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物語を紡ぐ令嬢と、歴史に忘れられた公爵の終章
物語を紡ぐ令嬢と、歴史に忘れられた公爵の終章
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第一章:語られなかった恋物語
私の唇は、呪われている。
子爵令嬢カサンドラ・フォン・ミュトス。それが私の名だが、社交界で私を知る者は少ない。私は、自らの唇を固く結び、決して物語を語らない「無口な令嬢」として、いつも壁の染みのように息を潜めているからだ。
私には、語った物語に、ささやかな現実改変をもたらす「言紡ぎ」の力があった。しかし、その力はあまりに不完全で、意図しない「代償」を必ず伴った。幸せな物語を語れば、その裏で誰かが不幸になる。私は、その残酷な法則を恐れ、物語を語ることを、やめた。
しかし、一度だけ、その禁を破ったことがある。婚約者であったセバスチャン・ド・ヴァリエール男爵のために。
野心家だった彼は、出世の機会を掴めずに悩んでいた。彼を喜ばせたくて、私は、彼が盗賊団を捕らえ、騎士団長に認められるという、小さな「英雄譚」を、彼だけに語って聞かせたのだ。
物語は、現実となった。彼は、偶然にも盗賊団に遭遇し、見事な手柄を立てた。しかし、その日の夜、彼の屋敷は火事に見舞われ、彼の出世のために用意された資金は、すべて灰と化した。成功という「物語」の「代償」だった。
その事実は、帝国アカデミーの卒業記念パーティーで、セバスチャン自身の口によって、無慈悲に暴露された。
「諸君! この女に騙されてはいけない!」
彼は、パーティーの中心で、私を指さして叫んだ。
「カサンドラ・フォン・ミュトス! 彼女こそが、甘い言葉で人を惑わし、その裏で破滅をもたらす、呪われた語り部だ!」
彼は、私の力の秘密と、彼の身に起こったすべてを、面白おかしく脚色して語った。私は、一躍、英雄の彼を陥れた、邪悪な魔女に仕立て上げられた。
「私の家が燃えたのも、すべてこいつの呪いだ! こんな女とは、もはや同じ空気を吸うことすらおぞましい! この場で、婚約を破棄する!」
呪われた語り部。その烙印が、私の心を完全に凍らせた。もう二度と、誰かのために物語を語るものか。私の唇は、永遠に縫い付けられたのだ。
人々が、好奇と軽蔑の目で私を遠巻きに見つめる中、私がその場から消え去ろうとした、その時だった。
「――ならば、その呪われた物語、私が買い取ろう」
静かで、どこか諦めたような、しかし、不思議な力強さを秘めた声が響いた。
群衆が、恐れるように道を開ける。そこに立っていたのは、黒衣に身を包んだ、一人の青年だった。その佇まいは高貴だが、彼の周りだけ、世界の色彩が少し薄いように見えた。まるで、歴史という名のカンバスから、その存在が消えかけているかのように。
「クロニクル公爵……!」
リアム・ゼロ・クロニクル。「国を売った大罪人」として、歴史からその名を抹消されかけた一族の、最後の末裔。彼がなぜ、こんな場所に?
