮絶なものだった。しかし、これからは、二人で、幸せな思い出を、たくさん、たくさん、重ねていけばいい。
私たちの未来という名の白紙のページは、まだ、無限に広がっているのだから。
私の世界は、他人の思い出の断片でできている。
子爵令嬢リノア・クインティルス。それが私の名だが、社交界では「居眠り令嬢」と呼ばれている。物に残された記憶を読み取り、修復する「記憶修復師」である私は、その力の代償として、常に脳が疲労し、気だるい眠気に襲われるのだ。パーティーの片隅で、船を漕いでいる姿を見られては、そう揶揄されるのも仕方がなかった。
その日、私の婚約者であるフィニアス・エアリー子息の邸宅で開かれた茶会で、私の人生は静かに、しかし決定的に断ち切られた。
きっかけは、彼が家宝として見せてくれた、止まってしまった古い懐中時計だった。私は、その時計に触れた瞬間、流れ込んでくる温かい記憶を感じ取った。それは、彼の祖父が、若き日の祖母へ愛を誓った瞬間の、幸せな記憶だった。
「フィニアス様。この時計、私が修復してもよろしいでしょうか。きっと、もう一度時を刻み始めますわ」
私の申し出に、彼は一瞬、顔を輝かせた。しかし、隣にいた彼の母親が、蔑むような声で言った。
「まあ、およしなさい、フィニアス。その方に触らせるなどと。人の思い出を勝手に覗き見る、不気味な力だそうではありませんか」
その一言で、場の空気は一変した。フィニアスは、周りの好奇と侮蔑の視線に耐えかねたように、顔を真っ赤にして私から時計をひったくった。
「そうだとも! リノア、君はいつもそうだ! 人の心に土足で踏み込んでくる! その気味の悪い力で、私や、私の家の何を覗き見たのだ!」
違う。私はただ、幸せな記憶を、もう一度動かしてあげたかっただけなのに。
「君のような不気味な女とは、もはや共に歩めない! この場で、君との婚約を破棄させてもらう!」
彼は、まるで汚物でも振り払うかのように、私を突き放した。周囲からは、「やっぱり」「エアリー様がお可哀想」という囁きが聞こえる。
私の世界から、幸せな記憶が、また一つ色褪せて消えていく。
涙を堪え、その場を去ろうとした時だった。
「――実に興味深い。失われた時を、取り戻せるというのか」
重く、厳かな声が、その場の空気を支配した。入り口に、一人の男性が立っていた。
北の厳しい自然を思わせる、硬質な美貌。鍛え上げられた体にまとった軍服。そして、その灰色の瞳には、何も映っていなかった。まるで、過去という名の背景を、すべて失ってしまったかのように。
「ブランドン辺境伯閣下……!」
帝国の最北端、「魔の森」との境界を守る、カイアス・ウル・ブランドン。数年前の大戦で記憶の大部分を失ったと噂される、孤独な英雄。彼がなぜ、王都に?
