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異世界に吸い込まれる
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まず初めに感じたのは寒さだった。
まったりと堕落した日々を謳歌したゴールデンウイークが明けてはや半月、昼間の気温が25度を超える日も続いていたのに、今は真冬のように寒い。
ワイシャツにネクタイという薄着だった信之は、ふるりと震えると温めるように両の腕を撫で摩りながら辺りを見回した。
白いつるりとした石の柱と回廊に囲まれてはいるものの、中庭のようになっているのか周囲は芝生が植っており、少し離れた場所には立派な大樹が青々と茂った葉を風に揺らしていた。
平凡なサラリーマンである信之の日常からはかけ離れた、全く見覚えの無い風景である。
「ここは…どこなんだ?」
思わず呆然と呟くと、応えるように背後から「わかりません」と声が上がった。
1人だと思っていた信之の心臓が驚きで跳ね上がる。ばっと勢いよく振り返ると、信之の背後で一人の青年が周囲を見回している。ゆるく癖のある黒髪にシルバーフレームの眼鏡をかけた彼もまた、薄手の長袖シャツ一枚という格好で、寒そうに身を縮めていた。
「俺、午後から大学の講義があるから、駅前の交差点にいたはずですが…」
そう続けながら立ち上がった青年が、座り込んだ信之に手を伸ばす。引っ張り起こそうとしてくれているのだろう。しかし触れ合う直前にフラッシュバックの様に頭に記憶が甦って、信之は思わず青年に捕まろうと伸ばした手を引っ込めた。
駅前の交差点。
そう、駅前の交差点に信之は確かに立っていた。いつもは出社前に昼食を買うのだが、寝坊した今日は昼休みに会社を抜け出し、大通りを挟んで社屋の向かい側にあるビルに入っているチェーン店に弁当を買いに行ったのだ。
美味いと評判の焼肉弁当の入ったビニル袋をぶら下げ、信号待ちに街頭ビジョンに映るアイドルの新曲リリースのプロモーション映像を眺めていたら。そうしたら。
「ああぁっ」
信之は頭を抱え、くしゃりと髪の毛を握りしめる。寒さのせいだけでは無く、がくがくと身体が震えた。じわりと額に汗が滲む。
街頭ビジョンを眺めていたり、携帯を触っていたりと様々だったが、確かあの交差点では数人の男女が信号待ちをしていた。
信之は午後からの打ち合わせの事を考えながらボーッと歌って踊るアイドルを眺めていたのだが、視界の端にいた青年が急に不自然な動きで消えた事で我に帰った。
女性の悲鳴と、『助けて』と救援を求める声。視線を向けると、地面にポッカリと口を開けた真っ黒な穴に引き摺り込まれようとしていた。必死にガードレールのポールを掴む左手は白くなる程力が入っており、右手は喘ぐように空を切る。あっという間に青年は顔半分まで黒い穴に沈み込んでいた。
『誰かっ』という悲痛な声に、咄嗟に焼肉弁当を放り投げて駆け寄り、伸ばされた青年の右手を掴んで。
「…思い、出した」
ポタポタと額から垂れた汗がスラックスに染みをつける。
様子の変わった信之に、青年が慌てて側に蹲み込み、宥める様に信之の背を撫でた。
「大丈夫ですか?落ち着いて」
「これが落ち着いていられるか?!」
ばっと顔を上げると、信之は青年を睨みつける。この青年は、あの時、穴に引き摺られようとしていた男だ。
自身でも荒唐無稽だと思うが、青年を助けようと手を握ったまま、信之もまた真っ黒な穴に落っこちたのだ。
そして今、青年と共に見知らぬ場所にいる。
「いったい、どうなっているんだ?ここはどこだ?一瞬で季節まで変わって…」
立ち上がる気力も無く、綺麗に整えられた芝生にがくりと両手をついて項垂れる。
信之が動かないと判断したのか、青年もどかりと芝生に座り込み胡座をかいた。改めて周囲を見回して「異世界にでも来たみたいですね」と呟く。
ふざけているとしか思えない青年の発言に、信之は反論しようと口を開きかけたが、現実離れした今の状況に何も言えず、結局口を閉じた。
一瞬のうちに、場所も季節も変わってしまったのだ。どんなに考えても現実的な答えは思い浮かばない。
「あの、お兄さん。とりあえず自己紹介しませんか?俺、前田春馬です」
萎れた信之の肩をトントンと叩き、重い空気を吹き飛ばすように青年ーー春馬はにこりと笑った。
「はぁ?なに呑気な事を…っ」
「いいじゃないですか、悩んでも答えなんて出ないですし。お兄さんがあんま取り乱すから逆になんか落ち着いちゃいました、俺。だから、ね、お兄さん名前は?いくつですか?俺は21歳です」
「…」
