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音なき世界の指揮者と、沈黙を識る歌姫の共鳴
音なき世界の指揮者と、沈黙を識る歌姫の共鳴
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第一章:不協和音の鎮魂歌
私、リリカ・フォン・カンタービレの世界は、音で満ちていた。けれどそれは、誰もが聞く音とは少し違う。私には、世界のあらゆるものが奏でる、内なる「響き」が聞こえるのだ。人の心の調和も、虚飾に満ちた会話の不協和音も、すべてが音楽となって私の耳に届く。この「絶対響感」は、私の歌に力を与え、同時に、私を孤独にした。
その日、帝国建国記念式典の大聖堂で、私は人生最大の舞台に、そして、最大の絶望の淵に立たされていた。次期侯爵である婚約者、オクタヴィアンの計らいで、皇帝陛下の御前で国歌を独唱するという、この上ない栄誉。
しかし、私の耳に届いたのは、荘厳なパイプオルガンの音色だけではなかった。着飾った貴族たちの心から漏れ出る、嫉妬、虚栄、欺瞞――それらが混じり合い、耳を覆いたくなるほどの、おぞましい不協和音となって、大聖堂の空気を満たしていたのだ。
楽譜通りに歌うことなど、できなかった。この淀んだ響きを、浄化せずにはいられなかった。
私は、目を閉じ、国歌の旋律ではなく、即興の、祈りの歌を歌い始めた。それは、不協和音を鎮め、調和を取り戻すための、鎮魂歌(レクイエム)。私の声は、大聖堂の隅々まで響き渡り、ざわめいていた空気は、水を打ったように静まり返った。
歌い終えた時、私を待っていたのは、賞賛ではなかった。
「リリカ! 貴様、一体何ということをしてくれたのだ!」
壇上から引きずり降ろされ、私の頬を打ったのは、怒りに顔を歪ませたオクタヴィアンだった。
「皇帝陛下の御前で、国歌を侮辱し、不吉な鎮魂歌を歌うとは! 我が家の顔に、どれだけ泥を塗れば気が済むのだ!」
「ですが、オクタヴィアン様、あの場の響きは、あまりにも乱れていて……」
「響きだと? またその戯言か! お前のその気味の悪い歌い方のせいで、私はずっと笑いものだったのだ! もうたくさんだ!」
彼は、凍りついたように静まり返る貴族たちを前に、高らかに宣言した。
「この女は、帝国を呪う魔女だ! よって、今この場で、リリカ・カンタービレとの婚約を破棄する!」
魔女。その一言が、私のすべてを否定した。良かれと思って歌った歌が、私を社会から追放したのだ。
涙が溢れそうで、俯いたまま、その場から逃げ出そうとした、その時だった。
「――実に、美しい『響き』だった」
静かで、深く、そして、すべての音を失った世界の静寂を思わせる声が、その場の空気を震わせた。
声の主を見て、誰もが畏敬の念に打たれ、道を開けた。
そこに立っていたのは、かつて帝国最高の指揮者と謳われ、しかし、ある事件で聴覚を完全に失った、悲劇の天才――マエストロ・ヴィオ・アルモニコ公爵だった。
彼は、音のない世界にいるはずなのに、まっすぐに私を見つめていた。
「嬢。君の歌声は、音ではない。俺の心に直接届く、調和そのものだった」
その灰色の瞳が、初めて、私という存在の真価を、正確に捉えていた。
「君に、頼みがある。俺の、この音なき世界で、ただ一人、歌ってはくれないだろうか」
第二章:沈黙の中の盟約
アルモニコ公爵の屋敷は、彼の内なる世界を体現しているかのように、完璧な静寂に包まれていた。分厚い壁は、外界のあらゆる音を遮断し、床に敷かれた絨毯は、足音一つ立てさせない。そこは、音から見放された王のための、沈黙の城だった。
「俺には、何も聞こえない」
書斎で、彼は静かに語り始めた。
「鳥の声も、風の音も、人の声も。音楽は、俺の世界から完全に消えた。ただ、その代わりに」と彼は続けた。「肌で、『響き』を感じるようになった。空気の振動、床の震え、物の共鳴。世界のすべてが、雑音に満ちた、不快な振動でしかない」