彼は、誰にも目もくれず、まっすぐに私の元へ歩み寄ると、その深い蒼色の瞳で、私を見つめた。
「ミュトス嬢。君に、一つの物語を紡いでほしい。偽りの歴史に汚された、我が一族の、真実の物語を。その対価として、君の呪いを、俺がすべて引き受けよう」
第二章:偽りの歴史と真実の語り部
クロニクル公爵の居城は、まるで時が止まったかのようだった。そこは、公式の歴史から忘れ去られた、巨大な書庫そのものだった。壁という壁は、すべて本棚で埋め尽くされ、そこには、帝国の正史には記されていない、無数の「失われた物語」が眠っていた。
「我がクロニクル家は、かつて、皇帝の右腕として、この国に仕えていた」
書斎の窓から、色褪せた領地を眺めながら、彼は静かに語り始めた。
「しかし、百年前に起きた『大空白戦争』の折、当時の当主が国を裏切ったとされ、一族はすべての名誉を剥奪された。歴史書から、その名は削られ、我々は、存在しない者として、この忘れられた土地に、ただ息をしている」
彼の声には、感情がなかった。しかし、その魂が、百年もの間、偽りの物語の中で血を流し続けているのが、私には分かった。
「俺は、生涯をかけて、真実を探してきた。だが、書き換えられた歴史を覆すことは、不可能に近かった。そんな時、君の噂を聞いたのだ。『語られた物語を、真実にする一族がいる』と」
彼は、私に向き直った。その蒼い瞳には、絶望の淵に立つ者だけが持つ、最後の、そして唯一の光が宿っていた。
「君の力は、呪いなどではない。それは、偽りを正し、真実を紡ぎ出すことができる、世界で唯一の希望の力だ。どうか、俺の、そして、我が一族の、真実の語り部になってはくれないだろうか」
「呪い」と罵られた私の力が、「希望」だと。生まれて初めて、私の存在を、肯定してくれた人が、目の前にいた。
涙が、こぼれそうになるのを、必死で堪えた。
「……お受け、いたします。その、お話を」
私の答えに、彼は、初めて、ほんの少しだけ、その表情を和らげた。
「礼を言う。君が安心して物語を紡げるよう、最高の環境を約束しよう。これは、俺の魂を懸けた、誓いだ」
こうして、私は、歴史に忘れられた公爵の、唯一の語り部となった。
それは、偽りの歴史に、たった一つの真実の愛の物語で、戦いを挑む、長く、そして切ない物語の始まりだった。
第三章:書斎塔の誓い
リアム様との生活は、静かな言葉と、古い紙の匂い、そして、無数の物語に満ちていた。
彼は、私の力の源が、「豊かな知識」と「強い想い」であることを見抜き、私に、彼の城にあるすべての書物を、読むことを許してくれた。
そして、彼は、私のために、城で最も空に近い、塔の最上階を、私だけの「書斎塔」として与えてくれた。そこは、円形の壁一面が本棚で、中央の大きな机の上には、いつも、彼の探してきた、世界中の珍しい物語が置かれていた。
「君が紡ぐ言葉が、君の武器だ。ならば、最高の武器を、君に与えたい」
私は、来る日も来る日も、本を読んだ。そして、夜になると、書斎塔で、リアム様のためだけに、ささやかな物語を紡いだ。
それは、まだ、歴史を書き換えるような、大きな物語ではない。
彼が、その日に食べた、少し硬いパンが、ほんの少しだけ、柔らかくなる物語。
彼の眠れない夜に、ほんの少しだけ、穏やかな夢が見られる物語。
私の紡ぐどんなに小さな物語も、彼は、絶対の真実として受け止め、そして、心からの感謝を、伝えてくれた。
「ありがとう、カサンドラ。君のおかげで、今日のパンは、とても美味しかった」
彼の溺愛は、私の「物語」への、絶対的な信仰だった。
私が、少しでも創作に悩んでいると、彼は、黙って、温かいお茶と、甘いお菓子を差し入れてくれた。
私が、新しい物語の着想を求めていると知れば、彼は、領地の民が語り継ぐ、小さな民話を、自ら集めてきてくれた。
そして、彼は、私の心を、何よりも大切にしてくれた。
セバスチャンに言われた「呪い」の言葉が、悪夢となって私を苛む夜には、彼は、書斎塔の扉の外で、私が落ち着くまで、静かに、朝まで待っていてくれた。決して、中には入ってこない。私の聖域を、彼は決して侵さなかった。
彼の、静かで、深い優しさは、私の凍りついた心を、少しずつ、解かしていった。
私は、この孤独な公爵を、心の底から愛している自分に気づいていた。
