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 章は木下圭に合鍵を返させ、アパートに近付くと告発すると脅した。スマホとパソコンは章が調べて全ての画像を削除した後、復活できないように完全消去ソフトを使用した。ネット上のストレージにはアップロードしていないと圭は言い張ったが、章は信用していない。しかし、もし凪の画像が流出したら本気で殺すと脅したので流出させるような馬鹿な真似はしないだろうと章は思う。

 章が知らない髪の長い凪の裸を撮ったのかと思うと、今すぐにでも圭をくびり殺したいが、凪と別れることになってしまうので、脅すことしかできないのが悔しい。

 事務所で書類を作成するのでと、井上弁護士が圭を連れてアパートを出ていった。

「凪、ここの家具は処分していいか? あの男と暮らしていた物を家に入れたくない」
「安物ばかりだから大丈夫。大切なものもない」
 独り立ちをした時に貯めていたお年玉で買った十万円ほどの新生活セットは安物ばかり。あの高級マンションの部屋に持っていけるようなものは一つもない。高校までの思い出の品は実家に置いてある。この部屋にあるものは圭との生活の思い出ばかりだ。
「必要な物は車に載せて持って帰ろう。それ以外は業者に処分を頼むことにする。荷物整理が終わったら、凪の勤めていたスーパーへ行くぞ」

 部屋の整理はすぐに終わった。凪は服も下着も必要最低限のものしか持っていなかった。高級車のトランクに余裕で収まるほどだ。
 凪は本当に圭に捧げ尽くした二年間だったと思う。
「服も靴も俺が買ってやる。贅沢はできないけれどそれぐらいの金は持っているから遠慮しないで」
 荷物の少なさに凪の生活がどんなものだったか悟り、章はもっと凪を甘やかせて、好きなものを思い切り買ってやりたいと思った。今まで殆ど金を使っていない章は二百万円ほどの預金を持っている。今も少年のような服を着ている凪だが、女性らしい服装も見てみたいと章は思う。

「章、ありがとう。嬉しい」
 凪は贅沢するつもりは全くないが、章が凪に着飾らせる価値があると思ってくれていることが嬉しかった。


「関根さん、どうしたの?」
 凪の勤めているスーパーの店長は四十代の女性である。彼女は度々痣を作ってくる凪のことを心配していた。変な男と暮らしていることは店長も把握していたが私生活に踏み込めずに歯がゆい思いをしていたのだ。
 そんな時、泣きながら怪我をしたので休ませてほしいと電話してきた凪に、店長は実家にでも避難するようにと一ヶ月の休職扱いにしたが、実家に電話したところ、実家に戻っていないことが判明して心配していた。
「心配をおかけして申し訳ありません。この度結婚することになりまして退職したいと思い、手続きに来ました」
 世話になった店長に凪は深々と頭を下げた。
「結婚って、まさかあのDV男と?」
 店長は結婚と聞いてとても驚く。怪我をするぐらいに殴るような男と結婚するのかと心配した。
「違います。逃げている時に助けてくれたとても優しい人です。四歳も年下だけど頼りになる人なんです」
 凪は章を想って頬を染める。
「そう、幸せそうね。おめでとう」
 大柄な店長が凪を抱きしめると、凪の目から涙があふれた。
「ありがとうざいます」
「これは幸せの涙だと信じていいのね」
「はい。私は幸せになります」

 手が空いた同僚が事務所にやってきて凪を祝福した。その度に笑顔のまま涙を流す凪を皆が嬉しそうに見ていた。
いつも辛そうにしていた凪が幸せになることを同僚たちも心から祈った。


「凪、泣いている? 何か言われたのか?」
 スーパーの駐車場で待っていた章が、目に涙を溜めた凪を見て驚く。
「おめでとう、幸せになってねって言われた。それがとっても嬉しくて涙が止まらないの」
「俺との結婚が嬉しい?」
「うん。ものすごく嬉しい」
 凪が素直に答えるので章も嬉しくなり笑みをこぼした。


 夕方になりビジネスホテルにやってきた。
 フロントでの手続きは凪が行い、エレベータには別々に乗り込んだ。閉所で凪と二人きりになるとまだ緊張する章だったが、以前のようにパニックを起こすほどではなくなってきている。そのうち一緒にエレベータに乗ることができると章は思う。