その瞳には、深い絶望と、長年の苦痛が刻まれていた。
「だが、今日、君が歌った時、初めて、美しいと感じる『響き』に出会った。それは、不快な雑音ではなく、完璧に調和した、心地よい振動だった。まるで、かつて俺が求めていた、至高の音楽そのものだった」
彼は、私に向き直った。その灰色の瞳が、必死に私に訴えかけている。
「君を、俺の専属歌手として雇いたい。君の歌声(の響き)だけが、今の俺にとっての、唯一の音楽だ。君のその才能を、俺のためだけに、使ってはくれないだろうか」
それは、あまりにも孤独で、切実な願いだった。
「魔女」と罵られた私の歌が、この絶望した天才指揮者の、唯一の救いになるというのなら。
「お受けいたします。そのお話を」
私の答えに、彼は、安堵したように、その整った顔をわずかに緩めた。
「報酬は、君が望むだけ支払おう。そして、君のその喉と、才能を、俺が全力で守る。これは、盟約だ」
こうして、私と、音なき世界の指揮者との、秘密の盟約が結ばれた。
それは、他の誰にも理解されない、「響き」だけを頼りに心を通わせる、二人だけの、静かな協奏曲の始まりだった。
第三章:魂のためのコンサート
公爵邸での私の役割は、ただ一つ。彼の魂のためだけに、歌うことだった。
彼は、私のために、屋敷の中に、世界で最も音響効果に優れた、小さな音楽堂を造ってくれた。壁の材質、天井の高さ、床の角度まで、すべてが、私の声が、最も美しく「響く」ように、完璧に計算されていた。
毎晩、私は、その音楽堂で、たった一人の聴衆のために歌った。
彼は、指揮台に立ち、目を閉じ、私の歌声が引き起こす、空気の振動に、全身全霊で耳を傾けていた。
「素晴らしい……。今の、高音の響きは、まるで天から降り注ぐ光のようだ」
「今の、低音の振動は、大地の鼓動そのものだった」
彼は、音ではなく、響きで、私の歌のすべてを理解した。そして、かつてオーケストラを指揮したように、その鋭敏な感覚で、私の歌に、的確な助言を与えた。
「リリカ。もう少し、響きに『間』を作れ。沈黙こそが、次の響きを、最も美しくする」
彼は、最高の指揮者だった。そして、私は、彼の指揮のもと、自分の能力を、さらに開花させていった。
彼の溺愛は、私の「響き」への、絶対的な庇護として現れた。
私の喉に良いからと、領地の清浄な泉の水が、毎日、王都まで運ばれてきた。
私が、少しでも声に疲れを見せると、彼は帝国一の名医を呼び寄せ、私の休養のために、一週間の静養を命じた。
そして、彼は、私の歌声を、そして私自身を、侮辱する者を、決して許さなかった。
私を「魔女」と罵ったオクタヴィアンは、公爵家の圧力により、次々と取引を失い、瞬く間に没落していった。
私の歌を「不気味」と評した音楽評論家は、マエストロ・アルモニコ自身の署名が入った、痛烈な反論文によって、業界から姿を消した。
「君の響きを理解できぬ者は、音楽を語る資格も、生きる価値もない」
彼の静かな瞳には、私への、ほとんど狂信的ともいえる、独占欲が燃えていた。
彼の音なき世界で、私は、唯一無二の、神となっていたのだ。
私は、この孤独な指揮者を、心の底から愛している自分に気づいていた。
彼の沈黙の世界に、いつか、本当の喝采を、もう一度、聞かせてあげたい。そう、強く願うようになっていた。
第四章:呪いのオルガンと帝国の不協和音
穏やかな日々は、帝国を揺るがす、巨大な不協和音によって、破られた。
帝国の各地で、原因不明の暴動や、争いが頻発し始めたのだ。人々の心は、苛立ちと不安に満ち、帝国全体が、不快な響きに包まれていった。
「……何かが、おかしい」
鋭敏な感覚を持つヴィオ様は、誰よりも早く、その異変に気づいていた。
「帝国全体の『響き』が、乱れている。まるで、誰かが、意図的に、不協和音を奏でているかのようだ」
その犯人は、すぐに判明した。オクタヴィアンだった。
