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第8章「聖なる森」
第88話「自由への道」
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(UnsplashのAnastasia Anastasiaが撮影)
「ふ……ひ……」
薄暗い天幕の中で、股間を頑丈な革靴で踏みつけられたザロ伯は白目をむいて倒れている。
無意識のうちに、下腹部を血だらけの手でおおっているが、下半身はひくひくと痙攣している。
トーヴも蒼白な顔で、必死に身を固くして天幕のすみに座り込んだ。
座り込んだとはいえ、何もしていないわけでは、ない。
恐怖と興奮で真っ白な顔になりつつも、トーヴは冷静に辺境伯の呼吸を数えていた。
「いち……に………さん……だんだん遅くなっている……失神しているんだわ」
辺境伯の呼吸は、最初の嵐のような激しさから、ゆるく落ち着いてきた。
かなり深く気を失ったようだ。
トーヴはちらりとザロが下腹部を覆っている右手を見た。まだ短剣が刺さっている。
しだいにトーヴの両目に力がもどってきた。
短剣が欲しいのだ。
今度こそ、自分の身を守るために。
そっと辺境伯に近づくと、短剣に手を伸ばす。
片手で引き抜こうとするが思った以上に深く刺さっているようだ。おそるおそる、けだものに近づく。
辺境伯の呼吸が、浅く深く続くのを確かめて、トーヴは足でザロの右手を踏みつけた。
両手でしっかりと短剣の柄を握ると、そろりと引き抜く。
「……ふっ!」
額から汗が落ちる。全身の血流が再び勢いよく流れるのを感じる。
ゆっくりと短剣が抜けた。
トーヴは辺境伯が脱ぎ散らかしたズボンを取り、短剣の血を拭き取ると、ズボンで男の両足を縛り上げた。
自分の動作を確かめるように、ひとことずつ、つぶやく。
「……まず、相手の動きを封じる。……手と足を縛り上げる……」
すべてアデムから学んだことだ。アデムは剣技だけでなく基本的な護身術も教え込んだ。
まず相手を無力化すること。そのためには、体ではなく手を切りつけること。
相手が動けなくなったら、ただちに手足を縛り、完全に無力化すること。
トーヴはアデムから叩き込まれた『戦いの心得』を復唱した。
「手足の親指を、お互いに縛り付ける。これで相手は、立ち上がれなくなる……」
髪のリボンをほどき、ザロの身体を足でけってうつぶせにして両手の親指どうしをしっかりと結ぶ。もう一本のリボンで、足の親指どうしも縛った。
天幕の端っこにある布地を短剣で大きく切り取り、辺境伯の口も封じた。
「手首、足首、親指、口。これで完了……」
トーヴは短剣を丁寧にさやにしまい、今度は抜きやすいように腰帯に挿し込んだ。
そっと天幕の隙間から外をうかがう。
今の騒ぎを聞きつけて、誰かがやってくると思ったのだ。
が。
モネイ族に動きはない。
「まさか……あの声が聞こえなかったの?」
天窓の外はそれどころではなかった。
ザロに犯されかけていたトーヴには聞こえなかったが、外ではすさまじい数の鳥が天を覆っていた。
ちょうげんぼう、みさご、のすり、とび、つみ、はいたか……。
いつもならもっと高い空を飛んでいるはずの鳥たちが、一斉に中空で踊るように飛び回っていた。
鳴き声が、かまびすしい。
トーヴもおそるおそる天を眺める。
が、次の瞬間、そろり、と足を天幕から出した。
今なら、モネイ族に気づかれずに逃げ出せるかもしれない。
そろっ、とトーヴの小さな身体が、天幕の裏側からすべりでた。目の前の灌木の茂みに身を隠す。頭上では無数の鳥たちが高い声を上げていた。
耳を弄するような鳥の鳴き声。
騒ぎに乗じて、トーヴは体をかがめてゆるゆると進み、ほそい山道に出た。
天幕での騒ぎの前、黒マントの男の言葉がよみがえる。
『山頂からくだる道は、まっすぐに『聖なる森』につながっている』
『聖なる森』は、トーヴの所領『西の町城』のすぐ北側にある。昔から聖域として大切にされている場所で、人が足を踏み入れない場所でもある。
森に入って、『町城』の門を目指せば、そこはもうトーヴの城だ。
辺境伯の手のうちではない、誰のものでもない『トーヴ・ジャバ』の所領だ。
今となっては、この世で唯一、トーヴが安心できる場所。
トーヴが生まれて初めて、みずからの意思で戦いとった自由への道が、グネグネと続く山道となって、細く危険に始まっていた。
ごくりと息を飲む。
だが、トーヴにはもう後ろへ退く道は残っていない。
モネイ族を指揮する辺境伯の急所を踏みつぶし、半死半生の目に合わせて、背後の天幕に置いてきたのだ。
未知の、危険な杣道であっても、トーヴは先に行くしかない。
そう思った時、空をおおう無数の鳥たちが一斉に中空へ飛び上がりはじめた。
風に乗り、空の頂点を目指す鳥たちの羽ばたきが、聞こえるようだ。
トーヴはうっとりと、風と空の音を聞いた。
それから、ひそり、と一歩を踏み出した。
一歩一歩、音をたてぬように歩き出す。
やがて速度が上がり、初夏の野を行く子ウサギのように嬉々として走りはじめた。