彼の偽りの歴史を、私が、必ず、幸せな物語に書き換えてみせる。
そう、強く、心に誓った。
第四章:偽りの創生記
数ヶ月にわたる調査と、小さな物語の積み重ねの末、私はついに、クロニクル家を貶めた、偽りの歴史の核心にたどり着いた。
すべては、当時、クロニクル家と権力を争っていた、グラナダ公爵家が仕組んだ、壮大な偽りの物語だったのだ。彼らは、帝国の公式記録を司る書記官たちを抱き込み、百年をかけて、クロニクル家の功績を、すべて自らのものとして歴史を書き換え、その罪を、クロニクル家に擦り付けたのだ。
そして、現在のグラナダ公爵は、リアム様の存在そのものを、歴史から完全に抹消しようと、最後の仕上げに取り掛かっていた。
それは、帝国の創生神話そのものを、わずかに書き換えるという、恐ろしい計画だった。創生の物語から、クロニクル家の祖先の名前を消し去れば、因果律が乱れ、リアム・ゼロ・クロニクルという存在は、初めから「存在しなかった」ことになるのだ。
その計画が実行されるのは、三日後。帝国創生を祝う、「始原祭」の夜。
グラナダ公爵が、王宮の最深部にある、「原初の書」に、偽りの一文を書き加えた時、すべてが終わる。
「……時間がない」
リアム様の表情に、初めて、焦りの色が浮かんだ。
「カサンドラ。もう、君に頼るしかない。君の物語で、奴の偽りの創生記を、打ち破ってほしい」
それは、あまりにも、無謀な戦いだった。
国が定めた「正史」という、巨大な物語に、私の、たった一人の小さな物語で、立ち向かうのだ。
失敗すれば、彼の存在は消え、私の力も暴走し、私自身も、物語の代償として、どうなるか分からない。
恐怖に、体が震えた。
そんな私を、リアム様は、初めて、その腕で、優しく抱きしめた。
「怖いか?」
「……はい」
「俺もだ。だが、俺は、君を信じている。君の紡ぐ物語を、俺は、誰よりも信じている。君となら、どんな結末も、受け入れられる」
彼の温もりが、彼の信頼が、私の恐怖を、溶かしていく。
そうだ。私は、もう、一人ではない。
「リアム様。私に、あなたの物語を、語らせてください。あなたの、真実の物語を」
最終章:君の名を呼ぶ物語
始原祭の夜。
グラナダ公爵が、王宮の最深部で、「原初の書」にペンを走らせる、その瞬間。
書斎塔にいたリアム様の体が、足元から、光の粒子となって、消え始めた。
「……っ! カサンドラ!」
偽りの歴史が、彼の存在を、世界から消去し始めているのだ。
「リアム様!」
私は、叫んだ。そして、紡ぎ始めた。私の、命と魂の、すべてを懸けて。
「――物語を、始めましょう。それは、歴史に忘れられた、一人の高貴な騎士の物語」
私は、語った。彼の祖先が、いかに皇帝に忠誠を誓い、国を守ったかを。
彼の父親が、いかに民を愛し、領地を守り抜いたかを。
偽りの歴史が、私の紡ぐ真実の言葉によって、少しずつ、押し返されていく。リアム様の消えかけていた足が、実体を取り戻す。
しかし、敵の力は、あまりにも強大だった。
「ぐ……ぁ……!」
再び、彼の体が、激しく消え始める。
もう、歴史の物語だけでは、足りない。
私は、最後の切り札を使った。それは、まだ、誰にも語ったことのない、私と彼だけの、愛の物語。
「彼の名は、リアム! 私が、この世でただ一人、愛した男!」
私は、叫んだ。
「彼が、私にくれた、温かいお茶の味を、私は知っている! 彼の、不器用な優しさを、私は知っている! 彼の、孤独な魂に、私が触れた! 私の記憶に、私の心に、彼の存在は、確かに刻まれている!」
偽りの歴史が、どれだけ彼を「いない者」にしようとしても、
私が「いる」と、ここに「愛している」と、叫び続ける。
私の、愛の物語が、彼の存在を、この世界に繋ぎとめる、唯一の錨となる。
「愛しています、リアム様! あなたのいない世界など、私にとっては、白紙のページと同じなのです!」
私の最後の叫びが、奇跡を起こした。
私の愛の物語は、偽りの創生記の、どんな壮大な嘘よりも、強く、そして、真実だった。
リアム様の体は、完全に、光を取り戻した。そして、彼の周りに漂っていた、色褪せた空気は消え去り、世界は、鮮やかな色彩を取り戻した。
その後、悪事が暴かれたグラナダ公爵家は、その名を歴史から消された。
そして、クロニクル家の名誉は、百年ぶりに、完全に回復された。
