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プロローグ

初夜はしない

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 侍女に案内され、年代物の分厚い絨毯の敷かれた廊下を歩く。広い廊下に侍女の持つ手燭は弱く、向かう先は真っ暗だった。せめて窓があればとミエリー・ルダルは恨めしく思う。今夜は確か満月だったはずだ。
 ミエリー・ルダル。
 それはもう自分の名前ではない。
 キュール伯爵家の令嬢ミエリー・キュールとして嫁ぎ、今はウェンズ公爵夫人ミエリー・ウェンズだ。
 どうしてこんなことになってしまったのだろう。
 ミエリーはため息を飲み込む。
 叔父のキュール伯爵が言うには、ミエリーが本当は現伯爵の姪でずっと平民として暮らしていたことを知っているのは、公爵の側近だけらしい。公爵にはばれないようにと何度も念を押された。融資を頼んだらミエリーを要求されたそうだ。伯爵には本当の娘もいるのに、ミエリーを、だ。
 実は、ウェンズ公爵家の初代当主は吸血鬼だったという伝説がある。四四〇年も前の話だから、今は誰も信じていない。
 けれども、その伝説は、わざわざ平民の娘を要求する理由にならないだろうか。
 血を吸いつくして殺してしまっても、貧乏貴族から借金の形に譲り受けた平民出身の娘なら問題にならないから、なんてことは……?
 従妹に散々脅されたせいで、おかしな考えが離れない。
 ミエリーは寒気を感じて両腕をさする。
 入浴後に着せられた夜着はとても薄い生地でできていた。肌の濃淡まで透けてしまいそうでミエリーは絶句したけれど、「当家のしきたりです」と言われてしまえば抵抗はできなかった。今は葡萄色のガウンを上から着ている。ミエリーが与えられたのは客間で、公爵夫人の部屋ではなかった。そのため、公爵の寝室まで歩かされているのだ。
 そう、今夜は初夜だ。
 ミエリーは頭の中で叔父や連絡が取れない両親への文句を並べ、不安を紛らわせた。
「ミエリー様、こちらです」
 公爵家がミエリーにつけてくれた侍女のファナが、一つの扉の前で立ち止まり、振り返った。
 牡丹の豪華なレリーフに彩られた重厚な扉を音も立てずに開くと、ファナはミエリーの背中をどんっと押した。
「え?」
 勢い踏み出してしまい、たたらを踏んだミエリーを残して、扉はばたんと閉じる。外からファナの「ごゆっくり」という声が聞こえた。
「ミエリー嬢?」
 声をかけられて、ミエリーはびくりと肩を震わせ、ゆっくりと室内に目を向けた。
 大きな長椅子に腰掛け、くつろいだ様子の当代ウェンズ公爵ロバート・ウェンズがいた。
 彼はまだ二十一歳。二年前に両親が亡くなり後を継いだのだそうだ。王太子とも親交が深く、次代の政治の一翼を担うだろうと目されていた。――だから心して振る舞うようにと、これも叔父から口酸っぱく言われた。
 到着時に挨拶したときに見た明るい金髪が、夜の室内では深みのある光沢を放つ。整った顔だけれど、険しい表情。鋭い視線を向けられて、ミエリーは慌てて頭を下げた。
「申し訳ありませんっ! 遅くなってしまいましたか?」
「いや? 特に君を待ってはいないが」
「でも、しょ……あの、結婚したので……」
「そうか、初夜か」
 ミエリーが言えなかった単語をロバートはあっさり口にする。
「初夜はしない」
「え?」
「ついでだから、話しておこう」
 驚くミエリーをロバートは招く。彼が座る長椅子以外に座れるところはなく、ミエリーは恐る恐るギリギリの端に小さくなって腰掛けた。
「そんなに怯えなくても、何もしない」
 ロバートは自嘲するように唇をゆがめた。
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