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第10章 この社会を革命するために 後編
第157話 口をつぐんで見て見ぬふりをしろ Crime against yourself
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会議はなおも続いたが、その詳細について述べることはしない。
梅下が最後に「この戦争をしっかりコントロールするよう各員なお努力せよ」と訓示して終わったことを記せば十分だろう。
それから治は仕事に戻り、定時に切り上げて帰宅の途についた。この忙しい時期に残業がなかったのは嬉しいが、しかしそれでも憂うつな気持ちだ。
電車に乗り、席に座って彼は思う。自分はこんな薄汚い商売をなおも続けていいのか、と。
ゲームで儲けること自体は別に悪いことではない。問題はそこではなく、客を騙すようなやり方が悪いのだ。
それともう一つ、客をわざと争わせて憎ませ、その負の感情を利用して儲けることも悪いことだと彼は感じている。
彼が子どもの頃から愛したゲームとは、このような娯楽だっただろうか。いや、違う。もっと健全で穏やかだったはずだ。
しかしいつの間にかこんなものに変わり果てた。そして自分は、こういったことにこれだけ嫌悪の情を抱いていながら、それでも離れられずにいる。
カバンから『ライ麦畑でつかまえて』を取り出し、ページを広げながら思う。どうにか事態を打開できないだろうか、と。
次にこう想像する。もし世間の人々が運営のインチキを知ったら、つまり、エージェントの裏工作のような不義不正を知ったら、さて、どうなるだろう?
凄まじい非難がチェスナット社に浴びせられることはすぐわかる。それに、プラネットのプレイヤー達から猛抗議が寄せられることも間違いない。
やがて愛想をつかした客が逃げ、業績が下がり、連動して株価も下がり、そのうち投資家たちもいなくなり、社は存続の危機に立たされる。
こうなれば物事は必ず良い方向に変わるはずだ。顧客の信頼を取り戻すためにチェスナット社は謝罪し、二度とインチキを行わないことを宣言するだろう。
そして自分はこのような変化を起こせる立場にいる。なぜなら、自分が知っている情報すべてをリークすれば、事態はきっとこのような展開を辿るはずだからだ。
治は全てをリークしたいと心の底から思う。だがもし実行すればただではすまない。間違いなく失職するし、ゲーム関連の仕事にも二度と就けなくなる。
それだけではない。リークはチェスナット社に大損害を与えるのだから、企業の保護者たるLMがそれに”怒る”こともすぐ予想がつく。すなわち暗殺による死だ。
そういった凄まじいリスクを背負ってでもリークする覚悟が自分にはあるのか? やはりそんなことはせず、見て見ぬふりを貫くのがベストじゃないか?
ものごとが良くなるも悪くなるも自分の決心ひとつにかかっている。そんな状況の中、じゃあ自分はどうしたらいいのだろう。いったいなにが名案だ?
迷いながら『ライ麦』を読んでいく。お気に入りの場面にたどり着く。
(引用1)(後で作者注を参照のこと)
”そこへ行ってどうするかというと、僕は唖でつんぼの人間のふりをしようと考えたんだ。そうすれば、誰とも無益なばからしい会話をしなくてすむからね。”
素晴らしい! まさに名案だ。
唖でつんぼの人間、すなわち、口がきけないし耳も聞こえないという存在になれば、ちょっとした会話をするのもすごく大変に違いない。
ならば「会話は必要最低限にとどめておこう、苦労してまで無駄話をするのはやめよう」と思うに違いないし、そしたらリークしたいなんて気持ちもなくなる。
そうだ、これでいこう。たとえ世の中や仕事に不満があるとしても、それを喋って殺されるくらいなら、耳と目を閉じて口をつぐんで孤独に生きた方がマシだ。
いずれ誰かがトラブルを解決してくれる。だったらなにも自分が苦労してリークする必要はない。
見て見ぬふりで生きていくのが賢い大人のやり方なんだ。治は自身にそう言い聞かせる。だが心のどこかで誰かの声がする。それはこう叫んでいる。
「自分に嘘をつくな! それは最大の罪だ!」
ずっと昔に読んだイマニュエル・カントの『道徳哲学』に出てくる言葉が蘇ってくる。
(引用2、原文が長いためにその一部を省略)(後で作者注を参照のこと)
”……人間の自己自身に対する義務の最大の毀損は真実の反対、すなわち虚言(中略)である。”
もしかして今の自分は、リークを諦めることでなにか大切なものを失おうとしているのだろうか。
こみあげてくる不安をねじ伏せるべく、なおも言い聞かせる。これでいいんだ。これでいい。見て見ぬふりを貫け。
引用1:
『ライ麦畑でつかまえて』
白水ブックス
著者 J・D・サリンジャー
訳者 野崎孝
ページ 308
発行所 白水社
2008年3月20日 第107刷
作者注:
この引用文の中には差別的な表現が含まれていますが、原文に忠実に引くことが大事と考え、そのまま書き記しました。
障害者への差別を助長する考えは私にはまったくないことを、この場において強く主張したく存じます。
引用2:
『道徳哲学』
岩波文庫
著者 イマニュエル・カント
訳者 白井成允、小倉貞秀
ページ 89と90
発行所 岩波書店
1998年11月6日 第28刷
引用文の完全なる形
”単に道徳的存在者(自己の人格の内の人間性)と見られた人間の自己自身に対する義務の最大の毀損は真実の反対、
すなわち虚言(aliud lingua promtum, aliud pectore inclusum gerere. 舌に上すことと胸の内に秘むることとは別なり)である。”
作者注:
原文の漢字表記はこれと少し違っていて、古い時代によく使われていた、画数の多い文字です。
今の時代においては読みづらいと判断したため、やむを得ず簡素な形の同じ文字に書き換えました。
梅下が最後に「この戦争をしっかりコントロールするよう各員なお努力せよ」と訓示して終わったことを記せば十分だろう。
それから治は仕事に戻り、定時に切り上げて帰宅の途についた。この忙しい時期に残業がなかったのは嬉しいが、しかしそれでも憂うつな気持ちだ。
電車に乗り、席に座って彼は思う。自分はこんな薄汚い商売をなおも続けていいのか、と。
ゲームで儲けること自体は別に悪いことではない。問題はそこではなく、客を騙すようなやり方が悪いのだ。
それともう一つ、客をわざと争わせて憎ませ、その負の感情を利用して儲けることも悪いことだと彼は感じている。
彼が子どもの頃から愛したゲームとは、このような娯楽だっただろうか。いや、違う。もっと健全で穏やかだったはずだ。
しかしいつの間にかこんなものに変わり果てた。そして自分は、こういったことにこれだけ嫌悪の情を抱いていながら、それでも離れられずにいる。
カバンから『ライ麦畑でつかまえて』を取り出し、ページを広げながら思う。どうにか事態を打開できないだろうか、と。
次にこう想像する。もし世間の人々が運営のインチキを知ったら、つまり、エージェントの裏工作のような不義不正を知ったら、さて、どうなるだろう?