すべてが終わり、穏やかな光が差し込む書斎塔で、リアム様は、私の手を取り、深く、深く、跪いた。
「カサンドラ。俺の物語を、救ってくれて、ありがとう。君は、俺の、真実の語り部だ」
彼は、私の手の甲に、誓いの口づけを落とした。
「どうか、これからは、俺の妻として、二人だけの、新しい物語を、共に紡いではくれないだろうか。ハッピーエンドで終わる、永遠の物語を」
私の唇から、呪いが解けたように、自然と、言葉が溢れ出した。
「はい、喜んで。私の、愛しい、物語の主人公様」
こうして、「物語を紡ぐ令嬢」と、「歴史に忘れられた公爵」の、古い物語は、終章を迎えた。
そして、今、新しいページの、一行目が、二人の愛によって、静かに、綴られ始めた。
私の唇は、呪われている。
子爵令嬢カサンドラ・フォン・ミュトス。それが私の名だが、社交界で私を知る者は少ない。私は、自らの唇を固く結び、決して物語を語らない「無口な令嬢」として、いつも壁の染みのように息を潜めているからだ。
私には、語った物語に、ささやかな現実改変をもたらす「言紡ぎ」の力があった。しかし、その力はあまりに不完全で、意図しない「代償」を必ず伴った。幸せな物語を語れば、その裏で誰かが不幸になる。私は、その残酷な法則を恐れ、物語を語ることを、やめた。
しかし、一度だけ、その禁を破ったことがある。婚約者であったセバスチャン・ド・ヴァリエール男爵のために。
野心家だった彼は、出世の機会を掴めずに悩んでいた。彼を喜ばせたくて、私は、彼が盗賊団を捕らえ、騎士団長に認められるという、小さな「英雄譚」を、彼だけに語って聞かせたのだ。
物語は、現実となった。彼は、偶然にも盗賊団に遭遇し、見事な手柄を立てた。しかし、その日の夜、彼の屋敷は火事に見舞われ、彼の出世のために用意された資金は、すべて灰と化した。成功という「物語」の「代償」だった。
その事実は、帝国アカデミーの卒業記念パーティーで、セバスチャン自身の口によって、無慈悲に暴露された。
「諸君! この女に騙されてはいけない!」
彼は、パーティーの中心で、私を指さして叫んだ。
「カサンドラ・フォン・ミュトス! 彼女こそが、甘い言葉で人を惑わし、その裏で破滅をもたらす、呪われた語り部だ!」
彼は、私の力の秘密と、彼の身に起こったすべてを、面白おかしく脚色して語った。私は、一躍、英雄の彼を陥れた、邪悪な魔女に仕立て上げられた。
「私の家が燃えたのも、すべてこいつの呪いだ! こんな女とは、もはや同じ空気を吸うことすらおぞましい! この場で、婚約を破棄する!」
呪われた語り部。その烙印が、私の心を完全に凍らせた。もう二度と、誰かのために物語を語るものか。私の唇は、永遠に縫い付けられたのだ。
人々が、好奇と軽蔑の目で私を遠巻きに見つめる中、私がその場から消え去ろうとした、その時だった。
「――ならば、その呪われた物語、私が買い取ろう」
静かで、どこか諦めたような、しかし、不思議な力強さを秘めた声が響いた。
群衆が、恐れるように道を開ける。そこに立っていたのは、黒衣に身を包んだ、一人の青年だった。その佇まいは高貴だが、彼の周りだけ、世界の色彩が少し薄いように見えた。まるで、歴史という名のカンバスから、その存在が消えかけているかのように。
「クロニクル公爵……!」
リアム・ゼロ・クロニクル。「国を売った大罪人」として、歴史からその名を抹消されかけた一族の、最後の末裔。彼がなぜ、こんな場所に?
彼は、誰にも目もくれず、まっすぐに私の元へ歩み寄ると、その深い蒼色の瞳で、私を見つめた。
「ミュトス嬢。君に、一つの物語を紡いでほしい。偽りの歴史に汚された、我が一族の、真実の物語を。その対価として、君の呪いを、俺がすべて引き受けよう」
第二章:偽りの歴史と真実の語り部
クロニクル公爵の居城は、まるで時が止まったかのようだった。そこは、公式の歴史から忘れ去られた、巨大な書庫そのものだった。壁という壁は、すべて本棚で埋め尽くされ、そこには、帝国の正史には記されていない、無数の「失われた物語」が眠っていた。
「我がクロニクル家は、かつて、皇帝の右腕として、この国に仕えていた」
書斎の窓から、色褪せた領地を眺めながら、彼は静かに語り始めた。
