この世で一番軽い恋

神田柊子

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第三章 公爵家を制覇せよ

浮遊魔法の活躍

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 翌日、同じ顔ぶれで、屋敷より南にある農村にやってきた。
 チャーリーは視察で、シャロンは顔合わせ。シャロンはまだ婚約者だから立ち入れない場所もあるため、その間彼女がひとりで暇にならないように、とセリーナとアリスターも誘われたのだ。
 その農村は緩やかな起伏がある土地で、畑が波のように連なっている。緑の葉っぱがわさっと茂っている畑の中に牧場もあった。
「何を飼っているのですか?」
「羊だと思う」
 セリーナが聞くとアリスターが答えてくれる。
「まあ! 羊ですか!」
 セリーナのラグーン侯爵領は葡萄栽培とワイン造りが盛んな土地だ。羊は見たことがない。
「行ってみますか?」
 この辺りの農家のまとめ役の家の夫人が案内してくれることになった。
 畑の作物の話をシャロンが夫人としている。その後ろをセリーナはアリスターと手を繋いでついて行った。
(お願いしなくても自然に手を繋いでくださるなんて! アリスター様も私のことを少しは好きになってきているんじゃないかしら?)
 アリスターも前のふたりの話を聞いているようなので、セリーナは浮かないように大人しくしていた。
 牧場はそれほどかからずに着いた。
 農道から柵の向こうを見渡すと、白っぽい動物がいるのが見える。
「わぁ、たくさんいますね!」
「私も羊は初めてです」
 シャロンも歓声を上げる。
「家のほうでも少し飼っているので、近くでご覧になりたければ、戻ってからどうぞ。春に生まれた子どももいますよ」
「まあ! 楽しみですわ!」
「あ、犬」
「ああして、犬が追い立てて羊をまとめるのですよ」
「あら、一頭逆走していますね」
「まあ、本当ですわ」
 牧場の少し先まで歩いて、またゆっくり折り返してきたところで、視察が終わったチャーリーと合流した。
 そこで、まとめ役の夫妻が昼食を振舞ってくれた。庭で食べた炭火を使って焼いた肉や野菜はおいしかった。――夫人は濁したけれど、羊の肉だろう。セリーナは感謝して食べた。
 そして、帰り道。
 馬車の窓から外を見ていたシャロンが、声をあげた。
「あら? あんなところに、羊がいますよ」
 牧場は遥か後方。道の両側は雑木林という場所だ。
「ああ、本当だ。脱走してきたのか?」
 チャーリーが馬車を止めた。
 御者も羊に気づいており、速度を落としていたところだった。
 チャーリーが馬車から降りて護衛のひとりと話し合っている。
「こういう場合はどうするのですか?」
「捕まえて牧場に連れて行く、とか?」
「野生の羊ってことはないですよね」
「まさか」
 セリーナとアリスターが話している間に、シャロンも馬車を降りたから、セリーナたちも降りる。
 護衛のひとりが羊を捕まえて連れて来た。
「先ほどのお家の羊より大きいですわね」
 まとめ役の家で近くで見た羊よりも立派だ。さすが逃げ出すだけのことはある、ということか。
 感心して見ていたとき、羊が突然こちらに走ってきた。
「えっ!?」
「きゃあ!」
「危ないっ!」
 羊に突き飛ばされたのはシャロンだった。
 シャロンが林の中に倒れ込んだとき、その部分がずるっと滑るように崩れた。
「シャロンっ!」
 チャーリーが伸ばした手が空を切る。
 瞬きする間に、シャロンは視界から消えた。
「お義姉様!」
「待って、まだ崩れるかもしれない」
 セリーナはアリスターに止められた。
「シャロン! 聞こえるかー!? 返事をしてくれー!」
 チャーリーが叫ぶと、崩れた向こうから「聞こえますー!」とシャロンの返事があった。
「良かった……」
 皆がほっと息をつく。
「木に引っかかって止まっていますー!」
 シャロンの声はさほど遠くない。
「ビリー! 人手を呼んで来てくれ! ここからなら屋敷のほうが近い」
「承知しました!」
「ロープがあったらここに」
 チャーリーが御者と護衛に指示を出している。
「羊がいないわ……」
「本当だ」
 少し呆然としていたセリーナは、アリスターに「君は馬車に戻っていなよ」と言われて、はっとした。
(何をやっているの!? 私、飛べるじゃない!)
「私が浮遊魔法で降りてみますわ!」
「何? できるのか?」
 セリーナの提案に、チャーリーがすぐさま反応した。
「はい。十五階まで行き来できますから、大丈夫です」
「君に危険はないんだな?」
「はい」
 セリーナの魔法を知らない護衛たちは怪訝な顔だが、チャーリーは素早く切り替えた。
「それなら頼む。無理せずに、状況を確認するだけでいいから」
 セリーナはこの場から浮いて行くことにした。歩いて近づいてまた崩れては困る。
「ねえ、本当に大丈夫なの?」
「ええ。もちろんです。見ていてくださいね」
 心配そうにするアリスターにセリーナはうなずいて、浮遊魔法を発動させた。
 すぐにセリーナは浮き上がる。
 地面から拳ひとつ分ほど浮いたところで、風魔法で慎重に前に進んだ。
 見守っていた皆が息をのむ。
「では行ってきますね」
 セリーナは崩れた先まで進んだ。上からはわからなかったけれど、垂直な崖ではなく斜面だった。それほど急ではない。
「あっ! お義姉様!」
 シャロンはすぐに見つかった。
 セリーナは風魔法が周囲に影響しないようにそっと近づく。
「お義姉様! お怪我はありませんか?」
「ええ、何とか……。擦り傷や打ち身くらいはあるかもしれないけれど、大怪我はなさそうです」
 シャロンは意識もはっきりしており、言葉もしっかりしている。しかし、斜面の木に引っかかった状態で、足場もなく、起き上がれないようだった。
 セリーナはシャロンにさらに近づいて手を伸ばす。
「失礼いたしますね。私にぎゅっと掴まれますか?」
「ええ」
 ふたりで抱きしめ合うようにしてから、セリーナは浮遊魔法の強度を上げた。
 すると、シャロンも一緒に浮き上がる。
「わっ、浮いているんですか?」
「浮遊魔法です」
「すごいわ!」
 シャロンが怖がっていないようでセリーナは安心した。
「セリーナ様、もし降りられるのでしたら、下に降りてみてくださいませんか?」
 セリーナは、シャロンは気遣って言ってくれたのだと思った。だから、
「このまま上まで魔法で昇れますよ。私、浮遊魔法は得意なんです」
「いえ、違うんです。木に引っかかっているとき、この下に何かあるのが見えたんですけど、精霊の家じゃないかと……」
「え? ここにもですか?」
 セリーナは驚いて下に目をやる。
 確かに、笹に埋もれた小さなログハウスの屋根らしきものが見える。
「ありますわね」
「確認しに行けますか?」
「できますけれど、お義兄様も心配されていますわ。一度、上に戻りましょう」
 そこで、上から声がかかった。
「セリーナ! 無事なのー?」
 アリスターの声だ。
(えっ!! 今! 今、初めて名前を呼んでくださったんじゃない?)
「セリーナ!? ねぇ! 聞こえてる!」
「……名前。私の名前……」
「セリーナ様……?」
 感動に震えるセリーナをシャロンがいぶかしげに見た。
「アリスター様!」
「セリーナ! 良かった。無事なら早く戻ってきなよ」
 きゅいんと急速に恋愛的幸福度が上がったセリーナは、魔法ではなく体質の力で一気に上昇した。
 あっという間に、斜面の上だ。
 セリーナにしがみついたシャロンが声にならない悲鳴を上げたけれど、セリーナは気づいていない。
「アリスター様、もう一度、私の名前を呼んでいただけませんか?」