彼は、没落した我が家を再興させ、帝国に復讐するため、禁断の魔術に手を出したのだ。彼は、古代の遺物である『不和のオルガン』を修復し、その呪われた音色で、人々の心を操り、帝国を内側から崩壊させようと企んでいた。
そして、その最大の標的は、自分を破滅させた、ヴィオ様だった。
オルガンの不協和音は、常人にはただの不快な騒音だが、鋭敏すぎる感覚を持つヴィオ様の身体を、内側から破壊していく、強力な呪いでもあった。
彼は、日に日に衰弱していった。絶え間ない不快な振動に、彼の精神と肉体は、限界を迎えつつあった。
「ヴィオ様!」
書斎で、血を吐いて倒れる彼を、私はただ、抱きしめることしかできなかった。
「リリカ……。君の歌が、聞こえない……。世界が、ただの、雑音に……」
彼の瞳から、光が消えかけていた。
このままでは、彼が死んでしまう。帝国も、崩壊する。
私に、できることは。
私の脳裏に、一族に伝わる、禁断の歌が蘇った。
それは、世界の始まりに歌われたという、『創生の歌』。森羅万象すべての響きを内包し、あらゆる不協和音を、根源的な調和へと回帰させる、奇跡の歌。
しかし、その歌を歌うには、自らの生命力そのものを、響きへと変換する必要がある。歌い終えた時、歌い手がどうなるのかは、誰にも分からなかった。
最終章:二人で奏でる交響曲
私は、決意した。
衰弱したヴィオ様を抱きかかえ、私は、あの音楽堂の舞台に立った。
「私が、この不協和音を、終わらせます」
「やめろ、リリカ……。君を、失うわけには……」
彼の制止を、私は、優しい口づけで塞いだ。
「あなたを失う世界に、私が生きていても、意味がありません。それに、私は、あなたの指揮を、信じていますから」
私は、彼の衰弱した手をとり、指揮台へと導いた。
「ヴィオ様。私に、最後のタクトを、振ってください」
彼は、震える手で、ゆっくりと、指揮棒を構えた。聴覚は失われている。しかし、彼の魂は、これから始まる音楽のすべてを、理解していた。
彼の指揮棒が、静かに、振り下ろされる。
私は、歌い始めた。創生の歌を。
私の声は、もう、ただの歌声ではなかった。それは、風の囁きとなり、川のせせらぎとなり、星々の瞬きとなり、森羅万象すべての「響き」となって、世界に広がっていった。
私の命が、美しい音楽となって、世界を調和させていく。
呪いのオルガンの不協和音は、私の歌声に飲み込まれ、浄化されていく。帝都を覆っていた、淀んだ空気は、澄み渡った青空へと変わっていった。
人々の心にあった、怒りと不安は、穏やかな愛へと、調律されていった。
そして、奇跡が起きた。
私の歌声の「響き」は、ヴィオ様の身体を通り抜け、彼の閉ざされた聴覚を、内側から、叩き起こしたのだ。
「……あ……」
彼の瞳から、一筋の涙が、こぼれ落ちた。
「聞こえる……。リリカ、君の、歌が……。音が、聞こえる……!」
何年ぶりかに、彼の世界に、音が戻ったのだ。
そして、彼が最初に聞いた音は、私の、愛の歌だった。
歌い終えた私は、すべての力を使い果たし、彼の腕の中に、崩れ落ちた。
意識が、遠のいていく。
気がつくと、私は、ベッドの上にいた。隣には、私の手を固く握りしめ、涙を流す、ヴィオ様の姿があった。
「……リリカ。目が覚めたか」
「ヴィオ様……。耳は……?」
「ああ。君のおかげで、聞こえるようになった。だが、俺は、君を失うところだった。もう、二度と、あんな無茶はしないでくれ」
彼は、私の手を、自分の胸に押し当てた。
「俺のこの心臓は、君の響きがなければ、動かない。君の歌声がなければ、生きている意味がない。俺との盟約を、終身契約に変更してほしい。いや、どうか、俺の妻となり、これからの人生という名の交響曲を、共に、指揮してはくれないだろうか」
彼の声は、私が今まで聞いた、どんな音楽よりも、甘く、そして、優しく、私の心に響いた。
「はい、喜んで。私の、愛しいマエストロ」