にこにこ。邪気なんて感じない春馬の笑みに僅かに肩から力が抜ける。確かに、この場でぐだぐだ悩み続けたところでこの状況が変わるわけでは無いのだ。
「ああぁっくそっ」
邪念を払うようにブンブン頭を振って、グッと顔を上げた。突然激しく動いた信之に驚いて目を見開く春馬をじっと見据える。
「俺は、菅野信之。29歳。しがないサラリーマンだよ」
未だに状況が理解できなくて不安であるし、寒いからか手は震える。背中にはじっとり汗が滲んでる気もする。しかしだ。
「…前田君も不安だろうに、俺ばかり変に取り乱して悪かった。とりあえず他に誰か人がいないか探しに行こう」
余裕そうに見える春馬もまた、僅かに震えていた。10歳近く年下の学生に気遣われた事を恥じて軽く頭を下げると、信之は笑いそうになる膝に力を入れてゆっくり立ち上がる。
つられるように今度こそ春馬も立ち上がった。
「前田君も、心当たりが無いんだよな?」
「無いですねぇ。あの扉、どれかが外に繋がってたりするんでしょうか?適当に開けてみます?」
信之の問いに軽く頷くと、春馬は回廊の壁に等間隔でいくつかならんだ木製の扉を指差す。
染み一つない白亜の壁に嵌め込まれた扉はどれも緻密な彫刻で装飾されており、どれも全く同じデザインであった。嵌め込みのガラスなども無い一枚板であるため、扉の向こうが明るいのか暗いのかすら判断できない。
扉の先がまた真っ暗な穴のようになっていたら?何か此方に危害を加える様なものがいたら?そう考えると信之は一歩踏み出す事に一瞬躊躇った。しかし、何度も辺りを見回してみても信之達が立つ中庭を囲む様な回廊と聳え立つ大樹以外には何も無い。
ごくりと生唾を飲み込むと、信之は隣に立つ春馬を見遣る。
「真正面の扉を…開けてみる」
危ないから前田君はここで待っていて、と言いおくと、信之はままよとばかりにぐっと拳を握り、ちょうど正面にある扉に向かって足を踏み出した。
一歩、また一歩。革靴が青々とした芝生を踏みつける。たった数十歩の距離にある扉が酷く遠く感じる。緊張で滲んだ汗がたまとなり、つっと背中を一筋、伝ったのを感じた。
「ちょ、ちょちょ、菅野さんちょっと待ってください」
慌てた様子で春馬が信之を追い、腕を掴んで静止する。決死の行動を阻まれた信之が、ややムッとした面持ちで春馬を振り返った。
文句の一つも言ってやろうと信之が、口を開きかけたその時。
「お待ちしておりました、聖者様!」
よく通る男性の声と共に、今まさに信之が開けんとしていた木製の扉がバンと勢いよく開いた。
まったりと堕落した日々を謳歌したゴールデンウイークが明けてはや半月、昼間の気温が25度を超える日も続いていたのに、今は真冬のように寒い。
ワイシャツにネクタイという薄着だった信之は、ふるりと震えると温めるように両の腕を撫で摩りながら辺りを見回した。
白いつるりとした石の柱と回廊に囲まれてはいるものの、中庭のようになっているのか周囲は芝生が植っており、少し離れた場所には立派な大樹が青々と茂った葉を風に揺らしていた。
平凡なサラリーマンである信之の日常からはかけ離れた、全く見覚えの無い風景である。
「ここは…どこなんだ?」
思わず呆然と呟くと、応えるように背後から「わかりません」と声が上がった。
1人だと思っていた信之の心臓が驚きで跳ね上がる。ばっと勢いよく振り返ると、信之の背後で一人の青年が周囲を見回している。ゆるく癖のある黒髪にシルバーフレームの眼鏡をかけた彼もまた、薄手の長袖シャツ一枚という格好で、寒そうに身を縮めていた。
「俺、午後から大学の講義があるから、駅前の交差点にいたはずですが…」
そう続けながら立ち上がった青年が、座り込んだ信之に手を伸ばす。引っ張り起こそうとしてくれているのだろう。しかし触れ合う直前にフラッシュバックの様に頭に記憶が甦って、信之は思わず青年に捕まろうと伸ばした手を引っ込めた。
駅前の交差点。
そう、駅前の交差点に信之は確かに立っていた。いつもは出社前に昼食を買うのだが、寝坊した今日は昼休みに会社を抜け出し、大通りを挟んで社屋の向かい側にあるビルに入っているチェーン店に弁当を買いに行ったのだ。
美味いと評判の焼肉弁当の入ったビニル袋をぶら下げ、信号待ちに街頭ビジョンに映るアイドルの新曲リリースのプロモーション映像を眺めていたら。そうしたら。
「ああぁっ」
信之は頭を抱え、くしゃりと髪の毛を握りしめる。寒さのせいだけでは無く、がくがくと身体が震えた。じわりと額に汗が滲む。
街頭ビジョンを眺めていたり、携帯を触っていたりと様々だったが、確かあの交差点では数人の男女が信号待ちをしていた。