凄まじい非難がチェスナット社に浴びせられることはすぐわかる。それに、プラネットのプレイヤー達から猛抗議が寄せられることも間違いない。
やがて愛想をつかした客が逃げ、業績が下がり、連動して株価も下がり、そのうち投資家たちもいなくなり、社は存続の危機に立たされる。
こうなれば物事は必ず良い方向に変わるはずだ。顧客の信頼を取り戻すためにチェスナット社は謝罪し、二度とインチキを行わないことを宣言するだろう。
そして自分はこのような変化を起こせる立場にいる。なぜなら、自分が知っている情報すべてをリークすれば、事態はきっとこのような展開を辿るはずだからだ。
治は全てをリークしたいと心の底から思う。だがもし実行すればただではすまない。間違いなく失職するし、ゲーム関連の仕事にも二度と就けなくなる。
それだけではない。リークはチェスナット社に大損害を与えるのだから、企業の保護者たるLMがそれに”怒る”こともすぐ予想がつく。すなわち暗殺による死だ。
そういった凄まじいリスクを背負ってでもリークする覚悟が自分にはあるのか? やはりそんなことはせず、見て見ぬふりを貫くのがベストじゃないか?
ものごとが良くなるも悪くなるも自分の決心ひとつにかかっている。そんな状況の中、じゃあ自分はどうしたらいいのだろう。いったいなにが名案だ?
迷いながら『ライ麦』を読んでいく。お気に入りの場面にたどり着く。
(引用1)(後で作者注を参照のこと)
”そこへ行ってどうするかというと、僕は唖でつんぼの人間のふりをしようと考えたんだ。そうすれば、誰とも無益なばからしい会話をしなくてすむからね。”
素晴らしい! まさに名案だ。
唖でつんぼの人間、すなわち、口がきけないし耳も聞こえないという存在になれば、ちょっとした会話をするのもすごく大変に違いない。
ならば「会話は必要最低限にとどめておこう、苦労してまで無駄話をするのはやめよう」と思うに違いないし、そしたらリークしたいなんて気持ちもなくなる。
そうだ、これでいこう。たとえ世の中や仕事に不満があるとしても、それを喋って殺されるくらいなら、耳と目を閉じて口をつぐんで孤独に生きた方がマシだ。
いずれ誰かがトラブルを解決してくれる。だったらなにも自分が苦労してリークする必要はない。
見て見ぬふりで生きていくのが賢い大人のやり方なんだ。治は自身にそう言い聞かせる。だが心のどこかで誰かの声がする。それはこう叫んでいる。
「自分に嘘をつくな! それは最大の罪だ!」
ずっと昔に読んだイマニュエル・カントの『道徳哲学』に出てくる言葉が蘇ってくる。
(引用2、原文が長いためにその一部を省略)(後で作者注を参照のこと)
”……人間の自己自身に対する義務の最大の毀損は真実の反対、すなわち虚言(中略)である。”
もしかして今の自分は、リークを諦めることでなにか大切なものを失おうとしているのだろうか。
こみあげてくる不安をねじ伏せるべく、なおも言い聞かせる。これでいいんだ。これでいい。見て見ぬふりを貫け。
引用1:
『ライ麦畑でつかまえて』
白水ブックス
著者 J・D・サリンジャー
訳者 野崎孝
ページ 308
発行所 白水社
2008年3月20日 第107刷
作者注:
この引用文の中には差別的な表現が含まれていますが、原文に忠実に引くことが大事と考え、そのまま書き記しました。
障害者への差別を助長する考えは私にはまったくないことを、この場において強く主張したく存じます。
引用2:
『道徳哲学』
岩波文庫
著者 イマニュエル・カント
訳者 白井成允、小倉貞秀
ページ 89と90
発行所 岩波書店
1998年11月6日 第28刷
引用文の完全なる形
”単に道徳的存在者(自己の人格の内の人間性)と見られた人間の自己自身に対する義務の最大の毀損は真実の反対、
すなわち虚言(aliud lingua promtum, aliud pectore inclusum gerere. 舌に上すことと胸の内に秘むることとは別なり)である。”
作者注:
原文の漢字表記はこれと少し違っていて、古い時代によく使われていた、画数の多い文字です。
今の時代においては読みづらいと判断したため、やむを得ず簡素な形の同じ文字に書き換えました。
応援ありがとうございます!
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