 自己申告の通り、シャロンに大きな怪我はなかった。
 精霊の家は日を改めて確認することにして、一行は屋敷を目指した。御者に馬を貸した護衛が代わりを務め、ゆっくりと戻る。
 その途中で、屋敷から来た援軍と行き合った。
 先頭で馬を駆るのはハワードだった。
 彼は転げるように馬から降りると、こちらに走って来た。そして、勢いよく馬車の扉を開ける。
「アリスター! チャーリー! 無事か!?」
 ふたりの顔を確かめて、その場に崩れ落ちた。
「良かった……」
「父上!」
 慌てて馬車から降りたチャーリーが、父を支える。
「チャーリー、良かった」
「私たちは落ちていませんよ。落ちたのはシャロンです」
 詳細を聞いていなかったのか、ハワードは目を見開いた。
「何? シャロンは無事なのか?」
「はい。セリーナが魔法で助けてくれましたから、軽傷だけだと思います」
「ああ、良かった」
 ハワードは馬車の中を見て、息を吐く。
「昨日、祠に行ったと聞いたから、呪いがまた発動したのかと慌てた。私と結婚したせいでふたりとも亡くなってしまったから……。この上息子たちまで亡くしてしまったらと思って、気が気ではなかったんだ」
 ハワードは両手で頭を抱える。
「私は家族にできるだけ関わらないほうがいいと思っていた。皆の安全のために……」
 セリーナは隣に座ったまま動けずにいたアリスターの背中を押した。
「アリスター様、馬車から降りましょう」
「あ、うん……」
 促されて降りたアリスターは、所在なくチャーリーの隣に立った。
 彼に気づいたハワードが立ち上がり、アリスターを抱きしめる。
「アリスター、君も無事で良かった!」
「父上……」
 視線をさまよわせたアリスターと目が合ったから、セリーナはにっこりと笑顔を返した。腕を伸ばす仕草をすると、伝わったようで、アリスターは父の背中を抱きしめ返した。
「父上、あの祠は精霊の家だそうです。豊穣を祈願するもので、呪ったりはしないそうです」
「精霊……?」
「聞いてないんですか?」
「いや、報告は聞いたが……、本当なのか?」
「本当ですよ」
 アリスターはそう言い切った。
「母上が亡くなったのは病気が原因です。父上のせいじゃありません。僕が保証します」
「そうか……、そうか。ありがとう……。すまなかった」
 ふたりはしばらく抱き合っていた。

