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 この世界の人類生存領域は、意外と狭い。
 というのも、開拓された土地から一歩外に出ると、空気中に漂う魔力が極端に薄れるためだ。
 人類とは基本的に貧弱な生物であるが、魔術が無ければその貧弱さは更に増す。
 魔力の薄い土地――魔力希薄域――でも魔術は使えないわけではないが、威力や精度は著しく落ちる。

 それだけでも開拓の困難さは知れるだろうが、それだけではない。
 魔力希薄域には魔術は使わないものの、それ故に強固な現実を持つ、魔術の通じにくい動植物が多くいる。

 例を挙げるなら、ドラゴンが最も有名だろうか。

 雄大な体躯、強靭な鱗、そして空を駆けるための翼を持ち、現実を歪めるでもなく炎の息吹を放つ。
 頼みの綱の魔術を奪われた人類の手に負える相手ではない。
 勇者であっても苦戦は避けられないだろう。

 もちろん、魔王であってもそれは例外ではない。
 いくら人類よりも強いとはいえ、限界はある。魔術が使えないのは大きな痛手だ。

 ともあれ、そういう理由で、魔王の拠点は人類生存領域にあることが分かっている。
 その場所も大凡は予想されており、魔獣、魔族が最も多く襲来する、聖都より見て大きく北。
 聖国の隣国、マリツァ皇国の最北、ファーレという街、その更に北。
 魔力希薄域ではないが、一つ山脈を越える必要があるために、あまり開拓が進んでいないその場所に居ると、そう考えられている。

 根拠もないわけではない。
 勇者が奪還した、最も初めに占領された都市。それがファーレであったからだ。
 また、襲撃自体もファーレ周辺の地域が多いことから、この考えはそう間違ったものではないのだろう。



 ◆



 ファーレから馬車で半日ほどの街、イーレンの町長の屋敷にて待機中のエイラは、控えめに言って手持ち無沙汰だった。
 やることがない、というわけではない。
 魔術や身体の鍛錬は衰えない程度には続けている。だが、最前線にほど近いこの町で魔力や体力が限界になることは危険だ。急な襲撃に備え、常に余力は残しておくべきだろう。

 そういった考えもあり、鍛錬もほどほどで済ませているため、済ませてしまった後は何もすることがなかった。
 寝て過ごすのは不健全。読む本は特にない。外出すると町民に絡まれて面倒。

 やることもやりたいことも何もなく、ただ虚空を見つめながらウィレームと話すくらいしかやれることがないエイラだった。

『僕の扱い、本当に悪いね』

 一応、元勇者なんだけどな、と、ぼやくウィレームだったが、エイラには彼が気にしているようには全く見えなかった。実際、別に気にしてはいないのだろう。
 彼が厳しくなるのは、戦いが始まったときだけだったから。

『んー、そう言われるとなんか照れるけどね』
「……言ってない」
『まぁでも、僕と話すのが嫌なら、やっぱり外に出るのが良いと思うよ?』

 いつも通りの口調でそう言ったウィレームに、エイラは訝しげな目を向ける。

「知らない人たちに話しかけられるのはもっと嫌なんだけど」
『それは知ってるよ。ただ、彼らが君に話しかけるのは君が勇者だと知ってるからなわけだろう? なら逆に言えば、勇者だと知られていなければ話しかけられたりはしないはずさ』

 それは確かにそうだろう。
 だが、すでにエイラの人相が勇者だと知られているのが問題なのだ。

『彼らが知ってるのは君の顔じゃあなく、君のなんとなくの特徴なのさ。金の髪に青い瞳、歳の頃は十一歳の女の子ってね。つまり、その特徴から少しでも外れていれば、知り合い以外に話しかけられることなんてほぼないよ』
「……なるほど」

 要は、変装すれば良いということだ。
 中々、エイラには思いつかない手だった。
 ならば、と早速エイラは魔術で髪と瞳の色を変えた。

『器用だねぇ』

 茶色の髪と翠色の瞳。
 この世界で最も多い色合いだ。

 これなら目立たないだろうと一人満足して、エイラは窓から外に出た。
 扉から出てはリーファや護衛たちに気づかれてしまうからだ。

 二階建ての屋敷から飛び降りた以上、それなりの衝撃はあるのだが、日々鍛え、魔術で強化された身体には何の影響もなかった。

「よし、じゃあ行こうか」
『思ったよりわんぱくでびっくりしたけど、まぁいいか。どこに行く?』
「特に決めてないけど……お店とか見てみたいな。お金は無いけど」
『良いじゃないか。冷やかしに行こう』