 翌日、朝早くにホテルを出た二人は凪の実家に向かった。昼前には実家に着く予定だ。
「実家に帰るのは久し振りなの。今年のお正月に帰ったきりだからもうすぐ一年になるわね」
 嫉妬深い圭と暮らしていたので実家に帰ることもあまりできなかったが、正月には圭も実家に帰り不在だった。

 海沿いの道を章は自動車を走らせる。天気が良く道も混んでいないので快適なドライブだった。


 予定より早く十時には実家に着いた。
「ただいま」
 凪が大きな声で挨拶すると、中から凪の母親と祖父母が慌てて出てきた。
「凪、無事だったのね。店長さんからスーパーを休んでいると聞いて、凪に電話しても心配しなくていいと言うだけだったから、何があったのかと心配していたのよ」
 母親が息もせずに一気に喋った。三人とも凪の顔を見て心底安心したように大きく息をする。
「ごめんなさい。あのね、あの甲斐田章さんのところでお世話になっていたの。それで、章さんと結婚したくて」
 まだ外で待っている章を指さしながら凪が三人に説明した。それを聞いた三人は驚く。

「その男は凪が暮らしていた男とは違うんだな」
 祖父は凪がろくでもない男と暮らしているのを知っていた。一度凪のアパートまで確認しに行ったことがある。別れるように何度も凪に言い聞かせていたが凪は男を追い出すことができないようで悔しい思いをしていた。
「おじいちゃん、心配かけてごめん。あの男とはきっちりと別れたから」
 凪が微笑むと祖父も嬉しそうに笑った。

「とりあえず中に入ってもらいましょう」
 祖母が玄関を降りて章の腕を引こうとするが、小柄な老婆は本当に脆そうで章はパニックを起こして大きく息をしながら蹲ってしまった。
「おばあちゃん、駄目! 章は女性が苦手なの。とりあえず離れて」
 凪は祖父と話し込んでいたことを後悔する。
「こんなおばあちゃんでも女性扱いしてくれるのかい? 嬉しいね」
 なぜか祖母がとても機嫌がいい。

「ごめんね。章、大丈夫?」
 凪が声をかけると、章が顔を上げた。
「俺こそごめん。結婚の挨拶に来たのに格好悪いところ見せてしまった。もうしばらくしたら落ち着くから」
 凪の心配そうな顔を見て、章は自分の不甲斐なさに落ち込んでしまった。


 凪の家は二十坪ほどの小さな一軒家だ。一階には六畳のダイニングキッチンと八畳の祖父母の部屋。二階には六畳の部屋が二間。凪と母親がそれぞれ使っている。母親には兄と弟がいるが別に住んでいるのでこの家にはいない。

 八畳の部屋に置かれた座卓に向かい合うようにして祖父と章が座っている。女性陣は扉を開けたダイニングで椅子に腰掛けていた。

「俺が女性恐怖症だから、お母さんとお婆さんに近くで挨拶できなくて申し訳ありません。俺はこんな情けない男ですが、凪さんを絶対に幸せにします。どうか結婚を許して下さい」
 章は畳に頭をつけるようにして願い出る。
「甲斐田章さんと言ったか。どうか頭を上げてくれ。とても若く見えるが仕事はしているのか?」
 祖父は凪のアパートの転がり込んできていた男が学生で、凪に寄生するような生活をしていたのを知っている。そんな男ならば凪を結婚させたくはないと祖父は思っている。
「俺は働きながら高校へ通っています。今は一日七時間しか働いていませんが、来年の三月に卒業しますのでフルタイムで働けるようになります。贅沢はさせてやれませんが凪さんを食わすことはできます」
 顔を上げた章が再び頭を下げた。
「そうか。凪の身の丈には合っているな」
 凪の母親は条件のいい男性と結婚したと思ったら凪を連れて帰ってきた。高望みをしてもろくなことがないと祖父は思っている。その気持は祖母も母親も同じだった。