 その晩、セリーナは不思議な夢を見た。
 森の中に羊がいる。
「羊?」
 すぐ近くで声が聞こえて、振り返るとシャロンだった。
「お義姉様!」
「セリーナ様?」
 ふたりで手を合わせて、首をかしげる。
「これは、夢ですよね?」
「たぶん……?」
「昼間はごめんなさい」
 新たな声が聞こえて、ふたりは羊に向き直る。少年のような声だった。
「羊?」
「精霊だよ!」
 羊はその場で軽く跳ねた。
「えっ! 精霊ですか!?」
「羊の精霊なの?」
「羊じゃなくて精霊だよ! この生き物がかわいいって言ってたから、真似しただけ」
 羊、ではなく精霊は、小首をかしげた。
 確かにかわいい。
「森の家でお祭りしてくれたでしょ? ぴかぴかって。あれ、楽しかったよ。ありがとう」
「いえ。どういたしまして」
「それでね、もう一個の家でもお祭りやってほしくて、どんってやったら、どさってなっちゃったの。ごめんなさい」
 精霊はぺこりと頭を下げた。
(家の場所を知らせるつもりが、斜面が崩れてお義姉様が落ちてしまったってことね?)
「は? どんってやったら、どさっ?」
 そこで、シャロンが低い声を出した。セリーナは驚いて振り返る。
 シャロンは両手を腰に当てて、精霊の前に立つ。
「どさってならなくても、どんってやったら危ないのはわかるわよね?」
「え? うん?」
「うん、じゃないの! どんっは危ないのよ! 人間にはどんってやったらダメなの! わかった?」
「う……うん」
 精霊がシャロンの勢いに押されている。
「こうやって夢に出て来れるなら、最初からそうすればいいじゃない! なんで、どんってやろうとするの? 確かに羊はかわいいけどね。突き飛ばされたら、かわいさ半減よ? 半減どころか、ほとんど残らないわ」
「ごめんなさい……」
 精霊が少し小さくなったように見えたセリーナは、「あの、お義姉様、もうその辺で……」と手を差し伸べた。
「精霊さんも反省しているようですし」
 セリーナが言うと、精霊は何度もうなずいた。
「わかりました。許します。次からどんってしないようにしてちょうだいね?」
「はい……」
 セリーナは精霊に、
「あの斜面の下の家は、また改めてお祭りに行きますから。ね? 気を落とさないで」
「うん! ありがとう」
 精霊が跳ねると森が真っ白になり、セリーナは目が覚めた。
(……夢だったのよね? なんだったのかしら?)
 しばらくぼんやりしてしまったセリーナだった。
 大怪我はなかったシャロンだけれど、今日は一日ベッドで安静にしていることになっていた。
 セリーナはお見舞いに行ったとき、
「お義姉様。私、羊の姿をした精霊の夢を見たのですけれど、お義姉様も見ていませんか?」
 と、言いかけたところ、シャロンは「あれは夢じゃなかったんですか?」と青くなった。
「夢だと思っていたので……。いつもあんなことは言わないのですけど……」
 確かに、夢でシャロンは精霊に詰め寄っていた。普段のシャロンはお淑やかな令嬢だから、印象が違う。
「夢の中のお義姉様も素敵でしたけれど、あれは夢ですわね」
「ありがとうございます……」
 ふたりとも同じ夢を見たなら、きっと精霊のお告げなのだろう。
 シャロンと相談して、セリーナたちは公爵家の面々に夢のことを伝えた。
 ――そうして、崩れた斜面を降りられるように整備してから、二つ目の精霊の家でもピクニックが行われた。
 今度はハワードも一緒だった。
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