 ウィレームの後押しもあり、エイラは何かしらの商店に行くことにした。
 場所も把握しておらず、何の店が見たいのかもはっきりしていないが、エイラにとっては殆ど初めての冒険だ。何せ、付き人もなしで一人で出歩くなど、初めてなのだから。

「人が多い方に行けば良いよね?」
『賑わってるところなら、お店じゃなくても何かはいるだろうからね。それで良いと思うよ』

 色合いが地味であっても、目鼻立ちの整ったエイラはそれなりに目立ってはいたが、いつもと比べれば雲泥の差だ。声を掛けられるわけでもなければ、視線の量も大きく違う。

「……楽だね、これ」
『時々なら、こういう遊びも悪くないさ。あんまりやると護衛たちに悪いけどね』
「サロンなら頼めばこっそり付き合ってくれそうなんだけど、最近目が違うんだよね……」
『あー』

 何気ない雑談――独り言――をしながら、エイラはのんびりと歩いていく。
 町の喧騒に比べれば、エイラの声など小さなものだ。気にする者は誰も居なかった。

 そうこうしている内に、エイラは商業通りに辿り着いた。

 客寄せのために叫ぶ店員。
 値切りが白熱し声が大きくなっている客。
 何があったのか、トラブルになり怒鳴り合っている者。

 喧しいだけのそれらも、エイラにとっては新鮮なものでしかなかった。

「……良いね」

 慣れれば煩わしいかもしれないが、今に限ればそんなことはあり得ない。
 わくわくとした心地で、通りを冷やかしていく。

 肉を売っている店や野菜や果物を売っている店、服を売っている店に色々な物を売っている店。
 初めて見るものが沢山あった。

「ん?」
「うわっ!?」

 余所見をしていたせいだろうか。
 軽い衝撃と共に、驚いたような女性の声が耳に入った。
 驚いてそちらを見れば、フードを被った女性が尻餅をついていた。散乱した荷物を見るに、エイラとぶつかって倒れてしまったのだろう。
 体格自体は女性の方が良いが、勇者の体幹が強すぎたらしい。

「あぁ、ごめんなさい!?」

 流石のエイラも少しだけ慌てて、女性の荷物を拾い集める。
 買い物の途中だったのだろう。食料品が主のようだ。

「い、いえ、こちらこそ、よく前を見ていなくて……」
「わたしも余所見していて、ごめんなさい」

 手早く荷物を拾い終え、未だ立ち上がらない女性に手を差し伸べ、立ち上がらせる。

「あ、ありがとうございます」

 女性が立ち上がり、エイラが見上げる形になったことで、フードの中の顔がちらりと見えた。
 その瞬間、思考が止まった。

「――――」
「あ、あの?」

 困惑したように顔を覗き込まれても、エイラの硬直は解けない。
 その様子に不気味なものでも感じたのか。
 女性はもう一度だけ礼を言い、去っていった。

 それを見送り、一人になったエイラが掠れた声で呟いた。

「――ベル」



 ◆



 ベルは王国にいた頃のエイラの侍女だ。
 聖国に向かう途中、魔族に襲われたときに、エイラを置いて逃げ出した二人の侍女、その片割れである。

 本来であれば、二人は聖国でもエイラに仕えてくれるはずだったが、そうはならなかった。

 それ自体を、エイラは不幸な事故だと認識している。
 ウィレームにも言われたことだ。きっと本意ではなかったのだと。
 それに、もう六年も経ったのだ。二人のことを思い出すことも少なくなって、ただの思い出になりかけていた。

 それなのに、何故。
 どうして、今になって会って、いや会えてしまったのか。



 出たときと同じように屋敷に戻ったエイラが考えていたのは、それだけだった。

 幸いなことに、短い時間の外出だったこともあって誰にも気付かれてはいなかった。
 しかしだからこそ、これは誰にも相談できない。
 もう一度、直接彼女に会って問い質したい、などということは。

 唯一相談できる彼、というより隠し事ができないウィレームはこういうとき役に立たない。
 基本的に彼はエイラのすることに対して不平不満は言わない。

 やりたいのならすれば良いし、やりたくないのならしなければ良い。

 例外は戦闘中、つまりは命が懸かっているときだけ。
 それ以外では最早無関心と言っていいほどに、彼はエイラの行動に干渉しない。
 行動、あるいは目標を到達する過程に対しては、どうせやるならこうした方が良い、というようなアドバイスはするが、決して否定はしないのだ。