腰には、用意周到に蓄えておいた食料と水の革袋、短剣が踊っている。
「ふ……ふふっ……!」
かろやかに山道を駆けくだトーヴの背後で、黒い天幕が頼りなくはためき、次第に小さくなっていった。
「ふ……ひ……」
薄暗い天幕の中で、股間を頑丈な革靴で踏みつけられたザロ伯は白目をむいて倒れている。
無意識のうちに、下腹部を血だらけの手でおおっているが、下半身はひくひくと痙攣している。
トーヴも蒼白な顔で、必死に身を固くして天幕のすみに座り込んだ。
座り込んだとはいえ、何もしていないわけでは、ない。
恐怖と興奮で真っ白な顔になりつつも、トーヴは冷静に辺境伯の呼吸を数えていた。
「いち……に………さん……だんだん遅くなっている……失神しているんだわ」
辺境伯の呼吸は、最初の嵐のような激しさから、ゆるく落ち着いてきた。
かなり深く気を失ったようだ。
トーヴはちらりとザロが下腹部を覆っている右手を見た。まだ短剣が刺さっている。
しだいにトーヴの両目に力がもどってきた。
短剣が欲しいのだ。
今度こそ、自分の身を守るために。
そっと辺境伯に近づくと、短剣に手を伸ばす。
片手で引き抜こうとするが思った以上に深く刺さっているようだ。おそるおそる、けだものに近づく。
辺境伯の呼吸が、浅く深く続くのを確かめて、トーヴは足でザロの右手を踏みつけた。
両手でしっかりと短剣の柄を握ると、そろりと引き抜く。
「……ふっ!」
額から汗が落ちる。全身の血流が再び勢いよく流れるのを感じる。
ゆっくりと短剣が抜けた。
トーヴは辺境伯が脱ぎ散らかしたズボンを取り、短剣の血を拭き取ると、ズボンで男の両足を縛り上げた。
自分の動作を確かめるように、ひとことずつ、つぶやく。
「……まず、相手の動きを封じる。……手と足を縛り上げる……」
すべてアデムから学んだことだ。アデムは剣技だけでなく基本的な護身術も教え込んだ。
まず相手を無力化すること。そのためには、体ではなく手を切りつけること。
相手が動けなくなったら、ただちに手足を縛り、完全に無力化すること。
トーヴはアデムから叩き込まれた『戦いの心得』を復唱した。
「手足の親指を、お互いに縛り付ける。これで相手は、立ち上がれなくなる……」
髪のリボンをほどき、ザロの身体を足でけってうつぶせにして両手の親指どうしをしっかりと結ぶ。もう一本のリボンで、足の親指どうしも縛った。
天幕の端っこにある布地を短剣で大きく切り取り、辺境伯の口も封じた。
「手首、足首、親指、口。これで完了……」
トーヴは短剣を丁寧にさやにしまい、今度は抜きやすいように腰帯に挿し込んだ。
そっと天幕の隙間から外をうかがう。
今の騒ぎを聞きつけて、誰かがやってくると思ったのだ。
が。
モネイ族に動きはない。
「まさか……あの声が聞こえなかったの?」
天窓の外はそれどころではなかった。
ザロに犯されかけていたトーヴには聞こえなかったが、外ではすさまじい数の鳥が天を覆っていた。
ちょうげんぼう、みさご、のすり、とび、つみ、はいたか……。
いつもならもっと高い空を飛んでいるはずの鳥たちが、一斉に中空で踊るように飛び回っていた。
鳴き声が、かまびすしい。
トーヴもおそるおそる天を眺める。
が、次の瞬間、そろり、と足を天幕から出した。
今なら、モネイ族に気づかれずに逃げ出せるかもしれない。
そろっ、とトーヴの小さな身体が、天幕の裏側からすべりでた。目の前の灌木の茂みに身を隠す。頭上では無数の鳥たちが高い声を上げていた。
耳を弄するような鳥の鳴き声。
騒ぎに乗じて、トーヴは体をかがめてゆるゆると進み、ほそい山道に出た。
天幕での騒ぎの前、黒マントの男の言葉がよみがえる。
『山頂からくだる道は、まっすぐに『聖なる森』につながっている』
『聖なる森』は、トーヴの所領『西の町城』のすぐ北側にある。昔から聖域として大切にされている場所で、人が足を踏み入れない場所でもある。
森に入って、『町城』の門を目指せば、そこはもうトーヴの城だ。
辺境伯の手のうちではない、誰のものでもない『トーヴ・ジャバ』の所領だ。
今となっては、この世で唯一、トーヴが安心できる場所。
トーヴが生まれて初めて、みずからの意思で戦いとった自由への道が、グネグネと続く山道となって、細く危険に始まっていた。
ごくりと息を飲む。
だが、トーヴにはもう後ろへ退く道は残っていない。
モネイ族を指揮する辺境伯の急所を踏みつぶし、半死半生の目に合わせて、背後の天幕に置いてきたのだ。
未知の、危険な杣道であっても、トーヴは先に行くしかない。
そう思った時、空をおおう無数の鳥たちが一斉に中空へ飛び上がりはじめた。
風に乗り、空の頂点を目指す鳥たちの羽ばたきが、聞こえるようだ。
トーヴはうっとりと、風と空の音を聞いた。
それから、ひそり、と一歩を踏み出した。
一歩一歩、音をたてぬように歩き出す。
やがて速度が上がり、初夏の野を行く子ウサギのように嬉々として走りはじめた。
腰には、用意周到に蓄えておいた食料と水の革袋、短剣が踊っている。
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