「凪も結婚を望んでいるのよね」
 母親は凪の様子から章を慕っているのは間違いないと思うが、確認のために訊いてみた。
「もちろん。章とずっと一緒に暮らしたい」
 帰省しても暗かった凪が笑顔を見せたことが母親には嬉しかった。
「章さん、どうか不束かな娘ですがよろしくお願いします」
 母親が章に頭を下げたことを凪は驚いた。父親の悪口ばかり言っていた母親は、父の血を引く凪のことも嫌っていると思っていた。
「お母さん、ごめんなさい」
 誤解していたことを謝る凪を母は笑顔で見ていた。
「謝ることなんて何もないでしょう? お母さんの分も幸せにならないとね」
 母親がそう言うと凪の目から涙があふれてくる。


「凪、めでたい日なんだから泣くな。そうだ、昼飯を作ってくれ。凪は料理が上手いんだ」
 祖父は自慢げに章を見た。
「知っています。俺、凪の作る飯は世界一だと思っていますから」
 章はもっと自慢げに笑った。

「章君、俺もな製材所で懸命に働いて、小さいけれど家を建てて子どもを三人も育てたんだ。こんな世の中になっても、いや、こんな世の中だからこそ、ものを実際に作るやつがいるんだよな。立派な仕事だよ」
「ありがとうございます。俺も今の仕事が大好きです」
 祖父は章のことが気に入ったらしく、とても機嫌がいい。
「昼間だが飲もう。金箔入の酒があっただろう。あれを開けよう」
「駄目よ。章は未成年なんだから、飲ませたりしたら許しません」
 凪が祖父の言葉を聞きつけて止めに入る。
 関根家では久し振りに笑い声が響いていた。



 昼食と夕食の凪の料理を堪能した章は、凪の部屋で休むことになった。凪は母親と一緒に寝ることにする。

 章は凪の高校のアルバムを見つけて、凪の制服姿の写真をスマホで撮影した。圭が知らない凪を知ることができて章は満足だった。

「凪、章君はあんなに女性を怖がっているけれど、赤ちゃんはできそうなの?」
 母親がじっと見ていても章は明らかに凪との接触を避けていた。これで夫婦生活が成り立つのか心配になっていた。
「だ、大丈夫よ。結婚したら避妊を止めるから」
 真っ赤になってそう言う凪を見て、もうすぐ孫に会うことができると母親は一安心した。

「ねえ、お母さん。お父さんとの生活は辛いことばかりだった?」
 五年で破綻したとはいえ結婚の先輩である母親に訊いてみたいと凪は思った。凪がこの家に住んでいたのは高校生まで。夫婦の生々しい話を避けていたのは、若さゆえに潔癖だった凪の方だ。
「あの人はね、私が務めていた支社に本社からやって来たエリートだった。私の方からアタックして結婚にこぎつけたの。しばらくは幸せだった。でもね、あの人は田舎の製材所勤務の娘を本心では馬鹿にしていた。本社に戻って実家に住むようになると、義母に虐められても放っておかれたの。姑と仲良くするぐらいの才覚もないのかって。義父も義母も私のことが気に食わないのが明らかだった。凪が産まれても針のむしろ状態でね、そのうちあの人が本社の部下と浮気をしているのがわかって、もう耐えることはできないと逃げ帰った。高望みなんてするもんじゃないと思うわ。凪は堅実な人を見つけたと思う。幸せになってね」
 章はものすごく良い家の息子で、いくらするのか想像もつかないような高級マンションに住んでいると言ったら心配かけると思うと、凪は黙っていることにした。章が言った勤労高校生だというのも嘘ではないと凪は自分に言い聞かせる。


 翌日章と凪はあの広いマンションへ帰ることになった。
「俺、成人したら凪を連れて来ますから、その時は一緒に飲んでください」
 そう章が伝えると、祖父は嬉しそうに何度も頷いた。
「待っているからな。絶対に帰ってこい」
 家族総出で見送られ二人は帰路につく。


「いい家族だな」
 運転しながら章が後部座席の凪に声をかけた。
「田舎者で恥ずかしい」
 凪がそう言うと
「凪が優しいのも家族に愛されて育ったからだ。恥ずかしがることなんて何もないと思う」
 章が否定した。凪はそれが嬉しかった。

「章、私たち幸せになりましょうね」
「凪、もちろんだ。凪と結婚して幸せにならないはずはない」
 章の自信にあふれた声を聞いて、凪もその通りだと思った。
 章の運転する車は幸せな生活に向かって走っていく。
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