「しかし、百年前に起きた『大空白戦争』の折、当時の当主が国を裏切ったとされ、一族はすべての名誉を剥奪された。歴史書から、その名は削られ、我々は、存在しない者として、この忘れられた土地に、ただ息をしている」
彼の声には、感情がなかった。しかし、その魂が、百年もの間、偽りの物語の中で血を流し続けているのが、私には分かった。
「俺は、生涯をかけて、真実を探してきた。だが、書き換えられた歴史を覆すことは、不可能に近かった。そんな時、君の噂を聞いたのだ。『語られた物語を、真実にする一族がいる』と」
彼は、私に向き直った。その蒼い瞳には、絶望の淵に立つ者だけが持つ、最後の、そして唯一の光が宿っていた。
「君の力は、呪いなどではない。それは、偽りを正し、真実を紡ぎ出すことができる、世界で唯一の希望の力だ。どうか、俺の、そして、我が一族の、真実の語り部になってはくれないだろうか」
「呪い」と罵られた私の力が、「希望」だと。生まれて初めて、私の存在を、肯定してくれた人が、目の前にいた。
涙が、こぼれそうになるのを、必死で堪えた。
「……お受け、いたします。その、お話を」
私の答えに、彼は、初めて、ほんの少しだけ、その表情を和らげた。
「礼を言う。君が安心して物語を紡げるよう、最高の環境を約束しよう。これは、俺の魂を懸けた、誓いだ」
こうして、私は、歴史に忘れられた公爵の、唯一の語り部となった。
それは、偽りの歴史に、たった一つの真実の愛の物語で、戦いを挑む、長く、そして切ない物語の始まりだった。
第三章:書斎塔の誓い
リアム様との生活は、静かな言葉と、古い紙の匂い、そして、無数の物語に満ちていた。
彼は、私の力の源が、「豊かな知識」と「強い想い」であることを見抜き、私に、彼の城にあるすべての書物を、読むことを許してくれた。
そして、彼は、私のために、城で最も空に近い、塔の最上階を、私だけの「書斎塔」として与えてくれた。そこは、円形の壁一面が本棚で、中央の大きな机の上には、いつも、彼の探してきた、世界中の珍しい物語が置かれていた。
「君が紡ぐ言葉が、君の武器だ。ならば、最高の武器を、君に与えたい」
私は、来る日も来る日も、本を読んだ。そして、夜になると、書斎塔で、リアム様のためだけに、ささやかな物語を紡いだ。
それは、まだ、歴史を書き換えるような、大きな物語ではない。
彼が、その日に食べた、少し硬いパンが、ほんの少しだけ、柔らかくなる物語。
彼の眠れない夜に、ほんの少しだけ、穏やかな夢が見られる物語。
私の紡ぐどんなに小さな物語も、彼は、絶対の真実として受け止め、そして、心からの感謝を、伝えてくれた。
「ありがとう、カサンドラ。君のおかげで、今日のパンは、とても美味しかった」
彼の溺愛は、私の「物語」への、絶対的な信仰だった。
私が、少しでも創作に悩んでいると、彼は、黙って、温かいお茶と、甘いお菓子を差し入れてくれた。
私が、新しい物語の着想を求めていると知れば、彼は、領地の民が語り継ぐ、小さな民話を、自ら集めてきてくれた。
そして、彼は、私の心を、何よりも大切にしてくれた。
セバスチャンに言われた「呪い」の言葉が、悪夢となって私を苛む夜には、彼は、書斎塔の扉の外で、私が落ち着くまで、静かに、朝まで待っていてくれた。決して、中には入ってこない。私の聖域を、彼は決して侵さなかった。
彼の、静かで、深い優しさは、私の凍りついた心を、少しずつ、解かしていった。
私は、この孤独な公爵を、心の底から愛している自分に気づいていた。
彼の偽りの歴史を、私が、必ず、幸せな物語に書き換えてみせる。
そう、強く、心に誓った。
第四章:偽りの創生記
数ヶ月にわたる調査と、小さな物語の積み重ねの末、私はついに、クロニクル家を貶めた、偽りの歴史の核心にたどり着いた。
すべては、当時、クロニクル家と権力を争っていた、グラナダ公爵家が仕組んだ、壮大な偽りの物語だったのだ。彼らは、帝国の公式記録を司る書記官たちを抱き込み、百年をかけて、クロニクル家の功績を、すべて自らのものとして歴史を書き換え、その罪を、クロニクル家に擦り付けたのだ。
そして、現在のグラナダ公爵は、リアム様の存在そのものを、歴史から完全に抹消しようと、最後の仕上げに取り掛かっていた。
それは、帝国の創生神話そのものを、わずかに書き換えるという、恐ろしい計画だった。創生の物語から、クロニクル家の祖先の名前を消し去れば、因果律が乱れ、リアム・ゼロ・クロニクルという存在は、初めから「存在しなかった」ことになるのだ。