信之は午後からの打ち合わせの事を考えながらボーッと歌って踊るアイドルを眺めていたのだが、視界の端にいた青年が急に不自然な動きで消えた事で我に帰った。
女性の悲鳴と、『助けて』と救援を求める声。視線を向けると、地面にポッカリと口を開けた真っ黒な穴に引き摺り込まれようとしていた。必死にガードレールのポールを掴む左手は白くなる程力が入っており、右手は喘ぐように空を切る。あっという間に青年は顔半分まで黒い穴に沈み込んでいた。
『誰かっ』という悲痛な声に、咄嗟に焼肉弁当を放り投げて駆け寄り、伸ばされた青年の右手を掴んで。
「…思い、出した」
ポタポタと額から垂れた汗がスラックスに染みをつける。
様子の変わった信之に、青年が慌てて側に蹲み込み、宥める様に信之の背を撫でた。
「大丈夫ですか?落ち着いて」
「これが落ち着いていられるか?!」
ばっと顔を上げると、信之は青年を睨みつける。この青年は、あの時、穴に引き摺られようとしていた男だ。
自身でも荒唐無稽だと思うが、青年を助けようと手を握ったまま、信之もまた真っ黒な穴に落っこちたのだ。
そして今、青年と共に見知らぬ場所にいる。
「いったい、どうなっているんだ?ここはどこだ?一瞬で季節まで変わって…」
立ち上がる気力も無く、綺麗に整えられた芝生にがくりと両手をついて項垂れる。
信之が動かないと判断したのか、青年もどかりと芝生に座り込み胡座をかいた。改めて周囲を見回して「異世界にでも来たみたいですね」と呟く。
ふざけているとしか思えない青年の発言に、信之は反論しようと口を開きかけたが、現実離れした今の状況に何も言えず、結局口を閉じた。
一瞬のうちに、場所も季節も変わってしまったのだ。どんなに考えても現実的な答えは思い浮かばない。
「あの、お兄さん。とりあえず自己紹介しませんか?俺、前田春馬です」
萎れた信之の肩をトントンと叩き、重い空気を吹き飛ばすように青年ーー春馬はにこりと笑った。
「はぁ?なに呑気な事を…っ」
「いいじゃないですか、悩んでも答えなんて出ないですし。お兄さんがあんま取り乱すから逆になんか落ち着いちゃいました、俺。だから、ね、お兄さん名前は?いくつですか?俺は21歳です」
「…」
にこにこ。邪気なんて感じない春馬の笑みに僅かに肩から力が抜ける。確かに、この場でぐだぐだ悩み続けたところでこの状況が変わるわけでは無いのだ。
「ああぁっくそっ」
邪念を払うようにブンブン頭を振って、グッと顔を上げた。突然激しく動いた信之に驚いて目を見開く春馬をじっと見据える。
「俺は、菅野信之。29歳。しがないサラリーマンだよ」
未だに状況が理解できなくて不安であるし、寒いからか手は震える。背中にはじっとり汗が滲んでる気もする。しかしだ。
「…前田君も不安だろうに、俺ばかり変に取り乱して悪かった。とりあえず他に誰か人がいないか探しに行こう」
余裕そうに見える春馬もまた、僅かに震えていた。10歳近く年下の学生に気遣われた事を恥じて軽く頭を下げると、信之は笑いそうになる膝に力を入れてゆっくり立ち上がる。
つられるように今度こそ春馬も立ち上がった。
「前田君も、心当たりが無いんだよな?」
「無いですねぇ。あの扉、どれかが外に繋がってたりするんでしょうか?適当に開けてみます?」
信之の問いに軽く頷くと、春馬は回廊の壁に等間隔でいくつかならんだ木製の扉を指差す。
染み一つない白亜の壁に嵌め込まれた扉はどれも緻密な彫刻で装飾されており、どれも全く同じデザインであった。嵌め込みのガラスなども無い一枚板であるため、扉の向こうが明るいのか暗いのかすら判断できない。
扉の先がまた真っ暗な穴のようになっていたら?何か此方に危害を加える様なものがいたら?そう考えると信之は一歩踏み出す事に一瞬躊躇った。しかし、何度も辺りを見回してみても信之達が立つ中庭を囲む様な回廊と聳え立つ大樹以外には何も無い。
ごくりと生唾を飲み込むと、信之は隣に立つ春馬を見遣る。
「真正面の扉を…開けてみる」
危ないから前田君はここで待っていて、と言いおくと、信之はままよとばかりにぐっと拳を握り、ちょうど正面にある扉に向かって足を踏み出した。
一歩、また一歩。革靴が青々とした芝生を踏みつける。たった数十歩の距離にある扉が酷く遠く感じる。緊張で滲んだ汗がたまとなり、つっと背中を一筋、伝ったのを感じた。
「ちょ、ちょちょ、菅野さんちょっと待ってください」
慌てた様子で春馬が信之を追い、腕を掴んで静止する。決死の行動を阻まれた信之が、ややムッとした面持ちで春馬を振り返った。
文句の一つも言ってやろうと信之が、口を開きかけたその時。
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