こうして、「音なき世界の指揮者」と、「沈黙を識る歌姫」は、二人で、新しい交響曲を奏で始めた。
それは、時におだやかに、時に激しく、しかし、常に完璧な調和に満ちた、永遠の愛の調べだった。
私、リリカ・フォン・カンタービレの世界は、音で満ちていた。けれどそれは、誰もが聞く音とは少し違う。私には、世界のあらゆるものが奏でる、内なる「響き」が聞こえるのだ。人の心の調和も、虚飾に満ちた会話の不協和音も、すべてが音楽となって私の耳に届く。この「絶対響感」は、私の歌に力を与え、同時に、私を孤独にした。
その日、帝国建国記念式典の大聖堂で、私は人生最大の舞台に、そして、最大の絶望の淵に立たされていた。次期侯爵である婚約者、オクタヴィアンの計らいで、皇帝陛下の御前で国歌を独唱するという、この上ない栄誉。
しかし、私の耳に届いたのは、荘厳なパイプオルガンの音色だけではなかった。着飾った貴族たちの心から漏れ出る、嫉妬、虚栄、欺瞞――それらが混じり合い、耳を覆いたくなるほどの、おぞましい不協和音となって、大聖堂の空気を満たしていたのだ。
楽譜通りに歌うことなど、できなかった。この淀んだ響きを、浄化せずにはいられなかった。
私は、目を閉じ、国歌の旋律ではなく、即興の、祈りの歌を歌い始めた。それは、不協和音を鎮め、調和を取り戻すための、鎮魂歌(レクイエム)。私の声は、大聖堂の隅々まで響き渡り、ざわめいていた空気は、水を打ったように静まり返った。
歌い終えた時、私を待っていたのは、賞賛ではなかった。
「リリカ! 貴様、一体何ということをしてくれたのだ!」
壇上から引きずり降ろされ、私の頬を打ったのは、怒りに顔を歪ませたオクタヴィアンだった。
「皇帝陛下の御前で、国歌を侮辱し、不吉な鎮魂歌を歌うとは! 我が家の顔に、どれだけ泥を塗れば気が済むのだ!」
「ですが、オクタヴィアン様、あの場の響きは、あまりにも乱れていて……」
「響きだと? またその戯言か! お前のその気味の悪い歌い方のせいで、私はずっと笑いものだったのだ! もうたくさんだ!」
彼は、凍りついたように静まり返る貴族たちを前に、高らかに宣言した。
「この女は、帝国を呪う魔女だ! よって、今この場で、リリカ・カンタービレとの婚約を破棄する!」
魔女。その一言が、私のすべてを否定した。良かれと思って歌った歌が、私を社会から追放したのだ。
涙が溢れそうで、俯いたまま、その場から逃げ出そうとした、その時だった。
「――実に、美しい『響き』だった」
静かで、深く、そして、すべての音を失った世界の静寂を思わせる声が、その場の空気を震わせた。
声の主を見て、誰もが畏敬の念に打たれ、道を開けた。
そこに立っていたのは、かつて帝国最高の指揮者と謳われ、しかし、ある事件で聴覚を完全に失った、悲劇の天才――マエストロ・ヴィオ・アルモニコ公爵だった。
彼は、音のない世界にいるはずなのに、まっすぐに私を見つめていた。
「嬢。君の歌声は、音ではない。俺の心に直接届く、調和そのものだった」
その灰色の瞳が、初めて、私という存在の真価を、正確に捉えていた。
「君に、頼みがある。俺の、この音なき世界で、ただ一人、歌ってはくれないだろうか」
第二章:沈黙の中の盟約
アルモニコ公爵の屋敷は、彼の内なる世界を体現しているかのように、完璧な静寂に包まれていた。分厚い壁は、外界のあらゆる音を遮断し、床に敷かれた絨毯は、足音一つ立てさせない。そこは、音から見放された王のための、沈黙の城だった。
「俺には、何も聞こえない」
書斎で、彼は静かに語り始めた。
「鳥の声も、風の音も、人の声も。音楽は、俺の世界から完全に消えた。ただ、その代わりに」と彼は続けた。「肌で、『響き』を感じるようになった。空気の振動、床の震え、物の共鳴。世界のすべてが、雑音に満ちた、不快な振動でしかない」
その瞳には、深い絶望と、長年の苦痛が刻まれていた。