彼は、フィニアスたちには目もくれず、まっすぐに私を見つめていた。
「クインティルス嬢。君に、仕事を依頼したい」
彼は、腰に佩いていた剣を、ゆっくりと鞘から抜いた。それは、見事な装飾が施された、しかし刀身が半ばから砕けている、無残な剣だった。
「この剣に残された、『記憶』を修復してほしい。君が、私の最後の希望だ」
第二章:砕けた剣との対話
カイアス辺境伯の居城、ウル・フェルン砦は、彼の魂そのものを表しているかのようだった。質実剛健で、一切の無駄がなく、そして、どこまでも静かだった。
「これが、俺の全てだ」
書斎に案内された私は、彼から改めて、砕けた剣を託された。
「数年前の大戦で、俺は頭に深手を負い、それ以前の記憶を失った。医者によれば、俺自身の人生も、家族の顔も、何もかもだ。ただ、この辺境を守るという責務だけが、体に染みついている」
その灰色の瞳は、感情という名の光を失っていた。
「我が一族には、代々伝わる『呪い』があるという。その呪いは、俺の代で頂点に達すると。そして、解呪の手がかりは、失われた俺の記憶の中にしかないらしい。この剣は、先祖代々のものだ。大戦の時、俺を守って砕けた。もし、ここに何か記憶が残っているのなら……」
最後の希望。その言葉が、私の胸に重く響いた。
「君には、最高の環境を約束する。報酬も、望むだけ支払おう。この剣の記憶を、どうか、取り戻してほしい」
それは、婚約者のように私の力を利用しようとするものではなく、ただひたすらに、救いを求める、魂の願いだった。
「報酬は、結構です。私は、ただ、この剣と話がしたいだけですから」
その日から、砦の一室が、私の仕事場となった。カイアス様は、私の能力が、どれほど精神を消耗させるかを、誰よりも深く理解してくれた。
私が作業に集中できるよう、部屋は完全に防音にされ、窓には厚いカーテンが引かれた。私が少しでも顔をしかめると、彼はすぐに作業を中断させ、最高級の寝台で私を休ませた。
「……無理はするな。君が倒れれば、元も子もない」
彼の世話は、あまりにも無骨で、そしてあまりにも優しかった。
私が、疲労で食事を残すと、彼は何も言わず、滋養のある温かいスープを、匙で一口ずつ、私の口元へと運んでくれた。
私が、眠れない夜を過ごしていると、彼は、夜通し、静かな竪琴を奏で、私の心を安らげてくれた。
彼の不器用な優しさに触れるたび、私の疲弊した心が、少しずつ、繕われていくのを感じた。
私は、毎日、砕けた剣に触れ、その奥深くに眠る記憶の断片を、一つ、また一つと、手繰り寄せていった。
それは、あまりにも永く、そして壮大な、ブランドン家の記憶の物語だった。
第三章:偽りの記憶と真実の封印
数週間にわたる修復作業の末、私は、ついに剣の記憶の核心へとたどり着いた。しかし、そこに現れた光景は、私の予想を遥かに超える、衝撃的なものだった。
カイアス様の記憶喪失は、魔物との戦いで負った傷が原因ではなかった。
それは、彼自身が、自らの記憶を封印した結果だったのだ。
『カイアス、お前が十六になった時、我が一族の呪いは、お前の身に顕現するだろう。それは、愛する者を、その手で破滅させてしまうという、あまりにも酷い呪いだ』
剣の記憶の中で、彼の父親が、悲痛な表情で彼に語りかけていた。
『呪いを解く方法は、ただ一つ。お前が、真実の愛を知り、その愛する者と共に、呪いの根源である『忘れられた祭壇』で、血の誓いを立てることだ。だが、それは、お前の命を懸けるに等しい儀式となる』
そして、大戦の日。彼は、瀕死の重傷を負ったのではない。彼は、その戦いの混乱に乗じて、自ら、この呪われた記憶を、剣に封じ込めたのだ。愛する者を作らないために。誰も、不幸にしないために。
彼は、すべてを忘れることで、世界を、そして、まだ見ぬ誰かを、守ろうとしたのだ。
なんと、孤独で、そして気高い魂なのだろう。
私は、すべての真実を、カイアス様に告げた。
彼は、黙って私の話を聞いていた。そして、静かに、一言だけ、呟いた。
「……そうか。俺は、逃げたのか」
その背中は、今まで見たどの時よりも、小さく、そして寂しく見えた。
「違います」
私は、彼の前に立った。
「あなたは、逃げたのではありません。守ったのです。だから、今度は、私があなたを守ります」