その計画が実行されるのは、三日後。帝国創生を祝う、「始原祭」の夜。
グラナダ公爵が、王宮の最深部にある、「原初の書」に、偽りの一文を書き加えた時、すべてが終わる。
「……時間がない」
リアム様の表情に、初めて、焦りの色が浮かんだ。
「カサンドラ。もう、君に頼るしかない。君の物語で、奴の偽りの創生記を、打ち破ってほしい」
それは、あまりにも、無謀な戦いだった。
国が定めた「正史」という、巨大な物語に、私の、たった一人の小さな物語で、立ち向かうのだ。
失敗すれば、彼の存在は消え、私の力も暴走し、私自身も、物語の代償として、どうなるか分からない。
恐怖に、体が震えた。
そんな私を、リアム様は、初めて、その腕で、優しく抱きしめた。
「怖いか?」
「……はい」
「俺もだ。だが、俺は、君を信じている。君の紡ぐ物語を、俺は、誰よりも信じている。君となら、どんな結末も、受け入れられる」
彼の温もりが、彼の信頼が、私の恐怖を、溶かしていく。
そうだ。私は、もう、一人ではない。
「リアム様。私に、あなたの物語を、語らせてください。あなたの、真実の物語を」
最終章:君の名を呼ぶ物語
始原祭の夜。
グラナダ公爵が、王宮の最深部で、「原初の書」にペンを走らせる、その瞬間。
書斎塔にいたリアム様の体が、足元から、光の粒子となって、消え始めた。
「……っ! カサンドラ!」
偽りの歴史が、彼の存在を、世界から消去し始めているのだ。
「リアム様!」
私は、叫んだ。そして、紡ぎ始めた。私の、命と魂の、すべてを懸けて。
「――物語を、始めましょう。それは、歴史に忘れられた、一人の高貴な騎士の物語」
私は、語った。彼の祖先が、いかに皇帝に忠誠を誓い、国を守ったかを。
彼の父親が、いかに民を愛し、領地を守り抜いたかを。
偽りの歴史が、私の紡ぐ真実の言葉によって、少しずつ、押し返されていく。リアム様の消えかけていた足が、実体を取り戻す。
しかし、敵の力は、あまりにも強大だった。
「ぐ……ぁ……!」
再び、彼の体が、激しく消え始める。
もう、歴史の物語だけでは、足りない。
私は、最後の切り札を使った。それは、まだ、誰にも語ったことのない、私と彼だけの、愛の物語。
「彼の名は、リアム! 私が、この世でただ一人、愛した男!」
私は、叫んだ。
「彼が、私にくれた、温かいお茶の味を、私は知っている! 彼の、不器用な優しさを、私は知っている! 彼の、孤独な魂に、私が触れた! 私の記憶に、私の心に、彼の存在は、確かに刻まれている!」
偽りの歴史が、どれだけ彼を「いない者」にしようとしても、
私が「いる」と、ここに「愛している」と、叫び続ける。
私の、愛の物語が、彼の存在を、この世界に繋ぎとめる、唯一の錨となる。
「愛しています、リアム様! あなたのいない世界など、私にとっては、白紙のページと同じなのです!」
私の最後の叫びが、奇跡を起こした。
私の愛の物語は、偽りの創生記の、どんな壮大な嘘よりも、強く、そして、真実だった。
リアム様の体は、完全に、光を取り戻した。そして、彼の周りに漂っていた、色褪せた空気は消え去り、世界は、鮮やかな色彩を取り戻した。
その後、悪事が暴かれたグラナダ公爵家は、その名を歴史から消された。
そして、クロニクル家の名誉は、百年ぶりに、完全に回復された。
すべてが終わり、穏やかな光が差し込む書斎塔で、リアム様は、私の手を取り、深く、深く、跪いた。
「カサンドラ。俺の物語を、救ってくれて、ありがとう。君は、俺の、真実の語り部だ」
彼は、私の手の甲に、誓いの口づけを落とした。
「どうか、これからは、俺の妻として、二人だけの、新しい物語を、共に紡いではくれないだろうか。ハッピーエンドで終わる、永遠の物語を」
私の唇から、呪いが解けたように、自然と、言葉が溢れ出した。
「はい、喜んで。私の、愛しい、物語の主人公様」
こうして、「物語を紡ぐ令嬢」と、「歴史に忘れられた公爵」の、古い物語は、終章を迎えた。
そして、今、新しいページの、一行目が、二人の愛によって、静かに、綴られ始めた。
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