「だが、今日、君が歌った時、初めて、美しいと感じる『響き』に出会った。それは、不快な雑音ではなく、完璧に調和した、心地よい振動だった。まるで、かつて俺が求めていた、至高の音楽そのものだった」
彼は、私に向き直った。その灰色の瞳が、必死に私に訴えかけている。
「君を、俺の専属歌手として雇いたい。君の歌声(の響き)だけが、今の俺にとっての、唯一の音楽だ。君のその才能を、俺のためだけに、使ってはくれないだろうか」
それは、あまりにも孤独で、切実な願いだった。
「魔女」と罵られた私の歌が、この絶望した天才指揮者の、唯一の救いになるというのなら。
「お受けいたします。そのお話を」
私の答えに、彼は、安堵したように、その整った顔をわずかに緩めた。
「報酬は、君が望むだけ支払おう。そして、君のその喉と、才能を、俺が全力で守る。これは、盟約だ」
こうして、私と、音なき世界の指揮者との、秘密の盟約が結ばれた。
それは、他の誰にも理解されない、「響き」だけを頼りに心を通わせる、二人だけの、静かな協奏曲の始まりだった。
第三章:魂のためのコンサート
公爵邸での私の役割は、ただ一つ。彼の魂のためだけに、歌うことだった。
彼は、私のために、屋敷の中に、世界で最も音響効果に優れた、小さな音楽堂を造ってくれた。壁の材質、天井の高さ、床の角度まで、すべてが、私の声が、最も美しく「響く」ように、完璧に計算されていた。
毎晩、私は、その音楽堂で、たった一人の聴衆のために歌った。
彼は、指揮台に立ち、目を閉じ、私の歌声が引き起こす、空気の振動に、全身全霊で耳を傾けていた。
「素晴らしい……。今の、高音の響きは、まるで天から降り注ぐ光のようだ」
「今の、低音の振動は、大地の鼓動そのものだった」
彼は、音ではなく、響きで、私の歌のすべてを理解した。そして、かつてオーケストラを指揮したように、その鋭敏な感覚で、私の歌に、的確な助言を与えた。
「リリカ。もう少し、響きに『間』を作れ。沈黙こそが、次の響きを、最も美しくする」
彼は、最高の指揮者だった。そして、私は、彼の指揮のもと、自分の能力を、さらに開花させていった。
彼の溺愛は、私の「響き」への、絶対的な庇護として現れた。
私の喉に良いからと、領地の清浄な泉の水が、毎日、王都まで運ばれてきた。
私が、少しでも声に疲れを見せると、彼は帝国一の名医を呼び寄せ、私の休養のために、一週間の静養を命じた。
そして、彼は、私の歌声を、そして私自身を、侮辱する者を、決して許さなかった。
私を「魔女」と罵ったオクタヴィアンは、公爵家の圧力により、次々と取引を失い、瞬く間に没落していった。
私の歌を「不気味」と評した音楽評論家は、マエストロ・アルモニコ自身の署名が入った、痛烈な反論文によって、業界から姿を消した。
「君の響きを理解できぬ者は、音楽を語る資格も、生きる価値もない」
彼の静かな瞳には、私への、ほとんど狂信的ともいえる、独占欲が燃えていた。
彼の音なき世界で、私は、唯一無二の、神となっていたのだ。
私は、この孤独な指揮者を、心の底から愛している自分に気づいていた。
彼の沈黙の世界に、いつか、本当の喝采を、もう一度、聞かせてあげたい。そう、強く願うようになっていた。
第四章:呪いのオルガンと帝国の不協和音
穏やかな日々は、帝国を揺るがす、巨大な不協和音によって、破られた。
帝国の各地で、原因不明の暴動や、争いが頻発し始めたのだ。人々の心は、苛立ちと不安に満ち、帝国全体が、不快な響きに包まれていった。
「……何かが、おかしい」
鋭敏な感覚を持つヴィオ様は、誰よりも早く、その異変に気づいていた。
「帝国全体の『響き』が、乱れている。まるで、誰かが、意図的に、不協和音を奏でているかのようだ」
その犯人は、すぐに判明した。オクタヴィアンだった。
彼は、没落した我が家を再興させ、帝国に復讐するため、禁断の魔術に手を出したのだ。彼は、古代の遺物である『不和のオルガン』を修復し、その呪われた音色で、人々の心を操り、帝国を内側から崩壊させようと企んでいた。