「会って、良いのかな……」

 それでも、エイラは聞かざるを得なかった。

『会いたいのなら会えば良い。それだけだろう? どうであれ、人はいつか死ぬんだから、後悔しない選択をすれば良いのさ』
「…………」
『僕が言うことなんて、もう大体分かっているだろう? これは、君が決めることだよ』

 突き放すようなその言葉は、エイラには少しばかり刺激が強かった。
 そんな風に言われるのは、最初から分かっていたけれど。

「でも、会ったら後悔するかも……」
『それは会わなくても同じだろう?』

 浅い反論は、容赦なく叩き潰される。

「ウィレームは、わたしに会ってほしいの?」
『別に。僕はずっと、君の好きにすれば良いと言っている。だって、君の人生は僕の人生じゃないんだからね』
「でも、わたしは……」

 会いたい。それは本当なのだ。
 けれど、会うべきではないとも思うのだ。

 だって、きっと会っても幸せにはなれない。
 エイラもベルも、誰一人として。
 少なくとも、ベルは会いたくないだろう。会いたいのなら、こんな聖国から離れた場所に居る必要はないのだから。

『どうする?』

 これは、エイラの選択だ。
 誰も、選ぶことに手を貸してはくれない。

 あるいは、あのとき、ベルがエイラに気付いてくれていれば、楽だったのに。
 だが、それは言っても詮ないことだ。
 あの頃よりもエイラはずっと成長していて、顔立ちも変わり、何より髪色も瞳の色も違う。別人と思うのは当たり前のことだろう。
 ちょっぴり心が痛んでも、事実は何も変わらないのだ。

 それなら、変わらないのなら。

「……会う」

 話さないままでは、絶対に終われない。
 こんな気持ちを抱えたまま戦場には立てない。
 ただでさえやる気が出ないのに、上の空で戦って死ぬのは御免だ。

 たとえベルに嫌がられても、エイラがやりたいことをやろう。
 今はどうであっても、かつてエイラはベルの主人だったのだ。
 その程度の我儘くらいは聞いてもらおう。

 そう、決意した。



 が、決意したのは良いものの、ベルに会うのは簡単ではない。
 このイーレンという町はそれなりに広く、特定の人物を闇雲に探すのは少々無謀が過ぎる。
 元々、ベルに会えたのは偶然だ。今思えば跡をつけておけば良かったとも思うが、後の祭りである。

 となると、ぶつかった場所で待つべきだろうか。
 しかし、それも確実とは言えないし、次に会えるのがいつになるかも分からない。
 エイラも現在は待機しているが、突然別の場所での任務が発生することもある。断って粘ることもできなくはないが、あまり取りたい選択肢ではない。
 そのため、あまり悠長なことはしていられないのだ。

 都合良く人を探せるような魔術があれば良いのだが、残念なことにエイラはもちろん、ウィレームにも心当たりはないらしい。
 最後の手段として、リーファや護衛たちに捜索を頼む手もあるが、大事にするのも違うように思うため、それもできればしたくない。
 つまるところ、現状手詰まりであることは否定できそうになかった。

「どうするかな……」
『んー、ちょっと難しいねぇ』

 二人で頭を捻っていると、部屋に控えめなノックが響いた。

「エイラ様、少々よろしいでしょうか?」
「いいよ、何?」

 エイラが返事をすると、ガチャリと扉が開き、リーファが入ってきた。

「そろそろ昼食のお時間です。それと……」
「?」
「エイラ様にお会いしたい、という方々がいらっしゃいます。近日中に予定を入れても構いませんでしょうか?」

 何とも面倒な話だった。
 そんな感情が露骨に出ていたのだろう。リーファが控えめに提案する。

「お断りしても、特に問題はありませんが……」
「ん、いや、大丈夫。入れておいて。いつになる?」
「エイラ様のご都合のよろしいようにしていただければ構いませんが、私としては三日ほど時間をいただけると嬉しく思います」
「なら、三日後でお願い」

 仰々しいリーファに軽くそう言い、話を終わらせようとして、ふと思いついた。

「わたしの食事を作ってくれてるの、リーファだよね?」
「……? はい、僭越ながら」
「次の買い物って、いつ?」
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