私は、剣の記憶から読み取った、「忘れられた祭壇」の場所を、彼に告げた。それは、この砦の、さらに北、吹雪が吹き荒れる「嘆きの氷原」の奥深くにあった。
「私を、そこへ連れて行ってください。私が、あなたの失われた記憶を、すべて、取り戻してみせます」
「リノア……。それは、君を危険に晒すことになる」
「私は、もう決めました。あなたのいない過去など、私には、意味のない歴史書と同じです。私が、あなたの追想録を、完成させてみせます」
私の瞳に宿る決意を見て、彼は、ゆっくりと頷いた。
それは、二人の、最後の旅の始まりだった。
第四章:嘆きの氷原の誓い
嘆きの氷原は、人の生存を許さない、極寒の地だった。猛吹雪が視界を奪い、凍てついた大地が、足元の熱を容赦なく奪っていく。
私たちは、数日をかけて、祭壇のある氷の洞窟へとたどり着いた。
洞窟の最奥には、古代文字が刻まれた、巨大な石の祭壇が鎮座していた。ここが、彼の記憶が、そして、呪いが眠る場所。
「カイアス様。これから、あなたの精神の世界に入ります。あなたの記憶の扉を、私が開きます。でも、最後にその扉を開けて、すべてを思い出すかどうかは、あなた自身が決めることです」
「……ああ」
「もし、恐ろしくなったら、私の名前を呼んでください。必ず、私があなたを、連れ戻します」
私は、彼の前に座り、その冷たい両手を取った。そして、目を閉じ、意識を、彼の魂の最も深い場所へと、沈めていった。
彼の精神世界は、吹雪が吹き荒れる、真っ白な空間だった。そこには、記憶の断片が、凍りついたまま、無数に散らばっていた。家族の笑顔、友との誓い、そして、名も知らぬ誰かへの、淡い恋心。
私は、その一つ一つを、丁寧に拾い上げ、彼の心の傷を、繕うように、繋ぎ合わせていく。
どれくらいの時間が経っただろうか。
彼の精神世界に、少しずつ、色が戻り始めた。
そして、ついに、最後の扉の前にたどり着いた。その扉の向こうには、彼が封じ込めた、「呪い」の記憶と、それを背負うという、過酷な覚悟が眠っている。
『……リノア』
彼の声が、聞こえた。
『もう、いい。君を、これ以上危険な場所には、いさせられない』
彼は、思い出すことを、拒絶しようとしていた。私を守るために。
「いいえ、カイアス様!」
私は、叫んだ。
「一人で、背負わないでください! あなたの過去も、あなたの呪いも、すべて、私も一緒に背負います! だから、思い出してください! あなたが、誰よりも愛した、この世界を!」
私の声が、届いたのだろうか。
固く閉ざされていた扉が、ゆっくりと、軋むような音を立てて、開き始めた。
そして、溢れ出した眩い光と共に、カイアス・ウル・ブランドンの、すべての記憶が、蘇った。
最終章:二人で紡ぐ追想録
気がつくと、私は、カイアス様の腕の中で、目を覚ました。
洞窟の中は、穏やかな光に満たされていた。彼の灰色の瞳には、もう、虚無の色はない。そこには、深い叡智と、そして、温かい愛情の光が、輝いていた。
「……思い出した。すべて」
彼は、優しい声で言った。
「そして、思い出した。俺が、本当に守りたかったものが、何だったのかを」
彼は、私の頬に、そっと触れた。
「俺は、まだ見ぬ誰かではなく、目の前にいる、君を守りたかったのだと。リノア、君こそが、俺が待ち望んでいた、真実の愛だったのだ」
祭壇に刻まれた、呪いを解くための誓い。それは、愛する者と共に、未来を生きると誓うこと。
彼は、私の手を取り、祭壇の前で、深く跪いた。
「リノア・クインティルス。俺の失われた過去を、取り戻してくれた、唯一人の女。どうか、俺の妻となり、これからの未来を、共に生きてはくれないだろうか」
それは、今まで聞いた、どの記憶の物語よりも、甘く、そして、心に響く、愛の言葉だった。
「はい……喜んで。私の、愛しい辺境伯様」
私たちが誓いの言葉を口にした瞬間、祭壇がひときえ明るく輝き、彼を縛り付けていた、長年の呪いは、完全に消え去った。
こうして、「記憶を繕う令嬢」と「過去を失くした辺境伯」の、新しい追想録の、最初のページが綴られた。
彼の失われた記憶は、確かに壮絶なものだった。しかし、これからは、二人で、幸せな思い出を、たくさん、たくさん、重ねていけばいい。
私たちの未来という名の白紙のページは、まだ、無限に広がっているのだから。
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