そして、その最大の標的は、自分を破滅させた、ヴィオ様だった。
オルガンの不協和音は、常人にはただの不快な騒音だが、鋭敏すぎる感覚を持つヴィオ様の身体を、内側から破壊していく、強力な呪いでもあった。
彼は、日に日に衰弱していった。絶え間ない不快な振動に、彼の精神と肉体は、限界を迎えつつあった。
「ヴィオ様!」
書斎で、血を吐いて倒れる彼を、私はただ、抱きしめることしかできなかった。
「リリカ……。君の歌が、聞こえない……。世界が、ただの、雑音に……」
彼の瞳から、光が消えかけていた。
このままでは、彼が死んでしまう。帝国も、崩壊する。
私に、できることは。
私の脳裏に、一族に伝わる、禁断の歌が蘇った。
それは、世界の始まりに歌われたという、『創生の歌』。森羅万象すべての響きを内包し、あらゆる不協和音を、根源的な調和へと回帰させる、奇跡の歌。
しかし、その歌を歌うには、自らの生命力そのものを、響きへと変換する必要がある。歌い終えた時、歌い手がどうなるのかは、誰にも分からなかった。
最終章:二人で奏でる交響曲
私は、決意した。
衰弱したヴィオ様を抱きかかえ、私は、あの音楽堂の舞台に立った。
「私が、この不協和音を、終わらせます」
「やめろ、リリカ……。君を、失うわけには……」
彼の制止を、私は、優しい口づけで塞いだ。
「あなたを失う世界に、私が生きていても、意味がありません。それに、私は、あなたの指揮を、信じていますから」
私は、彼の衰弱した手をとり、指揮台へと導いた。
「ヴィオ様。私に、最後のタクトを、振ってください」
彼は、震える手で、ゆっくりと、指揮棒を構えた。聴覚は失われている。しかし、彼の魂は、これから始まる音楽のすべてを、理解していた。
彼の指揮棒が、静かに、振り下ろされる。
私は、歌い始めた。創生の歌を。
私の声は、もう、ただの歌声ではなかった。それは、風の囁きとなり、川のせせらぎとなり、星々の瞬きとなり、森羅万象すべての「響き」となって、世界に広がっていった。
私の命が、美しい音楽となって、世界を調和させていく。
呪いのオルガンの不協和音は、私の歌声に飲み込まれ、浄化されていく。帝都を覆っていた、淀んだ空気は、澄み渡った青空へと変わっていった。
人々の心にあった、怒りと不安は、穏やかな愛へと、調律されていった。
そして、奇跡が起きた。
私の歌声の「響き」は、ヴィオ様の身体を通り抜け、彼の閉ざされた聴覚を、内側から、叩き起こしたのだ。
「……あ……」
彼の瞳から、一筋の涙が、こぼれ落ちた。
「聞こえる……。リリカ、君の、歌が……。音が、聞こえる……!」
何年ぶりかに、彼の世界に、音が戻ったのだ。
そして、彼が最初に聞いた音は、私の、愛の歌だった。
歌い終えた私は、すべての力を使い果たし、彼の腕の中に、崩れ落ちた。
意識が、遠のいていく。
気がつくと、私は、ベッドの上にいた。隣には、私の手を固く握りしめ、涙を流す、ヴィオ様の姿があった。
「……リリカ。目が覚めたか」
「ヴィオ様……。耳は……?」
「ああ。君のおかげで、聞こえるようになった。だが、俺は、君を失うところだった。もう、二度と、あんな無茶はしないでくれ」
彼は、私の手を、自分の胸に押し当てた。
「俺のこの心臓は、君の響きがなければ、動かない。君の歌声がなければ、生きている意味がない。俺との盟約を、終身契約に変更してほしい。いや、どうか、俺の妻となり、これからの人生という名の交響曲を、共に、指揮してはくれないだろうか」
彼の声は、私が今まで聞いた、どんな音楽よりも、甘く、そして、優しく、私の心に響いた。
「はい、喜んで。私の、愛しいマエストロ」
こうして、「音なき世界の指揮者」と、「沈黙を識る歌姫」は、二人で、新しい交響曲を奏で始めた。
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