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5話  仕事の話 Confusion

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  意識を取り戻す。あたりの様子を見る。
 どうやら僕はベッドにいて、ここは学校の医務室らしい。推理するに、講義中に卒倒して運びこまれた……というわけだろう。

 おそるおそる体を動かす。どう考えても人間のものだ、安心を覚える。
 まったく、最近いったいなんなんだ? いきなり虫になったり、人間に戻ったり。わけのわからないことだらけ。ひょっとして精神を病みつつあるのだろうか?

 部屋の外からは相変わらずセミの鳴き声がしてくる。ミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンうるせぇんだよ!
 クソッタレ、夢の世界じゃ幼虫として悩み、現実世界じゃこうして成虫に悩まされる。逃げ場なしの完全包囲態勢ってわけか。殺すつもり?

 何もかもぶっ壊してやりたくなるような怒りがこみあげてくる。しかし理性がささやく。「落ち着け、そんなことをしてもしょうがないだろう」。
 わかっているさ。今はちょっと気分が悪いだけ、暑さとストレスで参っているだけだ。状態が良くなればいつも通りの冷静で温和な自分に戻れる。

 壁の時計を見る限り、今の時間の講義はもう半分以上が終わってしまっている。それに、無理して途中参加してまた倒れてもしょうがない。
 だったら今日の残りはすべて休養にあててしまおう。そうだ、それがいい。安全と健康が第一だ。

 さしあたっての方針が決まったおかげで気が楽になる。このまましばらくボーっとしていよう。
 そのうち看護の職員さんが様子を見にくる。そしたらお暇させていただくか。



 約一時間が過ぎた。今は学内の中庭のベンチでぼんやりしている。
 ここでもセミが鳴いている。ミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミンミン。もはや怒る気にもなれない。

 今どれだけのセミがこのあたりにいるのだろう。わからんが、100にせよ200にせよ、それだけの成虫のセミたちが誕生するまでに30とか50とかたくさんの幼虫たちが死んでいる。
 僕が知らないだけで、ここらにも羽化失敗でくたばった奴らがいるのだ。もちろん羽化以前にモグラに食われたりとかそういうのもいる。

 世界はハムレットよりひどくって、あれに出てきたよりはるかに多くの死体がうじゃうじゃそのへんに転がってるのだ。
 そしていつかは僕もそれらの仲間入り。滅入るね……クソッタレ。

 いきなり誰かが背後から声をかけてくる。

「甲斐、どうしたんだ、こんな時間にこんなとこで?」

 振り向く。ゼミの武田先輩だ。長身で筋肉質の男性で、困ったことがあると勉強でもそれ以外でもあれこれ相談に乗ってくれる。
 先輩は僕の横へときて腰を下ろし、話を続けてくる。

「今は確か必修科目の講義があるんじゃなかったか?」
「えぇ、そうなんです。でもちょっと事情があって……」
「どうした?」
「いやまぁ、大した事じゃないんです。それより、先輩こそなんでここに? 就活はどうしたんですか」
「予定が急に変わってさ。やることもないし、ブラブラしてた」

 言って、先輩はバッグからプラスチック・ボトルを出してぐびぐび飲む。

「それ、なんですか?」
「梨ジュース」
「どうです?」
「まぁ不味いね。買って損した」

 まったく不味そうには見えない顔でそうコメントすると、先輩は新たな話題を切り出してくる。

「どうなの、最近? 勉強はうまくいってんのか?」
「えぇ、まぁ……」
「いいじゃん。俺なんて滅茶苦茶よ、どこの会社いってもお祈りメール」
「きついですね」
「なにせこういう世の中だからな。当然っちゃぁ当然よ。正直もう諦めちゃおうかと思ってさ」
「諦める?」
「前に言わなかったっけ? 俺の実家は酒屋なんだよ。無理して都会で就職せんでもさ、家業を継ぐのもありじゃねーかって……」
「でも先輩はそれでいいんですか?」
「良かぁねぇよ。しかし無職で生きてくよりかはずっといい」
「まぁわかりますけど……」
「生きるからには金が要る、金を稼ぐには仕事が要る。たとえ嫌な仕事だろうと生きるためにはやるしかねぇ。
 そういうこと考えたらよ、少なくとも酒屋は俺にとって嫌な仕事じゃねぇんだ。だったら継いでみようかって気にもなる」
「はい」
「なぁ、甲斐。前からちょっと聞いてみたかったんだが、お前はなんの仕事に就くつもりだ?」

 仕事。苦手な話題だ。しかし避けては通れないだろう。無難に行くしかない。

「あの……英語関係の仕事に就きたいと思って」
「たとえば?」
「翻訳の仕事ができたらなって思うんです。でもすごく難しいって知り合いが言うんですよ。英検一級とった程度じゃあぜんぜん太刀打ちできないって」
「なるほど」
「まぁ別に翻訳でなくてもいいんです。通訳でもいいし、家庭教師でもいい。大事なのは英語と関わりがあるって部分で……」
「それだったらね、もっと細かい部分まで具体的に決めちゃったほうがいいよ。曖昧はよくない」
「でもどうしたらいいかわかんないんですよ……。だって、僕より英語できる人なんて腐るほどいるわけです。
 もし英語の実力を頼りに生きるなら、そういう格上を相手に戦ってかなくちゃいけない。
 その自信が持てなくて……」
「別に無理して戦わなくてもいんじゃねーの? さっき家庭教師っていってたけど、そういう方向でぜんぜんいいじゃん。
 たとえばさ、将棋を教えることはプロの将棋指しでなくともできるわけだ。一定レベルの知識と実力があれば問題ない。
 世の中の将棋教室の先生みんながプロと互角の腕前ってわけじゃないだろう」
「そりゃあわかりますよ。とはいえ、その一定レベルに自分がたどり着けるかも自信なくて……」
「はは! そいつぁーちょっと弱気すぎじゃね? 心配せずともお前ならぜんぜん大丈夫だと思うけど」
「そうなんでしょうか……」
「人生、気合いだ! 強気強気でいくんだよ! 自信もてって、お前ならやれるから」
「はい」

 突如、先輩のズボンのポケットで何かがブルブル震えだす。それに反応して先輩は言う。

「やべぇ、時間だわ」
「どうしたんですか?」
「これから医者の予定でさ。忘れないようにタイマーしたんだ」
「あー、なるほど」
「悪ぃ、そういうわけだからもういくわ」
「お疲れ様です」
「おう、お疲れ」

 先輩はどこかへと去っていく。
 気づけばそろそろ日没間近だ。僕も帰宅せねばならんだろう。ベンチから腰を上げる。とりあえず駅まで歩くとしよう。
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